四話 ミリエール、アビシウスに恋をする
アーファードは王宮の門を突破するとそのまま王都の中央通りを疾走した。
王都の住民はその荒ぶる走りに最初は驚愕したが、やがてそれがアーファードだと分かると苦笑した。
やれやれまたか。アーファード様には王宮は窮屈なようだねぇ。住民はもう何度も脱走するアーファードに慣れてしまっていたのだ。
最初は何度か捕獲を試みた者があったものの、どれもアーファードに跳ね飛ばされて酷い目に遭わされているので、アーファードは今では誰も敬して遠ざけるという存在になっていた。手出しをする者はいない。
しかしそのせいで王都の住人たちは、アーファードの背中にしがみついている青い影、ミリエールを見逃してしまったのだった。
アーファードは王都の街路を一気に走り抜けると、そのまま王都の外へと駆け出していった。王都の外には農地や森などが広がる。
広々とした開放的な空間に出てアーファードはようやく満足した。駆け足を緩める。
振り落とされないようにしがみついているだけだったミリエールもようやく顔を上げた。
「ふわ〜、凄かった!」
ミリエールが今まで乗ったどの馬よりも速かった。なるほど。こんな馬がいたのでは故国である帝国が王国に負けるわけである。ミリエールは妙な納得の仕方をした。
「凄い! お前凄いねぇ!」
ミリエールはアーファードのたてがみをガシガシと撫でる。アーファードは当然だと言わんばかりにブルンと鼻息を吐いた。
どうやらアーファードは脱走の心地よさに免じてミリエールが背中にいる事を許容したようだ。ミリエールももうアーファードにいう事を聞かせようとは思っていない。単にアーファードの背中で馬が行くに任せながらミリエールは景色を眺めた。
彼女の故国、帝国の特に帝都のあたりは結構山が多く、街のすぐ側まで岩山が迫っていた。森も多く深く、川の流れも急で速い。
それに対して王都の周囲には高い山は一切なく、緩やかな丘陵がずっと続いている。農地と背の低い森が半々という感じだ。
ミリエールの育った草原地帯も森はここよりも少ないが丘陵が多く、そういう意味ではミリエールは懐かしさを感じた。この地形なら場所さえ選べば放牧も出来そうよね。
ただ、彼女だって農業の大事さは知っている。帝国は帝都の南に広大な穀倉地帯を有していて、そこを侵攻してきた南の王国から守るために帝国は必死に戦ったと聞いた。
キュロッシア王国との戦いに負けたのはその南の国との戦いで軍が疲弊したからで、まだ燻っている南の国に備えなければいけない関係から、王国と強い同盟関係を築きたい。そのためのミリエールの嫁入りだった。
ミリエールはそこまでは理解していなかったが、父母が自分に期待して王国に嫁がせた事は知っていた。それ故、多くの不満がありながらも三ヶ月もずっと我慢をしてきたのだ。
しかしまぁ、たまには気晴らしもいいわよね。ミリエールはニンマリした。
彼女的には今回のこの脱走は不可抗力なのであり、半分以上はアーファードが悪い。たぶん。
もしもアビシウスやサリューシアに怒られたら、全面的にアーファードに責任をなすりつけよう。
これほどの名馬ならアビシウスが大事にしていないわけがないから、アーファードが酷い目に遭わされるという事はないだろうという計算もあった。
ということでミリエールは呑気な気分で鼻歌さえ歌いながら、アーファードに任せて王都近郊の散歩を楽しんでいたのだった。
◇◇◇
一方、追う側のアビシウスとサリューシアの方は呑気にとはいかなかった。
王都の住人に聞き込みをすると、どうやらアーファードとミリエールは王都の外まで駆けていってしまったらしい。半ば予想をしていたとはいえアビシウスはげんなりした。
おまけに王都の住民から「そういえば王様はご結婚なさったんですってね」「おめでとうございます王様」「そちらのお方がお妃様で?」などと言われて更にガックリとなる。婚約の事は平民には秘密にしていた筈なのに何処から漏れたのだ。
サリューシアは侍女服なのでお妃に見える筈もないとアビシウスは思っていたのだが、平民にとっては侍女服でも大変立派な服に見えるものなのである。なのでこの後しばらくは歳の釣り合いもいいサリューシアがお妃であると、王都の住民は誤解する事になる。
「仕方ない。サリューシア。王都の外まで追うぞ」
「は、はぁ、それは良いのですが、王様はずいぶん王都の平民との距離が近いのですね」
サリューシアは驚いていた。帝国の皇帝は帝都の平民の前には姿すら現さないものだからだ。
「戦争の時は王都の住民に無理を強いる事も多かったからな」
アビシウスは皇太子時代には父王に代わって王都の有力者に税を集める協力を求めたり、住人達から兵士を募集するため演説したり、城壁を護る兵士を鼓舞して回ったりしたものだ。
そういうアビシウスを王都の住民は慕ったので、王国は一丸となって強大な帝国に立ち向かい、勝利する事が出来たのである。凱旋式で王都をパレードしたアビシウスを讃える王都の住民の歓呼は熱狂的なものであった。
ただ、戦争も終わり当時の熱狂も冷めた現在、王都と王国には戦争中に生じた歪みが顕在化し始めていた。それに対処するためにアビシウスは毎日政務に忙殺されていたのだ。それをじゃじゃ馬どもを追い掛けるのに一日を潰されるとは!
ただ、サリューシアの見るところ、アビシウスの表情も王宮にいる時よりもずいぶんスッキリとしており、彼からして王宮よりも外に出るのが好きなのではないかと思われた。今回の追跡は彼の気晴らしにもなっているのではないだろうか。
アビシウスとサリューシアは王都の城壁を出て王都周辺を捜索した。しかし、範囲のある城壁内ならともかく、城壁の外は広過ぎる。アビシウスは再び農民に聞き込みをしようと考えたのだが、その前に、地面を見ていたサリューシアがあっさり言った。
「こっちですね」
「なぜ分かる」
「大きな馬が疾走して行った蹄跡がありますから」
遊牧民族であるサリューシアにとって、足跡から家畜の行動を推察するのは必須技能である。なので当然これはミリエールにも出来る。アビシウスは感心した。
「なるほど。では追跡の案内を頼む」
サリューシアは驚いた。王様が家臣に対して命ずるのではなく「頼む」など。王都の市民に対する態度といい、気さくで気取らない良い男だ、とサリューシアはアビシウスに好感を抱いたのだった。
そうしてサリューシアの追跡により、程なく二人はのんびりと川辺を歩いていたアーファードとミリエールを発見したのである。
◇◇◇
アーファードの足取りはのどかなものだった。アレだけ疾走して疲れた様子がないのも凄いが、歩き出してからは道端で草を喰み、小川で水を飲み、ポクポクと歩くだけ。
その辺は実家の草原の馬とあまり変わらない。むしろ草原の馬の方が他の馬と競争したり喧嘩したりと忙しそうにしているまである。
「あんた脱走したいだけで、やりたいことがある訳じゃないのね」
ミリエールは呆れたが、考えてみればミリエールも帝都で脱走していた時は、脱走が目的であってやりたいことがあったわけではない。その意味ではこの馬と考え方があんまり変わらないのだった。
ただ、ミリエールとしては自分だけでは迷子になってしまうのでアーファードの背中から降りるわけにもいかない。日差しは長閑で眠くなるが、喉も乾いてきたし、そろそろ何とかして欲しいのだった。
その時、草を喰んでいたアーファードの耳がビクッと動いた。そしておもむろに顔を上げるとジッと何かを伺うような姿勢を取る。? ミリエールも警戒する。アーファードが走り出してもすぐに対応出来るように手綱をしっかり握った。
すると遠くから蹄の音が聞こえ始めた。ミリエールは目を細めてその方向を伺う。彼女は遊牧育ちなので非常に目が良い。
するとそれは二つの騎馬が一直線にこちらへ走って来る姿だと分かった。土煙がかなり上がっているので相当な速度である。そしてその騎馬の姿形が分かった瞬間、ミリエールは思わず「やべっ!」と叫んだ。
それはアビシウスとサリューシアだったからだ。アビシウスは黒い馬、サリューシアは鹿毛の小さな馬に乗っている。何やら怒鳴っているがおそらく「見つけたぞ!」とか叫んでいるに違いない。
「こら、お前! 見つかっちゃったよ! 逃げなきゃ! ほら!」
ミリエールは馬の首を押したり、鎧で胴を叩いたりしたが、アーファードは動かない。ジッと近付いて来る二騎を、恐らくはアビシウスを見つめている。
二騎はとうとうアーファードとミリエールの前までやってきた。
「アーファード!」「ミリエール様!」
二人がそれぞれ呼び掛けるが、ミリエールは何となくムッと臍を曲げた。婚約者が自分ではなく恐らくは馬の名前を呼んだからだ。
サリューシアは馬を飛び降り、駆け寄ってきた。
「姫様! ご無事で何よりです。さ、帰りますよ」
姉代わりのサリューシアの心底ホッとした顔に、ミリエールは罪悪感を覚えたが、同時に、婚約者のアビシウスが馬上で油断なく構えているのが気になった。
次の瞬間、ミリエールの下で筋肉が躍動した。
あ、っと思った時にはアーファードが走り出していた。驚いたサリューシアが飛び退く。蹄が地面を叩き、アーファードは川沿いの真っ直ぐな道を全速力で駆け始めた。これあるを予測していたアビシウスも、即座に馬に鞭を入れてアーファードを追い始める。
「うわー!」
王都を駆け出した時と同じか、それ以上の速度だった。ミリエールはアーファードの首にしがみ付く。
「どうしたの? そんなにアイツが嫌なの?」
アビシウスがアーファードを虐待しているのかと疑ったのである。もちろんそんな事実はない。
「いいわ! 逃げるんならどこまででも付き合ってあげるからね!」
この速度ならアビシウスは追い付けまい。やーい、ざまぁみろ! ミリエールはちょっと楽しくなってそう叫んだ。のだが。
「!?」
走りながらアーファードがしきりに耳を後ろに向けていた。後ろを警戒している証拠だ。え? 一体何が……。
ミリエールは伏せた姿勢のまま目線だけを左後ろに向けた。
「……え〜!」
ミリエールは驚愕する。なんとすぐ後ろに黒い馬に乗ったアビシウスが迫っていたのだ。
えええ? なんでどうやって? アーファードは今も素晴らしい速度で走っている。並の馬ではとても追い付くまい。
それにミリエールは少女でアビシウスは大男だ。軽いものを乗せた馬の方が早く走れるのは道理である。それなのにミリエールが乗ったアーファードが追い付かれるのはおかしい。
一体どういう事なのか。ミリエールは必死にアビシウスのことを観察した。
するとアビシウスは、黒い馬の動きに合わせて馬の首を、その逞しい腕でグイグイと押し込んでいたのだ。太い腕が馬の首を前に出すごとに、黒い馬は強制的に加速させられてみるみるアーファードに迫っていたのだった。
な、なにそれ! ずるいじゃない! ミリエールが唖然とする中、アビシウスと黒い馬がアーファードとミリエールに並びかけると、更にとんでもない事が起こった。
何とアビシウスは馬の上で腰を浮かせると、そのまま宙に飛び上がったのだ。
「えー!」
ミリエールは思わず声が出てしまう。全力疾走している馬から飛び上がるなんて、さすがの遊牧民族でもそうはやらない曲芸だ。しかもアビシウスのそれは曲芸ではなかった。
アビシウスはそのままアーファードのお尻、ミリエールの背中の位置に降り跨ったのだ。そしてミリエールを包み込むように覆い被さると、アーファードの手綱をがっしりと掴んだ。
そしてグッと手綱を引き絞る。するとアーファードは即座に速度を緩め。やがて停止した。
「よーし。良い子だ。アーファード」
……ミリエールは口がポカーンだ。彼女が何をやっても言うことを聞いてくれず、しがみついているだけで精一杯だったこの「馬の王」を、この婚約者は造作もなく制御して服従させてみせたのだ。
さすがは王国の英雄王。母が「三国一の勇者」と称えたのは嘘ではなかったようだ。アーファードの上で、アビシウスに抱き抱えられたような姿勢でミリエールは感動していた。
「ふむ、無事なようだな。ミリエール。アーファードから落とされなかったなら大したものだ」
アビシウスに褒められ、微笑まれた瞬間、ミリエールはこの婚約者への強烈な恋心を自覚したのである。