第三話 王妃脱走の顛末
「バカにしてるわよね!」
というのがミリエールの偽らざる感想である。
そもそもミリエールが王国に嫁に来たのは本人の意思ではない。父親である皇帝に頼まれたからなのである。
「帝国を護るためにはどうしてもお前を嫁に出すしかないのだ」
と父帝は言った。ここ何年も帝国はいろんなところと戦争をして国力が疲弊していて、これ以上戦争を続けると国が崩壊してしまうのだという話だった。
ミリエールには難しい話は全然分からなかったが、大好きな父親が困っているのなら助けたいと思ったのである。彼女が育った遊牧民の村ではありとあらゆるものを分け合い、助け合い、励まし合って暮らすのが当たり前だった。ミリエールにはその精神が自然と身に付いていたのだ。
母親であるフルシャーレも彼女に王国へ嫁ぐべきだと言った。母はミリエールにこう言った。
「キュロッシア王国の国王アビシウスは三國無双の勇者らしい。強い男に嫁ぐのは女の本懐というものですよ」
父母に勧められ、ミリエール自身も王国とアビシウスに興味が湧いてきた事もあり、彼女は遥々遠いこの地までアビシウスの嫁として嫁いで来たのだ。
……ところが嫁いできたらどうだ。当の花婿であるアビシウスは「こんな子供と結婚できるか!」という態度ではないか。
バカにするな! ミリエールは激昂した。遊牧民の間では初潮があれば即座に嫁ぎ、すぐに出産するのが普通である。十二歳ですでに子持ちなことも珍しくはない。その基準でいれば数え十三歳のミリエールは十分に大人なのだ。
しかも母が「三国一の英雄」とまで称えた「夫」は何だかぬぼーっと大きな仏頂面の白い男で、一見してパッとしなかった。口数も少なく、帝都の社交界で声を掛けて来た華麗な貴公子たちに比べれば見劣りがした。
そもそもこの王都にしてからが帝都と比較して空はどんよりしていて薄寒く、王宮も緑が少なくて、ミリエールを大層ガッカリさせていた。
ミリエールとしては失望してもう帝都に帰りたいところだったのだが、他ならぬ愛する父と母の強い願いによる嫁入りだし、婚家から逃げ帰るなど女の恥だ。それは彼女の矜持に関わるので我慢していたのだ。
しかしながら豪華な婚約式(なんで結婚式じゃないのかミリエールには何度説明されても分からなかった)が見慣れぬ形式の神殿で行われた後は、婚約者のアビシウスはミリエールを放置した。
狭い庭の付いた狭い部屋に閉じ込めて、王国式の作法と教養の勉強を強制したのである。これだけでも怒りで爆発寸前だったミリエールだったが、最も彼女が我慢ならなかったのは、馬に乗れない事だった。
ミリエールは子供の頃に住んでいた草原地帯で歩くよりも早く馬に乗って育った。広大な大草原をどこまでも駆けていく快感を満喫しながら生活していたのだ。
その彼女から婚約者は馬を奪った。せっかく嫁入り道具代わりに選りすぐりの名馬を五頭も帝都から連れて来たのに!
サリューシアの話では馬は王宮の馬場で大事に面倒を見られていいるという話だったが、そういう問題ではない。乗れない馬などいないのと同じじゃないの!
怒り狂っていたミリエールだが、サリューシアに諌められた事もあり、三ヶ月もジッと耐えていた。父母から遠く離れて嫁入りしてきたミリエールにとって、姉代わりのサリューシアは唯一の頼りであり、彼女に失望されたくなくてミリエールは頑張った。
婚約者であるアビシウスとは毎朝一緒に食事をするものの、挨拶以外はほとんど会話もない。アビシウスに対するミリエールの失望はどんどん高まっていった。どうして私はこんな男のところに嫁に来てしまったのか。どうして私がこんな我慢をしなければいけないのか。
沸々と湧き上がる怒りに耐えに耐えていたミリエールを見かねて、サリューシアがアビシウスから王宮の馬場での乗馬の許可を取って来てくれたというわけである。
◇◇◇
……最初は大人しく乗馬をするだけにするつもりだったのだ。ミリエールはよく誤解されるがかなり忍耐深い性格なのであり、理由があれば我慢をするのはやぶさかではない。
せっかくここまで耐えて来たのだから、それを台無しにする事はない。そう思いながら彼女は王宮の馬場を訪れた。
彼女の格好は立ち襟筒袖の青い長衣とズボン、そしてブーツである。皇女に相応しく長衣には銀の刺繍がびっしりと施された豪奢な仕様だが、服装そのものは遊牧民のものである。
非常に乗馬向きに出来ていて、ミリエールにとっては子供の頃から馴染んだ服でもある。
王宮の馬場はそれなりに広く、皇族所有の二十頭程の馬が飼われていた。ミリエールが連れてきた馬も確かに大事にされているようで、毛艶は非常に良かった。
王国の馬は騎士が乗るのだという非常に大柄で鈍重な馬と、乗馬用だというこれもパッとしない馬がいた。帝国の馬は大きいけど、遊牧民の駆る馬に比べると剽悍さはだいぶ劣るな、とミリエールは思ったものだ。
ミリエールは自分の馬を引き出させて馬場を少し駆けさせた。草原と比べてその狭さに閉口したが、仕方がないと自分に言い聞かせる。彼女が見事に馬を疾走させる様を、牧童達は呆れたように見ていた。王国では女性が自在に馬を駆るのは一般的ではないようだ。
ひとしきり馬を駆けさせ、それなりにスッキリしたミリエールは馬を降りると、王国の馬をもっとよく見たくて近くの厩舎の中に入った。
その厩舎は一頭ずつのスペースが少し大きめに取られていた。後から知ったがそこは国王の馬専用の厩舎だったのだ。
七頭の馬がいたが、ミリエールが入っても騒ぐ事なく静かにしていた。国王のために選び抜かれた名馬なのである。その中に一頭、葦毛の馬がいた。灰色で、少し腹に斑模様がある。静かな視線がミリエールを見据えた。
ミリエールの背中をゾクゾクとしたものが走り抜けた。
こ、この馬は! ミリエールは馬から目が離せなくなってしまった。この馬は、只者じゃないわよ。
ミリエールは知っている。人間に王がいるように、馬にも王がいるのだ。遊牧部族が所有している何百頭もの馬には必ず頂点に立つ「馬の王」がいるのである。
この馬はその類だ。その辺の人間では到底乗りこなせないだろう。こんな馬が王国にいるなんて……。
馬を見つめながらミリエールは久しぶりにワクワクしてきた。この馬に乗ってみたい。この馬は私にどんな景色を見せてくれるんだろう。そう思うとミリエールはもう我慢が出来なくなってしまった。
ミリエールは牧童の静止を振り切って、その馬を馬場に引き出した。帝国の馬よりもかなり大きな馬だった。筋肉隆々で毛艶も光り輝いている。
ミリエールは馬の鐙に足を掛け、ヒラリと馬に跨った。
その瞬間、馬は声も出さずに背中を巧みに振ってミリエールを跳ね飛ばした。さすがのミリエールが対応出来ずに馬場に転げ落ちる。
サリューシアを始め周囲は青くなってしまったが、ミリエールは思わず呆然としてしまった。馬に振り落とされるなど何年ぶりの事だろうか。
見上げると、葦毛の馬は静かにミリエールを見下ろしていた。その超然とした態度。……お前のような小娘に乗りこなせる馬ではないぞ。私は。と言わんばかりのその態度。
ミリエールは顔面を朱に染めた。な! この馬!
ミリエールは地面から跳ね起きると葦毛の馬に飛び掛かった。首にしがみ付き背中によじ登ろうとする。
しかし馬は造作なく首を振るうとミリエールを放り投げた。しかしミリエールも今度は受け身を取ってすぐに立ち上がる。そして再び地面を蹴って馬に飛び掛かる。
それからはしがみ付いては跳ね飛ばされを何度も何度も繰り返した。馬の人を落とす技術は見事なもので、ミリエールは何度も何度も跳ね飛ばされたが、ミリエールはけして諦めなかった。だんだんと馬の癖と動きを見切ると、馬に触れている時間が長くなって行く。
そして馬が根負けしたか、ついにミリエールは馬にしっかり跨る事に成功した。
「やった! ってうわぁ!」
喜んだのも束の間、馬は急発進し、背中を振り、ミリエールを振り落とさんと暴れ始めた。巨体であるので凄い迫力だ。牧童は巻き込まれないように逃げて行く。
しかし、暴れ馬を乗りこなすのはミリエールもそれなりに慣れている。鐙に足が掛かり、手綱を掴んでいればそうそう振り落とされない自信がある。
振り落とせない事が分かると葦毛の馬は急発進をした。凄いスピードだ。手綱を引いて身を伏せるミリエールの視界に、急速に接近する牧柵が映った。ぶ、ぶつかる!
しかし、次の瞬間、ミリエールは手綱と一緒に馬のたてがみをしっかり掴んだ。おそらく静止しようとすればその隙を突いて振り落とすつもりだろう。そうはさせない。
「いいわ! お前の思う通りにしなさい!」
ミリエールが叫ぶと、馬のたてがみがザワっと震えたような感じがした。
そして馬は更に加速をすると、馬場を囲んでいた牧柵を人馬一体となって高々と飛び越えたのだった。
◇◇◇
……そして馬はミリエールと共に、そのまま物凄い勢いで王宮の門をも駆け抜けると、王都の街に向けて駆け去って行ったのだった。
一部始終を聞いてアビシウスは呆れ果て、次に激怒した。
「どうして王妃をアーファードに勝手に乗せたのだ!」
王の怒声に牧童や従僕は全員ひっくり返ってしまう。サリューシアが恐る恐る尋ねた。
「アーファードというのがあの……」
葦毛の馬の名前なのだと思われる。案の定アビシウスは頷いた。
「ああ。私の馬だ。あれは!」
名馬アーファード。アビシウスの相棒として戦場を駆け巡り、帝国に決定的に勝利したホイセー会戦でも王と共に最前線で戦い続け、兵士を鼓舞し続けた。
そのせいで馬でありながら英雄と称えられ、詩人が酒場でその勇姿を歌った事で王都では知らぬ者がいないほどの存在だった。
もちろんアビシウスにとっても掛け替えのない存在である。
「アイツは私以外には乗りこなせぬ。なんと無謀な事を!」
アーファードは普通の乗用馬より遥かに巨大でありながら、騎士用の重種馬よりも素晴らしく速く走ることが出来る馬だった。
しかし気性が大変に激しく、今までに何人もの男を振り落としては大怪我をさせていた。アビシウスでさえ最初は何度か落とされたのだ。
それはミリエールは馬の扱いに関しては名うての遊牧部族出身ではあろうが、アーファードを乗りこなせるとはとても思えない。
帝国から預かった婚約者に大怪我でも負わせたら大問題になる。
「ヴェルベアを曳け! 私がアーファードの後を追う!」
アーファードはアビシウスのいうことしか聞かない。取り押さえるには彼が行くしかないのだ。
実は、アーファードの脱走はこれが初めてではない。あの馬は気分屋で、王宮でも戦場でも何かというと逃げ出してしまうので、その度にアビシウスが迎えにいかねばならなかったのだ。
どうせ賢く気ままなアーファードの事だ。これ幸いとミリエールのいう事など聞かず王都での脱走を楽しんでいるに違いない。本当に仕方がない奴だ。
「サリューシア! お前も馬で続け! お前にはミリエールを捕まえてもらわなければならぬ!」
アーファードを抑えてもミリエールに逃げられては面倒だ。ミリエールにいうことを聞かせられるのはサリューシアだけである。
「は、はい!」
サリューシアはミリエールの馬が入っている厩舎の方に駆け出して行った。
まったく! この忙しい時に何をしてくれてるのか! あの馬も! 娘も! アビシウスは思わず声に出して毒付いた。
「あのじゃじゃ馬どもめ!」