第六話 ミリエール社交デビュー
王国には貴族がいる。
貴族というのは要するに領主である。王国から認定を受けて土地を領有している者を即ち貴族と呼ぶのだ。
これには村一つを領有しているだけの騎士から、数千人の民を統治している侯爵まで様々な階級の貴族がいる。そういう貴族達の集まりが国であり、その貴族の頂点に立つ存在が王なのだと言っても良い。
キュロッシア王国の場合、国王領は王都の周囲一体と国境の数カ所の拠点だけで、他は貴族達の所領だった。元々の成り立ちとしてはキュロッシア王家が勢力を強め、それに周囲の貴族達が臣従していったという形となる。中には戦争して服従させたり滅ぼしたりした貴族もいる。
なので王国の実態は貴族の集まりなのであり、貴族同士、貴族と王の関係は非常に重要なのだ。
そういう貴族の関係を保つ上で重要になってくるのが社交である。要するに貴族同士の交流だ。
貴族は領主であるので、普通は自分の領内に居住している事が多い。例外的に王国で大臣や要職に携わっている貴族は領地には代官を派遣して王都に住んでいる場合もあるが、普通は王都から遠く離れた所領に住んでいる。
しかしこれでは貴族同士の交流が出来ず、国としての一体感も保てないため、王国では年に一回、必ず全貴族が王都に集まって社交を開催する事になっている。
これは全貴族の義務であるので、出席しないと罰せられる。当主か次期当主の出席が義務となるため、長旅に耐えられない場合は当主引退を余儀なくされる事もあるほどだ。国境付近の領地に住んでいる場合、天候や道の状態にもよるが一ヶ月ほど掛る場合もある。
最近ではこの長旅の負担を考慮して、一年の半分は王都に、もう半分は領地に住む貴族も増えていて、当主と次期当主が半年で交代して領地と王都に常にいるようにしている貴族もいる。特に貴族の夫人は王都に常に居住する者も多かった。
そのため、特に夫人の社交は年一回の社交シーズン以外にも盛んで、この夫人の社交で王国の政治が動く事も多々あるために、ますます貴族夫人は王都に住みたがるという状況になっていた。
ミリエールのお披露目は年に一度の社交シーズンに合わせて行われた。冬が明けて春になると同時に王国中の貴族が王都に集まってきて交流するのだ。
社交は貴族が王都に所有している屋敷で行われる事も多いが、王宮で集まって行われる事が最も多い。王国の貴族は騎士や男爵を合わせれば百家ほどいるが、特に重要な侯爵、伯爵、子爵という大きな領地を持った貴族は三十家くらいだ。
王宮で行われる社交としてはまず儀式がある。王国で信じられている大女神を讃える儀式、王国の繁栄と豊穣を讃える儀式が行われ、これへの出席は王国の貴族の義務である。
儀式とはいえ神殿での厳粛な儀式の後は会食が行われるのでここで交流が行われる。これに加えて儀式の後の一ヶ月ほど、王宮では園遊会、観劇会、昼食会、茶会、そして舞踏会などの社交が開催されるのである。
特に舞踏会は大規模にかつ男女ともに楽しめる社交として人気がある。着飾った貴族が王宮の大ホールに集まって会食をし、踊り、交流するのだ。
ミリエールのお披露目は舞踏会で行われた。もちろん、儀式にも王妃として参加はしたが、貴族との交流は行われなかったのだ。慣れない王国風の儀式でミリエールに負担が掛る事を考慮されたのである。
もっともミリエールは粛々と完璧に儀式をこなしてアビシウスを感心させた。暴れ馬を造作なくねじ伏せるような活動的な少女なのに、お淑やかな所作も出来るというのは面白いな、とアビシウスは思った。
白と紺を基調とした国王の礼装に身を包んだアビシウスに、濃い青色のドレス姿のミリエールが寄り添う。アビシウスよりも頭一つ以上背が低いため、ティアラの乗った頭のてっぺんがアビシウスにはよく見えた。
不意にミリエールがアビシウスを見上げる。そして貴族らしい、表情を隠すための微笑を浮かべる。王国の女性よりも濃い色の肌彫りの深い顔立ちが陰影を浮かべていた。
年齢以上に大人びた、エキゾチックな笑顔。そして妙な色気と気品。さすがのアビシウスが一瞬息を止めてしまう。
「どうしました? 行きましょう。アビシウス様」
口調までもがいつもと違う。本当にこれがあのじゃじゃ馬少女なのかとアビシウスは戸惑った。もっとも、初対面の時からミリエールは、やろうと思えば皇女らしい態度も取れる女性ではあったが。
この時のミリエールはアビシウスが想像するよりも遥かに張り切っていた。
なにしろ王妃としての初舞台である。これから自分が率いることになる貴族夫人達との初対面だ。
物事は最初が肝心。舐められたらおしまいである。家畜相手にだってそうなのだから、プライドの高い貴族女性相手ならなおさらだろう。
普通の貴族女性なら怖気付くようなシチュエーションで、ミリエールは内心の炎を大きく燃え上がらせていたのである。
◇◇◇
大広間の王族用入り口が開いて、アビシウスとミリエールは腕を組んで入場した。
楽団が国王を讃える曲を奏で、すでにホールを埋め尽くしている貴族達が二人に拍手を送る。
華麗に飾られた巨大なホールには十数個のシャンデリアが下がり数百本の蝋燭が揺れていた。
ホールには数十人の男女とも着飾った貴族がいてこちらに注目している。ミリエールは帝都での祝宴にも出た事があるのだが、その様相の違いに少し驚いた。
帝国では身分による上座下座がはっきりしていて、席から動くことは許されない。基本的には座ったまま食事や歌舞音曲を楽しむのが帝国における宴会というものだ。
しかし王国では指定の席というものは存在せず、国王でさえいくつも置いてある丸テーブルのどこかに座る。
というか基本は立食で、席に座るのではなく歩き回って、いろんな貴族と会話をしたりホールの中央の空いたスペースでダンスをしたりするのである。
帝国の宴会は皇帝が貴族達をもてなすものであるのに対して、王国の宴は貴族達と共に楽しむものなのだな、とミリエールは理解した。
アビシウスとミリエールが進み出ると、貴族達がその前に並んで次々に挨拶をしていく。帝国の場合は全員が着席したら皇帝陛下を声を合わせて讃える事で挨拶に代えていたので、この辺は王国の方が面倒である。
おまけにただ受けるだけではダメで、挨拶をしてくる相手に何かしら声を掛ける必要がある。
それには相手の事を覚えておかねばならず、それどころか相手の事情もある程度調べて記憶しておかなければならないのだ。
例えば「ああ、ホミア伯爵。御息女の病気が治って良かったな」とか「エゼルーバ子爵、前代の葬儀に伺えずにすまぬ事をした」などと声を掛けるには、事前の調査と記憶がどうしても必要になる。
なので舞踏会に出席する前に、国王は堆く積まれた調査書類を読み込んで暗記する必要があるのである。
非常に大変だが、これによって貴族達は「国王に我が家は気を掛けてもらっている」と考え、王国に対する忠誠心を新たにするという効果があるので馬鹿に出来ないのだ。
当然だが王妃であるミリエールにもこの義務は課されるのだが、今回に限っては初対面の挨拶になるため免除される。ただし、次に会った時は今回の事を覚えておき「あの時の緑のドレスもお似合いでしたけど、今回の黄色のドレスも素敵ですね」というように声を掛けねばならないから、うかうかとしてはいられない。
ミリエールは教育でその辺の事はしっかり学んでいたし、必要性も理解していた。大丈夫。草原では数百頭の羊の見分けを付けていたミリエールである。記憶力には自信がある。
挨拶をしてくる貴族夫人達の態度は概ね戸惑ったようなものが多かった。「王妃」として出てきたミリエールがあまりにも幼過ぎたからである。
一応はアビシウスとミリエールはまだ婚約状態であり「王妃」は称号であることは貴族には説明してあるのだが、それが貴族夫人にまでは上手く伝わっていなかったようだ。
何人かの女性からは胡乱な目つきで睨まれてしまい、アビシウスは若干居心地の悪い思いをした。
ミリエールの方はすでに頭の中では自分とアビシウスはお似合いの愛し合う夫婦であることになっており、偉大なる英雄王の王妃には自分こそ相応しいという自負さえ抱いていた。
そのため、一分の引け目もなくミリエールは堂々と貴族の挨拶に対処した。元々奇妙な威厳を持つミリエールである。その彼女が気負う事なく、それでいてやや尊大なほど堂々と貴族夫人に対応した事で、夫人達は幼い王妃にある程度は納得したようだった。
もっとも、彼女が帝国出身者であることに反発を抱く者は少なくなかった。
何しろ王国はミリエールの故国である帝国とは長きに渡って戦争をしていたのだ。その過程で貴族も多数戦死していた。今日の舞踏会でも喪に服す意味を持つ黒いドレスや鼈甲で出来た黒いアクセサリーを身に付けている者は少なくない。
そういう者達は、勝ったにも関わらず帝国から彼らの上に立つ「王妃」になるべくやってきたミリエールに対して怒りと反発心を抱いているものと思われる。
しかしここでは今度は逆に、ミリエールの幼さが良い方に作用した。
恨み言の一つでもぶつけてやろうと考えていた彼らの前に現れたのはどう見ても成人前の少女だったからである。子供らしいあどけない顔立ちのミリエールを見てしまえば、さすがに彼女に帝国への憎しみの全てを負わせるのは可哀想だ、と思えてしまう。
むしろ王国との和平のために差し出された哀れな姫に見えたミリエールに、悪罵をぶつけてくる貴族は皆無だった。
ちなみに、ミリエールの方はまさか自分が恨まれているなどとは全く思っていない。彼女はなんだかんだ言って戦争中は草原で馬や羊を追っていたか、帝宮で好き勝手に暮らしていただけなので、戦争の恨み辛みを全く意識してなどいないのである。
政治とも軍事とも縁遠いところで育っていたミリエールには、両国の間には十年間の戦争によって埋め難い大きな溝が出来てしまっている事など分からない。
アビシウスと自分が夫婦になれば、帝国と王国は親戚になるんだから、仲良くなれるよね、と呑気に思っている。もちろんアビシウスの方はそんな簡単な事ではないと分かってはいるが。
その時、その両国の亀裂を象徴する人物が二人の前に現れた。
「アビシウス」
国王陛下を公の場で呼び捨てに出来るのは、王国広しといえど一人だけだ。
「母上」
アビシウスの前には白髪の、痩せた老婦人が立っていた。王太后、つまりアビシウスの母であるリュシアだった。
実は、老婦人というほどリュシアは歳を取っているわけではない。当年四十四歳である。
しかし、戦時に国を預かる苦労。特に元々病弱だった夫である前王が亡くなった事と、最愛の息子であるアビシウスが前線で戦い続けた事による心労が、王国一の美女だった彼女を無残なほど老け込ませたのである。
アビシウスにとって戦場にいる間、王都で王国をまとめ続けたリュシアは、この世で唯一頭が上がらない存在であり、もちろん最愛の母でもある。
貴族、特に貴族夫人に対する影響力は絶大であり、そのリュシアが帝国に対する敵愾心をあからさまにしていることは、帝国との融和を考えているアビシウスにとって頭が痛い問題であった。
そのリュシアが、帝国の皇女であるミリエールを「王妃」と認める筈がない。そのため、アビシウスは同じ王宮に住みながら、リュシアとミリエールを一度も会わせないでいたのである。
その間、散々に帝国との同盟の重要性を言い含めて、ここまでに一応は、リュシアからミリエールとの婚約の同意は渋々ながら得ていた。
それでこの舞踏会での初対面を設定したのだが、何しろ帝国への恨みが骨髄に達しているリュシアである。実際に帝国の皇女であるミリエールを目にしてどういう反応を見せるのか、アビシウスは非常に緊張していたのだった。
しかしてリュシアの目つきは怒りに満ちていて、どう見ても「嫁」との初対面を穏便に済ます気はなさそうに見えた。
ここでリュシアがミリエールを頭ごなしに罵倒しでもすれば大変厄介な事になる。王太后に同調する夫人が出てきてミリエールが責められるような事態になったらミリエールを王国に受け入れさせるのが難しくなってしまうだろう。
そう考えて、いざとなればリュシアとミリエールの間に割って入れるように身構えたアビシウスだったのだが……。
リュシアはきつい目つきでアビシウスたちの方を睨んで、次の瞬間目を丸くした。惚けたような表情になってしまう。
「あ、アビシウス!」
リュシアが驚愕したように叫ぶ。
「な、なんでしょう? 母上?」
リュシアはミリエールに震える指をさして更に言った。
「て、帝国の姫というのは、まさかその娘なのですか!」
アビシウスの当惑は深まる。
「はぁ、そうですが……」
リュシアは口を大きく開けて(貴族夫人としてはあるまじき事だ)叫んだ。
「だって、お前! 子供ではありませんか! それがどうして!」
ミリエールの額にピキッと青筋が浮かんだが、さすがに彼女も反射的に反論することは自制する。
リュシアは腰を屈め(背がミリエールより高かったので)ミリエールの顔をまじまじと見ると、いきなりアビシウスを叱りつけた。
「な、なんという事をするのですか! にっくき帝国相手とはいえ! こんな幼い姫を拐かすなど!」
とんでもない事を言い出した! アビシウスは慌てて否定する。
「拐かしてなどおりません! 誤解です! 母上!」
ミリエールもさすがに憤慨して声を上げる。
「そうです! お義母様! 私は自分の意思でこの王国に嫁に参ったのです!」
しかし、リュシアはそのミリエールの言葉をどう受け取ったものか、目に涙を浮かべ、ミリエールを突然ヒシと抱きしめる。ミリエールは目が点になってしまう。
「この幼さでなんと健気なこと! おのれ帝国め! このような娘になんと無体な事を! 許せぬ!」
無茶苦茶な誤解が生じているようなのだが、どこから突っ込んだらいいかアビシウスにはわからない。
「心配しなくてもよい! そなたの事はこの私が、母が守ってしんぜるからの!」
……誤解によるものだとしても、最大の懸念点だったリュシアとミリエールの関係がつつがなくいくなら何よりだ。
そう考えたアビシウスは考えるのを止めた。