第3章 時の旅人
今思えば記憶の片隅にはいつも、
あかねがいたような気がする。
記憶が、雪解け水のように溢れてくる。
そしてそれは、亮介が長い間忘れていたはずの、
「本当の青春」の記憶だった。
彼女に初めて会ったのは、中学一年の春。
まだ桜の花びらが側溝に残っている頃だった。
放課後、友人の高志の家に遊びに
行ったとき、玄関先にちょこんと座っていた少女。
少し乱れた三つ編みの髪、
スケッチブックを抱えた膝、
靴下の片方が少し下がっている。
高志はぶっきらぼうに言い、妹の頭を軽く小突いた。
あかねは小さく身を縮め、
上目遣いで亮介を見ていた。
その手に抱えられたスケッチブックには、
名もなき花のデッサンが描きかけになっていた。
亮介は柄にもなく緊張して名乗った。
緊張のあまり、自分の声のトーンがいつもより
一段高くなっているのが分かり、
顔に熱が昇るのを感じた。
あかね「……あかね、です。
……お兄ちゃん、いつも
亮介くんの話ばっかりしてるから。
もっとガサツな人かと思ってた」
高志「おい、余計なこと言うなよ!」
高志の焦ったような声が響く。
亮介は戸惑いながらも、
少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
けれどあかねは、高志に促されて
立ち去るその瞬間まで、
ただじっと彼を見つめていた。
それでも亮介の中には、
彼女の“目”だけが強烈に焼きついていた。
***
数か月後、その目が大きめの制服を着て、
中学校の校門をくぐるのを見た。
一学年下に、彼女がいる。
ただそれだけのことが、学校という
退屈な場所を、
特別な意味を持つ空間に変えていた。
廊下ですれ違うたび、目が合いそうで、
互いに慌てて視線をそらした。
心臓が早鐘を打つ音だけが、耳に残る。
自分自身と葛藤しながら通り過ぎる日々。
彼女の気配を校舎のどこかに感じるたび、
なぜか、身体の奥が少しだけあたたかくなった。
世界が少しだけ色づいて見えた。
ある日の放課後、
階段の踊り場でばっぱりと鉢合わせた。
古い校舎の窓から、西日がきつく差し込んでいた。
抱えていたスケッチブックの角が、
あかねの鞄に軽くぶつかった。
あかねは目を丸くして、
立ち止まっていた。
その瞳には、校庭の砂埃と夕焼けの赤が混じり込み、
宝石のようにきらめいていた。
あかね「……亮介くん、でしょ?」
亮介「……あ、ああ。覚えててくれたんだ」
あかね「忘れるわけないよ。
お兄ちゃんの友達で、一番面白そうだったもん。
……あ、面白いっていうのは、変な意味じゃなくて」
あかねは少し慌てたように手を振った。
その仕草ひとつひとつが、
亮介の心に小さなさざ波を立てていく。
あかね「美術部、向いてると思うよ。
静かにしてるの、似合うから。
……それ、何描いてるの?
ちらっと見えたけど、すごくきれいな線だった」
亮介「え……あ、いや、大したもんじゃ……。
ただの、落書き、というか」
逆光の中で、
彼女はふわりと笑った。
その笑顔は、まるで花が咲くようだった。
それだけで、その日一日が、
いや、その季節まるごとが光に包まれたようだった。
影が三つ並んで歩く。ただそれだけのことが、
永遠に続く魔法のように思えた。
僕らは飽きもせず、
毎日を一緒に過ごした。
亮介は目を閉じたまま、
吸い込まれるように
あの日々の中へと意識を沈めた。
斜めに差し込む午後の光が、
音楽室の木床を溶けた蜂蜜のような色に
染め抜いていた。
鼻腔をくすぐるのは、ワックスの匂いと、
古い楽譜が放つ微かな紙の埃の匂い。
窓の外で揺れる木々の影が、
ピアノの黒い鍵盤の上を音もなく滑っていく。
そこは、記憶の澱の底で、
ずっと僕が帰るのを待っていた
あの日の音楽室だった。
学生服を着た生徒たちが、
雛壇に肩を並べて静かに立っている。
放課後の教室には、まだ少し夏の熱気と、
チョークの粉の匂いが微かに漂っていた。
埃が光の筋の中で踊っている。
教師が、譜面の前で指揮棒をそっと掲げる。
その一瞬の静寂。
歌声「めぐる めぐる 風――めぐる思いに乗って」
声がひとつ、ふたつと重なっていく。
高志「亮介、そこ音外れてるぞ!
もっとシャキッと歌えよ!
せっかくのあかねのソプラノが台無しだろ」
隣に立つ高志が、
わざとらしく太い声で歌いながら肘を突いてきた。
こいつは変成期が早かったせいか、
テノールの低音域をどこか誇らしげに響かせている。
亮介「うるさいな、高志。一生懸命やってるだろ。
……だいたい、
お前だってさっきフラットしてたじゃないか」
高志「俺のは『味』だよ、味。……なあ、あかね。
亮介の歌、どう思う? 酷いだろ?」
高志がニヤニヤしながら、
一列前のあかねに話を振る。
譜面から目を離さずに言い返すが、
僕の声は緊張で少し上ずっていた。
それもそのはずだった。
一列前、斜め前の位置に、
あかねが立っているのだから。
あかね「もう、お兄ちゃん。意地悪言わないの」
あかねが肩越しに小さく振り返り、
困ったように、けれどどこか楽しげに
僕らを嗜める。
ソプラノを担当する彼女の声は、
合唱の群れの中でもひときわ澄んで聞こえた。
あかね「亮介くんの歌、私は好きだよ。
一生懸命なのが伝わってくるもん。ね、亮介くん?」
あかね「……あ、ああ。ありがとう、あかねちゃん」
彼女に名前を呼ばれるだけで、
喉の奥がキュッと締め付けられる。
都会の雑踏では決して聞くことのできない、
透き通った泉の水が岩肌を叩くような、
涼やかな響きだ。
彼女が声を出すたび、
その震えが繊細な空気の波となって
僕の頬を撫でる。
僕は自分のパートを歌いながら、無意識のうちに
彼女の歌声だけを追いかけていた。
あかねの背中、
少しだけ揺れる三つ編みの先、
誠実そうな白いたなびき。
(……今度、ちゃんと隣で歌えたらいいのにな)
そんな、到底叶いそうにない独り言が、
譜面の余白に静かに沈んでいく。
あかね「ねえ、亮ちゃん。
今のところ、すごくきれいに重まったよ。
私の声と、亮ちゃんの声」
ふいに曲が途切れた一瞬の静寂の中、
あかねが弾んだ声で振り返った。
頬が少し上気し、瞳に練習の熱が残っている。
亮介「……ああ。僕も、今のは鳥肌が立った。
……あかねちゃんの声に、
必死についていこうと思ったから」
高志が自慢げに鼻を鳴らす。
あかねは可笑しそうに笑い、
それから僕の目をまっすぐに見つめた。
あかね「亮ちゃんも、もっと大きな声で歌って。
亮ちゃんの声が聞こえると、
私、隣に亮ちゃんがいるみたいで、
もっと安心して歌えるから。
……あ、もちろんお兄ちゃんの声も、
ちゃんと聞こえてるよ?」
その言葉は、どんな音楽よりも
深く僕の胸に響いた。
不器用で、ひたむきに、
揃わない音を懸命に追いかけるその姿が、
なぜか胸が張り裂けそうなほどの懐かしさと、
言葉にならない疼きを連れてくる。
アルト、ソプラノ、テノール。
未成熟な声の層。
風のように、声の波が教室の壁を抜けて、
時間を超えていく。
その拙い和音が、
奇跡のようなバランスで重なり合った瞬間、
音楽室の空気そのものが
白く発光したように見えた。
僕ら三人は、確かにこの歌声の
渦の中で、一つの生命体のように繋がっていたのだ。
不意に、音楽室の隅に立っていた河童が、
濡れた指先をパチンと弾いた。
その瞬間、彼は亮介にしか見えない
微かな歪みを口元に浮かべた気がした。
慈しみとも、あるいは獲物の末路を
愉しむ残酷な観察眼ともとれる、
底の知れない薄笑い。
その乾いた音が波紋のように空間を震わせ、
合唱の声が、光の粒が、
溶けた絵具のように混ざり合いながら
形を変えていく。
次に亮介が瞬きをしたとき、
そこはもう音楽室ではなかった。
目の前には風に揺れるコスモスが、
道の両側にやわらかく咲き誇っていた。
視界を埋め尽くす、
淡いピンクと透き通るような白。
低い位置にある午後の光が花びらを薄く透かし、
細かな葉脈の一本一本までもが、
緻密な刺繍のように浮かび上がっている。
さらさら、という乾いた音を立てて波打つ花の海。
その合間を、
懐かしい「僕ら」の笑い声が縫うように流れていく。
───春の終わり、コスモス街道。
学校から駅までの、
わずか十分あまりの帰り道。
あかねと、その兄の高志、そして僕。
部活の帰りに寄り道して、
自販機で買った安っぽいフルーツジュース。
掌に伝わるアルミ缶の冷たさと、
背中を焼く夕焼けの熱が、
奇妙な心地よさで同居していた。
あかね「ねえ見て、亮ちゃん!
こっちの方がピンク、濃いね。ほら、見て」
あかねが屈み込み、
細い指先で一輪の花をそっと差し招く。
亮介「……本当だね。
そこだけ、夕焼けを吸い込んだみたいだ。
……すごく、似合ってるよ。あかねちゃんに」
あかねは少し照れくさそうに笑い、
自分に顔を近づけた花を見つめ直した。
僕も隣にしゃがみ込む。
彼女の肩から、春の残り香のような、
柔らかな石鹸の匂いがした。
風に揺れる彼女の髪が、
西日を浴びて細い金糸のように輝いている。
少し先を歩いていた高志が、
面倒くさそうに振り返った。
その手には飲みかけのジュースの缶があり、
西日に反射して銀色に光っている。
あかね「もう、お兄ちゃん。ちょっと待ってよ。
今、きれいな花見つけてたんだから。
せっかく亮介くんが一緒に見てくれてるのに」
高志「花なんてどこも同じだろ。ほら、早く来い。
母さんに『あかねを遅くまで連れ回すな』って
怒られるのは俺なんだからな。
亮介もお前、甘やかすなよ」
亮介「甘やかしてるわけじゃ……。
でも、本当にきれいだよ、この花」
高志はぶつぶつ文句を言いながらも、
あかねの方へ戻ってくると、
彼女の肩から通学鞄をひょいと奪い取った。
あかね「え、いいよ、お兄ちゃん。自分で持てるもん」
高志「うるさい。早く帰って飯食いたいだけだ。
お前がノロノロ歩くからだろ」
高志のぶっきらぼうな優しさに、
あかねは苦笑いしながらも、
どこか嬉しそうに
亮介に向かってウインクをした。
あかね「お兄ちゃん、デリカシーないけど、
時々こういうことするんだよね。
……亮介くんは、待っててくれるよね?」
あかねに首を傾げて覗き込まれ、
亮介は慌てて頷いた。
あかねがふわりと微笑む。
その笑顔を見た瞬間、
僕の心臓は不規則なリズムを刻み始めた。
本当は、花なんてどうでもよかった。
ただ、こうして同じ高さで同じ花を見つめ、
彼女の横顔を盗み見ること。
その一瞬一瞬が、
壊れてしまいそうなほど脆くて、愛おしかった。
指先が触れそうで触れない。
その数センチの空白に、
言葉にできない熱がたまっていた。
(……この道が、学校から駅までじゃなくて、
もっと、ずっと遠くまで続いていればいいのに)
そんな到底口には出せない独り言が、
風に乗ってコスモスの海へと消えていく。
あかね「来年も、その次も……。
こうやって三人で合唱の帰り道、
歩けるといいね。約束だよ、二人とも」
あかねが顔を上げ、
眩しそうに僕らを見た。
その瞳の奥には、確かな信頼と、
純粋な願いが揺れていた。
高志「……おう。まあ、お前らが文句言わなきゃな」
高志が照れ隠しにそっぽを向きながら言う。
亮介「……そうだね。
僕も、ずっと、こうしていたいよ。絶対だね」
嘘をついたつもりはなかった。
けれど、そのときの僕の胸には、
ざわりとした不吉な予感が波立っていた。
この美しすぎる景色も、隣にいる彼女の体温も、
いつかはこの夕焼けのように
消えてしまうのではないか。
言葉にすればするほど、
その幸せが指の間からこぼれ落ちていくような
焦燥感。
ふいに、鼻腔を突いたのは
コスモスの香りではなかった。
湿った泥と、淀んだ川の水。
それはこの美しい夕暮れには場違いな、
生々しい記憶の匂いだった。
夕焼けの黄金色が、水面に垂らしたインクのように
不自然な紫へと濁りはじめ、
風の音が遠くの低い唸り声のように
重なって聞こえる。
それが「好き」という感情であり、
同時に「失うことへの恐怖」だと
知るには、
当時の僕らはあまりに無防備だった。
不意に、背後でパシャリと水音がした。
振り返ると、道のすぐ脇にあるはずのない
小さな水溜まりができており、
そこにあの河童がしゃがんでいた。
彼はコスモスの花びらを一枚摘み取ると、
それをスマホの画面をスワイプするように
宙で払った。
河童はしわがれた声で、しかし、
脳の芯を痺れさせるような甘い響きを混ぜて言った。
河童が濡れた指をパチンと弾いた。
その「救済」という響きが耳に残るなか、
コスモスのピンク色が、
まるでホワイトアウトするように白濁していく。
温かかった西日は急速に熱を失い、
頬をなでる風が、
刃物のように鋭く冷たいものに変わった。
場面は水面のように揺れ、季節は冬へ飛ぶ。
白い息を吐きながら、
北野天満宮の長い石段を登る。
吐く息が白く混ざり合う。
受験を控えた彼女の兄の付き添いという
名目だったが、亮介の目的は、
あかねと会うことだけだった。
ニット帽をかぶり、
赤いマフラーをぐるぐる巻きにした彼女は、
雪ん子のようだった。
雪のちらつく境内で、
寒さに足をバタつかせながら
おみくじを引く。
あかね「あーあ、半吉やん。最悪やー」
亮介「ねえ、“半吉”って、どういう意味なんだ?
吉より上なのか?」
あかね「たぶん……ちょっとだけいいってこと?
半分だけ。……亮介くんは何だった?」
亮介「俺は……『小吉』だな。あんまり変わらないか」
高志「なんやそれ、二人とも中途半端やなあ!」
ケラケラと笑いながら、あかねは亮介を見た。
その瞳に、何かを試すような、
あるいは期待するような光があった気がする。
けれど、亮介はそのときも何も言えなかった。
ただバカみたいに笑い返すしかできなかった。
「好きだ」その三文字が、
どうしても言えなかった。
それでも、その時間は確かに焼きついている。
記憶の深い場所に、化石のように静かに、
あたたかく。
秋が去り、冬が訪れ、
そしてまた季節が巡る。
本来なら数ヶ月の時間を
要するはずのその歩みを、
今の亮介は一瞬の瞬きのように
受け入れていた。
「おかしい」「ありえない」
と叫んでいた理性の声は、
今や遠い海の底で鳴る呼び鈴のように
微かで、響かない。
むしろ、この断絶だらけの時間の流れこそが、
自分にとっての
正しい秩序であるかのようにさえ感じ始めていた。
あかねのいる場所へ行けるなら、
整合性などという不器用な檻は、もう必要なかった。
春。
梅がほころびはじめる頃、
あかねは髪を少しだけ切った。
うなじが少し寒そうに見えた。
亮介は、それにすぐに気づいた。
けれど、あまりに直截に指摘するのは
気恥ずかしくて、
精一杯の勇気で
言葉を絞り出した。
亮介「……なんか、感じ変わった?」
あかね「別に何でもないよ。
亮介くんには関係ないでしょ」
そう言って、あかねは
全てを見透かしたように微笑んだ。
その「何でもなさ」が、
どうしようもなく愛おしかった。
けれど――境界線を越えることは、ついになかった。
手をつなぐことも、
好きだと告げることも、
放課後に約束して帰ることもなかった。
ただ、視線の交わし、
言葉少なにすれ違うだけ。
でも、それがきっと、
彼女との関係の
“もっとも美しいかたち”だったのだ。
未完成だからこそ、
永遠に色褪せない標本のように。
思い出すたびに、
胸にさざ波のような焦燥が広がる。
だがそれは、鋭利な哀しみではない。
もっとやわらかく、
身体の一部になったような確かな感覚だった。
時間流の流れが、
記憶の堰を切ってあふれてくる。
夢か現実か、もう判然としない。
過去の幸福な時間が、
現在の孤独を浸食していく。
けれど、その断片たちは、
確かに今の傷ついた亮介を
包帯のように優しく包み込んでいた。
現実の色が少しずつ褪せていく。
モノローグの東京に、
過去の色彩が鮮やかに上書きされていく。
───もしかしたら、彼はもう戻れない
ところまで来ているのかもしれなかった。
狂気への入り口は、
こんなにも静かで、心地よいものなのか。
ハッとして、目が覚めた。
カーテンの隙間から、
淡い朝の光が目に突き刺さるように差していた。
見慣れた東京の自室。
壁紙にオレンジ色が滲み、
外からは鳥の声、電車の音、
新聞配達のバイクのエンジン音。
どこまでも“日常”の音が連なっている。
しかし、その空気には、
どこか瑞々しい、
朝露のようなものが混ざっていた。
現実なのか夢なのか。
その境界は、
まだ溶けたバターのようにあいまいなままだった。
リビングに入ると、あかねがいた。
エプロンをつけて、朝食を作っている。
フライパンで卵が弾ける音。
淹れたてのコーヒーの香り。
トースターがチンと鳴る音。
あかね「……おはよ。亮ちゃん、早く座って」
振り向かずに、あかねはそう言った。
まるで、それが十年以上続いてきた
日常のひとコマであるかのように。
亮介は、言葉が出なかった。
足がすくみ、呼吸が止まる。
あかね「どうしたん? 幽霊でも見たみたいな顔して。
今日は駅前まで出るんやろ? 急がな間に合わへんよ」
彼女の声は自然に空間へと溶け込み、
違和感を消し去っていく。
亮介はゆっくりと、
夢遊病者のように近づいていった。
テーブルの上には、完璧な朝食。
焼きたての厚切りトースト、
うさぎの形にカットされたリンゴ、
グラスに注がれた冷たい牛乳。
亮介「……あかね。本当に、あかねなのか?」
あかね「さあ、誰に見える?」
あかねは悪戯っぽく笑った。
───この世界はどこから来た?
いつから、こんな日々を過ごしていた?
なぜ、自分は迷いなくここにいる?
論理的な問いが頭をよぎるたび、
亮介はそれを意図的に振り払った。
あかねの隣にいる時間のほうが、
冷たい現実よりもずっと
「真実」であってほしかったからだ。
朝食のあと、二人は家を出る。
東京の街並みなのに、なぜか足元は土の道だった。
商店街を抜け、川沿いを歩く。
風が心地よい。
歩くたびに、手の甲がふれる。
そのわずかな接触に、胸がいっぱいになり、
電流が走る。
あかねが指差す先に、一艘の小舟が浮かんでいる。
───夢のようだった。
だが、これが夢だと断定できる証拠は何もない。
ふと風が止む。
世界から音が消える。
あかねが足を止め、真剣な眼差しで亮介を見上げた。
「ねえ、亮介」
その声は、隣にいるのに、
どこか遠くの山彦のように響いた。
「君は、一体、何を探してるの?」
その問いに、亮介は言葉を失った。
記憶を探れば探るほど、霧が深くなる。
自分が何を求めて生きてきたのか、わからなくなる。
けれど、彼女の瞳は、
その答えをすでに知っているように思えた。
あかね「そういえば、あの頃のこと、覚えてる?」
あかねが、懐かしそうに呟く。
あかね「中学の合唱委員になったときのこと」
彼女は目を細め、遠くを見る。
音楽室。西日。黒板の文字。歌声。風の音。
あの頃の空気が、ふたたび満ちていく――。
歌声「フィナーレを告げる声が聞こえる――」
その歌い出しが音楽室に響くたび、
亮介はなぜか胸の奥に冷たい水音を感じた。
歌ではなく、
風景そのものが胸の中に流れ込んでくるような感覚。
遠くにあるはずの筑後川が、
氾濫するように彼のすぐ近くまで
せり出してきていた。
音楽室の外に出ても、
長い廊下には誰もいなかった。
翌日も、そのまた翌日も、
同じ時間に合唱練習があった。
まるで壊れたレコードのように。
あかね「また明日も練習ね。亮ちゃん」
廊下の方から、あかねの声が聞こえたような
気がした。
亮介はふと、強烈な既視感に襲われる。
その確信が、
冷たい水が背筋を走るような戦慄を連れてくる。
ここは、限られた時間を何度も巡り直す、
出口のない円環なのだ。
秋が深まればまた夏の終わりに
引き戻され、同じ輝きと痛みを
何度も追体験させる、
優しくも残酷な牢獄。
謎の声「君は、ずっとここにいたいの?」
誰かが、問いかけてきた。
河童か、自分自身か、それはわからなかった。
そう思ったとき、彼の胸の奥に、
かすかな冷たい水が流れ込んだ。
それは“恐れ”だった。
終わりが来ないことへの、
根源的な恐れ。
歌の中に溶けていった輪郭が、
少しずつ、
再び輪郭を取り戻し始めていた。
現実の、まだ名前のない予感が、
彼を待ち受けていた。
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