第十五話 ミリエール交渉する
結局、アビシウスはミリエールの言う通りに北へ軍を向けた。
確かに彼の妻が言う通り、最も手強い敵を先に叩くべきだろうと考えたのである。アビシウスの性格にも合う考えだった。やはりミリエールはアビシウスの性格や考え方をよく理解している。
もっともアビシウスには、キュロッシア王国がやってくればサザラーム王国軍がどうするかなど見え透いていた。
時間稼ぎである。キュロッシア王国軍の攻撃をダラダラと受け流し、後退して時間稼ぎに終始するだろう。
その隙に同盟している二王国軍が王都を襲うか、キュロッシア王国軍の後背を脅かすか、いずれかを狙うことだろう。
アビシウスはそれを承知で北への進撃を決意したのだった。敵が戦わぬなら進撃してサザラーム王国内まで踏み込んでやるまでよ。
そしてアビシウスはミリエールの「まかせろ」という言葉を信じてもいた。ミリエールはアビシウスが信じる、信頼するに足る実績を既に有していたからだ。
あの娘ならアスコム、ヤルク王国の侵攻ぐらいどうにかしてみせるであろう。彼は信じて、王都の護りは全てミリエールに丸投げして北征したのである。
ミリエールの方もアビシウスが自分を信じてくれる事を疑いもしていなかった。
アビシウスはそういう男だ。器量が大きく、配下の者を信じて任せ、そして全ての責任は自分で負う。そんな彼だから、配下の者達は彼を慕い、その能力を十全に発揮出来るのだ。
ミリエールはそんな偉大な王が自分の夫である事が誇らしかった。彼女は全力で夫をサポートすると決意する。
◇◇◇
まず、ミリエールは帝国に急使を送った。これには牧童に使っていた王立牧場の元遊牧民に名馬を三頭与えて走らせた。遊牧民は馬の上でも寝ることが出来るから、馬を乗り換えながらなら帝都まで十日と掛からず着くだろう。
要請したのは援軍である。特に、遊牧民主体の軽騎兵を要請した。今回の場合、速力が最大の武器になるからだ。
ただ、ミリエールはこの援軍はどんなに急いでも到着までに一ヶ月は掛かると踏んでいた。帝都は遠いし遊牧民の土地は更に遠いからだ。
一方、国境を越えたアスコム、ヤルク王国が王都にやってくるまでには早ければ十日。ゆっくりでも二十日で来てしまうに違いない。
王都には簡易な木の柵の護りしかない新市街がある。攻撃を受けたらひとたまりもない。時間稼ぎの必要がある。
ミリエールはセビリスに飛び乗るとまずは西へと向かった。
キュロッシア王国の西にあるアスコム王国は国土は広いのだが、半分以上が高い山地である上に、キュロッシア王国と国境を接する一帯は水が不足した台地で農耕に向かないという、農業生産性が低い国であった。
当然、国力も低く戦力も少ない。キュロッシア王国と単独で事を構える事が出来るような国ではない。しかし、元々北のサザラーム王国との繋がりが強く、サザラーム王国の要請を断りきれなかった事が侵攻の要因となっていると思われる。
つまり、やる気はあんまりない。ミリエールはそう見たのである。
ミリエールは殊更に遊牧民風の服装をしていた。青地に金の刺繍。下はズボンである。ちなみに嫁入り時に持って来た服はもう小さくなって着られないので、今着ているこれは王国の職人に真似て作らせたものである。
同行するサリューシアや騎士にも同じ格好をさせた。そして遊牧民出身の放牧民も引き連れ総勢百名程でミリエールはアスコム王国軍の元を訪れたのである。
アスコム王国軍は国境を越えるか越えないかのところに野営をしていた。両国の国境地帯は不毛の地だ。キュロッシア王国はそこを放牧場にしていたが、人家などはない。
人家がないということは軍隊に補給が行えないということである。
戦時、軍隊は基本的には進撃した先の町や村で食料を購う。いわゆる現地調達が基本になっている。理由は、糧食の輸送には途方もない人員と労力が必要だからだ。
輸送に人員を費やすと、戦える人員が減ってしまう。なので軍隊は最初の数日を賄える食料を背負って出撃し、その先は現地調達しながら進撃するものなのだ。
ところが、アスコム王国とキュロッシア王国の国境地帯は広い不毛地帯だった。これを横断するには歩みの遅い軍隊なら四日は掛かる。
その間人家が無いとなると、軍隊は食料等の補給が受けられないという事になる。不毛の荒野なので水も得られない(キュロッシア王国では放牧民用に荒野のあちこちに井戸を掘ってある)。
それでアスコム王国軍は立ち往生しているのであった。もちろん単に止まっているのではなく、野営陣地に自国領から食糧や水を運ばせ蓄積して、ここからの進撃の橋頭堡にするつもりなのだろう。
ただ、今更そんな事をしている事から考えて、アスコム王国は今回の侵攻に対して全く本気ではない事が分かる。その気があったなら戦争に挑む前に兵糧の蓄積基地くらい造っておくべきだろう。
このやる気のなさ度合いなら交渉の余地はありそうね。ミリエールはニンマリした。
ミリエールはアスコム王国軍に使者を送り王妃として交渉を持ち掛けた。アスコム王国軍は王妃の名に驚き、なかなか信用しなかったが、ミリエールの送った印章入りの書状を見てようやく信じて交渉に同意した。
交渉は荒野にて、双方騎乗のまま行われた。キュロッシア王国側はミリエールとサリューシア他十名。アスコム王国側は合計十三名で、代表は皇太子ジンベルだった。
三十二歳のアスコム王国皇太子ジンベルは、顎髭を生やした堂々とした体格の男だった。彼は王妃であるという葦毛の立派な馬に乗った少女を見て驚いた。
その黒髪に不思議な翠色の瞳の少女はあまりにも歳が若かったからだ。成人しているかどうか怪しいと思えた。しかしその顔立ちは美しく、表情は不敵である。
「アスコム王国、ジンベル皇太子殿下に告げる!」
ミリエールは挨拶もなしに高らかにそう叫んで、ジンベルを更に驚かせた。
「ここまでの事は水に流して忘れる故、早々に引き上げるが宜かろう。さもなくば貴国にとって取り返しのつかない過ちになろうぞ!」
澄んだ声でそう言い放ったミリエールに、不思議とジンベルは怒る気にはならなかった。
ジンベル自身もこの戦いに全く乗り気ではなかったというのがある。この侵攻は完全にサザラーム王国の都合で行われており、父王も彼も本心ではキュロッシア王国に侵攻などしたくはなかったのだ。
ただ、帝国を破って近年急成長しているキュロッシア王国が脅威であるのは確かであった。
サザラーム王国がキュロッシア王国の勢いを弱めてくれるのならそれに越した事はない。その援護をするくらいなら、という事でアスコム王国は兵を出したのである。
ただ、実際に出撃してみれば、キュロッシア王国との国境地帯は想像以上に荒地で、食糧補給どころか水にも事かく有様で、ジンベルはすぐさま出征を後悔した。
もしも戦争に勝っても、講和条件としてこの不毛の大地を押し付けられるような事になったら目も当てられぬ。これは判断を誤ったかと内心思っていたのであった。
ミリエールの叫びはジンベルの後悔を見透かしているような気がしたのである。そんな筈はないのだが、ジンベルにしてみれば「キュロッシア王国がここまでの侵攻を咎めないのであれば、黙って兵を引いてもいい」という気分だったのだ。
しかし、国家にとって出兵というのはそう簡単に行えるものではない。出兵にあたっては王国の貴族達に出兵の要請をして調整をし、兵を徴募し馬を集めて武具を整えている。多額の予算も掛かっているのだ。
それをキュロッシア王国に撤兵しろと言われて「はいそうですか」と引き上げるわけにはいかない。引き上げた方が国益に叶うとしてもだ。そんな事をすれば兵を率いたジンベルが貴族や兵からの信望を失いかねない。
なのでジンベルは皮肉な笑いを浮かべながらミリエールにこう言わざるを得ない。
「おう、キュロッシア王国がそう言うなら兵を引いてやってもいいが、駄賃は貰わぬとな。キュロッシア王国は我が王国に何をくれるというのだ?」
侵攻しておいて駄賃をよこせとは厚顔にも程がある要求だが、ジンベルとしては侵攻の見返りを十分に得なければ撤兵できないのである。
もちろんジンベルはミリエールが怒り出すと想像していた。そうすれば交渉は決裂。ジンベルは気乗りのしない侵攻作戦を継続しなければならない。拠点への食糧集積は進んでいるので、数日中には侵攻が再開できるだろう。
ところが、ミリエールは大きく頷くとこう言ったのである。
「もっともね! 見返りをあげようじゃないの! アスコム王国が撤兵するなら、この荒野をあげるわ!」
とんでもない事を言い出した。
確かにこの荒野は国境地帯であり、キュロッシア王国がアスコム王国に領地を割譲するとなればこの荒野がそれに充てられるのは道理である。
しかし、こんな荒野を押し付けられてもアスコム王国にとっては迷惑なだけだ。
ちなみにジンベルはキュロッシア王国がこの荒野で馬や羊の放牧を行なっている事を知らない。アスコム王国には荒野で遊牧をするという概念がないからだ。キュロッシア王国が荒野で何かやっている報告は受けていたが、それは軍事訓練ではないかと思っている。
ジンベルは渋面で怒鳴り返す。
「ふざけないでいただこう! このような荒野をもらっても一文にもならぬ。我が国側の荒野だけでも持て余しておるのに!」
するとミリエールは我が意を得たというようにニンマリ笑った。
「ならばその持て余している荒野を我が王国で引き取ってあげましょう! それならいかが?」
は? ジンベルは目と口を大きく開いて呆然とした。一瞬、ミリエールが何を言い出したのかが分からない。そんな彼を見ながらミリエールはこう続ける。
「我が国はこの荒野で馬や羊を養う方法を確立しました。この荒野は今や我が国にとって宝の山です。ですから、貴国から荒野をもらって放牧地を増やせるなら万々歳なのです!」
ミリエールは懇切丁寧にキュロッシア王国がこの荒野でどのように家畜を放牧し、管理しているのかをジンベルに教えてやった。
ジンベルは帝国の遊牧民族とは全く没交渉のアスコム王国の皇太子である。そもそも放牧がなんであるか、どのような利益をもたらしてくれるのかも知らなかった。
ミリエールはそれを親切にも、やや誇大に遊牧から得られる利益を力説した。馬は増え強くなり、羊やヤギは育って羊毛や乳製品が生産される。不毛の荒野で行う事ができ、管理も簡単手間要らず。いい事しかないと。
「ですから、貴国からこの荒野の続きを頂ければ、我が国には大きな利益がもたらされるのです!」
ミリエールの言葉にジンベルは感心したが、同時に不思議に思った。
キュロッシア王国にとっての荒野の価値は分かったが、そんな事を教えられては、この荒野を「はいそうですか」と引き渡すわけにはいかなくなってしまったではないか。
キュロッシア王国のこれ以上の強大化は望ましくない。荒野を割譲することで、キュロッシア王国の馬が増えて軍事力が拡大するのなら、アスコム王国としてはたとえ自らには不要な土地なのだとしても、キュロッシア王国に渡すわけにはいかないのだ。
「そんないい事を聞いたら、みすみす貴国にこの荒野を渡す訳にはいかんな。逆に我が国がこの荒野を全て頂いてその富を得る事にしよう」
ジンベルの言葉をミリエールは嘲笑った。
「無理よ」
「な、なに?」
「あなたのお国には遊牧民がいるの? いないでしょう? なら荒野で馬や羊を養う方法を知らないじゃないの。だからこれまでこの土地を放置してきたのでしょう」
その通りである。どんな産業にもノウハウというものがある。土地があって人を連れてくれば出来るというものではない。
アスコム王国には遊牧のノウハウがなかった。これでは荒野全域を手に入れても役立たせる事は出来ない。このまま荒野にしておく事しか出来ない。無駄である。
うむむ、っと沈黙するジンベルを見て、ミリエールは面白そうに笑うと、こう持ち掛けた。
「ねぇ、じゃあこういうのはどう? キュロッシア王国から貴国に、遊牧指導のために人を派遣するわ。それで貴方のお国でも遊牧を始めなさい」
ジンベルは目を剥いた。な、なんだと? それは意外な提案であった。しかし、考えれてみればけして悪い提案ではない。
要するに遊牧という産業のノウハウの提供の提案だ。技術指導によってアスコム王国の民が遊牧の技術を覚えれば、アスコム王国でも荒野で家畜の放牧が行えるようになる。
アスコム王国には山地が多く、不毛の地が多くある。もしかしたらそういう土地にもその遊牧の技術が活かせるかもしれない。
そう考えるとこのミリエールの提案は極めて重大なものだと思えた。ジンベルは思わず生唾を呑み込んだ。
「ほ、本当か? 本当に遊牧の技術を我が国に教えるというのか?」
ミリエールは虹色の瞳を妖しく光らせる。
「ええ、本当ですよ。もちろん、アスコム王国が撤兵してくれるなら、ですけどね」
……ジンベルはミリエールの提案を持ち帰り、王都に急使を出して父王とも協議した上で、ミリエールの提案を受け入れた。
どう考えてもサザラーム王国との同盟を堅持するよりもミリエールの提案の方が利益が大きかったからだ。それに、この技術交流によってアスコム王国はキュロッシア王国との関係の改善が期待出来る。
つまりアスコム王国はキュロッシア王国包囲網から事実上離脱する事になったのである。
アスコム王国に遊牧民の技術を伝える事でその侵攻を押し留められるなら、ミリエールとしては収支は充分に黒字だと言えた。
そしてジンベルには言わなかった事であるが、ミリエールは遊牧技術を教える名目で両国の国境の通行を自由にしてもらい、いずれは荒野全体を彼女子飼いの遊牧民族で支配してしまう気でいたのだった。
こうして、ミリエールは戦いをする事なくアスコム王国を撤兵させる事に成功したのだった。