第2章 黒い宝石
暗闇の中にいた。
どこまでも続く、深い、湿った闇。
自分の足音さえ聞こえない
静寂の中を、亮介はあてもなく彷徨っていた。
どれくらい歩いたのか、
あるいは一歩も動いていないのか。
不意に、耳の奥に微かな音が響いた。
さらさらと、砂を撫でるような、
あるいは重厚な布が擦れるような──。
亮介「……水音、か?」
その音に導かれるように、
闇の密度が少しずつ薄れていく。
鼻腔をくすぐるのは、懐かしい泥と草の匂い。
そして、視界がふわりと開けた。
目の前に広がっていたのは、
見間違えるはずのない景色だった。
亮介「筑後川だ……」
その言葉が、
自分でも驚くほどすんなりと口から出た。
夢の中の筑後川は、
この世のものとは思えないほど美しかった。
水面は鏡のように空を映し、
夕焼けが黄金色に輝いている。
草むらからは秋の虫の声が
シンフォニーのように響き、
足元では風に揺れるコスモスの花が、
甘い香りを放っていた。
独り言を零しながら、亮介は水際へと歩を進めた。
ふと対岸に目をやると、ひとつの影が立っていた。
頭のてっぺんには、
常に水を湛えて鈍く光る平らな皿。
鳥のような鋭利な嘴を持ちながら、
その表情には不思議な温和さがあった。
指の間に張られた薄い水かきと、
泥に深く食い込む長い爪。
月光を浴びてぬらぬらと光る
緑色の肌が、背中の硬い甲羅と共に、
川の湿気をそのまま纏っている。
——河童だ。
けれど、その姿に恐怖はなかった。
むしろ、懐かしい親戚に会ったような安堵があった。
彼は古くからの友人のように、
穏やかな瞳で亮介を見つめていた。
あたりには、川の水の生臭さと、
火照った草の匂いが濃厚に立ち込めている。
亮介「……僕を待っていた?
どうして。君は一体、何なんだ」
河童「俺か? 俺はただの『預かり屋』だよ。
お前がいつかここに置いていったものを、
今日までずっと預かっていただけだ」
亮介「僕の、置いていったもの……?」
亮介が近づくと、河童は無言のまま、
足元の清流の中からひとつの石を拾い上げた。
ボコボコと水泡が立つ音さえ、
音楽のように心地よい。
それは濡れたカラスの羽のように艶やかで、
深い黒色をしていた。
角が削ぎ落とされ、丸みを帯びたその形は、
まるで夜空を凝縮した宝石のようだった。
亮介「きれいだ……。その石、何だ……?」
亮介はおもわず、吸い寄せられるように呟いた。
河童は、しわがれた、しかしよく通る声で、
噛み締めるように言った。
亮介「……器?」
河童「ああ。ひび割れた、不完全な器だ。
時が経てば、大事な水はそこから漏れ出していく。
喜びも、悲しみも、愛しい人の顔さえも、
乾いて消えていく。
……お前の中身は、もう空っぽに近いな。
乾ききって、ヒビだらけだ」
その言葉は、
亮介の心の一番柔らかい部分を正確に射抜いた。
父を亡くし、実家を失い、
都会の喧騒の中で摩耗した日々。
自分の中の「何か」が、絶え間なく流出し続け、
今はもう乾いた風しか吹いていないことを、
彼は誰よりも知っていた。
亮介「……空っぽ、か。その通りだよ。
僕にはもう、何も残っていないんだ」
河童「だから、これをやろう。これは乾かない。
これは『底栓』だ。
こいつで蓋をすれば、もう何も漏れ出さない。
思い出は、いつまでも瑞々しいまま、
お前の中に留まる。
朽ちることも、褪せることもない永遠が、
お前のものになる」
亮介「……思い出……?」
河童「そうだ。お前が一番欲しかった、
あの夕暮れの続きだ」
河童の声は鼓膜ではなく、脳内に直接響いた。
河童は石を差し出した。
『受け取れ』とは言わなかった。
ただ、選択を委ねるように、
じっと亮介の目を見ていた。
亮介「……欲しい。それが……欲しいんだ」
亮介は迷わず手を伸ばした。
石を受け取った瞬間、
ひやりとした心地よい冷たさと、
懐かしい温もりが同時に掌に広がった。
それはまるで、ずっと離れ離れだった
自分の半身を取り戻したような、
驚くほどしっくりと、掌に馴染む感覚だった。
河童が、ニタリと笑った気がした。
河童「重いぞ。……過去というのは、
いつだって現在よりも重いもんだ」
視界が光に包まれる。
コスモス畑の向こうから、
あかねが手を振っているのが見えた。
その笑顔を見た瞬間、
亮介は至福の中で意識を手放した。
───
ハッとして目を覚ます。
目覚めはかつてなく爽快だった。
泥のように眠り、生まれ変わったような気分だった。
窓の外には、東京の朝の光。
カラスの声。車のエンジン音。
けれど、亮介は布団の中で、
右手に硬い感触を感じた。
手を開く。
そこには、あの「黒い石」があった。
夢の中で受け取った、
あの美しい黒曜石のような石。
表面はしっとりと濡れていて、
朝日に当たると神秘的な光沢を放った。
シーツに、
水滴が丸いシミを作っている。
亮介「夢じゃ……かったのか。本当に……」
普通なら恐怖する場面かもしれない。
東京の寝室に、川原の石があるなど。
けれど、亮介の心に
湧き上がったのは歓喜だった。
亮介はハンカチで包んだ石を机に置き、
しばらくじっと見つめ続けた。
もしこれが、ただの汚れた小石だとしたら。
もし、これを握って会議に出る姿を、
誰かに見られたら。
一瞬、冷たい理性が頭をもたげる。
自問自答しながら、彼はスーツのポケットに
石を滑り込ませた。
オフィスに出社すると、
佐藤が相変わらずキーボードの打鍵音を
リズミカルに響かせていた。
佐藤「佐々木さん、おはようございます!
今日のプレゼン、気合い入ってますね。
また昨日みたいに難しい顔して
独り言言わないでくださいよ?」
亮介「……分かってる。
佐藤、お前は不安にならないのか?
今日は大きな案件だぞ」
佐藤「不安? 何っすかそれ、美味しいんすか?」
佐藤はモニターから目を離さず、
へらへらと笑った。
「チャッピー(AI)がガチガチに固めた
データがあるんすから。
プレゼンなんて、ただの確認作業ですよ。
佐々木さんも、その昭和な『気合』、
捨てちゃいましょうよ」
亮介「……昭和、か。確かにそうかもしれないな」
亮介はポケットの中の石の冷たさを、
指先で確かめた。
指先に伝わるじわりとした湿り気が、
まるで「大丈夫だ」と囁いているような気がして、
彼は大きく息を吐き出した。
変化は、まず仕事の場面で現れた。
翌日のプレゼンテーション。
威圧的なクライアントと、
神経質な表情の上司に囲まれた会議室。
いつもなら胃が痛み、
喉が張り付き、恐怖するような緊張感の中で、
亮介はただ
ポケットの中の石に触れた。
指先に伝わる、ひやりとした湿り気。
その瞬間、世界が反転した。
会議室の無機質な白い壁が、
陽光を反射する川面のように
キラキラと揺らぎ始めたのだ。
足元のグレーのカーペットは、
柔らかい苔の生えた土の感触へと変わる。
エアコンの乾燥した風音が、
川辺を吹き抜ける涼風の音に変わる。
上司の怒声は遠くの雨音のように
心地よくフィルタリングされ、
意味を持たないただの音の波として響いた。
クライアント「——佐々木君、君はどう思うかね?」
水を向けられた亮介は、迷いなく答えた。
恐怖も躊躇もなかった。
だって、ここは現実ではないのだから。
その言葉が会議の文脈に
合っていたのかは分からなかった。
だが、クライアントはなぜか満足げに頷いた。
石が与えてくれる万能感。
それは麻薬のように甘く、
亮介の精神を現実から少しずつ、
しかし確実に引き剥がしていった。
侵食は、五感すべてに及んだ。
残業中、空調から吐き出される
乾燥しきった無機質な風。
しかし、肌が感じたのは、夕立のあとの、
むせ返るような土の匂いを孕んだ
湿った風だった。
鼻腔を通り、肺の奥まで、
濃密な生暖かい湿り気が満ちていく。
思わず声が漏れた。
隣の席の佐藤が、怪訝そうにこちらを見た。
同僚の顔さえ、
川面の揺らぎの向こうにあるようにぼやけて見える。
馴染んだはずの
通勤路のアスファルトからは、
強烈な夏の草の匂いが立ち昇った。
ガードレールの錆びた鉄の感触は、
ザラザラとした流木の肌触りに変わる。
現実という堅固なレイヤーの下から、
別の世界のテクスチャが透けて見え始めていた。
その日、亮介は引き寄せられるように、
一本の路地裏へと足を踏み入れた。
どこからともなく、焙煎された
コーヒーの香ばしい匂いが漂ってきたからだ。
それはチェーン店の焦げたような
匂いではなく、昔、父に連れられて行った
純喫茶の、深くて甘い香りだった。
煉瓦造りの古びた外観。
店先には「COFFEE」と書かれた小さな看板。
まるでそこだけ時間が止まったような佇まいに、
亮介は迷わずドアを開けた。
カラン、コロン。
古びたカウベルが、心地よい音色を奏でる。
店内は飴色の照明に満たされ、
外界の喧騒が嘘のように静かだった。
カウンターの奥で、
白髪のマスターが黙々とグラスを磨いている。
亮介は革張りのソファが少し擦り切れた
奥のテーブル席に腰を下ろし、ブレンドを注文した。
やがて、
湯気を立てる白い陶器のカップが運ばれてくる。
静寂の中で、その湯気だけが揺らめいている。
カップに口をつけた瞬間――
亮介「……苦いな。でも、この苦味だけが、
今の僕には唯一の『本物』みたいだ」
亮介は独り言を漏らし、
湯気の向こうにある景色を眺めた。
都会の喧騒がガラス一枚隔てて流れていく。
人々は無関心に通り過ぎ、
その足音は厚い絨毯に
吸い込まれるように聞こえない。
けれど、その無機質な光景の端々に、
さっきから「ありもしない匂い」が混じっていた。
亮介「おかしいな。排気ガスの匂いに混じって、
どうしてコスモスの……。
……いや、そんなわけないか。
ここは東京の真ん中だぞ」
自分を律するように呟き、
彼はもう一口コーヒーを啜った。
喉を通る熱い刺激。
それが、自分の輪郭を辛うじて繋ぎ止めている。
コピーライター。言葉を紡ぐ仕事。
けれど今、
僕の喉から溢れ出しそうになっているのは、
キャッチコピーなんていう便利な道具じゃなくて、
もっとドロドロとした、
名付けようのない記憶の澱だった。
(……僕は何を弔おうとしてるんだ?
墓標なんて言ったのは僕だ。……あ、あれは……っ!)
通りの向こう、ガラス越しに歩く後ろ姿に、
心臓が跳ねた。
心の中でそう叫んだのか、
それとも実際に口に出していたのか、
記憶は曖昧だった。
ただ、全身の血が逆流するような感覚があった。
少し茶色がかった髪を束ねたうなじ。
風に揺れる白いワンピースの裾。
その歩き方のリズム。
歩道で一瞬だけ立ち止まり、
こちらを振り返った横顔。
逆光の中で浮かび上がったその輪郭。
それは確かに、あかねだった。
あの頃と変わらない、あの少し寂しげな眼差しで。
「あかね! あかね!」
椅子を蹴るようにして亮介が立ち上がり、
店を飛び出したとき――。
雑踏の中、がむしゃらにあかねを
追う亮介の膝に、一瞬、
カサリと乾いた何かが触れる感触があった。
舗装されたアスファルトの隙間から、
ありもしないピンクの花が揺らめいて
見えた気がしたが、
構わず走り続ける。
けれど、すでに彼女の姿はどこにもなかった。
あるのは、無関心に行き交う人々の波だけ。
交場面を探しても、裏路地を覗いても、
似た人すらいない。
信号が切り替わるたびに、
吐き出される膨大な人の波。
誰もが自分だけの目的地へと急ぎ、
亮介のことなど視界にも入っていない。
白、ベージュ、薄いグレー——。
似たような色の服を着た後ろ姿を
見つけるたび、
亮介は息を切らせて駆け寄ったが、
振り返るのは見知らぬ誰かの冷ややかな
視線だけだった。
十数分も走り回っただろうか。
喉の奥が鉄の味に染まり、
膝がガクガクと震え始める。
ふと立ち止まったガード下。
頭上を轟音と共に電車が通り過ぎていく。
その無機質な音の塊に押し潰されるようにして、
亮介は悟った。
(……何を、探しているんだ、俺は)
あれから何十年も経っている。
仮に彼女が生きていたとしても、
あの頃のままの姿で、
都合よく今の東京に現れるはずがない。
絞り出すようなその声は、
都会のノイズに容易く飲み込まれて消えた。
まるで最初から、
そこにいなかったかのように。
あるいは、自分の記憶のフィルターから、
ふいにこぼれ落ちた幻のように。
立ち尽くす亮介の背中を、生ぬるい風が撫でていく。
額には冷や汗が浮かんでいた。
その夜、帰宅して上着を脱いだとき、
ポケットから何かが、ふわりと床に落ちた。
——コスモスの花びら。
「……ばかな。東京の、
俺のポケットに、どうしてこんなものが……」
薄く、頼りなく、乾燥したピンク色の一片。
季節外れのその色に、鼓動が乱れた。
現実と幻想の境界線が、
音を立てて崩れ始めていた。
---




