第十三話 アビシウス、観念する。
アビシウスは困っていた。
彼の治世は順風満帆だった。父王が崩御し、急ぎ戦場で戴冠しなければいけなかったという、波乱の幕開けを考えれば夢のようだ。
強大な帝国を撃退し、多額の賠償金を分捕り、さらにその皇女を娶る事で帝国と同盟して国境を安定させた。この数百年悩まされ続けてきた帝国の脅威を取り除いたというだけでも、彼の偉大な功績だと言える。
更にアビシウスは帝都に新市街を建設して王都の人手不足を解消し、王都の経済を活性化させた。
王国内部の盗賊を一掃して交易商人の通行の安全を保障し、東西南北の交易をかつてない程活発化させた。
不毛の地を放牧という形で利用することにより、軍馬を多数育成し、王国の軍事力は増大した。
これらの施策の結果王家の経済力軍事力は王国で冠絶したものとなり、貴族たちは王家から支援を受ける代わりに領地の自治権を差し出して、王家の完全な臣下となりつつあった。王国は中央集権国家へと移行し始めたのである。
今やアビシウスは「キュロッシア王国始まって以来の偉大な王」と呼ばれるようになっており、その名声は大陸中に鳴り響いていた。
王国内部の貴族から絶対の忠誠を誓われ、更に王都やそれ以外の民衆からも絶大な支持を得ていた。
彼の統治によって王国はまさに最盛期を迎えようとしていたのである。アビシウスが讃えられるのは当然だった。
アビシウスにも王国を復興させた喜びと自負はある。幾多の問題はありながらも、これからも王国を発展させていこうという展望も決意もある。なので、アビシウスは王国の現状と将来について、懸念はあれど困ってはいなかった。
アビシウスが困っていたのはミリエールの事だった。正確にはミリエールが十五歳、つまり成人になってしまう事だった。
十五歳になれば大人である。大人であれば結婚が出来る。結婚が出来れば子供が産める。
王家の夫婦にとって子作りは義務だ。一人でも多くの子を王と王妃の間で成すのは王と王妃の最も重要な仕事であると言っても良い。
そしてミリエールは子供を産む気満々であった。
アビシウスはこれに困っていた。正直、彼も二十八歳であるので、いい加減王として王子を得なければいけない歳である事は分かっていた。
母がうるさく「愛妾を娶れ」というのを黙殺してきたのだから、ミリエールが大人になった以上、彼女に子を産ませるしかない事は分かっていたのだ。
しかし、彼に言わせれば、ミリエールとは彼女が十二歳、まだ小さく手足も細く、体付きも仔馬みたいだった時からの付き合いなのだ。とても女として見る事は出来ない、ということになる。
ミリエールはこの三年で背はアビシウスに釣り合うくらいに成長し、体付きはかなり大人っぽくなり、相貌は妖しいくらいに美しくなっていた。貴族たちが皆「間違いなく王国一の美女」と称える程だ。
しかし、性格は相変わらずお転婆で、何かというとすぐ王宮を、王都を飛び出して行ってしまう。半月くらい帰ってこないのもしょっちゅうだった。
そして帰ってきてはアビシウスに無理難題を押し付けるのだ。無理難題と言っても王国にとって重要な問題である事が多く、ミリエールも色々なアイデアを出してくれるので、有用な無理難題ではあるのだが。
そんなだから、アビシウスにとってミリエールは「何をしでかすか分からないじゃじゃ馬娘」という印象のままなのであった。そもそも彼は女性の色気に惑うタイプでもない。
しかしながらミリエールの成人の儀はもう二ヶ月後に迫っていた。待ったなしである。
このままだと二ヶ月後にはアビシウスは、成人の儀を終えたミリエールとそのまま寝所で同衾しなければならない。同衾するだけでなく子作りをしなければならない。
そんなわけでアビシウスは戸惑っていたのだが、ミリエールの方は全然そんな事はなかった。
そもそもミリエールは嫁いで来た十二歳の時から「自分はもう立派な女で子供も産める」と考えていたし、アビシウスの事も愛して信頼して尊敬もしていたから、子作りに異論があろうはずがなかったのだ。
もっとも、多少の経験はあるアビシウスに対してミリエールの方は完全無欠な処女であったので、そういう行為に対する怯みは多少あるのは間違いなかった。
が、ミリエールは怖れより好奇心が上回るタイプの少女である。そんな彼女だから成人の儀を終えてアビシウスと結ばれる事は楽しみ以外の何物でもなかった。
ミリエールはやる気満々なのだから王であり男であるアビシウスが逃げられる筈もない。以前に公妾など娶らないと断言してしまったのだから、子を得たければミリエールに産ませるしかないのである。
それは分かっていても、子供でしかないと思っていたミリエールと子作りをするのには非常に抵抗があるアビシウスなのだった。これは彼の個人的な男女観に基づく抵抗感なのでなかなか覆し難い。
困るアビシウスに対して、王国貴族も王国の民衆も、アビシウスとミリエールが真に結ばれる事は大歓迎だった。
単純に偉大なる王に子が出来るのは歓迎される事である。しかし何よりも王国の民は上から下までミリエールの事が大好きで慕っていたからだった。
ミリエールが王国中を文字通り駆け回って、王国の改善に努めたのは王国中の者たちが身分を問わずに知ってる事だ。
ミリエールは身分や貧富の分け隔てなく声を掛け、要望を聞き、気分で動いて様々な問題を解決に導いていた。そんな王妃はもちろんこれまでどこにもおらず、これに身分低いものが感激しなければ嘘であろう。
同時に彼女は生まれながらの皇女であり、身分高い者が持つ威厳をしっかりと持っていた。その彼女がもう三年も王妃として女性社交の場を仕切っていたのである。貴族夫人たちはすっかりミリエールに信服するようになっていた。
つまりミリエールはもう王国では完全に王妃として認められ、それどころか得難い王妃。英雄王に相応しい王妃として認められていたのである。
偉大なる王と素晴らしい王妃。理想的な国王夫妻に足りないのは既に愛らしく秀でた王子だけだと王国中の貴族と民は考えていた。ミリエールが未成年だった内は是非もないが、成人したならばすぐにでも子を得てほしいというのが王国中の者たちの願いだったのである。
アビシウスにそのような王国の貴族と民衆の願いが分からぬ筈はなかった。それ故アビシウスは追い込まれつつあったのである。
◇◇◇
ミリエールにはアビシウスが何を戸惑っているのかが分からない。
ミリエールはもう三年もすっかりアビシウスの妻であると思って生きてきたし、王妃であるという誇りとプライドを持って王国中を駆け回っていたのである。
王国の色々な改革に取り組んだのもアビシウスの為だったし、それは自分は彼の妻、王妃だと思っていたからこその行動だった。
妻の、王妃の役目は、夫の、王の子を産む事だ。これは常識以前の問題だった。結婚とは子供を得るためにするもの。お家の継続は位が高くなればなるほど重要になるのは当たり前だ。
ミリエールは遊牧民の族長の一族、帝国の皇女として身分高い女性の役目をしっかりと自覚しながら育っていたのである。
ミリエールはアビシウスが最近余所余所しい事には気が付いていた。
最初は戸惑ったが、妙に二人だけになる事を避けたがったり、彼女の身体に触れるのを嫌がるのに気が付いてピンときた。
これは照れているのだと。
凛々しい美丈夫で立派な王であるにも関わらず、アビシウスには全く女っ気がない。公妾を娶る騒ぎになった時にも、その前にも後にも、彼が女性を寵愛したという話が全くないのである。
英雄色を好むのだから、ミリエールとしては彼ほどの英雄なら愛妾の一ダースも侍らせていても、ミリエールには全く文句はない。たくさんの女性を養う事も男の甲斐性だと思うからだ。
しかし、アビシウスはその気がない。ミリエールはこれを、彼は女性と接することに照れがあるからだと看破していた。
これは仕方がない面もある。アビシウスは王子として生まれ、王宮で囲われて育った。この間、婚約者候補のご令嬢とたまには引き合わされたものの、親密な付き合いなどはなかった。
そして、十五歳になりここから貴族のご令嬢との交流が始まろうというところで、アビシウスは戦場へと出征し、二十五歳になるまでほぼ女性とは没交渉の日々を過ごしたのである。
もちろん、戦地でも娼婦を買う貴族は少なくないし、それを目当てに王都の高級娼婦が大挙して遠征する、などという事も起こっていたのだが、なにしろアビシウスは王太子、後には王である。率先して娼婦に溺れるわけにもいかないし、そういう性格でもなかった。
そういう特殊な思春期を過ごしてきたアビシウスが女性に対して初心なのはある意味仕方がない事である。ちなみに、王太子教育の一環で閨教育があったので、アビシウスは一応経験はあるし知識もある。
国王が女に溺れ国を傾けた例などいくらでもあるので、あまりに女好きでも困るのだが、興味がなさ過ぎても勿論困る。ただ、ミリエールの見るところアビシウスは女性に興味がない、という訳ではなさそうだった。時折、色っぽい婦人と話していると気分は良さそうにしているからだ。
ミリエールに触れたがらないのも、ミリエールに女を感じないのではなく、女を感じたくない、という拒否反応があるのだと思うのだ。女性を感じると以前と同じ付き合い方が出来ないと思っているのではないだろうか。
ミリエールを尊重し、大事にしているからこその態度だろうとは思うものの、ミリエールとしてはそれでは困るし、王国としても困るだろう。
ミリエールは一計を案じた。
ミリエールとアビシウスは、どちらかが王宮を離れていない時を除いて、朝食を一緒に摂る事になっている。
ミリエールはこの朝食の席に、極めて煽情的なドレスを着て登場したのである。つまり、胸元が大きく開いて、太ももまでスリットが入ったようなドレスだ。娼婦的なドレスで王妃には相応しくない。
アビシウスが目のやり場に困るような服装である。既に非常に美人になっているミリエールがそのような格好をしているとかなりの破壊力がある。
そして朝食後、ミリエールはその格好のままアビシウスにベタベタと付き纏った。食後に談笑をすることはこれまでもあったのだが、同じソファーに座ってベッタリとアビシウスに貼り付いたのである。
夫の腕を抱き、胸を押し付ける。彼の耳に息が掛かるほど顔を近付ける、甘い声で囁く。自分を女として意識させる作戦だった。彼女は自分の美貌と色気には過剰な自信を持っていたのだ。
実際、周囲で見守る侍従や従僕が驚き、侍女が顔を赤くしサリューシアが呆れた顔をする程度にはミリエールの誘惑は色っぽくはあった。
だが、アビシウスにはあまり効いていなかった。アビシウスにとってミリエールはやはり子供に映っていたし、それにアビシウスは初心というより女性の誘惑に関して極めて鈍感だったのだ。
彼が女性の誘惑に弱ければ、愛妾狙いのご婦人の誘惑は少なくなかったから、たちどころに転んでいただろう。つまりミリエールの分析はやや甘かったのである。
ただ、アビシウスはミリエールが必死に色仕掛けをする理由を理解はしていた。
自分が迷ってミリエールを遠ざけた事でミリエールは不安になったのだろうと。アビシウスは反省した。
もしもアビシウスがミリエールと子を生さなければ王妃であるミリエールの立場は不安定なものになる。彼女がアビシウスとの子を望むのは当然だ。
その必死さがガラでもない色仕掛けを彼女にさせているのだろう。彼女を不安にさせたのは「夫」である自分の責任だと反省したのだ。
アビシウスの考えはミリエールのものと少し食い違ってはいたが、ミリエールの想いという意味では大きく間違ってはいなかった。だからアビシウスはまだ迷いを残しながらも「王として」決断をする。
アビシウスはすり寄るミリエールの肩を掴んで彼女を引き寄せた。
「へ?」
驚きに目を丸くするミリエールをそのままその厚い胸に抱き寄せると、アビシウスはミリエールの顎を右手でつまむ。
まん丸になっている虹色の瞳を正面から、息が掛かるほどの近さで見詰めながら、アビシウスはニヤッと笑い、宣言した。
「案ずるなミリエール。二ヶ月後、正式に結婚したなら必ず君を抱こう。たっぷりとな。せいぜい楽しみにしておくことだ」
そしてアビシウスはミリエールの額に口付けをして、そのままミリエールを胸に抱きしめる。
さすがのミリエールも顔を真っ赤にして口をパクパクするしかできない。初心な男を誘惑するつもりが逆に処女なミリエールは魅了されてしまったのである。
部屋に戻ったミリエールが興奮のあまりのたうちまわったり跳ね回ったりと大騒ぎになってしまったのは無理もない事であった。
こうして全ての懸念は解消され、後はミリエールの成人の儀を待つばかり……、だったのだが、その僅か半月前に大問題が発生してしまうのである。