第1章 東京の風にまぎれて
——この街の風は、
いったい、どこから吹いてくるんだろう。
午後の仕事を一段落させ、
亮介は凝り固まった肩を回しながら、
ぼんやりとモニターを仰ぎ見た。
空調の効きすぎたオフィスには、
キーボードを叩く乾いた打鍵音と、
誰かの押し殺した咳払いだけが響いている。
湿度管理されたこの空間は、快適なはずなのに、
なぜか喉が張り付き、肌がカサつく。
まるで、水分という水分が
この部屋から吸い取られているようだ。
モニターには、
書きかけのキャッチコピーが点滅していた。
「都市の喧騒を忘れさせる、至高の静寂をあなたに」
亮介「至高の静寂、か。
……そもそも、この街に静寂なんて場所、
一箇所でもあるのかよ」
亮介はモニターに映る言葉を見つめ、
誰にともなく小さく毒づいた。
キーボードを叩く指が止まる。
言葉巧みに「夢」や「憧れ」を売る仕事。
けれど、自分自身の夢はとうに枯れ果て、
心の潤いは日々の業務の中で蒸発してしまった。
砂漠で砂を売っているような、
そんな虚しさが胸の奥に
澱のように溜まっている。
亮介「……喉が渇くな。物理的にも、精神的にも」
佐藤「佐々木さん、お疲れ様です!
どうしました、また難しい顔して。
独り言、漏れてますよ?」
隣の席の若手、
佐藤が電話の合間にへらへらと
愛想笑いを浮かべて話しかけてくる。
亮介「……別に、なんでもない。
佐藤、さっきの進行表の件だけど、
あれ、クライアントの意向をちゃんと汲み取って
修正したのか?」
佐藤「あー、あれならチャッピー(AI)に丸投げして
一瞬で終わらせときました!
『エモーショナルかつ論理的に』って指示出したら、
秒で完璧な回答を出してくれましたよ。
効率化ですよ、効率化!
早く帰って飲みに行きたいですしね。
佐々木さんもどうですか、たまには?」
亮介「……いや、いい。
……AI、か。便利になったもんだな」
佐藤「そうですよ!
もう人間がウンウン唸って、
コピー考える時代じゃないっすよ。
データ、最適化、スピード。それが正解です。
佐々木さんは真面目すぎなんですよ。
もっと楽にいきましょうよ、人生」
そう言って佐藤は既に
手元のスマホで別のチャットを打ち始め、
同時にモニターの資料を高速で
スクロールさせている。
その視界の端に入る軽薄な明るさと、
流れるようなマルチタスクの光景。
亮介が心血を注ぎ、
身を切るようにして捻り出す一文字一文字が、
その「効率化」によって
あまりに安っぽく踏みにじられている気がして、
彼は微かな苛立ちを覚えた。
窓の外を見下ろせば、斜めに傾き始めた陽光が、
無機質なビルの谷間を鋭角に切り取っていた。
ガラスの向こう側にあるのは、
何百万という人間がひしめく巨大な機械のような街。
先程までの打ち合わせの緊張が、
こめかみの奥で鈍く脈打っている。
(……いちいち目くじらを立てるなんて、
余裕がない証拠だ)
と自分を諭すように、亮介は小さく頭を振った。
情けない。そう思うほどに、胸の内のノイズは
より一層激しく波打った。
亮介「……リセットするか」
亮介は逃げるようにデスクを離れると、
そのノイズをリセットするために、
いつものコンビニへと向かった。
エレベーターに乗り込み、
「1」のボタンを強く押し込む。
閉じていく扉の合わせ目をぼんやりと見つめながら、
亮介は深く、長く、息を吐き出した。
鏡張りの壁に映る自分の顔は
どこか他人事のように青白く、
無機質に下降していく数字のカウントだけが、
現実感を辛うじて繋ぎ止めている。
(……18、17、16。
一階分降りるごとに、
僕という人間が薄まっていく気がする。
この箱が地下深くまで突き抜けて、
そのままどこか知らない場所へ
運んでくれたらいいのに)
自分自身に言い聞かせるように、
亮介はポリポリと頭を掻きながら、
小さく独り言を漏らした。
亮介「……無理か。重力からは逃げられないもんな、
佐々木亮介」
やがて、到着を告げる電子音が静かに響き、
自動ドアが開いた瞬間、
ひんやりとしたビル風が頬を叩いた。
亮介「……っ、冷たいな。
誰を歓迎してるんだよ、この風は」
アスファルトには夕暮れの光が長い影を落とし、
通りを歩く人々の足元に静かに、
そして黒々と伸びている。
誰もが足早で、誰もが視線を伏せている。
それぞれの影だけが、互いに触れ合い、
交差しては離れていく。
それを見ていると、自分もまた、
地面に張り付いた影のひとつに過ぎないような
錯覚に陥る。
ふと空を見上げると、東京の空は
今日も複雑な色彩のレイヤーで構築されていた。
排気ガスを含んで灰色がかった青、
高層ビルの窓ガラスが反射する鋭い光、
そして地平の方から滲み出す夕焼けの残光。
それらが無秩序に混じり合い、
まるで誰かが乱暴に絵の具を混ぜた
パレットのようだ。
その混沌の中に、
スカイツリーのシルエットが
溶けこむように立っている。
夕日に照らされて鉄骨が淡く赤みを帯び、
その巨大な針は、空と地上の境界を
縫い止めているようにも、
あるいは記憶の境界線に
そびえる墓標のようにも見えた。
亮介「……墓標、か。……この街そのものが、
何かを弔ってるみたいだな」
誰にも届かない独り言。
自分の声が、
乾いたアスファルトに吸い込まれていくのを感じる。
コピーライターという職業柄、
言葉の響きやリズムを口に出して確かめる癖がある。
だが最近では、それは仕事のためというよりも、
話し相手のいない片道の通勤時間を、
自分自身の声で埋めるための
儀式のようになっていた。
亮介「弔う、か。僕が弔っているのは、
いったい何なんだろうな。
……若さか、情熱か、それとも」
その独り言をかき消すかのような、
街のざわめき。
人々の話し声、タイヤがアスファルトを削る音、
信号機の電子的なメロディ。
それらが遠い海鳴りのように
響いているのに、
亮介の心にはぽっかりとした空白があり、
そこだけ風が吹き抜けている。
その空洞が、街のノイズを増幅させて、
耳の奥でキーンと音を立てる。
亮介「……うるさいな。この街は」
ボソリと零し、
亮介はコンビニの自動ドアを潜った。
店内に満ちる、揚げ物の匂いと、
明るすぎるLEDの光。
陳列棚を流し、
いつものブラックコーヒーを手に取る。
レジに向かう列に並びながら、
自分と同じように虚ろな目をした人々を眺める。
誰もが、ここではないどこかを、
求めているように見えた。
亮介「……僕だけじゃない、か」
冷たい缶の感触を掌で転がしながら、
亮介は店を出た。
ひんやりとしたビル風が再び頬を叩いた。
亮介「——これは東京の風だ」
コンクリートと鉄の匂いがする。
でも、同時に、どこか遠い川辺の風のようでもある。
目を閉じれば、湿った土の匂いや、
草の呼吸が聞こえてくるような気がした。
亮介「……川、か。
……どうして今、そんなことを思い出すんだよ」
自分に問いかけるように呟き、彼はまた歩き出す。
缶コーヒーの温もりを
指先で確かめ、その香りを吸い込みながら、
これから戻る仕事のリズムを無理やりに想像する。
効率、データ、最適化。
佐藤が言っていた言葉が、
鉛のように耳の奥に残っている。
亮介「楽に生きる、ね。
……それができれば苦労はしないんだよ、佐藤」
自嘲気味に笑い、
亮介は自分の声の響きを確認するように、
もう一度小さな声で繰り返した。
けれど、どこかで忘れられない風景が、
胸の奥で静かに、しかし執拗にささやいていた。
川のせせらぎ。
風に揺れる名もなき花々の甘い香り。
すべてを優しく包み込む、あかね色の空。
亮介「……戻らなきゃな。現実に」
胸の奥がほんの少しだけ熱くなり、
ちくりとした痛みを伴って、
亮介はそっと目を閉じた。
瞼の裏に、ノイズの走る残像が浮かぶ。
そして、深く息を吐く。
肺の中の空気をすべて吐き出し、
透明な何かを取り込もうとするように。
目を開けると、街の灯りがじわりと増えていた。
輪郭を失いかけた世界を、
人工の光が再び縁取っていく。
——戻れない場所があっても、
進まなければならない。
それが大人になるということだと、
誰かが言っていた気がする。
そう自分に言い聞かせて、再び歩き出す。
スカイツリーの赤いシルエットが、
夕闇のなかでぼんやりと揺れはじめた。
その揺らぎが、ふいに記憶のスイッチを入れる。
───コスモスの道。
淡いピンクと白の花々が、
秋の陽を浴びて波のように揺れている。
土手沿いに延々と続くその帯は、
まるでこの世とあの世を分かつ境界線のようだ。
その先には筑後川。
九州最大の河川。
その広々とした水面が、
夕暮れの空を鏡のように映し、
静かに、重たく光っていた。
カタン、コトン。
遠くから、鉄輪がレールを刻む音が聞こえる。
小さな二両編成の電車が、音を立ててやってくる。
───西鉄甘木線。
たった二両のワンマン電車。
そのクリーム色と朱色の車体は、
田園風景に溶け込むように走っていた。
静かな朝、霧の晴れ間を縫って、
田んぼの中をすり抜けるように走るその姿は、
乗り物というよりも風景の一部だった。
亮介「……あの頃は、
全部が永遠に続くと思ってたんだ」
通学鞄を膝に乗せて、
窓に映る自分の顔をぼんやり見つめていたあの頃。
揺れる吊り革、日焼けした学生服、
読みかけの文庫本。
車窓を流れていく赤い鳥居、
春には黄色く染まる菜の花の群れ。
それらすべてが、
永遠に続くと信じて疑わなかった日常だった。
しかし次の瞬間、無慈悲な現実が割り込む。
ガタン、
と車輪が切り替えポイントを通過する硬質な音。
亮介「……っ!」
その衝撃で、亮介は現在へと引き戻される。
目の前にあるのは、深夜の帰宅電車の車内だ。
つり革に掴まり、
死んだ魚のような目でスマートフォンを見つめる
疲弊した群衆。
窓の外は漆黒の闇で、
そこに映るのは自分の青白い顔と、
背後に並ぶ無言の幽霊たちだけだ。
電車が揺れるたび、
隣のサラリーマンの汗ばんだ肩がぶつかるが、
互いに言葉はない。
微かに聴こえるイヤホンの音漏れが、
雨音のように重なる。
冷たい空調の風が、汗ばんだ首筋を冷やし、
生きている心地を奪っていくようだった。
ふと、亮介は窓の外に目を向けた。
そこにかかつて望んでいた風景はなく、
ただ闇の中に時折流れる街灯の光があるだけだった。
───あれはもう、「帰れる場所」じゃないんだ。
亮介「……分かってる。分かってるんだ」
実家は売却され、
今はもう赤の他人の家になってしまった。
両親も、朝にはもうそこにはいない。
日常だった風景は、住人が変わり、塗り替わり、
もはや記憶の中にしか存在しない幻影となった。
風景が変われば、音も変わる。
風の匂いさえも変わってしまう。
思い出は、ただの過去になる。
美しい標本のように、
ガラスケースの向こう側へ行ってしまう。
三年前のある日。
故郷で暮らす父が病に倒れたという知らせは、
深夜の電話だった。
母が心を病み、
二人の生活が立ち行かなくなったため、
両親は私が住む東京へと上京した。
住み慣れた土地を引き剥がされる痛みは、
老いた二人にはあまりに大きかったのかもしれない。
そして、父は東京の燻んだ空の下で、
静かに息を引き取った。
病室の白い壁に差し込む午後の光。
それは清潔で、優しくて、
それでいて残酷なほど冷たかった。
機械の規則的な電子音だけが、
命の時間を刻んでいた。
酸素マスク越しの、かすかな呼吸。
シュー、シュー、というその音が、
次第に間隔を空けていく恐怖。
仕事の合間を縫って通った病室。
握りしめたその手は、記憶の中の父の手よりも
ずっと小さく、骨ばっていて、
思っていたよりも細かった。
亮介「……親父、ごめんな……」
そして、驚くほど冷たかった。
亮介「ありがとう」
私はそっと囁いた。
喉が詰まり、
それ以上の言葉は出てこなかった。
父はかすかに微笑んで、
何かを言おうとするように唇を動かし、
そのまま静かに目を閉じた。
その瞬間、病室の空気が一瞬だけ止まり、
反映してまた動きだす。
世界から、ひとつの色が失われた瞬間だった。
あの日の東京の空は、
泣き出しそうな鉛色の雲に覆われていた。
亮介の胸の奥には、
その雲と同じ色をした穴がぽっかりと開き、
今もまだ塞がらないままでいる。
家族葬は小さく行われた。
都会の片隅にある、システム化された綺麗な斎場。
少ない参列者。母と僕。
そして、花に囲まれた父の遺影だけが、
どこか居心地が悪そうに笑っていた。
亮介「……まだ、さよならも言えてない気がするよ」
亮介「ありがとう」「さようなら」
何度も心の中で言葉をかけたが、
その言葉は胸の奥の棘に引っかかり、
うまく外に出てこなかった。
───やっぱり、あの空の下で、
見送ってあげるべきだったのかもしれない。
筑後川を渡る橋の上から見上げた空は、
どこまでも高く、澄んでいた。
遠くに雲が流れ、耳納連山の稜線が
美しい茜色に染まっていく。
そこが、父が生きた人生の空だった。
東京の狭い空の下で父を見送ったことが、
刺さったままの棘のように、
少しだけ胸に痛みとして残っていた。
福岡の風は、東京とは違っていた。
有明海からの湿り気を含んでいるのに、
肌にまとわりつくことはなく、
すっと通り抜けていく。
稲の匂い、土の匂い、
雨上がりのアスファルトの匂い、
山から吹き下ろす風の匂い——。
それは、少年の頃に父と歩いた、
あの夕暮れの記憶を鮮烈に呼び起こした。
葬儀から数日。
冬の東京は、灰色の空と乾いた風が支配していた。
肌を刺すような寒さが、
喪失感をより一層際立たせる。
亮介は帰宅し、夜の闇に包まれた街の中、
静かにマンションの玄関ドアを開けた。
亮介「ただいま」
声が少し掠れた。自分の声なのに、
外の寒さに少し削り取られたような、
頼りない響きがした。
ドタドタと、
小さな足音が廊下の先から駆け寄ってくる。
そのリズムだけが、この冷え切った世界で唯一、
僕を繋ぎ止める確かな温かみを持っていた。
菜月「パパ、おかえり!
遅かったね。お仕事、大変だったの?」
菜月が僕の膝に抱きつき、屈託のない笑顔を見せる。
亮介「……ああ。ちょっとね。
佐藤っていう凄腕のAI使いに、
仕事をごっそり持っていかれそうになってたんだよ」
菜月「なにそれ? かっこいいの?」
亮介「いや、かっこよくはないかな。
むしろ、少し不気味だよ。
……それより、菜月。今日は何してたんだ?」
菜月「今日ね、学校で
“川の絵”を描いたんだよ。
すごく上手に描けたんだから!」
菜月は少し照れながら、
リビングの床に画用紙を広げて話し始めた。
菜月「見たことない場所なんだけど、
大きな橋があって、空に鳥がいっぱい飛んでるの。
夕焼けがね、すごく綺麗なの。
パパ、見て見て!」
亮介は腰を落とし、
その絵を覗き込んだ瞬間、息を呑した。
クレヨンで力強く、
迷いのない線で描かれたその川は、
間違いなく故郷の筑後川だった。
そして、不自然なほど鮮やかに空を染める赤は、
あの日の音楽室から見た夕暮れそのものだった。
亮介「……これ……。菜月、
見たことないのに、どうして描けたの?
……まさか、誰かに聞いたのか?」
震える声で尋ねた。心臓が嫌な拍動を刻み始める。
娘は小さく首をかしげ、不思議そうに答えた。
菜月「パパが寝る前にお話してくれたでしょ?
おじいちゃんと一緒に行った川の話とか、
お魚の話とか。
……あとね、緑色の河童さんが教えてくれたの」
亮介「……河童? 河童、だと?」
亮介は眉をひそめた。
河童の話など、した覚えは一度もない。
亮介「……菜月、河童って、どんな姿をしてたんだ?」
菜月「えーっとね、頭にお皿があって、
背中にはカメさんみたいな甲羅があって……。
夢に出てきたの。
緑色の人が、パパに
『落とし物を届けるよ』って言ってたよ。
……ねえ、パパ。パパ、何落としたの?
大事なもの?」
亮介「……落とし物……? 僕が……?」
亮介は思わず自分の手元を見つめた。
娘は小さな手を差し出した。
そこには何もなかった。空気だけだ。
けれど亮介の背筋に、なぜか懐かしい、
川の水のような生臭さと、
湿った土の匂いが漂った気がした。
真理子「パパ? どうしたの? 顔、真っ白だよ」
妻の真理子がキッチンから顔を出し、
心配そうにこちらを覗き込んだ。
亮介「……いや、なんでもない。
ちょっと立ちくらみがしただけだ。
……落とし、物か。そんなもの、あったかな」
亮介は誰にともなくそう呟き、
娘の描いた真っ赤な夕暮れの絵を、
震える指先でそっと撫でた。
***
その夜、亮介は夢を見た。
---




