Ⅲー6 昔から死んだふりがうまかった
Ⅲー6 昔から死んだふりがうまかった
伊藤の腕を振りほどくのは無理だった。私はうなずくかわりに、右手でOKのサインを出した。
伊藤の腕の力がすこしずつ緩んでいく。
ほんとうだな、貸してくれるんだな。もう一度うなずいてみた。相手に意思を伝えられるところまで首に加わる力が緩んでいた。
私は、右手でゆっくりと後ろポケットから財布を引き出し、開いた。まずいかな。懸念がかすめたが、残り少ないのを思い出した。
財布から二万円を引き出すのをじっと見る伊藤の視線を強く感じた。早く、おら早くしろよ。後ろで酒臭さが強くなった。
金を頭の上に上げると、頭を押しつけていた手が離れ、金を素早く腰ポケットにねじ込んでいるらしかった。
伊藤はそれ以上、要求しなかった。顎の下から腕を引き抜いた。
「借りたんだからな、お前が貸したんだからな」
振り向くと、伊藤の背がさらに暗い径の中へ駆けこんでいくのが見えた。その奥がどうなっているのか、伊藤はそこからもう再び現れてこないのだろうか。あるいは、私が立ち去るまで息を潜めてうずくまっているのかもしれない。
真っ暗な闇は、まるで漆黒の壁で遮られてでもいるかのように、覗き見ようとする私を拒絶していた。
表通りへ出て、雑踏をかき分け、地下道を降りていく途中で、また肩を叩かれるような錯覚に陥った。
振り向くと、伊藤がにっこり笑って、ようと声をかけてきそうな気分だった。さっきは悪かったな。いや、冗談だよ、ほら金返すよ。
そのとき、私はどう答えるだろう。いや、いらないよ。それは昔の慰謝料だ。こんなふうに言えばいいのだろうか。
しかし、伊藤は死んだふりがうまいな。あれが昔から伊藤の生き方だったんだ。六〇近くなっても変わらないんだな……。
私は明るい歩道を歩きながら笑いがこみ上げてきて、笑い出した。周りの視線が私に集まるのを感じた。
最終電車まで時間があったので、逆方向の終点まで乗り、そこで空席のある電車に乗り換えた。
三つめの駅で、すぐに空席は埋まった。
車内に酒気が濃くなった。
本を開いても頭に入ってこない。目を閉じる。山本はあの舞台で何を演じていたのだろうか。