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四章 究極魔法の犠牲者

 ロロンは知っていた。だが、諦められなくて、理解できないふりをしていた。

「リティル!送っていってよ」

「はは、その手には乗らないぜ?インファ、ロロンが帰るってよ。送ってやってくれよ」

「そうですか?わかりました。行きますよ?ロロン」

もう、お決まりのやり取りになっていた。

 リティルは何があったのか、シェラが王冠を頂いた日から、頑なに闇の城に来なくなった。レシェは相変わらず闇の城に来ているが、レシェも「今はそっとしておいてあげて」とあれだけくっつけようと画策していたくせに、風の城には行っていないらしい。

風の城に定期的に押しかけるロロンは、迎えはラス、送りはインファと定着していた。

インファに、リティルのことを毎回聞いてしまい悪いとは思っているが、インファは優しくて代わり映えしない会話にも怒らずに、言葉を返してくれた。

「ごめんなさい。いつも、同じ事ばっかり……」

「気にしないでください。あなたの態度に、オレはホッとしていますから」

「ホッとしてるの?なんで?」

「女王が、風の王のことを割り切っているのだとしたら、あなたはこんなにもしつこく、リティルに会いには来ないでしょう?」

「あ……うん!シェラ様はリティルの事思ってるんだ。でも……」

「時が解決することもありますよ。あの2人には時間が必要です。外野が五月蠅くしすぎてしまいましたからね。けれどもロロン、あなたは足繁く通ってください。あなたを送る口実に、闇の城に行くことができますから」

「うう……インファ、優しい……」

「優しいですか?それはいけませんね。風の城の冷徹軍師としては、もう少し厳しく接した方がよさそうですね」

「ええ?嘘!」

「冗談ですよ。本気で怯えないでください。そんなに怖いですか?」

「えっと、たまに?」

ロロンはインファの背中で、視線を泳がせた。

「隠されると余計気になります。本音を言ってください」

インファはチラリと背中のロロンに視線を送った。逃げ場のないロロンは、そんな風の城の副官に恐れおののいた。インファがロロンに恐ろしげな視線を向けたことなどないが、ロロンはインファの闇を知っている。

普段、闇の精霊でもここまで綺麗に封じ込めることはできないのに、インファは闇の気配を微塵も感じさせない。それが、一気に膨れ上がるときがある。

「し、仕事の話してる時!そうじゃないときは、インファはあれ?って思うくらい優しいよ!」

ロロンはなぜなのかわからなかった。だが、今はわかるような気がする。

リティルが、魔物狩りで動けなくなるほどの傷を負ったからだ。インファは、難しい采配を求められるときほど、闇が濃い気がする。風の仕事を完全には理解できないロロンには今、インファに近づいちゃダメだ!と空気を読むくらいしかできないが。

「そうですか、副官の威厳が保たれているようで、何よりですね」

フフと楽しげに笑うインファは、仕事中は別人だと思っているロロンだった。

 ロロンを闇の城に送ってくれるとき、インファは時間が許す限りはゲートを使わない。インファのイヌワシの翼は、オオタカのリティルやハヤブサのラスよりも強靱で速かった。

「インファ様」

帰ることは、インファがきちんと闇の城に知らせてくれている。二人が到着すると、必ずルッカサンは出迎えてくれた。

「邪魔をしますよ。女王の様子はどうですか?」

ニッコリ笑うインファだが、ルッカサンに対してどこか壁を感じているロロンだった。

「あまり良いとは言えませんな。どうぞ、お会いください」

ルッカサンの返答はその日その日でもちろん変わるが、これもお決まりのやり取りだった。

「ええ、今日は少し時間に余裕があります。話し相手に、なりますよ?」

え?ロロンは思わず背筋を伸ばしていた。ニッコリといつもの笑みを浮かべてるはずのインファから、闇が立ち上ったからだ。

それを冷ややかに見つめていたルッカサンは、小さくため息を付いた。

「わたしは、リティル様に仇なそうとは、露ほどにも思ってはおりません。どうぞこちらへ、インファ様」

鷹揚に礼をして、ルッカサンは前に立って歩き始めた。

「イ、インファ……」

ロロンは慌ててインファの隣に並び、彼の手を掴んだ。

「怖がらせてしまいましたか?すみません。気になっていることがあるんですが、誰も教えてくれないので、心穏やかでないんですよ」

「気になってること?」

「ええ。闇とは、悪意と同意でないと、思いたいんですけどね」

悪意と……同じ?なぜかロロンは、目の前が真っ暗になるようだった。おまえはこっち側だ。そう言われた気がした。

「嫉妬、憎悪、激高……他の者を害する感情です。ルッカサンが女王が不調だと言うときに限って、それらの感情を刺激されるような気がするんですよ」

インファは、ロロンの動揺に気がつかないまま、険しく廊下の先を睨みながら、歩みを進めていた。

「レシェと父さんが通っていたころは、感じなかったんですけどね……」

「そうなの?それって、リティルがシェラ様に何かしてたの?」

「わかりません。あの人はいつも無意識ですからね。ただ、今現在のシェラは、いい状態ではないということです。ロロン、気をつけてください」

険しい顔のまま、インファは手を繋いでいるロロンを見下ろした。

「え?」

「あなたに何かあると、オレも哀しいですからね」

「――え?」

ロロンは、目が落ちるのでは?と思うほどに驚いていた。それを見たインファは、少し哀しそうな顔をした。

「そんなに驚きますか?そうですか。ロロン、オレにも他者を思いやる感情くらいはありますよ?」

「そうじゃないよ!そうじゃなくて……誰かに心配されたことなくて……なんだろう、胸が温かいような気がして、落ち着かない」

温かい。体の温度は同じなのに、体の奥、どこかわからないが中心?辺りがホワホワと心地いい熱を発している。落ち着かないといったが、嫌ではない。むず痒いというか、顔がにやけてしまうというか、なんだかよくわからないが幸せ?な感じなのだ。

「闇は、悪意と同意ではありません」

ジッとこちらを見つめていたインファが唐突に言った。

「え?」

「訂正しますよ。あなた方は、封じられるべくして、封じられていたのではありません。前女帝・ロミシュミルは、無能か、それともそうせざるを得なかったのか、調査が必要ですね」

インファはロロンから手を離した。その手を名残惜しげに目で追っていたロロンは、苦笑したインファにヨシヨシと頭を撫でられ、再び驚いた。リティルも撫でてくれるのだが、それとは違った感じがする。なんだろう?今、たぶん、すごく幸せだ!

「そんなに驚きますか?傷つきますね」

インファは気にした様子もなく皮肉っぽい笑みを浮かべると、トントンッと扉を叩いた。いつの間にか、執務室の前まで来ていたのだ。

「どうぞ」の声もなく、扉がいきなり開いた。ロロンは驚き、インファは険しい顔をした。

「インファ、リティルを大至急連れてきて」

顔を覗かせたレシェは、開口一番そう告げた。


 体の不調は日増しに増していく。

なぜ?そんなことは誰に問わずともわかっていた。ろくに眠れていないのだ、寝不足が原因だと容易に知れた。

シェラは、翳りの女帝となって、自分が寝不足に極端に弱いことを知った。リティルがことある事に「ちゃんと寝てるか?」とか「ちゃんと寝ろよ?」とこと睡眠に関することばかり心配したからだ。

今、リティルを拒絶してしまった今、シェラに睡眠を強要する者はいない。

重いはずの婚姻の証を外すことも、まして壊すこともできないまま、頭に頂き、その手を振り払って背を向けさせたあの人のぬくもりと気配に縋っている。

保たない。もう、何もかも維持できない。

「シェラ、身に染みたでしょう?リティルに謝って」

謝る?それで許されると思っているの?レシェはリティルが来なくなっても、当たり前のようにこの執務室に通ってきてくれていた。そんなレシェに守られていることが、何となくわかる。

「わかっているわよね?わたしの光が、辛うじてあなたを支えているのよ?けれども、応急処置にすぎないわ。あなたには、リティルという光が必要よ」

リティルという光?苦悩するあの人を光で照らし支えていたのは、花の姫・シェラだった。風の王は過酷で、その精神を維持する為に多くのモノが必要だった。

支えてくれる一家の皆、助け安らぎを与える子供達、風の精霊の精神を守る歌『風の奏でる歌』そして、すべてから守り愛する花の姫――

リティルに光を使わせてはならない。リティルの重荷になりたくて、シェラは翳りの女帝を奪ったのではない。闇が、リティルを穢さないようにするために、シェラは闇を引き受けたのに、このざまは何だろう。

視界が翳っていく。

「シェラ?」

レシェの呼ぶ声は辛うじて聞こえた。答えたはずだったが、答えてはいなかったらしい。

このまま、消滅するのだろうか。それはあまりにも無様だなと思えた。

今は、深く眠りたい。そう思った。

?………………歌が、……聞こえる…………?闇の中に落ちていく意識が、急に落下をやめてゆっくりと浮上する。光の方へ。

――さよなら 止まない雨 

――手の平を空に掲げれば 金色の光が 君にさす

――恐れない わたしには 言葉がある

――歌え 君のくれた言葉を 今こそ 響かせて

――青空の向こう 君に この歌が届く――……


──心に 風を 魂に 歌を 君といられるなら 怖いモノなど 何もない

──花の香りが この身を包む 叫べ 風に攫われぬうちに

──痛みと 涙が 君を曇らせても 歌え この旋律を 心のままに――……

誰かの手が、シェラの肩に触れていた。

落ち着いた、男性にしては高い声が、シェラの全身を包んでいるのがわかる。

ああ、温かい……冷え切った体が温められる。例えるなら、暖炉の火のような熱。この心地いい熱を、シェラは知っている。

──叫ぼう 悠久の風の中 君と生きていけると――……

優しい歌声に身を委ねていると、声が、最後の旋律を歌った。

 終わってしまったの?名残惜しげに瞳を開くと、聞き慣れた声が降ってきた。

「……もういいんですか?まだまだ歌えますよ?」

え?と顔を上げると、ニッコリと笑うインファがいる。どうしてインファがここに?シェラは事態が飲み込めなくて、ボンヤリと息子の顔を見つめてしまった。

「なぜ歌ったかですか?父さんから、母さんは『風の奏でる歌』を歌うとよく眠れると聞いていたんですよ。父さんを頼ることが憚られるなら、オレで妥協しておきませんか?」

どんなときも、父王の願いを叶える為に飛ぶ、雄々しき翼――シェラが、願いを託して産んだ息子だ。息子は、過度な願いを押しつけられて産まれさせられたというのに、恨み言1つ言わずに、飄々と、ニッコリと笑ってどんな困難にも飛び込んで行ってしまう。

眩しく生きている翼……。わたしの願いを叶える、わたしの鳥……。

「インファ……」

「あなたは、難しく考えすぎるんですよ。父さんを拒絶したとしても、風の城にはまだ使える者がたくさんいますよ?皆、あなたの呼び出しを待っています。選びたい放題なわけですが、誰がいいですか?副官命令ですぐにでも派遣しますよ?」

インファに助け起こされて、シェラは扉と執務机のほぼ真ん中に倒れていたことを知った。

「インファ、聞いて」

「ええ、何ですか?」

「リティルを……拒絶したいのではないの。ただ、受け取ることができなくて……。寝ようと思うのだけれど、なぜだか眠れないの。まるで、何かがわたしを眠らせないようにしているように。いいえ、これは被害妄想ね。インファ、リティルを愛しているわ。婚姻の証も、嬉しかった……。けれども、何かが、わたしの中の何かが、いけないというの。壊さなければと思うのに、どうしてもできない。逢いたいの。リティルに逢いたい……けれども言えない。声が聞きたい……。あの人の、声、が……歌が、聞きたいわ!」

ロロンは思わず目をつぶっていた。叫んだシェラからまばゆい光が放たれたからだ。こんな光の中、どうしてみんな平然と光源であるシェラを見ていられるのか、ロロンにはわからなかった。

「わかりました。父さん、母さんが歌をご所望ですよ?」

インファが、レシェに支えられているシェラの前に水晶球を差し出した。

映し出されるその顔は――

『へ?そんなことでいいのかよ?やっとお許しが出て、そっちに行けると思ったのにな?おい、インジュ、おまえも歌うか?』

水晶球に現れたリティルが視線を外すと、途端にインジュの声がした。周りには、まだ誰かいる気配がした。

『ええ?いいんです?主旋律はリティルに譲るんで、お父さんも歌ってくれません?』

水晶球の中がワイワイ賑やかだ。

『さて、女王様、風3人天上の歌声だぜ?心して聞いてくれよな?』

そして歌い出したリティルの声は、若く野性味を帯びているくせに優しくて、聞いていたロロンでさえ勝手に涙が溢れるほどだった。そこへ、インジュの男性にしては高く華やかな声が重なり、補佐するように控えめに、インファの落ち着いた声がハモる。

春の日だまりのような、身を委ねて全身に浴びたいような歌だった。

シェラ様は!と見ると、レシェに寄りかかって瞳を閉じていた。その穏やかな顔から眠っていることがわかった。

血の繋がった3人の風の精霊の歌が終わると、水晶球の中のリティルが言った。

『インファ、脅威が去るまで翳りの女帝に張り付いてろ』

「了解しました」

『お父さん、いつでも呼んでくださいねぇ?ボク、張り切って歌いますからねぇ!』

そう言って「絶対呼んでくださいよ?」と実父に笑顔で圧力をかけてくるインジュは、プロの歌手だ。ずっと昔、グロウタースのある大陸で、インファと組んでプロの歌手をしていた過去がある。以来、インジュの歌には霊力を乗せなくても、心を惹きつける魅力があるのだ。彼の歌は、天性の歌い手のリティルと並んで、極上と称されている。

「ということで、オレはこれからずっと滞在します」

「かしこまりました。よろしくお願いいたします、インファ様」

いつの間にいたのか、扉の前にルッカサンが控えていた。インファは含みのある視線を投げ掛けていたが、宣戦布告のようにニッコリと笑った。


 何かが、母の清浄で万物に癒やしをもたらす光を奪おうとしているのだと、インファは理解していた。

それは、悪意。憎悪?嫉妬、復讐?翳りの女帝となっても変わらず愛され、闇の精霊にさえ歓迎され受け入れられているからだろうか。だとすると、悪意を向けて、今現在も母を攻撃している者は、皆に顧みられず、この闇の領域に没した者なのだろうと、インファは仮説を立てた。

「――という条件が当てはまる者が、過去にいませんでしたか?」

インファの信条は、使える者は何者も使え。である。インファは、ルッカサンにその疑問をぶつけていた。はぐらかされたとしても、それはそれで収穫だ。

はぐらかすということは「いる」と言っているようなものだからだ。1番いけないのが、本気で知らない、心当たりがないことだ。ルッカサンは古参の精霊で、女帝に代わり内務を仕切っていた。彼は女帝の我が儘に振り回され、内務もろくに仕切れてはいなかったが、現時点で、闇の領域に1番詳しい精霊のはずだ。

「前女帝・ロミシュミルです」

ルッカサンは駆け引きも何もなく、キッパリとインファに告げた。清々しいその態度に、インファは思わず微笑んでしまった。

「……そうですか。ルッカサン、オレはこの瞬間に、あなたと友になれると思ってしまいましたよ」

「ご冗談を。インファ様にはこれからも、わたしを警戒してくれなければ困ります」

人の良さそうな顔に笑みを浮かべたルッカサンは、言葉とは裏腹に右手を差し出した。インファはその手を取って、しっかり握手をしたのだった。

「わたしは、風の王・リティル様に忠誠を誓っております」

「いつの間に誓ったんですか?」

あの人タラシ!とインファは、内心焦った。ロロンを頻繁に送り迎えしているせいで、闇の領域ばかり目をかけすぎでは?と他領域の精霊達が不満を持ち始めている。

太陽王が、領内が壊滅的だと説明して、癒着ではないと強調してくれているが、闇の精霊のナンバー2が風の王に傾倒していることが知られれば、思わぬ反発を招くかもしれない。今の時代、とても安定して平和だというのに、精霊達は何を恐れているのか風の王を頼りにしている。故に、面白くないのだ。

「女王陛下の下へ、ノイン様とリャリス様を派遣されたあの時です」

「さすがにその時は、父はあなたを警戒していたでしょう?」

思わぬ返答だった。そんなに以前からの忠誠だとは思ってもみなかった。ノインがいい仕事をしたとも考えられるが……彼は未だに足繁く闇の領域に足を運んでいる。ロロンもよく懐いているし、それとなく探りを入れればルッカサンとの仲も悪くない様子だった。

いや、何か企んでいるのか?やはりこの男は侮れない。もう少しきちんと見極める必要があるなと、インファは改めて警戒した。ノインは本当に出しゃばらない。問題があってもギリギリまで静観する。最近のノインは、風の城に対しても厳しいのだ。

ルッカサンに対しては、その忠誠が本物であれば、心強いのだが現段階では鵜呑みにはできはしない。彼はシェラを風の城から奪った大罪人なのだから。

「そうですな。しかしながら、わたしは女王陛下が大切なのです。この心に嘘偽りはございません。花の姫には止められておりましたが、このまま女王陛下が衰弱するようなら、リティル様を拉致することもやぶさかではありませんでした」

こういう男ですね。インファはニッコリと微笑んだ。笑うしかなかった。

「行動に移す前でよかったですよ。風の城は、すべての異界の中のどの国どの城よりも、1番強固といっても過言ではない城ですからね」

「花の姫もそう言っていましたな」

「あまり彼女を嫌わないであげてくれませんか?彼女は、母が翳りの女帝となってしまったために産まれた、歪みです。神樹は、風の王の為に風の王を癒やし守る花を咲かせます。花の姫は不死身の精霊でして、死んでしまうと記憶はなくなってしまうのですが、再び寸分違わぬ存在で目覚めるんですよ。一定期間の花の姫の空席に、神樹は死したとみなし、レシェを咲かせたんです。彼女も被害者なんですよ」

「しかしながら、女王陛下の恋敵には違いありますまい。彼女の出現で、女王陛下はますます頑なになられてしまいました」

「オレに言わせれば、風の王の落ち度です。小難しいことなど考えずに、婚姻の証を贈ってしまえばよかったんですよ。あの人が物を考えると、ろくな事になりませんから」

インファの言い草にルッカサンが驚いていたが、構うものか。肝心なところでヘタレた父が悪いのだ!

「女王の寝室は不可侵ですか?」

「はい。女王陛下が安心してお休みいただけるよう、閉じております。ロロンも外しております」

「それでも、父の夜這いは成功したんですか」

知っていますよね?インファはルッカサンを伺った。ルッカサンはインファに視線を向けると、フッと微笑んで即座に答えた。

「侵入に気がつき、人払いさせていただきました。リティル様は夜明け前に帰られましたな。起床された女王陛下は、どこかソワソワしておいででしたが、楽しい夜を過ごされたかと」

涼しい顔で言ってのけたルッカサンに、インファは忠誠は本物なんですねと驚きとともに認めてしまった。

あの夜のことを部外者が突くのは野暮だが、寝室という、一番侵入を許してはいけない部屋への突撃だ。知っていて、完全にスルーすることはインファにはできない。インファはレシェに、キッチリ厳重注意をしていた。

知っていたのならルッカサンは、何食わぬ顔で後日現れたリティルに対して「お帰りの際は、お声がけください」くらいのことは言っていい事態だ。それをせず、人払いまでしたとなるとそれは、公認ということだ。リティルに対して別の感情があるのなら、それくらいの嫌みは彼ならば言ったはずだからだ。

「どこまで理解があるんですか?ロロンには酷でしょうが、しばらく寝室に潜ませます。母のあの衰弱具合は、風の王と拗れたからといっても異常です」

「前女帝の攻撃が、深夜に行われていると仰るのですか?」

「可能性の1つです。昼間、レシェが張り付いているあの状況で、光りその者の目を欺けるとは思いませんから。それにしても、母を攻撃している者が、前女帝だと決めつけていますね?」

何か知っていますか?とインファにキラリと光る視線を向けられ、ルッカサンはため息を付いた。

「……無能な主を持てば、わたしの気持ちがきっとご理解いただけると存じます。ロミシュミルは、稚拙で、癇癪持ちで、悪意を助長する闇の力は、良心でもって運営しなければならないというのに、領域のことは一切顧みず我が儘放題でした。目を向ければ暇などないことは一目瞭然なのにそれをせず、暇を持て余し、漏れ聞こえてくる噂に、リティル様に目をつけたのです」

「わたしもつけましたが」とルッカサンは潔かった。

「風の王・リティルは、このイシュラースの王となられるお方です。それは、リティル様が自身を省みられずに戦い続けた結果です。風の王という責務を、全うしているが為の評価に他なりません。それなのに、あの女は妬んだのです。精霊達に愛され、強力な精霊の信頼を勝ち取っていくあのお方を、チヤホヤされている。などと!」

ついに『あの女』呼ばわりなんですか?とインファはルッカサンの闇を見た気がした。

確かに、インファは恵まれている。優しく聡明で強い心を持った両親に慈しまれ愛されて育ち、未だに愛され、頼りにされて、案じられて、副官という地位にいる。

父を、風の王として不甲斐ないと思ったことは1度もない。……母に対する父としては、ヘタレですか?そうですか。と思うことはあるのだが、父親としても尊敬し信頼している。

それを、永遠を生きる精霊という身の上に目覚め、憎悪を募らせるしかない上司の下につかねばならないとは、さすがに同情する。

「イシュラースの王ですか。それは買いかぶりすぎだと思いますよ?補佐するオレ達も荷が重いですね」

「申し訳ありませんでした」

「はい?」

突然の謝罪に、インファは瞠目した。

「そんなリティル様から、王妃様を奪いました。わかっていたのです。それがいかに罪深いことか。いえ、わかってはいませんでしたな。理解したのは、リティル様が愛人にしてくれと乗り込んできたときでしたな」

「あのシナリオを書いたのは、インジュです。父は直前まで渋っていましたが、上手く演じられたようですね」

確かに演技だったはずだ。しかしルッカサンは頭を振って「とんでもない」と言った。

「あれは演技などではございません。リティル様は、シェラ様の何かを見、そして激高なされたのです。天井近くまで吹き上がり、暗黒の竜の如き大きさで我々を見下したあの方の闇を、至近距離で目の当たりにしたシェラ様は、絶望しておいででした。そして、わたしはあのお方を、見誤りました」

父が見たのは、やつれた母ですよ。とインファは思ったが言わなかった。あの頃のシェラがどれほどだったのか、インファには想像するしかないが、リティルを怒らせるには足る状態だったことだけは理解している。

「父が我を忘れるほど怒るのは、いつでも母のためでしたね。それを止められるのは、王妃・シェラ、ただ1人です。昔も、今も、これからも」

そうは言ったが、今のままではインファの願望に過ぎない。

「そうでしょうとも。インファ様、わたしは、シェラ様をリティル様にお返ししたい。身勝手なことでしょう」

「確かに。ですが、あなたにノインは協力していたんですね?」

ノインならば、知識的にも口の硬さ的にも協力者にするなら最適だ。現に、ルッカサンと何をしているのか、リティルもインファも知らないのだから。

「はい。しかし、行き詰まりました」

「何をしようとしているんですか?」

「この闇の領域には、闇の吹きだまりと呼ばれている場所がございます。その地で、ロミシュミルの欠片を培養し、復活できないかと画策しておりました」

「無理でしょうね」

「その通りでございます。鼓動は確認しましたが、それ以上は育ちませんでした。ノイン様は、究極の魔法しかないのではないかと」

今、なんと言いましたか?インファは瞬間に声を荒げていた。

「それはさすがに許可できません!」

「聡いお方ですね、あなたは」

「いえ、この流れではさすがにわかるでしょう!父さんと母さんに、翳りの女帝の両親になれというのでしょう?父さんをその気にさせるのは簡単ですが、母さんの精神が保ちませんよ!」

「リティル様は承諾してくれるとお考えですかな?」

「説得はお断りしますよ?ルッカサン、あなたに死なれては困ります。くれぐれも、オレを敵に回すようなことはしないでください」

「承知しました。インファ様」

鷹揚に頭を下げる女帝の下僕に、インファは「本当にわかっているんですか?」と信用ならなかった。


――なんで?なんでアンタは受け入れられるのよ!

その声は、シェラが寝室で眠りに落ちると途端に聞こえてきた。

――許さない!なんで、アンタは愛されるのよ!

そうだった。この声で、シェラは安眠妨害されていたのだ。いつもは、目が覚めると忘れてしまったが、今夜は覚えていた。

シェラは、真っ暗なベッドの上で体を起こした。

「シェラ様!」

ボンヤリしていたシェラは、ベッドの脇から聞こえてきた声に驚いた。

「ロロン?どうしたの?」

シェラは手の平に光を集めた。眩しそうに顔をしかめるロロンが、そこにいた。

「シェラ様、何かに取り憑かれてる!」

「え?」

「今、今ね、シェラ様が目を覚ます前、闇よりもっと濃い闇が、シェラ様から抜け出して顔を覗き込んでたんだ!」

取り憑かれて?ロロンの言葉をボンヤリ聞いていたシェラは、あの声かと思い至った。彼女は誰なのだろうか。憎しみを、シェラに向けていた。

「ロロン」

「なに?」

今にもインファに知らせに行こうとしているロロンを、シェラは引き留めていた。

「誰にも言わないで」

「え?で、でも……」

「お願い」

彼女が誰なのかわからない。わからないが、感じたモノがあった。

それは、嫉妬と哀しみだ。

「受け入れられる」「愛される」望んで、得られなかったことが、容易に推測できた。

「ねえ、シェラ様」

ロロンの前で物思いにふけってしまったシェラは、ハッと顔を上げた。ロロンは、神妙な顔でこちらを伺っていた。

「風の城は、最低2人1組で戦ってるんだよね?」

「え?ええ、そうね」

「だったら、誰かを頼ってよ!みんなみんな、心配してるんだ!なのに、シェラ様は1人で頑張っちゃう!」

ロロンの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。シェラは驚いて、慌ててロロンを抱きしめて、慰めるようにその頭を撫でた。

「ダメなの?頼っちゃダメなの?」

「そんなことは……」

「レシェが、何かがシェラ様とリティルの仲を壊そうとしてるって言ってたんだ。そうでなければ、これだけ進展しないのはおかしいって。シェラ様!リティルを頼ってよ!リティルでなくちゃ、ダメなんでしょう?」

リティルでなければいけない。この執着も、レシェの目覚めで終わるはずだった。

シェラは、1人になるはずだった。けれども、リティルがそれを許さなかった。

彼は結局、シェラを選んだのだ。

リティルはシェラにとって、進むべき道を先導する光だ。こっちへ来いと誘う道しるべだ。その光を失えば、この闇の領域は元の閉ざされた狭間に沈むしかなくなる。それを、望んでいる者がいる?

誰?闇の精霊達は、現状に喜んでいると思っていたが、違うのだろうか。

「ロロン、あなたは闇の領域が、セクルースにあったほうがいいと思っているかしら?」

急に体を引き離されたロロンは、シェラの問いに瞳を瞬いた。

「あったほうがいいよ!同じ基本元素なのに、闇の領域だけセクルースにないなんて、おかしいし、それに、寂しい!」

寂しい。あの声の主は、寂しいのだろうか。だから、光を排除して、闇の領域を封じたいのだろうか。

だとしたら、あの声の正体は?

「ロロン、ルッカサンとインファを呼んで」

「はい!」

ロロンはピョンッとベッドから飛び降りると、真っ暗闇をモノともせずに走っていった。

「あなたの恨みは、さぞ深いでしょうね?ロミシュミル」

シェラは1人、ほの暗く微笑んだ。


 レシェは、自分の存在がなんなのかやっと認識した。

16代目花の姫・シェラと同じ容姿をしている意味も。

世界は、風の王に優しい。いや、当然のことをしたと、いうべきか。

「リティル」

レシェは、久しぶりに風の城を訪れた。リティルには、会いに行くと言ってあった。

広すぎる応接間には、養子も含め、風の王の子供達が揃っていた。闇の城に出張している長兄のインファは不在だが。

隠さない殺気を向ける美少女。

困惑気味に、こちらの出方を窺ってばかりの露出の激しい女の子。

底冷えするような冷めた瞳で、ジッとこちらを見ている青年。

「ああ、待ってたぜ?どうしたんだよ?レシェ」

そして、まったく拒絶の意志のない、明るい笑顔を浮かべる風の王・リティル。

共に、容姿が十代後半で、これで親子なのだから、導く立場にあるリティルは大変だなとレシェは思う。

「言えないかもしれないから、言えるときにお別れを言いに来たのよ」

レシェはリティル以外、悪い空気に包まれた応接セットまで華奢な蝶の羽根で飛んだ。リティルが席を詰めようとしてくれたが、レシェはそれを断って、彼の隣に立った。

「はあ?何言ってんだよ、おまえ。花の姫はそう簡単には死ねないぜ?」

「わたし、シェラに還るの」

「……気がついたのかよ」

短く言えば、リティルは小さく息を吐いた。レシェは、震えそうになるのを何とか堪えた。

「あら、知っていたのね。教えてくれないなんて意地悪ね」

いつから、リティルは知っていたのだろうか。リティルも、ノインから聞いたのだろうか。

レシェは、突然訪ねてきたノインからその事を聞いたのだ。彼は勿体つけた。「おまえは自分の正体を知りたいか?」と言ってきた。ずっと、自分が何なのか疑問に思っていたレシェは「知りたい」と答えた。

しかし、どうして教えてくれるのか疑問だった。ノインはあまりレシェには興味がないと思っていたのだ。「どうして教えてくれるの?」と問えば「オレも同じだからだ」と言った。言葉数の少ない人だ。「どういう意味?」と問えば彼は言った「探し物があるが、見つけられない。それが、自分にどんな影響を及ぼすモノであっても、見つけたいと思うものだ」まるで意味がわからない。だが、ノインのような完成された存在にも、悩みがあるのだなと思った。「おまえの望まない答えかもしれない」と彼は言ったが、レシェは聞いた。そして、十分悩んで今ここにいる。

「言えるわけねーだろ?君が、シェラが捨てたモノを持って目覚めた、シェラの分身だなんて、魂と心があるヤツに、どうして言えるんだよ?」

ノインは教えてくれたわよ?と思ったが、レシェは言わなかった。答えを聞いたとき確かにレシェは取り乱した。教えてくれたノインに「こんなことはあんまりだ!」とぶつけてしまった。だが彼は「そうだな。おまえの魂と心は、おまえのモノだ」と言って抱きしめてくれた。ノインの胸で泣いた。彼がリティルだったならどうなっていたのか、わからない。ノインだったから、レシェはそれだけですんだ。

一頻り泣いて「損な役回りね」と言えばノインは笑っていた。「オレの役目だ」そう言って。

「優しいのね。わたしは誰の目から見ても、恋敵だったでしょうに」

「はは、オレ、シェラじゃなくちゃダメだからな」

「そういうなら、もっとイチャイチャを見せてほしかったわ」

「見せるかよ!覗かれて悦ぶ趣味はねーんだよ。シェラは知ってるのか?」

「いいえ。シェラは取り込み中だから。それに、翳りの女帝の後任が決まらないことには、シェラに還れないわ」

「それが最大の問題だよな」

「本当に、悩んでいるの?」

「ああ?シェラを取り戻したいに決まってるだろ?」

「あなたは、もっと怒ってもいいと思うわ。シェラがしたことは、あなたに対する裏切りよ。シェラはあなたから罰を受けるべきよ」

「ハハ!」

「リティル!真面目に言っているのよ?」

「罰なら受けてるさ!オレを想ったまま引きこもろうとしてるのに、ことある事にオレがうろついて好きだって繰り返すから、あいつ、罪悪感でいっぱいだぜ?」

「そんなこと、言っていたの?」

「レシェ、おまえには感謝してるんだぜ?おまえが目覚めてこなかったら、オレとシェラは永遠にこのままだったんだからな」

「結局拗らせてしまったのに?」

「必要なんだよ。心に溜まったモノは、吐き出さねーと溜まる一方だろ?シェラな、オレのことを諦められなくて、だからそばにいられねーなんて言うんだぜ?どれだけオレのこと好きなんだよ?なあ?」

「聞いてないわ?いつの間にそんなこと?」

「この前だよ。魔物に毒食らった日があっただろ?待つ気はあったんだぜ?あいつが、オレ無しじゃいられねーって気がつくまで、待つ気だったんだけどな、毒食らったくらいで何日も動けなくなるのは、風の城的には死活問題なんだよ」

「利害で、シェラに婚姻の証を贈ったというの?」

「ああ。オレは死ぬわけにはいかねーんだよ。あいつも、オレの現状を正しく理解してたぜ?オレのこと、酷いヤツだと思ってるか?オレは風の王だ。あいつは風の王妃だ。愛だけじゃ務まらねーんだよ」

「だけど!こんなプロポーズはあんまりだわ」

「レシェ、オレはこれまで、愛だけは散々囁いてきたぜ?それだけじゃ、口説き落とせねーんだよ。あいつの心を、オレはすでにもらってるからな。だったら、他の手段を使うしかねーだろ?オレの命を盾に、あいつの花の姫としてのプライドを刺激してやった。それでシェラの出した答えが――」

「リティルに答えないこと?」

「そうだよ。後一押しだな」

「嘘」

「ホント」

「嘘よ!答えは出たのでしょう?だったらもう……」

「レシェ、心はな、揺れるんだよ。オレが婚姻の証を贈った後、あいつ、酷い有様だっただろ?おまえとロロンに甘えたことは謝るよ。おまえらの心を悪用してごめんな。おまえらがシェラを監視してくれてたおかげで、待てたんだよ。あいつが音を上げて、オレに泣きついてくるのをな」

「それが『風の奏でる歌』?」

「来てくれって言われたかったんだけどな、あいつはホント頑固だな。けど、十分だぜ?オレの副官を、あいつのそばに送り込めたからな」

「インファは、シェラの為に遣わされたのではないの?」

「そのつもりだったぜ?それが、思わぬモノを釣り上げちまったんだよ。風の王として、平らげるのは当たり前だよな?」

「何をするの?」

「闇の領域を救ってやるんだよ。ロミシュミルだけが悪いわけじゃねーけどな、あれじゃ、ルッカサンに無能呼ばわりされても文句は言えねーよな?」

「いつから気がついていたの?」

「数日前だぜ?インファが報告してきてそれで発覚したんだよ。闇っていう力は、オレにも未知なんだよ。オレも不甲斐ないんだ。ロミシュミルがシェラに取り憑いてることを、最初に闇の城に乗り込んだときに気がつかなけりゃならなかったのに、気がつけなかった。シェラを誰よりも知ってるはずだったのに、弱々しくオレに縋ってくるあいつが新鮮で、可愛くて、本来のシェラはこうじゃねーって思えなかったんだ。インファに散々怒られたぜ?」

「しかたないわ。あなたも、傷ついていたのだから」

「はは、レシェ……優しいな」

「あなたほどじゃないわ。それで、あなたはいつ動くの?」

「さあな。シェラは基本、オレを頼らねーからな。インファがそばにいれば、オレの出番なんてねーかもな?」

「いいの?それで」

「終わりよければすべてよしってな。レシェ、シェラのそばにいてやってくれ。オレは、いつでもそっちに行くぜ?」

「わかったわ。リティル、魔物の動向には注意して。あれは、闇の領域が消化しきれなかった悪意の残りカスよ。闇の領域は今揺らいでいるの。何が起こるかわからないわ」

「わかった。ありがとな」

「いいのよ。わたしは花の姫だから」

微笑みを浮かべて踵を返すレシェは、シェラその者だ。そんな彼女にリティルは明るく笑って、手を振った。

 リティルが視線を戻す頃、隣からフウとため息が聞こえた。

「父さん、オレ達をここへ集めたのって、わざと?」

剣呑なアメジストの瞳で、養子の次男・レイシはリティルを見ていた。彼の背には、ガラスのように透き通った空色の翼が生えていた。

「まあな。おまえら、レシェを見ようとしねーからな」

「受け入れられるわけない!お父さんの隣は、お母さんじゃなくちゃヤダ!」

濡羽色の髪の美少女――破壊の精霊・カルシエーナが噛みつくように声を荒げた。

「オレもレシェも、ずっとそのつもりだったぜ?おまえも知ってるだろ?カルシー。レシェは一家のみんなにオレとシェラのことばっかり聞いてたぜ?インジュには、オレ達が進展しねーってぼやいてた。あいつは、敵じゃねーんだよ」

「レシェは、お母さんにソックリで、見分けがつかなくて、ずっと一緒にいたら、お母さんを忘れちゃうんじゃないかって、不安だった。でも、それは当然だったんだね。あの人は、お母さんが捨てたモノを拾って、帰ってきてくれたんだ……」

シェラと同じ、青い光を返す不思議な黒髪を1本の三つ編みに結ったまだ、あどけなさを残した、金色のハクチョウの翼を持つ女の子――長女のインリーは、その紅茶色と金色の瞳からポロポロと涙をこぼしていた。

「インリー、苦しめて悪かった。母さんを繋ぎ止められなかった父さんを許してくれ」

「ううん。お父さんはずっと、お母さんしか見てなかったから。見分けられない自分が、哀しかっただけなの」

インリーは首を横に振って、涙は止まないままに微笑んだ。

「ねえ、どうにかなんの?元素の王の後任なんて、今の王が死なないと目覚めないんじゃないの?」

「ああ、そうだな」

レイシの温度のない言葉に、リティルは頷いた。

「じゃあ、お母さんはずっと翳りの女帝なの?レシェもあのままなの?ヤダ!ヤダよ、お父さん!」

向かいにいたカルシエーナは、泣きながら机を飛び越えるとリティルに抱きついていた。抱き留めたリティルは、シェラのことが大好きな娘の頭を撫でてやった。

娘2人にこれだけ泣かれると、リティルの迷いに拍車がかかってしまう。

「こればっかりは、オレだけじゃどうしようもねーんだ。シェラが、オレの隣を望んでくれねーとな」

「望んでくれたらどうにかなるっての?」

信じられないんだけど?と不良息子のレイシは冷めに冷めていた。

「1つだけ、あるっていえばあるんだけどな……おまえら、妹と弟、どっちがいい?」

「は?」「え?」「えっと?」

3人の子供達は、声を揃えて、苦笑する父の顔を凝視した。視線を集めたリティルは、更に言う。

「たぶん、妹になると思うんだけどな。なあ、産まれてきたら、可愛がってやってくれねーか?」


 まったく、どうしてこう、面倒ばっかりなんだよ?

リティルはため息を付いていた。

15代目風の王・リティルは、2大光の精霊であり、イシュラースの昼の国、夜の国の支配者でもある、太陽王と幻夢帝と懇意で、縁結びを司る花の王とも仲がいい。

不可侵と呼ばれている、時、破壊、再生、力、智の精霊を居候として風の城に住まわせ、神樹の精霊とは義理の親子の関係だ。

その上、闇の王の実父になれと?ルッカサンが通信してきたとき、冗談だろ?と言ってしまった。

 ルッカサンが通信してきたのは、インファから、ロミシュミルの意識体にシェラが取り憑かれていて、それを取り除いたと報告があったすぐ後だった。

レシェが久しぶりに会いに来た、その数日前だ。

『冗談ではございません。ロミシュミルの意識体とノイン様と研究培養しておりました、ロミシュミルの欠片がございます。それを使えば、究極魔法を発動できるのではありませんかな?』

「できたとしても、まだいろいろ問題があるぜ?」

『存じております。ですので、手始めに、培養中の欠片に、意識体を封じ込める許可をいただきたいのです』

ルッカサンは、インファからリティルが許可すればやってもいいと言われているらしい。

リティルは、オレに判断を委ねるってことは、あいつもありだって思ってるってことだな?と頭痛を感じた。

『そして女王陛下の説得を、リティル様にお願いしたいのです』

「はあ?」

『わたしが提案するより、よろしいかと』

リティルは即答できなかった。ノインから、レシェの正体を聞かされていた。レシェの問題も解決していると言っていい状況だった。

 「そんなバカな!」と声を荒げたリティルに、ノインは淡々と「事実だ」と言った。ノインの話しでは、シェラが闇の王の証を手放せば、レシェはシェラに戻れるという。すでに、レシェには話したというのだから、退路を断つのが上手いなと思った。リティルが先に聞いていたなら、きっとレシェには話すなと言ってしまっていた。そうして言えずに先延ばしにして、レシェにとっては不幸な状態になったろう。ノインはレシェに、考える時間を与えたのだ。究極魔法のことが、視野に入っているから。

「レシェのことは、案ずるな」とノインは言った。ノインに釘を刺されなければ、うっかり風の城に来なくなったレシェを訪ねてしまうところだった。レシェに、消えたくないと言われてしまったら、リティルはどうしてしまうか自分を信じられない。レシェは花の姫なのだ。今はまだ、結ばれていなくともリティルの花の姫なのだから。ノインはそれすらも見越して、レシェを監視している様子だった。いつも、嫌な役回りをさせてしまう。

だがノインは涼やかに微笑んで「甘えていればいい。オレはおまえの兄だ」と言った。


 リティルが「考えさせてくれ」と言うことはわかっていた。

彼が、その場の雰囲気に流されてくれないことは、ルッカサンにはわかっていたのだから。

ロロンから知らせを受けて、ルッカサンがインファと共に寝室に向かったときは、肝が冷えた。あの女が、シェラを今の今まで苦しめていたことが、そのことに気がつかなかった自分に腸が煮えくりかえった。

冷静なインファが「落ち着いてください」と声をかけてくれなければ、自分の腕くらい自分で折っていたかもしれない。

 シェラから話しを聞いたインファは、まったく動じた様子なく頷き、しばしシェラに手をかざした後「意識体を引き離します」と簡単に言った。どうやって?とルッカサンがインファの後ろで驚いていると、シェラと少しばかりの押し問答の末、勝ったインファは言った。

「2人とも部屋から出てください」と。彼の説明によれば、シェラの体から追い出したロミシュミルの意識体が、別の体に取り憑くリスクを減らすためだという。ロロンと共に寝室の外で、ジッと、目の前のドアノブが回るのを今か今かと待っていた。

 インファが出てきたのは、それから5時間後だった。

「それを、どうなさるおつもりで?」

ルッカサンは「終わりました」と疲れた顔で告げたインファの手に視線を落としていた。彼の手には、片手の平から飛び出すほどの大きさのスモーキークォーツの結晶が握られていた。水晶の中の黒い靄が蠢いている。どうやらあれが、ロミシュミルの意識体のようだ。

「殺すなと、母から言われているので、父に相談しようと思います。オレとしては、殺したいですけどね……」

フフと笑ったインファに、ロロンがあからさまに怯えた。それはそうだろう。インファから、陽炎のように揺らめく闇が立ち上ったのだから。

「シェ、シェラ様は?」

生唾を飲み込んだロロンは、やっと言えた。そんなロロンに、インファはニッコリと微笑んだ。あれだけ立ち上っていた闇が、一瞬で掻き消えていた。

「大丈夫ですよ。グッスリ眠っていますから。けれどもロロン、一緒にいてあげてくれませんか?」

インファの申し出に、ロロンはぱあっと笑顔になると、大きく頷き部屋の中へ入って行った。

「さて、夜明け頃ですか?起き抜けの父さんに、こんな話をするのは気が引けますが、しかたありませんね」

フウと小さくため息を付いて、インファはその場を去ろうとした。

「待ってください、インファ様!」

あれがあれば、シェラをリティルに返せるかもしれない。ルッカサンはそう思ってしまった。そして、それを、インファに見透かされていた。

「究極魔法を、諦める気はないんですね?」

「あなたにとっても、叶えたいことではありませんかな?」

「否定はしませんよ。けれども、この場では決めかねます。最低でも、風の王と翳りの女帝の同意がなければ、行えません。ルッカサン、風の王を説得できたら、協力しますよ。それまでこれは、オレが預かります」

インファの返答は妥当だった。

 あれから数日が経つが、リティルからの返事はまだない。

それはそうだろう。グロウタースの民のように血を分けた子をすでに持つリティルは、産み出した後、共に暮らすことができないまだ見ぬ娘のことを考えているのだろう。

妃を連れ戻すために、生け贄になる娘。

共にあることで、固い絆を結んでいる風一家とは異なる環境に置いて、他の子供達と同等の愛情を注げるのか、悩んでいるのだろう。

優しい人だ。イシュラースの王にふさわしい。

リティルが否というのなら、ルッカサンはその決定に従う所存だ。

相変わらず通ってくるレシェが、シェラへの精神攻撃が止めば、夫婦に戻るのでは?と言ったこともルッカサンの、暴走しそうになる思いを止めてくれた。花の姫に戻れなくとも、シェラさえ折れれば、リティルは幸せのような気がルッカサンもしていた。

償えない罪は、誠心誠意仕えることで返していこう。そう思わせてくれたリティルには、やはり、感謝しかない。


 眠れるようになり、シェラの精神は徐々に安定してきていた。インファの歌う『風の奏でる歌』と、通ってくるレシェの光が、シェラを本来の彼女に戻しつつある。

だから油断していた。インファもレシェも、皆が油断していた。

「ルッカサン、風の王から返事がきましたよ」

インファは、複雑そうな顔をしていた。

「風の王・リティルは、翳りの女帝の父親にはなりません」

キッパリと完結に告げられた言葉に、ルッカサンはゆっくりと瞳をつむると、頷いた。

「……そうですか。では、あれはあなたの手で、破棄してくださいますかな?」

「了解しました。あなたも立ち会ってください」

インファは、あれを、宛がわれた自室に保管していた。ルッカサンは、連れだって歩きながら、問うていた。

「理由を、聞いてもよろしいですかな?」

インファは、憂いを帯びた瞳で、小さく息を吐いた。

「父は、あなたの申し出を受けようとしたようでしたよ。母がいいと言うのならと。反対したのは、弟達です。母の精神を滅茶苦茶にしたモノを体に宿すことで、母に何かあるのではないかと抵抗したんです」

――インファ、おまえ、どう思う?

相当悩んだのだろう。通信してきたリティルは、自信なさげだった。

「選択肢の1つではあると思います」

感情なく答えると、リティルは笑った。

『おまえの感情が知りてーんだよ』

わざと感情なく答えたというのに、父は逃がしてくれないらしい。インファはため息を付いた。

「父さん……オレには良いとも悪いとも言えませんよ。成功するかどうかも、おそらくリスクもあります。それに、子は、産み出して終わりではありません」

『はは、おまえと話すと、やっぱりいいな』

「光栄です。……オレは……母さんに戻ってほしいですよ?しかし、その為に新たな命に押しつけるというのは……」

『ああ、それが血を分けた子供じゃあな』

「これしか、手はないんですか?母さんとレシェを救うには、犠牲が必要なんですか?痛みのない解決方法は、ないんですか?オレは、産まれてきた妹が、闇に飲まれる姿を見ることに耐えられません」

もし、シェラの中に戻れなければレシェも不幸になる。自分の存在が何なのか、ノインが教えてくれたと彼女はインファにも教えてくれた。衝撃的だった。「あなたは、それでいいんですか!?」と言ってしまったインファに、レシェは笑って言った「もうノインが泣かせてくれたから、スッキリしたわ」と。「精霊には存在する理由があるわ。わたしは、シェラに戻りたいわね」と言ったレシェの瞳には1点の曇りもなかった。ノインが、レシェを1人にしなかったのだとインファにはわかった。口数の少ない相棒は、レシェが堕ちないように守ってくれたのだ。

『そうと決まったわけじゃねーよ。でも、賭けだな』

「父さん……すみません……冷静な判断は、できそうにありません」

『はは。おまえは過保護だからな。いいんだ。ありがとな、インファ。この話は蹴るよ』

「しかし!」

『レイシ達がな、絶対にダメだって言ってるんだ。シェラを苦しめてる、闇なんていうそんな得体の知れないモノを、シェラの腹に入れるなってな』

「父さん……!そんな言動を許したんですか?」

『レイシ達の気持ち、おまえ、わかるだろ?心配するなよ。大丈夫だ。怒るなよ、インファ。怒らないでくれ。言って聞かせてる大丈夫だ』

「闇は、悪ではありません。力に、新たな命に、善悪はないというのに……すみません……ですが……こんな理由……」

ノインとレシェがどんな想いでいると思っているのか。ノインはずっと、ルッカサンとシェラが戻れる方法を探していた。同時に、レシェが何者なのかも調べていた。今回、インファはそちらにはまったく手を出していない。薄々、究極魔法しかシェラを取り戻す方法がないのではないかと思っていた。それでシェラが解放されるとして、レシェはどうなるのかと思っていた。しかし、知ることが怖かった。

レシェに明かすことを、ノインも躊躇ったろう。だが、あるべきところに還さなければならないと、悪者覚悟でレシェに伝えてくれた。伝えられたレシェは、伝えられてなおシェラを守ってくれている。

弟達はその間何をしていた?インファに言わせれば何もしていない。闇を今支配しているのは自分達の母親なのに、それなのに闇を悪だと見ている彼等に失望していた。

『ロロン達もルッカサンも味方だ。闇はオレと同じ、1属性だ。敵対したのはロミシュミルただ1人だ。わかってるさ。けどな、使うのはロミシュミルの欠片だ。あいつらが拒否反応示すのは、当然だろ?』

そう言って、ノインが父を諫めたのだろうか。ノインは思慮の浅い弟達に、何も言わなかったのだろうか。ノインなら、思慮の浅い弟達を説得できる。だのに、彼はしなかった。

わかっている。これは、兄弟になる者達の問題だ。リティルの兄であるノインが、口を挟める事ではないのだ。わかっている。ノインに助けを求めるのは違うのだということは。

「いいんですか?おそらく、現状では1番、母さんを花の姫に戻せる確率の高い方法ですよ?」

『そうだな。けどな、離れて暮らさなくちゃならねー娘だ。最低でも、兄妹達の無償の祝福は必要だぜ?』

「オレとインジュが愛しますよ。妹が知ることになる悪意から、オレとインジュなら守れます!守ってみせますよ?ノインだっているではありませんか!」

『インファ……これ以上背負うな。今、誰もいねーから言うけどな。オレには、おまえが1番大事だぜ?副官、雷帝・インファ』

「知っています。インリーにたまに嫉妬されていますから」

『ハハ!そうかよ!インファ、ルッカサンに断ること伝えてくれ。やってくれるよな?』

「ええ、もちろんです。父さん、母さんに逢えるように尽力します。ですから、もうしばらく城を離れていることを許してください」

『はは。ああ、期待してるぜ?インファ』

 弟達の言動は情けないが、シェラの負うリスクを考えれば、インファも強くは推せない。

「それは、もっともな意見ですな」

話しを聞いたルッカサンは、人の良さそうな顔に負の感情はまるでなく、うんうんと頷いた。

「わたしも、あの女の欠片を女王陛下のお体に入れるのは、かなり抵抗がありますからな」

「それを、あなたが言いますか?」

インファは、苦笑した。そんなインファに、ルッカサンはしたり顔で笑った。

「あなた方は、本当にお優しいですな。新たな女帝のことは、このわたしに押しつけてくださればいいものを、懸命に愛そうとなさる。純血二世は赤子から始まります故、産み落として離れればその子は両親を知らぬままいられます」

「いつか、その子の耳に入りますよ?」

「お教えしますとも。両親が誰なのか。共にいられない理由など、王となるためだと言いくるめ、会いたければ、成人となる12年後、両親に恥じぬ王となって会いなされと言えばいいのです。リティル様はその間も活躍なさるでしょう。良い印象をつけるのに、事欠きませんな」

ルッカサンはまるで、グロウタースの民の孫の誕生を待ちわびる祖父のような顔で笑っていた。

「なぜ、父をそう言って説得しなかったんですか?」

「妊娠出産にリスクが伴うのは、グロウタースの民も精霊も変わりありません。リスクがある以上、リティル様のお心で、決めてもらいたかったのです。いえ、女王陛下を手放しがたかったのです!女王陛下は、世界一の女王ですからな」

「さすがは闇ですね」

「ハッハッハ。そうでございます。警戒心を解いてはなりませんよ?インファ様」

ルッカサンは慰めてくれたのだ。インファにはそれがわかった。

この男でも諫めきれなかったロミシュミルは、いったいどんな女だったのだろうか。一領域の王であるのに、このルッカサンに見限られるなんて、どういうことなのか、インファには信じられない。

感情でモノを言いがちな弟達だって、与えられた仕事はキチンとこなしている。彼等のそんな言動も、違う価値観で風の城には必要だ。

弟達のことを憤ったが、インファも本気で失望したわけではない。リティルが言ったように、彼等の意見はもっともだし、シェラを思う気持ちは本物だ。ただ、子供なだけだ。

正直インファがその場にいたとしても、弟達を説得できたとは思えない。インファも、何が最善なのかわからないのだ。

しかし、これが成功すれば、闇の領域も救えるかもしれない。父と母なら導けると思うだけに、インファは揺れてしまっていた。

父さんともう一度話しを。いや、これ以上、父さんを悲しませ困らせるのは……。インファは、重い足取りで部屋を目指していた。

 晴れない思いを抱えながら、インファは与えられた自室の前まで来た。そこで、不自然に足を止める。

「インファ様」

ルッカサンの声に、緊張が走る。

「ええ。あなたはここで、中を確かめます」

インファの部屋の扉は、僅かに開いていた。


 ロロンは、リティルの事もシェラの事も大好きだった。

だから、すぐに逢えなくなる2人の事が嫌だった。

風の城に行くと、悩んでいるリティルに遭遇した。けれども、リティルはすぐに笑顔を浮かべてしまうため、ロロンが問う隙はなかった。ノインにも会えるが、彼には「問うな」と言われてしまっていた。

だが、ひょんな事から知ってしまった。

シェラを花の姫に戻して、風の城へ帰れるかも知れない方法を。

リティルは当然受けると思っていた。ロロンはそれを期待していた。

それなのに、リティルは、その方法を使わないことを決めてしまった。

どうして?と思った。元夫婦の2人なら、すでに子供がいる2人なら、抵抗ない方法のはずなのに。ロロンには、理解できなかった。

 ロロンは、リティルと話していたインファが部屋を出た隙に、気がつけばインファの部屋に忍び込んでいた。そして、スモーキークォーツの結晶を手に取っていた。

ユラユラと、中にある煙のような闇が動いていた。それを見ていたロロンは、急に怖くなり、部屋を走り出ていた。急ぎすぎて、キチンと扉を閉めることを忘れてしまった。

「ロロン?どうしたの?」

スモーキークォーツの結晶を持ってきてしまったロロンは、執務室から偶然出てきたシェラと遭遇していた。

「あ……シェラ様……」

シェラの顔を見て、ホッとした。シェラは首を傾げながら、微笑みを浮かべていた。彼女の頭で、リティルが贈った王冠が淡く輝いて見えた。

それを見た途端、ロロンは再び走っていた。

リティルに、シェラ様を返さなくちゃ!そう思った。

 これを、どこに持っていけばいいのか、ロロンにはわかっていた。いろいろな場所に出歩いていたロロンは、知らず知らずのうちに情報収集ができてしまっていたのだ。

「インサー!」

ロロンはリティルからもらったチョーカーから、金色のクジャクを呼び出すと飛び乗った。

金色のクジャク・インサーリーズは、ロロンを乗せ、闇を切り裂きながら奥へと飛んでくれた。  

風の鳥の翼は、闇の吹きだまりに難なくロロンを連れてきた。

闇の吹きだまりは、闇の精霊であるロロンでさえ目を凝らしてみても何も見通せなかった。そんな闇の中から、何か生き物の鼓動が聞こえてきていた。

ハッキリ言って、気味が悪い。

ロロンは、その見通せない闇と、鼓動とですっかり怖じ気づいていた。

帰ろうか。リティルやインファが決めた事に、ロロン如きが横槍を入れるなんて、大それている。こんなことしちゃいけない。ロロンは、持ってきてしまったスモーキークォーツの結晶に視線を落とした。

「ロロン」

スモーキークォーツの結晶を、インファに返さなくちゃと思っていたところだった。

まさか、シェラが追いかけてきているなんて、思っていなかった。

「ここへ来てはいけないわ。戻りましょう?」

シェラは優しい表情で、言い聞かせるように言葉をかけてきた。ロロンは、驚いて後ずさりしていた。

「どうして、いるの?」

「様子がおかしかったからよ?さあ、戻りましょう?」

ロロンは、執務室の前でシェラに会っていたことを思い出した。何も言わずに走り去ったのだ、彼女を心配させたことにやっと思い至った。

「ご、ごめんなさい!シェラ様……あの……」

ロロンは俯いた。そんなロロンの前に、気配が立った。そして、顔を覗き込むように腰をかがめたのが気配でわかった。

「ロロン、それをどうするつもりだったの?」

気がつかれた。気がつかない方がおかしい。このスモーキークォーツの結晶は子供の手では、指が回りきらないほど太いのだ。

「……シェラ様、花の姫に戻れるって言ったら、戻りたい?」

顔を上げたロロンは、問いをぶつけていた。シェラは驚いたように、瞳を見開いたが、少し考える素振りをして、控えめに笑った。

「そんな方法があるのだとしても、わたしは闇の領域を見捨てないわ」

「リティルの所に、戻れるのに?」

「あの人はとっくに、翳りの女帝であるわたしを許しているわ」

「だったらどうして、リティルに婚姻の証をわたさないの?逢いたくないの?ボク、わからないよ!シェラ様、リティルの事、好きじゃないの?」

どうして、涙が溢れるんだろう。2人は大人で、王様で、たくさんのことを知っていて、なのに、お互いを選ばないで、役目を果たすんだと頑張っていて。

一緒にいた2人は、哀しそうな顔をしていたけど、それでもどこか幸せそうに見えた。

一緒にいない2人は、笑っているけど、ちっとも幸せそうじゃない。

ロロンは、哀しそうでも、一緒にいるときの2人の方が好きだった。細い細い糸のような、すぐに切れてしまうようなそんな時間を大事にしている2人を、胸が締め付けられるほどに、応援したかった。

これに、そんな力があるのなら、ボクは!

「間違いでもなんでも!シェラ様はリティルといた方がいい!」

ロロンは持っていたスモーキークォーツの結晶を、闇に向かって投げていた。

 闇を震わせるように打っていた鼓動が、吸い込まれるように小さくなっていった。その代わりに、気配が膨れ上がるように主張を始める。

ロロンは、シェラに庇われていた。

「ロロン!逃げて!」

「シェラ様!」

何かが襲ってきた。それは、シェラの張った障壁を砕き、彼女を撃ち抜いたようにロロンには見えた。その瞬間、空間を満たしていたあの不気味な鼓動が消えていた。

「――う……あ……」

シェラの口から呻きが漏れ、その体がグラリと傾いでロロンが止める間もなく、地面に倒れていた。

「母さん!」「女王陛下!」

背後に突如気配が生まれ、同時に2人の男性の声がシェラを呼んでいた。見れば、レシェが開いたゲートから、インファとルッカサンが駆けつけた所だった。

「イ、ンファ――う……何か、から……の、中――に」

インファに助け起こされたシェラには意識があった。苦しげに言葉を紡ぐシェラの様子に、インファの顔が歪む。

「喋らないでください!レシェ、城へ!」

インファの声で、頷いたレシェが皆の足下へゲートを開いた。

 ゲートの中に落っこちた皆は、闇の城の玄関ホールにいた。

「父さんに連絡してください!オレは寝室に運びます」

「インファ!」

インファが指示して飛び立とうとした時だった。水晶球を手にしたレシェが鋭く名を呼び止めた。

何ですか!と振り返ったインファに、水晶球から声が放たれていた。

『お父さん!ちょうどよかったです。特大魔王クラス・ドラゴン型です。今すぐ来てくださいよぉ!』

「な……」

空中で、インファがシェラを横抱きにしたまま固まっている。

特大魔王クラス・ドラゴン型?よりにもよって……!そう思って、このタイミングだからですか!と、インファは怒りとも憎しみともつかない苦々しい表情を浮かべて、腕の中で浅く息をしているシェラを見下ろした。

ロミシュミルだ。あの女が、悪意を使って、風の王・リティルに魔物をぶつけたのだとすぐにわかった。翳りの女帝の役目、闇の領域の機能、魔物とは何なのか――インファは闇の城に滞在するようになって、それらを知ったのだ。

ルッカサンが見限るわけですね。心が、怒りに塗りつぶされそうになるのを、インファは何とか抑え込んだ。

「インジュ……間が悪いわ」

『はい?そうでしたぁ?』

インファは苦渋の表情を浮かべながらも、ため息を付き舞い降りてきた。ルッカサンにシェラを託すと、レシェから水晶球を受け取る。

「場所はどこですか?」

「インファ?行っちゃうの?」

ロロンは、インファの腕にぶら下がるようにしがみ付いた。そんなロロンを、ユラリとインファは見下ろした。感情のない鋭い瞳に、ビクッと身を振るわせてロロンは手を離そうとしたが、インファに掴まれていた。

「瞬殺します。なんとしてでも、父さんを母さんのところへ連れてきます!」

「レシェ、ゲートを!」と叫ぶと、インジュから場所を聞いたレシェはすぐさまゲートを開いてくれた。

「ロロン、シェラについていてあげてください」

インファは、ロロンの肩に手置くと、そう言い置いてゲートへ飛び込んで行ってしまった。

どうして?ボクがしでかしたことなのに……。ロロンは、インファが変わらずシェラのそばにいてくれと言ったことが信じられなかった。

「行きましょう、ロロン。わたし達は皆、ロミシュミルを侮っていたかもしれないわ」

どういうこと?レシェに促されて歩き始めたロロンは、しでかしたことの結果についていけずに、カタカタと震えていた。


 リティルは冷気を纏った風の中で、その姿を見据えていた。

特大魔王クラス・ドラゴン型。今、確認されている魔物の中で最も凶悪な魔物だ。

あれを、瞬殺するって?リティルはニヤリと微笑んでいた。

「瞬殺」という言葉に、あの冷静沈着なインファの怒りを感じる。

「ガアアアアアアア!」

輪郭のぼやけた黒いドラゴンが咆哮を上げた。上空でドラゴンを見ていたリティルは、明確な殺意を感じていた。

魔物に、名指しで喧嘩を売られたのは初めてだ。しかもこいつは、何の前触れもなく現れた。まるで、意図的に呼び出されたかのように。

「魔物は、悪意の残りカス、か。さすがは元素の王ってところか?」

「父さん!」

バサッとリティルの両脇に、インファとインジュが並んだ。

「ああ、待ってたぜ?なんだよ?ロミシュミルのヤツ、復活でもしたのかよ?」

「いいえ。母さんの中です。欠片と融合したロミシュミルは職権乱用を行い、あれを呼び出したと思われます」

「はい?翳りの女帝って魔物のボスなんです?」

置いてけぼりのインジュが、キョトンと首を傾げた。最強の魔物を前にしても危機感のないその様子に、リティルは苦笑した。

「そうじゃねーけどな。そのうち説明してやるよ」

「ジョーカー!」とリティルが身の内に眠る獣の名を呼ぶと、その姿が翼ある人狼へと変貌を遂げた。

続いてインファが「キング、行きますよ」と呟いた。すると、インファの体を鎧うように、半透明な金色のイヌワシの姿が重なって雄々しく翼を広げた。

「はぁい!アジャラも行っちゃうわよぉ?」

アジャラに人格交代したインジュの翼が、6色6枚へと増えた。

「さて、瞬殺するか!」

「はい!」「はぁい!」

3人の風の精霊は、巨大なドラゴン目掛けて、急降下した。


許さない……わたしを見ないなんて……!

戦うしか能のない、野蛮な鳥がチヤホヤされて、わたしは誰からも見向きもされない

これだけの悪意が溜まってるのよ?みんな、風の王のこと嫌いなんでしょう?

なのに、なんでわたしが責められるのよ!


それは、あなたが間違っているからよ

闇の領域の存在理由は、悪意の消化

生きていれば、負の感情に塗りつぶされてしまうこともあるわ。それを消化し、光に変えることが、闇の精霊の、翳りの女帝の最大の仕事よ


はあ?何言ってんの?

勝手に産まれて勝手に消えてく感情なんて、放って置けばいいのよ

闇の領域も、勝手に消化して、勝手に魔物を作り出してるじゃない


魔物が産まれてしまうのは、皆に心があるから

消化した悪意の芥に、イシュラースを満たす霊力が結びついて生まれてしまう魔物を、風の王は世界の刃として狩っているのよ?

闇の領域にもっと力があれば、少なくとも風の王が死んでしまうほどの強力な魔物を相手にせずにすむわ

あなたは、その力がありながら、職務を放棄した

精霊達が疎んじたとしても仕方ないわ。なぜなら、自分達の暮らす場所、命が脅かされるのだから


なによ!偉そうに!

あんたも思い知るわよ!悪意を生み出してるのは自分達なのに、それを消化しきれないって闇の領域を責める奴らの身勝手さをね


自分に非がないと言うつもり?


非ですって?あるわけないじゃない

わたしは悪くないわ。あいつらが勝手に――


あなたのその垂れ流している悪意は、どこへ行くのかしら?


え?


リティルを妬み、リティルを羨んで、リティルに憎悪を向けておいて、何もしていないと言うつもり?


そ、それは、調子に乗ってるから、ちょっと懲らしめようと――


今、自分が何をしたのか、わかっていないのね?


な、なにって――


「シェラ、もうそれくらいにしとけよ」

ハッと、シェラは瞳を開いた。途端に襲ってきた、引きずり込まれそうな闇の気配に、シェラは喘いだ。

どうやら、ここは寝室のベッドの上らしい。

「リティ――ル……!」

顔を覗き込んでいる愛しい人の名を、シェラは何とか呼べた。しかし、気を抜けば意識を彼女に取って代わられそうだった。そばには、今にも泣きそうな顔のロロンがいた。2人の背後には、ルッカサンが控えていた。

ロロンの肩にはリティルの手が乗っている。

ロロンは自分のせいだと責めているだろう。そんな彼の壊れそうな心を、リティルは繋ぎ止めてくれた。シェラにはそれがわかった。

「ああ、遅くなって悪かったな。特大魔王クラス・ドラゴン型は、さすがに瞬殺できなかったぜ」

シェラは瞳を見開いた。

「怪、我を……?」

「いや?インジュとインファと組んでたんだぜ?一捻りだぜ?」

よかったと僅かにシェラは微笑んだ。そんな彼女にリティルは苦笑した。

「なあ、シェラ、もう1人子供作らねーか?」

シェラの瞳が訝しげに潜められた。

「ロミシュミル、このまま滅してやってもいいんだけどな、教育し直してやろうかって、思うんだよな」

ふざけないで!と聞こえた気がした。

「あら、良い考えね。わたしも手を貸してあげるわ?」

レシェの声が聞こえたかと思うと、ロロンが彼女に場所を譲った。

「シェラ、頷いて。そうしてくれたらわたしは、あなたに還れるわ」

ロミシュミルの罵る声がする。これで、自分は無実だと言うのだから、呆れてしまう。

「再……教育、は――無理、よ」

「そうでしょうね。シェラを掌握した瞬間、魔物をリティルに差し向けるのだから。ちょっとやそっとじゃダメだと思うわ?」

2人に、ロミシュミルはもう手遅れと同じ感情を向けられ、リティルは苦笑した。

「はは、じゃあまあ、死んどくか?ロミシュミル」

「都合の悪いモノは全員殺すの?ハッ!風の王はこれだから」

 口調の変化したシェラの様子に、かかったなとリティルはレシェと目配せした。ルッカサンとロロンの気配が、静かに部屋から消えた。

ここから先は、風の仕事だ。特に幼いロロンには見せられない。リティルは事前に、ロミシュミルが釣れたらゲートで部屋の外に出ろと言っておいたのだった。

 おそらくロミシュミルは、シェラを自分が上回ったから体を乗っ取れたと思っていることだろう。シェラが譲ったというのに、それすらもわからないのだろう。

どうしてこんな未熟な精神なんだ?とリティルはルッカサンの苦労を思った。

「ずいぶんだな、ロミシュミル。今だって、大地の領域を火の海に変えちまうドラゴンを狩ってきたんだぜ?大地の王から感謝されたな」

「フン!戦う事が仕事なんだから、魔物を殺すのは当たり前じゃない!なんで、感謝なんかされるのよ!」

「そういや、大地の王、怒ってたな」

「なんですって?どうしてわたしが怒られるのよ!」

わたし。か、オレは何に対して怒ってたのかは言わなかったんだけどな。こんな簡単に自白するなんてなと、リティルは呆れた。

「そりゃ、バレてるからだろ?あのドラゴンが、誰の悪意なのか、な」

大地の王・ユグラは、リティルの親友の1人だ。あれだけあからさまな敵意を風の王に向ける魔物を見て、インファの怒りを感じて、インジュの呆れを目の当たりにして、彼女はリティルが何者かに戦わされたことを感じ取ったにすぎない。

なぜか、魔物が産まれるメカニズムは、精霊達の知識から抜けてしまっている。リティルもシェラから伝えられたノインに教えてもらい、知ったくらいだ。魔物狩りに関係のない大地の王が知らないのはもっともだ。

「!」

おまえの悪意だよな?と暗に言ってやると、ロミシュミルは青くなった。

風の王に喧嘩売って、ただで済むと思っているロミシュミルが信じられない。1度死んでいるのに懲りない。しかも15代目風の王・リティルは率いる風の城は、手を貸してくれる精霊がありがたいことに非常に多いのだ。

風の城の要であるリティルに何かあれば、その精霊達が黙っていない。精霊達が騒ぎ出せば、太陽王が出張るしかなく、そうなれば、太陽王は昼の国・セクルースの王として、風の城にロミシュミルを討てと言ってくるかもしれない。

おまえよりかは、人望あるんだな。これが。リティルは、意地悪な笑いを収めた。

しかし、わかり合えなくとも、対話したいのがリティルだ。たとえ、その果てに殺すことになっても。

「どうして、閉じこもってたんだよ?」

「それは……アンタに関係ないじゃない!」

怒った顔でロミシュミルはフイと視線をそらした。

癇癪。それは、幼い子供が、感情を上手く制御できずに喚き散らすことだ。本人の持って産まれた気質もあるが、彼女の場合、問題はこれじゃないか?とリティルには思うところがあった。

「寂しいなら、そう言わねーと伝わらないぜ?」

「な、なんで、わたしが、寂しいって……」

わかりやすいヤツだな。これで古参かよ?ロミシュミルは、創世の時代から生きている精霊だ。それなのに、この精神力。と思って、長く生きすぎたのか?とも思った。

「シェラを追ってここへ来たとき、そう感じたんだよ。オレが妬ましかったのは、家族がいたからか?風の王も、ずっと孤独だったからな。妙な仲間意識でもあったのかよ?」

「!」

……本当にわかりやすい。リティルはため息を付いた。

「図星かよ、参ったな。おまえさ、オレとシェラの娘になれよ」

「な!なななななんで!?」

「血が繋がれば、少なくとも1人じゃなくなるんだよ。離れててもな。まあ、風の城には血が繋がってなくても、オレのことを父親って呼ぶヤツもいるけどな。おまえは王だからな、風の城に連れていけねーし、そもそも体がねーしな。この方法しかねーんだよな」

「わたしを、助けようって言うの?」

「いや?やり直してーなら、やり直させてやるぜ?ってことだよ。それとも、輪廻の輪に還るか?」

リティル的にはどっちでもいい。これは、風の王の仕事だ。

「……死にたくない」

「正直なヤツは好きだぜ?おまえ、すでに死んでるからな、転生扱いだ。今までの記憶はなくなるぜ?本当にやり直しだ。いいな?」

「不本意だけど、しょうがないわね。だけど」

「ん?」

「お父さんなんて、絶対、ぜぇったい!呼んでやらないんだから!」

 リティルを睨んだ瞳が、フッと正体をなくし、ドッとベッドに倒れた。程なくして、ゆっくりと瞳が開いた。

「……リティル……終わったの?」

「話しはついたぜ?君を利用することになっちまったな」

「そう……構わないわ。だって、あなたとの子供なのだから」

「はは。レシェ、感想あるか?」

「イチャイチャしてほしいと思っていたけれど、目の当たりにすると身の置き場がなくなるわね。でも、これでやっと還れるわ。ありがとう、リティル」

「それはこっちのセリフだぜ?ありがとな、レシェ」

レシェは、シェラと同じ微笑みを浮かべた。そして、リティルと入れ替わって、横たわるシェラの隣に立った。

「ずっと一緒よ。もう、わたしを捨てないで。約束よ?シェラ」

「ええ、ごめんなさい。もう、2度と手放さないわ」

笑うレシェと同じ笑顔を浮かべ、シェラとレシェは手の平を合わせた。レシェの体が透明な光となって、シェラの手の平に流れ、そして消えていった。

 レシェを見つめていたシェラの瞳が、リティルを見た。

「ごめん!」

深々と頭を下げるリティルに、シェラは驚いて慌てて体を起こしていた。その背にあるモルフォチョウの羽根が、輝くような青色の色彩を取り戻し、その青い光を返す不思議な黒髪に丸い光の花が咲いていた。

「君の心を無視して、翳りの女帝の母親にしちまった」

「いいのよ?構わないと、そう言ったでしょう?」

近づいてこない、顔を上げないリティルに、シェラは焦っていたが、慌てて目の前でひっくり返りでもしたら、リティルに心配させてしまうと、その場から動けなかった。

「ロミシュミルは、君がうっかり殺すくらい怒ってた相手だろ?」

「それは、そうだけれど……あなたは風の王として、わたしの行いを裁く権利があると思うわ?」

「オレを、風の王にしないでくれよ」

「切り離せないモノよ?わたし達には、責任があるの。けれどもリティル」

言葉を切ったシェラの沈黙に、リティルはやっと顔を上げた。

「あなたとの子供は、どんな魂であれ嬉しくて愛しいわ。ロミシュミルは真っ新な命となるの。同じ轍を踏まないように、導かなくてはね」

「シェラ……」

「わたしを……選び続けてくれて、ありがとう。リティル、サイドテーブルの一番上の引き出しを開けてくれる?」

シェラにそう言われ、リティルはそれに従った。開くとそこには、上部に透明な板をはめこんだ箱があった。その中には、リティルにとって見慣れた物があった。

箱を見下ろしたリティルの肩を、サラリとその金糸のような髪が滑り落ちた。

「これ……」

「やっと、返せるわ。受け取ってくれますか?風の王・リティル」

箱に収まった黒いリボン。それは、シェラが翳りの女帝となったとき彼女の手で奪われた、かつてシェラが贈ってくれた婚姻の証だった。

「壊したと思ってた……」

「あなたの気配が移っていて、壊せなかったの。あなたからの婚姻の証は壊してしまったのに、自分が作った物を壊せないなんて、滑稽ね」

「オレと、もう一度夫婦やりてーって、思ってくれてたって思って、いいんだよな?」

箱を開けたリティルが、確かめるようにどこか必死にシェラを見た。

本当にこの人は……。ここで自信を疑うの?と呆れが表情に出てしまわないように押し込めながら、シェラは穏やかに返した。

「それは、わたしのセリフだと思うわ?浮気したあげく、風の王妃とは思えない行いをして、一方的に離婚した女よ?もう一度わたしを選ぶあなたは、どうかしているわ」

「どうかしててもいいんだよ!オレには、君じゃねーと、ダメなんだ」

「本当に……どうかしているわ……」

リティルの手を、放したくなかった。闇に干渉されたとはいえ、当時のシェラは、それが最善だと思った。我に返ったシェラは悔いることすらできず、ひたすらに翳りの女帝を全うしようと足掻くしかなかった。自業自得だ。わかっている。そんな、自業自得で自己満足な元王妃を、リティルは今の今まで手放さなかった。

もう一度、その腕の中に戻れるなんて、思っていなかった。その代償が、夫を苦しめた女の救済だとしても、それが、風の王・リティルの策略なのだとしても、構わない。

どんな手を使ってでも、罪深い元王妃を連れ戻したかった彼の、狂った愛情を拒むつもりはないのだ。

「愛しているわ。愛しているのよ?リティル!」

望み続け、手に入れて、それからずっと放さないでと望み続けた人の胸へ、シェラは華奢な蝶の羽根を羽ばたかせて飛び込んでいた。

リティルの手から箱が落ちた音がした。片方に拳を握った手が、シェラの背に回ってくる感触がした。

「君に狂っててよかった……。何度も、諦めそうになったんだぜ?何度も、終わったと思った。何度も――」


「君の夢を見た」


「夢の中のわたしは、積極的だった?」

顔を上げたシェラは、ウフフと笑った。リティルは、ハッとレシェに夜這いをかけられたことを思い出したらしい。

「あー……墓穴掘ったな……現実の君はどうなんだよ?」

からかうような切り返しをしてきたリティルの瞳に、僅かな期待とも取れる熱を見た。

「試してみる?」

「ホントか?試す試す!」

2人は笑い合いながら、どちらともなく顔を近づけ、味わうように口づけを交わしたのだった。


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