第二話 ミリエールの事情
帝国の使節長は名をムバイルといい、四十代後半の白髪と白い髭を持った男だった。
そのムバイルが言うにはミリエールの生い立ちには少し複雑な事情があるらしい。
「ミリエール姫のお母上、第三王妃フルシャーレ様は、元々は帝国の東方の遊牧部族の姫君でした」
帝国は王国の東方にあるので、帝国の東方ということは広大な帝国を挟んで遥か東方である。アビシウスには想像も付かないくらいの遠方だ。
帝国はその昔、東方の遊牧民連合と戦争になった事があるそうだ。
その戦いは数年続き、帝国が勝利したのだが、その和平条件として帝国の皇帝ガフシェリアに嫁いできたのがミリエールの母であるフルシャーレだったのだそうだ。
なるほど、帝国では戦争の和平に婚姻が付き物であるというのは本当の事であるらしい。敗北した側が勝利者側に嫁を差し出すというのも。
しかもそうやって嫁いで来た女性を尊重するのも当たり前のことだという。考えてみればその女性を粗略に扱ったりすれば、嫁がせた側の国が怒ってまた戦争になりかねないのだから当たり前ではある。
フルシャールが第三王妃になったのはすでに第一第二王妃がすでにいたからで、特に冷遇を受けたわけではないそうだ。
むしろ絶世の美女であり、嫁いだ時にはまだ十六歳だったフルシャールを皇帝ガフシェリアが溺愛し、最も愛する王妃と呼ばれているそうだ(ちなみに現在は第七王妃までいるらしい)。
そんな愛する王妃の娘だけにガフシェリア帝はミリエールも溺愛しており、彼女を王国に嫁がせるにあたってはそれはもう大変に嘆き悲しんだという。
……そんな愛娘を追い返しなどしたら激怒して戦争再開確定だっただろう。アビシウスは内心胸を撫で下ろす。
しかし……。
「それにしては馬に乗って駆け回るなど、皇女らしからぬ行動が目立つのではないか?」
アビシウスが指摘すると、ムバイルはややげんなりした顔になってしまう。おそらく帝国からの長い道中、散々にミリエールに振り回されたのだろう。
「皇帝陛下はフルシャーレ様がミリエール様をお産みになると、故郷への里帰りを許されました。フルシャーレ様はミリエール様を連れて東方に行かれて、八年ほどお帰りにならなかったのです」
「八年?」
アビシウスは耳を疑った。それはほとんど別居ではないか?
どうやらその間、帝国は南方の王国と戦争をしていたらしく、その戦力として東方の遊牧部族達を当てにしており、その見返りとして一時フルシャーレを故郷に帰していたものらしい。
正確にはフルシャーレではなく皇女であるミリエールを信頼の証として預けていたのだろう。東方遊牧部族の協力の甲斐あって戦争には勝利。フルシャールとミリエールが帝都に戻ったのはミリエール数え十歳の時だった。
そこまで言われればそれ以上聞かなくても分かる。
「……つまりミリエール嬢はその八年間、遊牧民の娘として育ったのだな」
遊牧民は赤ん坊の頃から馬の上で過ごすと聞く。歩くと同時に馬に跨るとも。それならミリエールが馬に乗れても当たり前だろう。
南の王国との戦争中にキュロッシア王国とも戦争が始まってしまい、しかもホイセー会戦で帝国軍は大打撃を被った。
流石の大帝国もこれ以上の戦争は続けられないのだろう。最愛の娘を敗北の印に差し出してでも王国との和平を急いだ理由がそれなのだと思われる。
三年前、ようやく帝都に帰ってきたミリエールはそれから教養や礼儀作法などの各種教育を受けているので、皇女らしい振る舞いが出来ないことはないのだという事だった。しかしながら……。
「あんまり好きじゃないのよね。堅苦しくて」
という事で、帝都でも馬を乗り回して自由奔放に過ごしていたらしい。何しろ皇帝陛下お気に入りの娘である。おそらく厳しく指導監督出来る者がいなかったに違いない。
「そんな訳でして、多少変わった姫ではございますが、アビシウス王におかれましては寛大なお心で受け入れて下さる事を望みます」
帝国の臣であるムバイルが、自らの国の、しかも嫁入りのために遥々連れて来た皇女を「変わった姫」と言ってしまうのだから相当なものである。彼の数ヶ月に及ぶ旅の苦労が偲ばれる。
アビシウスとしては何しろ自分の妻にしなければならない女性なのである。本音を言えば「そんなケッタイな娘は嫌だ」と言いたいところだった。
しかしながらミリエールが間違いなく皇女であり、しかもルベシア帝国皇帝一番の愛娘であると聞いてしまえば、これはもう嫁入りを断る事など出来ようもない。
断ったら再び戦争になって、おそらく帝国も王国も共倒れになってしまうだろう。両国とも敵はお互いだけではないのだから。
アビシウスは結局、ミリエールを受け入れるしかなかったのである。
◇◇◇
ルベシア帝国の使節は一ヶ月後、帰途についた。
もちろんだが盛大に労をねぎらう宴を催し、多数の皇帝への土産物を持たせた。これはミリエール達が携えた帝国からの贈り物の返礼品でもある。
ミリエールは他にも嫁入り道具としてドレスや宝飾品、装飾品、家具などを運んで来ており、その豪華さを見れば、これは確かにミリエールは帝国で非常に大事にされていた皇女なのだとアビシウスも納得するしかなかった。
本来であれば使節がいる内に、アビシウスとミリエールの結婚式を済ませなければならなかったのだ。二人が正式に婚姻することが講和条約の締結完了を意味するからである。
しかしこれにはアビシウスがどうしても同意出来なかった。
何しろ十二歳である。十三歳年下である。年齢差は目を瞑るにしても、成人三年前の少女とは流石に結婚は出来ない。
そんな事をすれば禁忌を犯した男としてアビシウスの評判は地に落ちてしまうだろう。そもそも、結婚を取りしきる大女神神殿の神官に、神との取りなしを断られてしまうに違いない。
アビシウスはこの事をムバイルに伝えて粘り強く交渉した。ムバイルの方もちゃんと結婚して初夜を過ごした事を見届けなければ帰れないとかなり抵抗した。彼だって皇帝の厳命を受けているので必死である。
しかしながらアビシウスは何日も掛けて両国の常識の違いを説明し、理解を求め、結婚を行わない代わりに婚約式を挙げ、ミリエールに結婚前から「王妃」の称号を与えて遇する事を約束した。
そうしてどうにかムバイルを納得させたのだった。帝国としても結婚をゴリ押しした結果、せっかく婚姻によって同盟を結ぶアビシウスの権威が失墜して、王国が混乱に陥っても困るという考えもあったのだろう。
こうしてアビシウスとミリエールは大女神神殿で「婚約式」を挙げ「婚約者」となった。二十五歳の男と未成年の少女と婚約するのは……、まぁ、ギリギリセーフである。
同時にアビシウスはミリエールに公式に「王妃」の称号を与えた。結婚前の相手に王妃の称号を与えるなど前代未聞のことであったがやむを得ない。
これでミリエールはキュロッシア王国王妃ミリエールとなり、公式には「ミリエール王妃」と呼ばれる事となった。
これを見て納得したムバイルと帝国の使節団はようやく帰国していったのである。
◇◇◇
もちろんだがムバイルは帝国の姫たるミリエールをたった一人で王国に置き去りにした訳ではない。
ミリエールには侍女が五人付けられていた。何も黒髪の女性でこれはミリエールの母フルシャールの一族の女性だという事だった。
侍女長はサリューシアという二十二歳の女性だった。黒髪で目は茶色。肌はやや浅黒く背は女性にしては非常に高い。
表情豊かな美人であり、気立もよく、テキパキと動く姿にはアビシウスも好感を抱いたものである。
そのサリューシアはミリエールに非常に頼られており、ほとんど姉がわりと言ってもよかった。しかしながらその彼女を持ってしても、ミリエールをコントロールする事は至難の技だったのだ。
サリューシアはアビシウスに面会を求め、疲れ果てた表情で言った。
「王妃様は自由を求めていらっしゃいます。具体的には馬に乗らせろと」
ミリエールは王宮に巨大な部屋を与えられていた。大きな庭園も付属する過去に何人もの王妃が住んだ部屋で、ミリエールが来る事が決まってから急いで改装したのでピカピカである。
そこでミリエールは当面、王宮でのお披露目に向けて王国風の礼儀作法の教育を受けていた。帝国の作法と王国の作法には若干の違いがあるからである。
言語に関しては多少の訛りの差はあるが共通である。これは過去の大帝国が両国の領域を統一して領有していたという事が影響していた。ただ、サリューシアなどの出身地である遊牧民族の言葉は違うので、帝都に出てきた時に勉強したらしい。
アビシウスは渋面になってしまう。
「もうしばらく我慢せよと言え。今は色々根回ししている最中なのだ」
他国人、しかも元敵国人であるミリエールを王妃に迎える事に反感を抱いている貴族は多かった。アビシウスとしてはそういう貴族達を懐柔して軟化させてから、ミリエールをお披露目して受け入れさせるつもりであったのだ。
アビシウスは戦勝の英雄であるため若いとはいえ権威は高く、臣下には信服されている方ではあるが、それでも絶対的な権力を持っているとまでは言えなかった。
困った事に帝国から王妃を迎える事に、特に強く反対していたのは、アビシウスの母であり現王太后のリュシアだったのである。
リュシアは夫が死んだのは帝国のせいだと強く恨んでおり「帝国を滅ぼすまで戦いなさい!」と帝国との和平にさえ反対していたのだ。
リュシアと同様に、夫や息子を帝国との戦いで失った貴族夫人達は多く、そういう者達は帝国の事を非常に強く恨んでいるのである。
これから王妃として彼女達の上に立たなければならないミリエールには非常な困難が予想された。アビシスとしては「夫」としてミリエールを支えなければならない。そのためには色々慎重にならざるを得なかったのだ。ミリエールに部屋から出ないように命じているのもそのためである。
「庭園に出るくらいでなんとか気分転換出来ぬのか?」
「無理です王様。ミリエール様は帝都でも半日は馬で帝都を散歩していたような方ですよ? その程度で満足できる訳がありません」
サリューシャは首を横に振りつつ言った。それはいくらなんでも自由にさせ過ぎだろう、とアビシウスは呆れた。彼だって王子なのだから子供の頃は、ミリエールと同じ年頃には厳しい各種教育を受けたものだ。それほど遊ぶ暇はなかったと思う。
「とにかく却下だ。もう少し我慢せよと言え」
「駄目です王様。これ以上ミリエール様を我慢させると大変な事になりますよ」
サリューシアが不吉な事を不吉な口調で言った。さすがにアビシウスがたじろぐ。
「ど、どうなるというのだ?」
「脱走です」
サリューシアは潔いほどきっぱりと告げた。
サリューシアが言うにはミリエールは帝都でも教育に飽きると頻繁に脱走していたのだという。自由にさせていたのではなく、ミリエールが勝手に自由にしていたのだった。
その脱走の手際は見事なもので、帝宮の三階から飛び降りて逃げ出すなど序の口。天井裏に逃げ込む、侍女に化ける、煙幕を張る、池の中に身を潜めるなど毎回多彩な手口を繰り出しては、侍女や護衛騎士の手を掻い潜って巧みに逃げ出してしまったのだという。
そうやって逃げ出すと帝都の中を逃げ回って数日捕まらない事さえあり、困り果てた教育係の大臣がとうとう匙を投げてしまい、半日だけ教育して後は自由時間という取り決めにしたのだそうだ。
ミリエールに一人で逃げ出されて、彼女が何かに巻き込まれて怪我でもされたら教育係も侍女のサリューシアも首が飛んでしまう。それよりは侍女と護衛をちゃんと付けさせて、その上で自由行動させた方がマシだという判断だろう。
サリューシア曰く、そこまで奔放なミリエールが王宮に入って三ヶ月も我慢しているのは奇跡的な事であり、それは彼女なりに王妃の自覚を持って耐えているからだという事だった。
しかしそれにも限界があるという事だろう。サリューシアは真剣な顔で訴える。
「王様。とりあえず乗馬だけでもなんとかなりませんか? ミリエール様は幼少時から馬に乗って育っていますので、何日も馬に乗れないのが一番お辛いようなのです。とりあえす乗馬だけでも出来れば他の事はなんとか我慢させますから」
そこがギリギリの妥協点だという事だろう。サリューシアなりにアビシウスの事情も忖度してくれての提案である。
アビシウスとしても「王妃」に脱走されては困る。王妃の権威にも関わるし、それ以上に王宮の他の場所や王都には物理的な危険が一杯だ。ミリエールが貴族や王都の住民に害されるような事があったら帝国に顔向け出来ない事態になる。
仕方がない。アビシウスは渋々言った。
「分かった。王宮の馬場での乗馬を認めよう」
王宮には付属の馬場がある。アビシウスも三日に一度は訪れて、馬術の腕を磨くのに使っている場所だ。そこを貸切にしてミリエールに使わせる許可を出した。
貸切にしたのは万が一にでも皇族や貴族と鉢合わせさせないためである。
「ありがとうございます!」
サリューシアはいかにもホッとしたという様子で頭を下げた。考えてみれば彼女も元々遊牧民族なのだから、自分も乗馬をしたかったのかもしれない。
……翌日、アビシウスは自分も王宮の馬場に出向いた。ミリエールの事が気になったからではあるが、一応彼なりに年若い婚約者とのスキンシップを試みたからでもある。
しかし、彼が側近と共に出向くと、馬場は既に大騒ぎになっていた。馬場の牧童や王宮の従僕たちが右往左往している。
「な、何事なのだ……」
アビシウスは嫌な予感しかしなかった。見回すと、呆然と佇んでいる長身の女性がいた。サリューシアだ。アビシウスは彼女のところに駆け寄ると、肩を掴んで怒鳴った。
「おい! 何があったのだ!」
呆然としていたサリューシアはビクッと我に返ると、アビシウスの事をまだ漠然とした視線で見た。
「お。王様……」
「そうだ! 何があった! ミリエールはどこだ!」
サリューシアはなんとも頼りない顔で、自嘲するように微笑むと、言った。
「に、逃げられてしまいました……」
さすがのアビシウスもあまりの事態に、一瞬目の前が暗くなった程である。