第十六話 ミリエール、大盤振る舞いする
西のアスコム王国を退けた後、ミリエールは南に向かった。ヤルク王国に対応するためである。
ヤルク王国とキュロッシア王国の間には肥沃な土地が広がっていて、兵糧の現地調達は比較的容易である。ミリエールは事前に布告を出し、ヤルク王国に要求された場合、素直に食料を差し出すようにと命じておいた。どうせ奪われるなら逆らって民に余計な被害を出す事は無い。
ヤルク王国としても戦争に勝てば手に入る土地なのであるから、無用な被害を出したくはないし、反ヤルク王国感情を植え付けたくも無い。住民が逆らう事がないのであれば普通に食料を買い取って進むだけである。
ミリエールはヤルク王国の陣営に使者を出した。交渉の為である。ミリエールの出した使者はヤルク王国の将軍、オネスト伯爵に向けてこう言った、
「キュロッシア王国王妃、ミリエール様は、王都を明け渡しても良いというご意向です」
オネスト伯爵は驚いた。この時、彼はミリエールの事などよく知らず、彼女が「降伏」などという言葉とは最も縁のない性格をしている事など知らない。
臆病な領主夫人が留守を任されている時に城攻めに遭い、恐慌を起こして降伏してしまう事はたまにある事である。オネスト伯爵はミリエールの申し出をそういう事かと誤解した。もちろん、ミリエールはそういう誤解を誘ったのである。
「ですが、貴軍を受け入れるのに準備が必要でございまして、少しお待ち頂きたいとのご意向です」
オネスト伯爵はそれを聞いて、ミリエールの狙いが時間稼ぎであると看破する。おそらく、アビシウス王がサザラーム王国とアスコム王国を(彼はアスコム王国が既に撤退した事を知らない)退けて反転してくる時間を稼ぐつもりなのだろう。
しかしオネスト伯爵が拒否の言葉を発する前にキュロッシア王国の使者はこう言った。
「なに、それほどお待たせしようとは思っておりませぬ。ほんの三日、お待ちくださいませ」
三日であれば確かに、キュロッシア王国軍が北の国境から帰ってくるには短いだろう。
「もちろん、おもてなしは致しますとも。充分な糧食はもちろん、肉も酒も提供いたしますぞ」
オネスト伯爵は心を動かされた。既にヤルク王国の王都を出て二十日が過ぎている。その間、上位貴族たるオネスト伯爵が粗末な寝所や質素な食事に耐えていたのだ。酒や肉など論外であった。
キュロッシア王国の使者はさらに、宿営地として近くの村を明け渡すことも提案し、馬の世話を村人がするとまで言った。
元々オネスト伯爵はこの戦争にそれほど乗り気ではない。彼は国王に命じられて侵攻軍二千を率いて来たに過ぎないのだ。国王に命じられて渋々来たに過ぎない。来たからには大功を立てて帰る気ではいたが、それほど戦意に満ち溢れているとは言えなかった。
ふむ、三日ぐらいなら休養しても問題はあるまい。我が軍が停止しても他の二軍が進軍する事だろうし。それに、ヤルク王国としては戦後はこの国境一帯の割譲を求めるつもりでもある。産物を調べておいても良いのではないか?
オネスト伯爵はそう考え、進軍停止に同意した。そしてキュロッシア王国の勧めにしたがって街道横の村へと入った。
すると即座に大量のパン、酒、羊や山羊が持ち込まれた。そしてなぜか妙齢の美人が多い村人たちがどんどん兵士たちに酒や肉を配り始めたのである。
兵士たちはもちろん大喜びだ。何日も簡易な食事しか摂っていなかったところにこの大盤振る舞いなのである。元々農民の兵士はもとより、騎士だってそれほど日常的に潤沢に酒や肉にありつけるものでない。
途端に大宴会が始まってしまった。キュロッシア王国側からは驚くほど多彩なご馳走までが振る舞われ、女性たちは踊り、歌い、兵士たちはあっという間に自分たちが何のためにここに来たのかを忘れ去ってしまった。
こうなるとオネスト伯爵の制御など効くはずもない。休養は三日の筈がズルズルと伸び、ヤルク王国軍は結局八日に渡って停滞を続けた。……ミリエールの狙い通りに。
ミリエールは自分がアスコム王国軍との交渉に向かう前に、ヤルク王国軍との交渉を命じていたのである。同時に、大量の酒やパンを買い付け、放牧地からは山羊や羊を送り出した。
ついでに王都の娼婦たちに話をして協力を要請した。彼女たちは快諾し、たくましい娼婦たちはここぞ稼ぎ時とばかりに大挙してヤルク王国の宿営地に向かったのである。
……八日も経てば、自分も酒と肉と女を存分に楽しんでしまったオネスト伯爵も「これはまずい」と気が付く。彼も国王から軍の指揮を任されるくらいなので無能ではない。
彼は慌てて軍の引き締めを図ったのだが、既にヤルク王国軍の軍律は崩壊していた。二千の兵の内二百程が逃散して消滅していた程である。
これは世話役をした村人からキュロッシア王国の事を聞いた兵士が「それならここに移住しよう」と逃げてしまったのである。兵士に出てくるような農民は概ね次男三男が多く、家を継げない者ばかりだ。
それが「キュロッシア王国に来れば土地がもらえる」などと吹き込まれれば、逃亡を決意してもおかしくない。手引きする者がいれば尚更だ。
更に村人が世話した軍馬は丸々と肥えてしまっていた。もちろん、際限なくどんどん干し草を与えてしかも運動をさせなかったからである。馬は満足し切って完全にやる気を失っていた。
オネスト伯爵は怒り狂い、貴族兵士を問わず叩き起こし、惰眠を貪る男たちを軍隊に戻すべく奮闘した。
そして二日を掛けてなんとか軍の体裁を取り戻し、渋る兵士たちを叱咤激励して宿営地を出たのであるが……。
その時はもう、遅かったのである。
◇◇◇
ミリエールは最初からアスコム、ヤルク王国軍には戦意がないと見ていた。
三王国の同盟はサザラーム主導で行われたもので、キュロッシア王国の急激な伸長を止めたいという思惑こそ一致しているものの、戦争に踏み切る事までは想定していなかっただろう。
ただ、実際に戦争をするなら、もはや三王国で同時に侵攻するしか三王国同盟側には勝つ方法がない。それで単独でも戦うというサザラーム王国の要請を断りきれなかったのだと思われた。
アスコム、ヤルク王国の思惑としては、北へ向かったキュロッシア王国軍の後背を扼す事でその動揺を誘い、それでサザラーム王国が勝てばよし。サザラーム王国が負けてもキュロッシア王国軍が傷付いているならその後ろを襲う。キュロッシア王国軍が元気であれば戦わずに撤退する。
それくらい消極的な姿勢で侵攻して来たのだと思われた。ミリエールはその消極性を助長する策を取ったのである。
つまり、侵攻がそもそも困難であったアスコム王国には侵攻より大きな利益をちらつかせる事で撤退を促し、漁夫の利を狙う関係上、急いで侵攻してもあまり意味がないヤルク王国軍には停滞自体に利益を与える。
その結果、アスコム王国軍はすぐさま撤退し、ヤルク王国軍はミリエールの用意した甘い罠に落ちたのである。
ただ、オネスト伯爵はまだ間に合うと踏んでいた。
彼の狙いはキュロッシア王国軍がサザラーム王国軍と対峙しているタイミングでキュロッシア王都を囲む事だった。
そうすれば名将であるアビシウス王でも対処に困るだろう。その隙にサザラーム王国が勝てばよし、少なくとも大きな損害を与えるだろう。そうすればキュロッシア王国は降伏せざるを得まい。
そうすればヤルク王国は戦わずして大きな利益を得る事が出来る。
サザラーム王国とキュロッシア王国の戦いはオネスト伯爵の予測では既に始まってはいるだろうが、まだまだ膠着している筈で、国境と王都までの往復が十数日掛かる事を考えれば、キュロッシア王国が軍を返すまでにはまだ時間がある、と思われた。
オネスト伯爵の考えは間違ってはいない。確かにこの時点でアビシウスとサザラーム王国軍の戦いは膠着していた。ヤルク王国が王都を囲んでも、アビシウスはすぐには軍を返せなかっただろう。
だが、ミリエールは夫の軍など当てにしてはいなかったのである。
ヤルク王国の進軍は捗々しくなかった。軍の規律は乱れに乱れていたし、馬は疲れてすぐ休むようになってしまっていたし、更にキュロッシア王国からは続け様に接待攻勢が続いていたからである。
もちろんこの接待攻勢の狙いが足止めにあると看破していたオネスト伯爵は受け入れないように命じていたのだが、そもそも戦時の補給は現地調達である。食料を持っていないのだから買わねばならず、それをタダでくれるというのでは貰わない手はない。
オネスト伯爵の命令は無視され、ヤルク王国軍は酒と肉と女に溺れる集団のまま一応はジリジリとキュロッシア王都に向けて前進した。
しかして、ヤルク王国軍がどうにかこうにか王都まで後一日にまで迫った時の事であった。ちょうどキュロッシア王国の王立牧場がある辺りである。
オネスト伯爵は野営を命じ、警戒を指示した。が、緩み切っているヤルク王国軍は牧場に野営をすると残っていた酒を呑んでイビキをかいて寝てしまった。
そして翌朝、突然の鬨の声で飛び起きる羽目になる。寝ぼけ眼で天幕を飛び出したヤルク王国軍が見たのは、自陣営をすっかり囲んでいる騎兵の群れだったのだ。
オネスト伯爵は愕然とする。なぜだ! キュロッシア王国軍はまだ北にいる筈。サザラーム王国と戦うために全軍を送り出したキュロッシア王国にこれほどの軍勢が残っている筈がない。ま、まさかもうサザラーム王国軍が敗れたというのか?
オネスト伯爵がそう考えたのも無理はない。王国が用意出来る軍勢は貴族の数と国の人口で大体決まってしまうので、他国から予測するのも容易なのである。予想も出来ない大軍勢などいる筈がないのだ。
もちろん、この時ヤルク王国を囲っていたのはアビシウスが率いるキュロッシア王国本軍ではない。ミリエールの私軍。つまり、彼女が帝国に要請していた援軍であった。
彼女が要請を出してから一ヶ月も経っていない。それほど迅速に援軍が到着したのには理由がある。
ミリエールの出した使者は大いに急いで帝都に向かったのだが、その途中で、遊牧民の集団と出会ったのである。
それはかつて、キュロッシア王国内部で帝国軍からはぐれ、見捨てられ、野盗に身をやつしていた者たちだった。彼らは帝国帰還後、南の国境の防備を任され、比較的王国に近いところで遊牧生活をおくる事を認められていたのだった。
彼らは帝国へ帰らせてくれた恩のあるキュロッシア王国、いや、ミリエールの窮地を知って奮い立った。今こそ恩を返すべき時であると。
そして彼らは帝国に命じられる前に、馬を駆ってキュロッシア王国に向かったのだった。彼らは同時に同じようにミリエールに恩がある者たちを糾合したので、その数は五百騎にもなった。
ミリエールは思ったよりも早く到着した援軍に喜んだ。彼女の計画では王都を囲んだヤルク王国軍をのらりくらりと躱している内に帝国軍が後ろから攻撃する形を想定していたのである。しかしこれでは王都に被害が出るだろう。その前に決着が付けられるならそれに越した事はない。
それで、ミリエールは遊牧騎兵を率いてヤルク王国を囲んだのである。
もちろん、二千の軍を囲むのに数百騎では足りなかったため、帝都で人を集めた他、王立牧場の牧童や西の荒地の遊牧民も集めた。いわばハリボテの軍隊であったが、遠目にはそんな事は分かるまい。
ヤルク王国軍は恐れ慄いた。そもそも緩み切った軍勢である。戦意などどこにもない。彼らはまだ呼び掛けられもしないうちに武器を捨て跪いて命乞いを始めた。
これでは将軍であるオネスト伯爵にもどうしようもない。呆然とする彼の前に、キュロッシア王国軍の騎兵集団(見慣れない異民族風の衣装を着ていたが)の一団がやってくる。
その中の青地に金色の龍の刺繍が印象的な服を着た女性が見事な葦毛馬に乗って進み出て来た。長い黒髪をお下げに結って、虹色の瞳が爛々と輝いている。
「キュロッシア王国王妃! ミリエールである!」
彼女は堂々と叫んだ。オネスト伯爵は息を呑む。若い、まだ少女だと言えるその女性の、圧倒的な威厳と迫力にオネスト伯爵は息を詰まらされたのである。
「降伏なさい。悪いようにはしないからね。散々接待をしてあげたでしょう?」
その言葉を聞いてオネスト伯爵は、あの偽りの降伏からここまでの何もかもが全てこの少女の策略、手の平の上の出来事だった事を悟ったのだった。
……とても敵わぬ。
オネスト伯爵はミリエールの虹色の瞳に心を折られた。彼は両膝を突き、兜を脱ぎ、剣を抜くと、刃を持って柄をミリエールに向けて捧げた。
「降伏いたします。美しき王妃よ。どうか寛大なご処置を」
ミリエールはオネスト伯爵の差し出した剣を馬上から握り、それを天に掲げると言った。
「ええ。よろしくてよ。勝利は我にあり! キュロッシア王国に栄光あれ!」
ミリエールの勝利宣言に、彼女の周りの遊牧騎兵たちは歓呼を持って応えたのだった。