三章 風の王の唯一無二の花
その日は、ある客の訪問で風の城の応接間は重苦しい空気に包まれることになった。
ラスは来客に紅茶を淹れると、背後に控えた。来客は、枝分かれした立派な鹿の角を生やした、貴婦人だった。彼女が紅茶を一口飲む様を、リティルは向かいから押し黙ったまま見ていた。
彼女のことは、ラスもよく知っている。
神樹の精霊・ナーガニア。次元を渡るゲートの力を持ち、風の王と一家を異界や望みの場所に渡らせてくれる、風の城と懇意の精霊だ。関係は悪くないのだが、この暗い雰囲気には理由があった。
「……リティル、花の咲く兆候があります」
ナーガニアは、重い空気を無視して、おもむろに口を開いた。
「そうか……」
「どうするのですか?」
「どうって、どうにもならねーだろ?歴代王と同じく、受け取れねーだけだろ?」
リティルはため息交じりに答えた。
「シェラを、諦めるのですか?」
「はあ?どうしてそんな話しに、ってか、新しく咲く花の心配はしねーのかよ?」
「娘達は、風の王の気持ちなどお構いなしです。あなたが気にすることはないのですよ?それよりも、シェラの事です!なぜ、婚姻を結ばないのですか?愛人などとふざけているのですか?」
バンッとナーガニアは貴婦人にあるまじき態度で、机に手をつくとリティルに詰め寄った。
詰め寄られたリティルはタジタジだった。
「お、落ち着けよ……嘘だろ……?そんなこと、あんたに言われるなんて思わなかったぜ?」
ナーガニアは、神樹の花の精霊である花の姫の母親に当たる精霊だ。といっても、腹を痛めて産んだのではない。存在的に母なのだ。元花の姫であるシェラの精霊的母親で、リティルとは義理の親子の関係にある。
神樹から離れないはずの彼女が訪ねてきたのは、神樹に、新たな花――花の姫が生まれる兆しがあると言いにきてくれたのだ。
ナーガニアは、リティルとシェラが愛し合っていることを知っている。心配してくれたのだろうと思っていたが、まさかシェラと再婚しろと迫られるとは思っていなかった。
そういえばナーガニアは、娘達――花の姫のことを快く思っていないところがあった。娘達は風の王をいいように翻弄し、そして裏切るのだと、かつてリティルも婚姻前に彼女から警告を受けていたほどだ。
彼女は、シェラが翳りの女帝となって、花の姫をやめたときもこうやって乗り込んできた。そして「あの娘も浅はかな花の姫だったのですね!」と謝罪を繰り返して取り乱して泣いてくれた。シェラに去られ、憔悴していたリティルは、自分のことのように心を痛めて泣いてくれたナーガニアの姿に、立ち直る切っ掛けを得たのだ。
ナーガニアのおかげで、リティルにしては驚くほど早く立ち直れ、あの「乱心の風の王事件」に繋がり、闇の領域とシェラを救うことができたのだ。もしリティルがあのまま塞ぎ込んでいたなら、シェラは1人孤独に闇にすり潰されて、命を落としていたかもしれない。
「誰も進言しなかったのですか?花の王も夕暮れの太陽王もなんと不甲斐ない……。婿殿、此度は娘が不始末をしでかし申し訳ありませんでした。ですが、想いは消えてはいないのでしょう?では、よろしいではありませんか」
どうしてこう強引なんだよ?リティルは苦笑するしかなかった。
ナーガニアはいつでもこうだ。なぜかリティルの肩を持ってくれる。シェラに何かあれば、慰めてくれもした。そして今、リティルがしたくてもできないことを、やれ!と言って背中をバンバン押してくれる。
「わからねーだろ?番の姫を、世界は用意してきやがったんだからな」
「あなたが、世界などというモノに負けると?誰も思っていません。そう思っているのは、あなたとシェラだけです。婿殿、あなたに花の姫は必要ではありませんよ。必要なのは安らぎです。それは、最愛だと言ってくれている、シェラだけが与えられる物ではないのですか?」
ナーガニアは、諭すように言葉をかけてくれた。だが、リティルは素直には受け取れなかった。
「……これから咲く花、不幸にならねーか?」
「バカですね、あなたは!新たに産まれる花の姫に心を奪われても知りませんよ!」
ナーガニアは立ち上がると、吐き捨てるようにそう言いゲートを開いて行ってしまった。出て行くときラスに「美味しい紅茶をごちそうさま」と言うのを忘れずに。
それを心配してるから、シェラと婚姻を結べないんだ……とは、リティルはどうしても、義母に当たるナーガニアに言えなかった。
花の姫と風の王は番だ。その関係は必然の運命だ。今、シェラ一筋だと言えていても、どう作用するかわからない。翳りの女帝と婚姻を交わし、もしもリティルが花の姫に目移りしてしまったら?リティルはこれ以上、シェラを傷つけたくはなかった。
ハアとため息を付いて悶々としていると、ラスが紅茶を入れ替えてくれた。
「大丈夫?リティル」
「ああ?ああ……あんまり大丈夫じゃねーな……。なあ、ラス、番ってどんな感じなんだ?」
旋律の精霊・ラスには、歌の精霊・エリュフィナという妻がいる。彼女とは番という関係だ。ラスは前髪に隠れていない右目を瞬いた。
「どんな?って言われても。普通に夫婦だと思うよ。リティルだって、シェラとそうだっただろう?」
「オレ、シェラとは恋愛婚だぜ?」
「オレも同じだよ。仲を取り持ってくれたのは、リティルじゃないか。これまでの歴代風の王は拒み続けたんなら、選ぶのはリティル自身だよ」
歴代風の王と花の姫は、悲恋だっただけでみんな両思いだったぜ?とは、ラスに言えなかった。
賢魔王という異名を持つ5代目風の王・インラジュールと、ある固有魔法を使って、花の姫とのことについて話したことがあったが、呪いの如き強制力で恋に落ちたと言っていた。魔導に精通し、恋愛に奔放だった彼の王も、花の姫は本命だったといい、生前手は出せなかったのだ。色欲魔・インラジュールの秘めるほどに本気の恋。今、シェラを最愛と言い切れるリティルも、どうなるかわからない。
なるようにしかならない。そう思ってこれまで生きてきたが、シェラと完全に別たれるかもしれないことが、これほど恐怖なのに、その想いすら、消えてなくなるかもしれないことに、リティルは絶望に似た感情を抱いていた。
シェラを、唯一無二と想い続けたい。その想いを、なくすくらいなら死にたい。
リティルはただただ、恐怖していた。
そうして、神樹は新たな花の姫を咲かせた。
名は、レシェ。緑の髪の、緑の大きめな瞳の、可憐さと美しさを兼ね備えた美姫だった。
彼女が目覚めて即、風の城にナーガニアが怒鳴り込んできた。
「婿殿!今後一切神樹の森へ近づいてはなりませんよ!」
あまりの剣幕に、リティルのみならず、共にいたインファも若干引いていた。
「な?なんだよ、どうしたんだよ?それじゃ、オレ、移動に時間ばっかりかかるじゃねーか」
神樹に近づくなということは、ゲートを使うなということだ。シェラがいたときは彼女が開いてくれていたが、今はその恩恵も得られない。リティルが抗議すると、ナーガニアはズイッと両手を差し出した。見れば、紐を通された小さな鏡が乗っていた。
「ゲートを仕込みました。あなたはこれでどこへでも移動なさい!」
「おいおい……」
強引に首飾りを押しつけられ、睨まれてリティルは意味がわからず、だが断れずにそれを首にかけた。
「17代目花の姫が目覚めましたね。彼女と何か関係があるんですか?」
ナーガニアの剣幕から立ち直ったらしいインファが、問うた。
「シェラと、容姿が似通っているのです。瓜二つといっていいほどです!リティル、レシェを受け入れてはなりません。これはシェラの名誉を傷つけることです!」
「そんなに似てるのかよ……だったら、会わないわけにはいかねーよな?」
「婿殿!」
「17代目は、オレのこと好きだって言ってるのかよ?」
「それは、まだ。しかし、会えばどうなるか!」
「惚れるのは、オレか?それとも17代目か」
ははと、リティルは嘲笑った。
「リティル!冗談ではありませんよ?」
「オレも、冗談じゃねーよ。インファ、オレが1時間で戻ってこなかったら、ラスを迎えに寄越してくれよ?」
「了解しました。ナーガニア、王の邪魔はしないでください。遅かれ早かれ、運命が2人を引き合わせますよ。それが、早いか遅いかだけのことです。恋愛感情など、一時の気の迷いです。魔法の類いです。その気の迷いに左右されるのならそれはもう、どうしようもありません」
「インファ!あなたはそれを、奥方の前でもう一度言えますか?」
「セリアとオレは、精霊的に何の繋がりもありませんよ。運命ではありません。たまたま出会って、たまたま愛し合っただけです。番という運命が父さんと17代目を結びつけるのなら、もう、誰が何を言っても、画策しても無駄ではないですか。オレとセリアは、恋をしましたよ?心を育んだ時間が、確かにあります。それもなく、一瞬で恋に落ちるなら、それはもう抗えないモノ、運命です」
「はは、その魔法、確かめてくるぜ」
リティルは、ナーガニアにもらったばかりの首飾りからゲートを開き、一瞬の躊躇いもなく現れた歪みに飛び込んで行ってしまった。
「まったく、ややこしいことをしてくれましたね。ナーガニア、どんなことが父さんの心に起こったとしても、父さんが取る行動は1つです」
リティルを追えずに、放心したようにストンと腰を下ろしたナーガニアは、どこまでも冷静な声色のインファを見た。
「17代目と婚姻を結ぶことはありません。もちろん、母ともです。2人への想いを誰にも見せずに、父さんはこれから生きていくんですよ」
インファは、ナーガニアの前だというのに悔しさを滲ませ「15代目風の王は、永遠に安らぎを失ったんです」と言った。
ゲートを越えたリティルは、座標を寸分違わず、神樹の天蓋のように広がった梢の上に出ていた。
シェラと出会ったのは、グロウタースだ。神樹にシェラがいたことはない。グロウタースから引き上げてきて、2人即風の城だった。リティルは、歴代の王達はここで花の姫に会っていたのかと、感慨深いモノを感じた。
「誰?」
声まで似てるんだな?リティルはガサリと音を立てて、枝葉の上に現れた少女の面影を残した大人の女性の姿を見た。
緑色の髪と瞳の美姫――髪と瞳の色こそ違えど、翳りの女帝・シェラと瓜二つの精霊がそこにいた。
「15代目風の王・リティルだよ。君は、17代目花の姫・レシェだよな?」
「あなたが風の王……」
レシェは緊張気味に、リティルのことを観察するように見つめていた。
「君は、この世界の事、どれくらいわかってるんだ?」
「わたしは、風の王の番となる精霊よ。婚姻を結びに来たの?」
「いや?オレの最愛の人と瓜二つだって聞いて、見に来たんだよ」
「最愛?」
「君の前任の花の姫だよ。16代目花の姫・シェラ。今は翳りの女帝だな」
「婚姻はその人と?」
「あいつをこれ以上傷つけられねーよ」
「傷つける?なぜ?最愛なのでしょう?」
話し方まで同じかよ?リティルは何とも言えない気分になった。
「ああ、最愛だな。あいつは、オレの言葉なんて信じねーよ」
リティルは遠慮なく、立ったままのレシェの前に胡坐をかいて座り込んだ。
「オレがどんなに、例えば愛してるって囁いたとしても、あいつは、オレが一生君だけだっていった言葉を、違えない為に言ってるんだって思っちまう。婚姻の証にしたってそうだよ。オレが花の姫への想いを隠して、心変わりしてねーってアピールのために贈られたんだって思うだけだ。それで自分は、オレを焦がれるほど愛してるんだよ!永遠にな!」
憎らしげに拳を握ったリティルは、一旦言葉を切るとため息を付いた。そして、顔を上げる。
「はは、君に会って1つわかったことがあるんだ。オレ、君のことは抱けるぜ?」
レシェは唐突な言葉に瞳を瞬いたが、少し考える素振りを見せた後、リティルを見返した。
「わたしも、あなたになら抱かれてもいいわ。不思議ね。今、初めて会った人にこんな想いを抱くなんてどうかしてるわ。こんな感情を抱いたのは、あなたが初めてよ」
「オレが初めてって、他にも誰かに会ったのかよ?君、目覚めたばっかりなんだろ?」
誰も何も言っていなかった。いったい誰に会ったのだろうか。一応の序列はあるものの、あまり関係ないのが精霊という種族だ。他の王がどうしたとか、リティルが知る義務はないし。報告されることもない。懇意にしている精霊が世間話に通信してくるだけだが……誰も何も言ってこなかった。
「2日前よ。太陽王夫妻に続いて、花の王夫妻とその子供達が順番に会いに来たわ。それから、破壊の精霊と再生の精霊が来たわね」
太陽王はこの昼の国・セクルースの支配者だ。最上級の新精霊がどういう精霊か見に行ったとしても不思議はない。……太陽王夫妻とは懇意だ。十中八九、リティルの為にレシェと会ったのだろうが。しかし、破壊と再生?あいつら何してんだよ?とリティルは思った。
「はあ?あいつら……何か言われたか?破壊と再生は風の城の居候だ。破壊は、オレの養女でシェラが大好きだった。いい顔はしなかっただろ?」
「あなたは、変わった人ね」
レシェはフフとおかしそうに笑った。その微笑みまで、シェラと同じだった。
「ええ、カルシエーナはわたしをずっと睨んでいたわね。それから、お母さんの姿をして、どういうつもりだって怒りだして、ケルディアスに止められていたわね」
「ごめん。その姿で目覚めたのは、君のせいじゃねーのにな。カルシエーナは、ここへは近づけさせねーよ」
やっぱりそうなったか。2人は夜の国・ルキルースの精霊だ。セクルースの法は通じないが、今は風の王・リティルの預かりだ。問題を起こしてくれるなよ?と祈るような気分だった。
「わたしと翳りの女帝はそんなに似ているの?」
レシェは「気にしないわ」と首を横に振ると、そう問うた。
「会いに行ってみろよ。ビックリするぜ?グロウタースで言うなら君とあいつは、双子の姉妹だぜ?」
リティルは笑った。その笑顔をレシェは不思議な心持ちで眺めていた。これまで会いに来てくれた精霊達は皆、戸惑ったような顔をして笑っていた。母であるナーガニアでさえそうなのだ。この容姿に何かあるのは、すぐに気がついた。そしてカルシエーナが「お母さんの姿」と言った。彼等は自分と近しい間柄の者と同じ姿をしているから、戸惑っていたのだということはわかった。
そしてそれは、番である15代目風の王・リティルの最愛の人だということを知ったわけだが、普通なら会いに行くなと言うところではないのだろうか。
「嫌悪しないの?あなた達からすれば、わたしは、あなたを惑わせる存在に他ならないわ。皆、口には出さなかったけれど、同じ思いを抱いたと思うわよ?」
「君は、怒っていいと思うぜ?」
リティルは、同情するような視線を向けて、真剣に「怒れよ」と言ってきた。レシェは本当に変わっていると、リティルのことをそう思った。
「ねえ、シェラに会いに行ってもいいかしら?」
リティルに興味が湧いて、同じくらい彼の愛している人に興味が湧いた。彼の言った「会いに行ってみろ」はからかっているのだと思ったが、そうではなかったらしい。リティルは興味なさげに返してきた。
「オレに止める権利なんてねーよ。好きにしろよ。ただ、あいつは1人で情念を燃やすタイプだ。そこにオレが入れる隙がねーのが寂しいよな」
なるほど。とレシェは思った。彼は拗ねているのだろう。
想いをその言葉の通りに受け取ってくれないシェラの心に、波風立てたいのだ。けれども、思惑通り波風立てたとしても、彼が望む行動を彼女がしてくれないことも、すでにわかっているのだろう。
「わたし、たぶん恋愛感情がないわ」
「へ?」
「相手の霊力がほしいと思うことと、相手が好きだと、その心がほしいと思う気持ちは同じではないでしょう?わたしは、あなたに抱かれてもいいと思っているわ。けれども、好きだからではないのよ」
リティルは戸惑ったようだったが、しばらく考えてからレシェを見た。
「それは切っ掛けだと思うぜ?オレが牽制しなけりゃ、君は、それを恋愛感情だって勘違いしたはずなんだ。はは、そうか。風の王達が受け入れられなかったはずだよな」
リティルは長年の疑問が解けたかのような、清々しい笑みを俯いて浮かべると、再びレシェに視線を合わせた。
「風の王の理性は化け物だ。そんな性格のヤツが、初対面で欲情しちまったら、もう動けねーよな。けど、それだって気になってることには違いねーんだ。君とオレは、これから顔を合わせていけば、確実に恋に落ちるぜ?」
「会わなければいいわ」
「運命が引き合うさ。これは、逃れられねーことなんだよ」
「あなたは、それでいいの?」
「恋愛ってヤツは、1人じゃできねーだろ?シェラは、永遠に手の届かねー高嶺の花になっちまったな……。はは……こんな残酷だなんて、思わなかったぜ」
リティルは自分が悔しそうに泣きそうな顔をしていることに、気がついているだろうか。レシェとしては、番が心を痛めるようなことはしてほしくない。
「わたし達の進展を止めるには、どうすればいいの?」
「終わった恋愛が過去になることなんて、グロウタースじゃ普通だぜ?オレの心もそうなるさ。そしたら君は、過去がある風の王を手に入れるだけだ。その時オレは言うんだ」
「シェラのことは過去だ。今は君が1番好きだぜ?ってな」
そんな言葉を望むようになるというの?レシェはいまいちピンときていなかった。
「ごめん、それでもオレは、一秒でも長くシェラを好きでいたいんだ。最悪な出会いになっちまったな。けど、千年後にはたぶん笑い話だぜ?」
リティルはそう言って、無理に笑うと「じゃあな」と言ってどこかへ飛び去った。
いつかわかると彼は確信しているようだが、本当に?と想う気持ちの方がレシェには強かった。
身を焦がすほどに愛している。そう、自意識過剰な発言をしていたが、そんな愛情を持つ人が、リティルの心がなくなるほどの長い年月、何もしないでただ見ている事なんてできるのだろうか。リティルは、シェラが行動しないことを確信しているようだが、それこそ信じられなかった。きっと彼女は動く。シェラはそんな人だと思うと、レシェは会ってもいないのに信じていた。
レシェは、ゲートを開くと、闇の領域に向かうことにした。
会ってみたいと思ったのだ。花の姫・レシェという存在が、翳りの女帝を激高させることになったとしても、会って、確かめたかった。
あなたに、風の王・リティルに対する愛はあるの?あるなら、それはどれほどのモノなの?あの人、あなたの愛に勝手に負けるつもりよ?
シェラがどんな回答をくれるのか、楽しみだった。
リティルがなんと思っていても、レシェには恋愛感情はない。あるのは、冷静な分析。ただ、感情はあるのだ。欲望も。欲望と論理的な解釈があれば、リティルと恋に落ちることはできるだろう。シェラを忘れたリティルに、花の姫の存在理由である風の王への惜しみない安らぎは与える事はできるだろう。
それはそれで、幸せなんだろう。
だが、レシェは知りたかった。自分にはない愛という感情を。
一秒でも長く好きでいたいと言ったリティルの愛情を向けられているシェラの、身を焦がすほどの愛。
リティルがレシェを侮ったことに気がついたのは、もう少し後のことだった。
リティルと、もうどれくらい逢っていないのだろうか。
1週間?1ヶ月?1年?百年?時間の流れは、あのとき、彼と暗黙のうちにこれが最後だと思った瞬間にシェラの中から時の流れは消え去った。
日々、闇の領域を運営するための仕事に没頭するだけで、シェラの世界は色をなくした。皆には悪いが、こうやって徐々に、闇の領域はロミシュミルが女帝をやっていた時と同じように、セクルースとルキルースの間に帰っていくのだろう。心に光を保ってくれるものを、シェラはリティル以外に見いだせないのだから。
リティル……あなたの笑顔も、あなたの声も、あなたのぬくもりも、すべて色褪せて消えていく。それでもわたしは、永遠にあなたを想い続けるのね。顔さえ思い出せなくなっても、シェラはリティルへの想いを失わない確信があった。
そんなことを思っていた今日、闇の城に来客があった。
彼女の顔を見た闇の精霊達が、追い返そうとしていたが、シェラは彼女に会った。
「わたしは17代目花の姫・レシェ。あなたが、翳りの女帝・シェラね?」
遠いから玉座から降りたいと言ったのだが、ルッカサンが許してくれなかったため、シェラは訪ねてきたレシェを見下ろすしかなかった。高圧的な態度を取りたかったわけではないのに、困ったわと、シェラの心は驚くほどに冷静だった。
「リティルの言っていた通りなのね。驚いたわ」
すでにリティルには会っているのね?シェラはそのことに驚くこともなければ、傷つくこともなかった。いつかこんな日が来ることを、リティルと2人、わかっていたのだから。だからこそ、2人は2度と逢わないことを選んだのだから。
花の姫との番の運命で、リティルはシェラへの気持ちがなくなることを危惧していた。心変わりした元夫の姿を見せないために、リティルは2度と、シェラの前に姿を現さないことを決めたのだ。
愛されているわね。シェラのリティルへの想いは、こうして、リティルの手によって守られるのだ。永遠に。
「シェラ、リティルはわたしに、あなたを一秒でも長く想っていたいと言ったわ。このまま、彼の心の中から消えるのを待っているの?」
「リティルの心の中からわたしが消えることを、わたしが知ることはないわ。もう、わたし達の道は別たれているのよ?あの人が誰を愛そうと、わたしには関係のないことだわ」
「そうかしら?わたしの存在を疎ましく思ったり、排除したいと思ったりしないの?」
シェラは眉根を潜めた。これは挑発だろうか?宣戦布告?シェラに危害を加えられたとリティルに泣きついて、同情を買って取り入ろうという作戦だろうか。
「わたしが、あなたのために動くことはないわよ?あの人の心を勝ち取りたいなら、わたしではなくリティルに働きかけなければいけないわ?」
「そうではないわ。わたしは、あなたとリティルが、どう愛し合うのかに興味があるのよ」
シェラは瞳を瞬いた。予期しない言葉だった。
あなたとリティルが、どう愛し合うのか?何を言っているのだろうか。彼女は花の姫ではないのだろうか。風の王との番の精霊。必然の関係。かつてのシェラがそうだった。かつてのシェラの位置にいる精霊。
「終わっているわよ?あなたが目覚めた今、わたしはあの人にとって、過去の女にすぎないわ。あの人に安らぎと愛を与えるのは、あなたの役目でしょう?」
「終わっていないわ?リティルは、1秒でも長くあなたを想っていたいと言ったのよ?それに、あなたもリティルを今でも愛しているのでしょう?」
「あなたは、今すぐリティルを想うことをやめろと、そう言いに来たの?」
シェラの言葉に、レシェは首を傾げた。
「わたしがそう言ったからといって、消えてなくなるモノではないのではないの?知りたいと思っただけよ」
「何を?」
「わたしには、恋愛感情がないわ。あるのは、風の王の霊力がほしいという欲望だけ。けれども、恋や愛に似た想いなら抱けるでしょうね」
「それだけで、十分ではないの?風の王を思って、彼を癒やすことができればそれで。そんなあなたを、リティルは愛すわ」
「リティルは、あなたの愛を、身を焦がすほどだと言ったわ。そして、自分が入る隙はないのだとも。わたしがここにきても、あなたの心に僅かな風も吹かせることはできないと、確信してもいたわね。そして、それは本当だったわ。ねえ、千年もの間、リティルを苦しめ続けるの?あなたの揺るがない愛の前に、リティルが屈服するまで見ているの?」
「千年?」
「あなたを忘れるまで、それくらいかかると言っていたわ。わたしから見れば、本当に忘れられるのか疑問ね。リティルもリティルだと思うけれど、あなたもあなただわ」
「ならば、わたしを忘れさせてあげて」
「できないわ。わたしを抱けば、リティルは壊れてしまうわよ?わたしのこの姿は、リティルの安らぎにはなりえないわ。なぜ、こんな姿で目覚めさせられたのか疑問ね。世界は風の王を葬りたいのかしら。シェラ、見せてほしいわね。風の王・リティルを愛しているというのなら、彼を守って見せて」
言葉を失ったシェラに、レシェはため息を付いた。前途多難ねと言いたげに。おかしい何かがおかしい。番という理に支配される前にリティルとの恋が成就してしまったシェラには、歴代花の姫の心がどうだったのかわからない。だが、皆風の王を取られたくないと思っていたはずだ。なのにレシェは?何か、もの凄くズレている気がするのだが……。
「シェラ、3日後また来るわ。どうにかしてこの城へリティルを呼んで」
「え?」
「髪の色を黒くして、瞳の色を紅茶色にして、リティルの前へ立つわ。何が起こるのか、興味を持ってくれると嬉しいわね」
フフと、レシェはシェラと同じ顔に同じ微笑みを浮かべた。
「そ、そんなこと……」
「結末を見れば、リティルも納得するわ?」
絶対に呼んでおいてと、そう言ってレシェは帰っていった。
シェラは、玉座から動けずに、項垂れた。
リティルを試そうというの?レシェとシェラを間違えないかを?そんなことをして、何になるというのか。シェラはレシェがわからなかった。
「女王陛下、リティル様に連絡を取りましょう」
ルッカサンは、本当に変わってしまった。リティルは、翳りの女帝の右腕までをも誑し込んでしまった。見下ろせば、ノインとリャリスが仕込んでくれた闇の精霊達が、こちらを見上げて立っていた。皆の心もルッカサンと同じらしい。シェラを心から心配してくれている。
風の王と翳りの女帝では、ただの恋愛にしかならないのに。しかも、お互い王という立場上、共に暮らすことはできない。シェラはこの闇の領域をセクルースで維持する為に、この領域から出ることはできない。一方リティルは、仕事中毒の風の王だ。逢えるのは、年に1回あればいい方だろう。
そんな逢瀬だけで、永遠に繋いでいけというの?番の花の姫がいるのに?
勝てっこない。勝てっこないわ?いかに、リティルの心がシェラを渇望していても、同じ顔をした花の姫が手の届く場所にいて、心が傾かないはずない。
その様を、見ていろというの?ずいぶん、残酷ね。シェラは途方に暮れた。
皆の視線に答えられないシェラは、ロロンがいつの間にかいなくなっていることに気がつくことはなかった。
どうしてこうなった?
リティルは頭を抱えていた。そんなリティルの向かいには、同情するような瞳で押し黙っているナーガニアがいた。
「レシェが、シェラと自分を見間違えないか、オレを試すって?いや、ナーガニア……それバラしちまっていいのかよ?」
「わたしとて、首を突っ込みたくはありませんでした!しかし、あの場でロロンを捕まえねば、ロロンがどうなっていたか……。あなたの大事にしている者を、傷つけるのは本意ではないのです」
レシェが傷つけられるのではなく、ロロンがと言ったところがまた、レシェの気質がシェラに近いことを物語っていた。どこまで似てるんだよ?とゲンナリだ。
「何考えてるんだよ?オレがシェラがどっちか見抜いたって、レシェの思い通りになるはずないんだぜ?」
リティルは情けない顔を上げた。
「あの娘が何を考えているのか、私にはわかりません。しかし、レシェがシェラに何かしら仕掛けたことは確かです。闇の城から連絡はありましたか?」
ナーガニアは、シェラのことも案じてくれているようだった。それには、素直に感謝する。
「いや、まだだな。っと、来たぜ?」
リティルは闇色に輝いた水晶球に、ナーガニアに喋るなよ?と言い置いてから触れた。
『リティル様、お久しゅうございますな』
通信相手はルッカサンだった。リティルはシェラじゃなくてよかったと、胸をなで下ろした。
「ルッカサン?なんだよ、どうかしたのかよ?」
平常心平常心……
『それが、女王陛下が伏せっておりまして』
平常心平常……ん?
「シェラが?何かあったのか!?」
リティルの頭をよぎったのは、シェラがレシェになにかされたのでは?ということだった。あの、シェラに激似のレシェが、姑息な手を使うとは思えなかったが、そう思ってしまったのは、シェラが好きで、レシェが恋敵に他ならないからだ。そんなことを思ってしまうなんて、どうかしているとリティルは泣きたくなったが、顔に出している場合ではない。
『花の姫と名乗るお方が突然訪問しまして、お止めしたのですよ?執務に精を出してしまわれたのです』
「なんだよ……疲れただけじゃねーか……脅かすなよな」
『リティル様、明日、闇の城にお越し頂くことはできませんかな?』
来た!とリティルとナーガニアは息を飲んだ。
「ん?寝てるなら、そっとしておけよな。オレが行ったら、逆効果だぜ?」
『明日、花の姫が来られるのです。リティル様、花の姫とはお会いになられましたかな?』
「あ……ああ、まあな……。シェラに、何の用だよ?」
『リティル様が、女王陛下と花の姫を間違えないか知りたいと、喧嘩を売られました』
喧嘩売られたと思うんだな?リティルは頭痛がした。
「……違うんだ……。レシェは、オレがシェラを見間違えないか試してーだけなんだよ。そこに何の感情もねーんだよ。ってか、おまえ、バラしていいのかよ!」
ナーガニアに続いてルッカサンまで!?みんなオレとシェラの味方かよ!すげーな!と思って、目覚めたばかりのレシェは孤立無援なのでは?と少し心配になった。
『あなた様に伏せている理由がありませんな。リティル様、事情を知っておいででしたら、今からでも来て頂くわけにはいきませんかな?』
「いや、シェラ、寝てるんだろ?明日、行くよ。何食わぬ顔でな」
『さようでございますか……。では、お待ちしております』
明日と言ったリティルの言葉に、明らかに不満そうだったが、喰い下がらないのがルッカサンだ。彼との通信は切れた。
リティルは脱力した。
「わざと間違えたら、もう、ちょっかいかけられねーかな……」
「バカなことを。シェラに傷ついた顔をされたくなくて、そんなことできないでしょうに」
「はは……あんた、オレのことわかってるのな……」
「あなたほどわかりやすい人はいません。しかし、レシェは本気であなたとシェラの仲を取り持とうと?しかし、なぜ?」
ナーガニアも意味がわからないと首を傾げた。それにはリティルも同意見だ。そんなことをして、レシェにどんなメリットがあるというのかまったくわからない。
「不可能だぜ?オレとシェラは行き来できるような立場にねーしな。オレとレシェの方が顔を合わせる頻度が高いだろ?オレはきっと絆される。シェラに希望持たせて、それで結局裏切るなら、最初から逢わねーほうがいいだろ?」
リティルは疲れた顔をして、自分で言っていて傷ついているのがわかった。ナーガニアの心配そうな、気遣ってくれる表情にまた傷ついた。
「婿殿……断ればよかったのではないのですか?」
「レシェがシェラを揺さぶったことは確かだ。あいつが揺さぶられるなんて、ビックリだぜ?オレが行かなかったら、結局シェラは傷つく。行くさ。あいつはオレの最愛だ」
力なく笑ったリティルは、辛そうに頭を垂れてしまった。取り繕う元気はなかった。
当日、ナーガニアは同行を申し出てくれたが、リティルは丁重に断った。
それよりも、神樹からこんなに頻繁に出てきていいのだろうか。そっちの方がリティルは気になったが、ゲートは私が開くと言ってくれたことには甘えた。
そうして、リティルはもう、いつぶりになるのか忘れてしまった闇の城に足を踏み入れたのだった。そして、目の前に飛び込んで来た光景に、リティルは頭痛を感じて眉間に手を当てた。
「おい、これは何の冗談だよ?」
レシェが、シェラと自分を間違えないかリティルに試すとは聞いていたが、予想外だった。
リティルの目の前には、寸分違わず同じ恰好をした2人のシェラが立っていたのだ。
てっきり、入れ替わって玉座にいるものと思っていただけに、愛しのシェラが2人いる状況はリティルにとって、視界の暴力だった。ここから早く逃げたい。久しぶりすぎて、シェラに見とれているのがバレたくなかった。
「いらっしゃいリティル、ねえ、どっちがどっちかわかる?」
トコトコとゲンナリした顔で現れたのはロロンだった。そこへ、リティルの訪問を察知したルッカサンが駆けつけた。
「リティル様、ようこそお越しくださいました。それでは――」
「こっちがシェラで、そっちがレシェ。で、あってるか?」
ルッカサンの言葉を最後まで聞かずに、焦れたリティルは正解を言い当てていた。早く逃げたい。それは切実だった。
「なぜわかったの?城の人で試したけれど、わかる人はいなかったのよ?」
これはレシェだ。声も抑揚も一緒でどうにもやりにくい。
「ああ?秘密。じゃあ、オレ帰るぜ?シェラ、ちゃんと寝ろよ?君が倒れたって、ルッカサンが慌てて連絡してきたんだからな」
「え?ええ」
シェラはどこか放心しているようだった。なぜリティルがわかったのか、本気でわからないらしい。
そんなの、表情を見ればわかる。レシェの瞳には期待の色が、シェラの瞳には不安があったのだから。ただ、あれに気がつくのは世界広しといえどもオレだけだと、変な自信を持っているリティルなのだった。
リティルがさっさと帰ってしまった後、何とも言えない表情をしているシェラに、レシェは言った。
「ねえ、シェラ、いつまで意地を張るの?わたし達を一目で見抜いたリティルが誰を見ているのか、わからないわけはないでしょう?」
「それは……けれども、あなたは?」
レシェはフフと笑った。「わたしの心配?」と。それは、リティルもしてくれた。この元夫婦は本当にどうしようもなくお人好しだ。だから周りが心配するのだろう。
「あなたの代わりに、守ってあげるわ。だから、何とかしてリティルの心を繋ぎ止めて」
シェラには複雑そうな顔をした。何を考えているのか、疑問以外何もないのだろう。
疑問は当然だが、素直に話したとしても2人が、いや誰も信じてはくれないだろう。だが、恋愛感情のないレシェはただ、知的探究心のために、2人がどんなことをしてお互いの心を自分の心を繋ぎ止めるのか見てみたかっただけなのだ。
この探究心が満たされた後は、探そう。ここに目覚めた意味を。こんな風の王を想わない花の姫が目覚めたのだ。きっとそれには意味があるだろう。
2人は諦めているようだが、そうはいかない。レシェは、リティルを手に入れる気はなかった。それよりも、この2人を見ていたい。隣で甘い囁きを聞くよりも、見ている方が楽しいと、レシェは、リティルに逢えるとソワソワしていると思ったら、不安そうに空を見上げているシェラを見ていて確信していた。面白い。シェラは実に魅力的だ。
「ねえ、シェラ、これからも遊びに来ていいかしら?」
どういうつもり?と眉根を潜めるシェラが可愛い。せいぜい揺さぶって、リティルを刺激してやろう。恋愛には、スパイスが必要なのだから。
見たところ、助けが必要なのはリティルではなくシェラの方に見えた。
闇の領域のことはよくわからないが、手助けできるかもしれない。レシェは退屈な日常が一気に面白く変わったことに高揚していた。
リティルは今日何度目かのため息を付いた。
「リティル、ルッカサンのことは放っておいていいのよ?あの人、大袈裟に言うのだから」
リティルは闇の城の執務室のソファーにいた。目の前には、タワーのような皿にサンドイッチやスコーン、小さなケーキなどが乗っている。ナナはまた、腕を上げたようだ。
「いや、レシェを野放しにはできねーからな」
逢わないつもりだったが、レシェが闇の城に突撃するので、リティルはルッカサンやナーガニアのたれ込みで、仕方なしに様子を見に行った。そんなことを数回繰り返したら、レシェは「どうせ行くのだから、わたしと一緒に行きましょう?」と毎回毎回誘いに来るようになってしまった。
行かなければ、ルッカサンから連絡がくるのだから、彼女の言う「どうせ行くのだから」を否定できない。リティルは渋々、レシェの監視という名ばかりの名目で付き合わされているのだった。
「あら、失礼ね。シェラの邪魔はしていないわ?むしろ、役に立っていると思うわよ?」
レシェはシェラの参謀のような顔をして、執務机の前に座っている彼女の隣に立っていた。
そうなのだ。レシェは書類整理だけだが闇の仕事を手伝っているのだ。リティルは手を引いているが、何でもレシェは優秀らしい。そこにはルッカサンも一目置いているようで、いや、切実に人手がほしいようで、リティルが様子を見てくれるなら、シェラの仕事を手伝うことを許可するなどと言ってくれるものだから、よけいにリティルは付き合わされる羽目になっていた。領地運営の目処が立っている闇の領域から、ノインとリャリスは引き上げている。ノインは何やらルッカサンとしている様子で、今でも足繁く通っているが職務からは手を引いているのだ。
「それより、シェラの仕事が終わらないのよ。リティル、どういうことなの?」
レシェはツカツカとソファーに座っているリティルの隣へくると、ズイッとそのシェラそっくりな顔を近づけた。リティルは反射的に身をそらして距離を取った。
「知らねーよ。おまえの方がわかってるんじゃねーのかよ?」
レシェはリティルの返答が大いに不満だったらしく、頬を一瞬膨らませた。
「進展しないじゃない」
「へ?」
「わたしは、2人がイチャイチャするのを観に来ているのよ?ただ仕事するだけなんてつまらないわ」
「隠さなくなったなー」
わたしは、リティルとシェラの仲を取り持とうとしている。そう言われたのは、ある衝撃的な事件のあと、リティルが問い詰めに行ったとき、レシェ自身から、改めて暴露されたことだった。そしてそれから、レシェは「シェラを口説いて」とせっついてくる。
「棒読みよ!リティル。わたし、あなたには到底トキメかないのだから、仲良しな姿見せつけてキュンキュンさせて!」
シェラと同じ顔で「到底トキメかない」と断言されると、複雑なものがある。
レシェはブレない。本心がどこにあるにしても、彼女は断言した言葉を違えることはないだろう。
そんなレシェに救われる。
「はは、それでいいのかよ?花の姫」
「リティルは無限の癒やしなんて、いらないでしょう?ほしい癒やしは別にあるじゃない」
爆弾を投下され、リティルはシェラの方を見てしまいそうになって耐えた。
「愛人の方が燃えるなら、冷えた正妻には治まってあげるわ?」
フフとレシェは冷笑を浮かべて、リティルを上から見下ろした。
なぜこんなに焦れているのか。レシェは『あの夜』から容赦なくなった。だがリティルには、行ききる勇気がまだないのだ。
「なんてこと言うんだよ!おまえは!」
「リティルが口説かないからでしょう?何をやっているのよ?」
「い、いや……こうなるなんて、予想外で……」
「シェラ!今からリティルとバラの庭園行ってきて」
乗り気でないリティルに怒ったのか、レシェは仕事中のシェラを振り返った。
「え?無理よ?」
顔を上げたシェラは、間髪入れずに答えた。
「もお!リティルの事、もらうわよ?」
「フフ、いいわよ?あなたの番よ?レシェ。リティルも、重いわたしより、軽いレシェの方がいいわよね?」
ブレないシェラが恨めしい。だが、彼女が本心を隠して接してくれるから、リティルはここへ来ることができるのだ。『あの夜』のことを、流されたと自覚しているだけに、後悔と喜びの間で、リティルは未だに迷っている。
いつも通りの素っ気なさで接してくれるシェラは、そんなリティルの心を見透かしているのだ。もう、夫婦ではなくなっているのに、変わらずシェラはリティルを守ってくれていた。
「それ言うか?オレがレシェのがいいって言ったら、傷つくくせして。傷ついてくれるよな?シェラ」
「さあ?どうかしら?」
「こっちはこっちでオレなんて眼中にねーし。そろそろ時間だからな。城に帰るぜ?」
そう言いながらリティルはおもむろにソファーを立った。
「シェラ、ほどほどにしろよ?それから領域の奥に行くんなら、ノイン寄越してやるからロロンとかレシェとかで妥協するなよ?」
「わかっているわ。ありがとう風の王」
真面目な風の王に、翳りの女帝は自然な笑みを浮かべた。リティルはそんなシェラに頷くと、首飾りでゲートを開くと、風の城へ帰っていった。
「徹底しているのね」
リティルがゲートをレシェに頼まなかったのを見て、シェラは頬杖をついて呟いた。
「母様が、わたしにゲートは開くなと言うのよ。リティルのことは、これっぽっちも好きじゃないと言っているのに」
そうではない。徹底しているのはリティルだ。レシェが開こうかと言っても、おそらくリティルは断るだろう。レシェもそれをわかっているから、開こうか?と言わないのだろう。
「それは、かなり微妙な発言よ?リティルはそんなにお気に召さないの?」
「あら、いい人よ?でも、わたし達、到底そんな関係にはなれないわね。リティルの態度を見てもわかるでしょう?けれども、あの人が、わたし達をどうやって見分けているのか疑問ね」
「それは、そうね。わたし達は名と、司る力の違い以外、同一だものね」
さらっとシェラはいったが、そこも解せない。シェラとレシェは双子なんてものじゃない。同一なのだ。ただ、司る力が違うだけで。どちらかが司っている力の証を失えば、吸収される。そんな気がしている。いったいなんなのだろうか?わたし達は。それがレシェの感想だ。
「シェラ、もう1つ大きな違いがあるわ。わたしには恋愛感情がないの。体は許せても、心は動かないわ」
「だからって、リティルに迫ってはダメよ?あの人は、そういう所とても真面目なのだから」
「フフ、寝室に忍び込んだら叩き出されたわ。完璧にシェラに変装したのに、なぜわかるのかしら?」
「それは、わたしが闇の領域から出られないからよ。引っかからないわ?リティルは。あの後、大変だったのよ?あの人泣きながら、君だけだって言ってきて」
「進展するかと思ったのに、いつも通りで嫌になるわ」
レシェは体張ったのに、何も起こらなくて残念と、大いに不満そうだった。
『あの夜』進展したかしないかと言われれば、進展している。してしまっている。
リティルは流されたと自分を戒めているだけだ。彼が本当の意味で吹っ切れたとき、わたしはどうすればいいのか……シェラもまた、迷いの中で途方に暮れていた。
レシェが気軽にリティルを引っ張ってくるせいで、闇の領域でリティルの存在は女帝の愛人と定着してしまっている。精霊は男女間の愛情に希薄な種族であるはずなのに、闇の領域内から、風の王との婚姻を望む声さえ出始めている。
しかし、他領域では認識は異なるだろう。風の王の番の精霊・花の姫がいるのだから。
領域を出られないシェラの耳には入ってこないが、リティルはあることないこと言われているのでは?と心配している。ぶつけてみたが彼は「ああ?レシェと噂になるよりはいいじゃねーか?」と心配するなよと笑っていた。
いいのかしら?そんなことで。風の王と花の姫は番なのに。そう言っても、当人達はどこ吹く風だ。年の近い兄妹のように、気心の知れた友人のような雰囲気で、戯れているようにしか見えない。
どうしてなのだろうか。レシェとシェラは瓜二つなのに、どうして、リティルはレシェとシェラで、違う空気を作り出せるのだろうか。
リティルは予想外だと言ったが、それはシェラにとっても予想外だった。
まさか、目覚めた花の姫が、風の王との運命を早々に放棄して、元夫婦の仲を取り持とうとするなんて、精霊としてはあり得ないと、今でも思っている。だが、レシェは本気だ。彼女の考えていることは手に取るようにわかる。多少性格の違いはあるが、レシェはシェラに性格もよく似ているのだから。
だからこそ、リティルはレシェに惹かれると思っていた。
だが、リティルも一向に彼女に落ちる気配がない。なぜなのか、シェラには理解不能だ。本当に、リティルにもう一度手を伸ばしてもいいのだろうか。シェラは迷っていた。
『あの夜』レシェに夜這いをかけられ、それを突っぱねたリティルはその足で、シェラの寝室へ転がり込んできた。よほど慌てていたのだろう。眠っていたシェラは、いきなりリティルに覆い被さられて、悲鳴をあげそうなほど驚いた。いや、悲鳴は上げた。
そんなシェラの様子を無視して、リティルは「君だけだ!君じゃねーと、嫌なんだ!」と叫んだ。そんなリティルの様子に、シェラもまた流された。
信じて――いや、受け入れていいのだろうか。シェラは、レシェとリティルの姿を見ながら揺れていた。
風の城に戻ってきたリティルは、ソファーにナーガニアがいるのを見て、ゲンナリしてしまった。
「顔に出ていますよ?婿殿」
容赦なく指摘されて、リティルは苦笑するしかなかった。
「レシェのことか?あいつなら、まだ闇の城だぜ?」
「レシェを、シェラと間違えて襲ったようですね」
リティルはブッと吹き出しながら、ナーガニアに詰め寄った。
「襲ってねーよ!夢だと思っただけだよ!」
あの夜のことを、3人の中でほとぼりが冷めたと思っていたのに、よりにもよって義母に蒸し返されるとは思わなかった。
『あの夜』レシェが夜這いをかけてきたとき、リティルは風の城の寝室で寝ていた。風の城の、しかも寝室は、1番と言っていいほど安全な場所であるだけに油断していた。レシェはまんまとリティルの寝室に忍び込んだのだ。
シェラの変装までして、寝ていたリティルの隣に上がり込んで起こしてきた。
「リティル、起きて」
「………………ん?シェラ……?」
寝ぼけていたリティルは、風の城の寝室に現れたシェラそっくりな彼女を、夢だと思った。風の王の寝室に、不法侵入できるモノなどいないという城への信頼が、油断に繋がったのだ。王にとって城は、信頼できる意思疎通できない生き物ようなモノなのだ。性能のいい魔導具といってもいい。特に風の城は、防御に優れている。王の寝室に不法侵入はあり得ない事態だったのだ。
それに、シェラが昼間着ていた黒いドレスを着ていたから、リティルは余計夢だと思ってしまった。
「リティル、離れていて寂しくないの?」
「君と離れてることか?寂しいけどな、そんなこと言える立場じゃねーだろ?」
リティルは隣から顔を覗き込んでくる彼女の頬に触れた。
働き過ぎるとすぐに頬が痩けるシェラの頬を、リティルはいつの間にか撫でる癖がついていた。もう夫婦ではないのだ。触れられる場所が、限られているということもあるかもしれない。抱きしめることも、口づけることももうできない。
「わたしに、もっと触れたいと思ってくれる?」
「はは、積極的じゃねーか。そんなこと、確認するまでもねーだろ?」
頬を撫でていた手を、彼女は取った。
「触れて、いいのよ?」
「……ホントに、積極的じゃねーか」
レシェは、夜這いが成功するとは思っていなかった。リティルは本当に、レシェとシェラを見間違えないのだ。今夜のこんな反応は初めてで、レシェにとっては新鮮すぎた。
リティルの瞳が、熱を帯びて鋭くなった。レシェは気がついた時には、リティルに上から見下ろされていた。流れるように自然で、躊躇いがない動きだった。それに、リティルはレシェが見たことのない目をしていた。
こういう瞳で、シェラを見ていたのね。レシェはリティルを観察していた。ドキドキする。ああなるほど、こういう感覚が癖になるのかと、レシェは色気なく思った。
「シェラ……」
リティルの顔が近づいて、唇が触れた。これから先、どうなるのだろうか。レシェは知的探究心にワクワクしていた。騙している罪悪感など微塵もなかった。
レシェは、最後まで騙し通せるとか、途中でリティルが気がつくことは考えていなかった。とにかくこの先どうなるのか知りたかったのだ。夫婦でないのだ。どうせ最後までできない。それに、リティルは夢だと思っている節がある。リティルが起きる前にいなくなれば、良い夢見たで済むと思っていた。
「――!」
キスしたリティルの体がギクリと強ばって、慌てたように顔が離れた。
どうしたのかと、体を起こすと、ランプの仄明るい光の中、口を押さえて動揺したリティルと目が合った。
「………………レシェ?」
「あら、バレてしまったわ」
失敗したわね。レシェの心にあるのはたったそれだけだった。リティルの瞳が見る間に見開かれて、そして次の瞬間怒りの形に鋭くなった。
「おまえ……!出てけ!」
そんなに怒ることないのに。どうせ最後までできないのだし。とレシェは軽く思っていたのだが、リティルの剣幕がもの凄くて、さっさと退散しようと何も言わずにベッドから降りると神樹へ帰ったのだった。
寝室に取り残されたリティルは、未だに残る唇の感触に動揺していた。
シェラ以外のヤツと……シェラ以外のヤツとキスしちまった!!
よりにもよってレシェと!気がつけば、サイドテーブルに置かれていた鏡の首飾りを手にしていた。
ゲートを開き、その中へ飛び込む。
空気が変わり、リティルは真っ暗な床に受け身も取れずに落ちていた。ドンッとそこそこ大きな音を立ててしまった。
「きゃっ!…………誰かいるの?」
気配が飛び起きたのがわかった。真っ暗で、寝起きで見えないのは彼女も同じだったのだろう。シェラはこの暗闇ではさすがに眩しすぎる光を灯した。その眩しさに顔を背けながら、リティルはその光目掛けて飛んでいた。
「あっ!……リティル?どうして、ここに……?」
手探りでリティルはシェラを押し倒していた。シェラの驚いた声が下から聞こえてきて、リティルはやっと目を開いた。こちらを信じられない眼差しで凝視する、紅茶色の瞳と目が合った。リティルの下にいるシェラは、寝間着を纏い昼間着ていたドレス姿ではなかった。それがわかったとき、心から安堵していた。シェラだ。本物のシェラだと。
「シェラ……?」
驚いていたシェラの瞳が、何かを察したように探るように潜められた。
「ええ、わたしよ?どうしたの?何があったの?」
もう、心はグチャグチャだった。何も考えたくない。何も……何も……
「シェラ……!」
言葉を紡げずに、リティルの瞳から涙が零れて、シェラの上に降った。リティルは涙脆い人だが、こんな傷ついた涙を見るのはあまりない。
誰がこんなにこの人を傷つけたの?シェラは手を伸ばして、リティルの涙に触れた。こんな夜中に、女性の寝室に断りもなくゲートを開き、あげくのしかかってくるなんて、普段のリティルにあるまじき行動だ。
助けを求めて?それとも癒やしを?シェラはリティルの欲していることを知ろうと、泣いている彼の顔を見上げていた。
「――君だけだ」
「え?」
「君だけだ!君じゃねーと、嫌なんだ!」
動揺と哀しみがありありと浮かんだ瞳で、リティルは誓うように叫んだ。
レシェと何かあったのね?あまり知りたいことではなさそうだとシェラは思った。
「リティル、わたしにもあなただけよ?」
いつまで、このやり取りは続くのだろう。お互い、まだここに心はあるのだと確かめ合うことを、こんな不毛なことをいつまでリティルは望むのだろうか。
シェラの言葉で動揺が少しは落ち着いたのだろう。リティルはシェラの上から退いた。2人向かい合ってベッドの上で座るころ、リティルがポツリと告白した。
「レシェに……キスしちまったんだ……」
シェラは心に痛いくらいの衝撃を感じた。目の前が真っ暗になって、覚悟していたのに、本当になるとこんなにも辛いのだとドキドキと嫌な高鳴りをみせる心臓を抑え込んだ。
レシェに、ということは、キスしたのはリティルからということになる。理性の強いこの人が、好きでもないのに場の雰囲気に流されてキスするなんてあり得ない。
この城の執務室で見る、レシェとリティルの雰囲気は健全その者で、2人に恋愛感情はないように見えていた。その姿に安堵していたことは認める。だが、やはり、2人は風の王と花の姫なのだと思い知った。シェラの知らないところで、2人は確実に絆を深めているのだと、少し考えればわかりきったことを、シェラは今現実として突きつけられたのだ。
もう、止まらないのではないの?どうすれば、まるで義務のようにシェラを好きだと言い続けるこの人を、解放できるのだろうか。
「そう……」
もう、こんな不毛なこと、終わらせなければ。動揺して傷ついているこの人を、今突き放せば、終わることができるだろうか?
「帰って」とシェラが言いかけた時だった。先にリティルが口を開いていた。
「夜這いかけられて……昼間の君と同じ服だったから、夢だと思ったんだ……」
え?夜這い!?シェラは思わぬ単語に目を丸くした。
「妙に積極的で、願望が見せてくれたのかと思ったんだ……。寝室に入れるなんて、思ってなくて……」
それはそうだ。風は何をやっていたの?王の寝室に、王の許可なく王妃以外を入れてしまうなんて……と思って、レシェは花の姫で、シェラと殆ど同じなのだったわと思い出した。侵入者を監視している風も、騙されてしまったのだ。
それにしても、夜這い?夜這いって。シェラの頭はあまりの衝撃に真っ白になっていた。
「どうして……レシェだと、気がついたの?」
シェラは言葉を絞り出した。
「……キスして、君じゃねーってわかったんだ」
「……ねえ、リティル」
「ごめん……」
「そうではなくて、なぜわかるの?」
「君をわからねーわけねーだろ!何百年一緒にいたと思ってるんだよ!」
それはそうだけれど……。シェラでも、レシェとの違いを探すことには苦心する。なのに、リティルはこれまで1度も、2人を間違えてはいなかった。細心の注意を払っているふうには見えない。自然に、2人を見分けているのだ。
レシェはこれまでに何回も、シェラと同じ姿に扮して、闇の城の者のみならず、風の城、果ては太陽の城まで巻き込んで、シェラとレシェを見分けられる者がいないかと実験していた。結果は、リティル以外誰も見分けられないという結論だった。
なぜなのか。レシェはその結果に興味津々で、まだ何かを企んでいることはシェラには薄々わかっていたが、それが、夜這いなどという手段だとは、レシェはリティルに対してなんということをしてくれたのだろうか。
「ごめん……こんな夜中に、こんなことで押しかけちまって、迷惑だよな……」
気落ちしたリティルが愛しい。この人の想いは揺るがないのだなと思うと、嬉しい。
寝ぼけて夢だと思っていたのに、そんな状態でもレシェと、見分けてくれたことが胸が切なく締め付けられるほどに、嬉しかった。
「――シェラ?」
距離を詰めたシェラは、リティルの唇に口づけしていた。触れるだけのキスを贈られたリティルは、戸惑っていた。会わないと決めたあの日から、2人は手すら握っていないのだ。それはひとえに、シェラが避けるからだ。
これは夢か?
無意識に、頬に触れてしまうことはあったが、それは挨拶のようなモノだとリティルは勝手に言い聞かせていた。
レシェがシェラにちょっかいをかけるようになって、リティルは渋々闇の城を訪れてはいるが、2人きりになることはおろか、会話もろくにしていない。シェラの態度は素っ気なくて、彼女から言葉をかけられることも、まして触れてくれることなんて皆無だった。徹底した態度で、レシェと連れ立てくるリティルに愛想を尽かして、もう、愛はないのではないかと思えるほどに、顔色1つ変えない。
だのに、これは夢か?シェラが……よりにもよって、レシェとキスしてきたリティルにキスしてくれるなんて、そんなこと現実なのだろうか。
決定的に終わったと思った。この事実を盾に、シェラが「お幸せに」と言ってレシェと2人闇の領域から締め出すことだって考えられた。だのに、これは夢か?
「嫉妬しているわ」
翳り異の女帝でいることのすべてが夢だったら、どんなによかったか。
唖然としているリティルを見つめながら、シェラは小さな怒りを感じていた。ずっとモヤモヤしている。レシェが気安くリティルに話しかけるのを見ている間中。
「へ?」
これが、惨めなこの瞬間が、今のわたしの現実。
意味がわからなかったのか、キョトンとしているリティルが恨めしい。仲がいいことを見せつけられているようで、惨めになるのに、どうしてもリティルに話しかけることができなかった。
「上書き、させてくれる?」
「はあ?」
リティルが目を丸くした。それはそうだろう。2人が言葉を交わすのはリティルが帰る時で、声をかけてくるのはいつでもリティルの方だった。避けているのは、リティルには伝わっていただろう。
「キスして。リティル」
こんなふうに誘って、リティルが乗ってしまったら、別れを突きつけられた時心の傷が大きく深くなるのに、これが最後、最後だと言い聞かせて、決心鈍く流される。
リティルの隣にいることを諦めても、この想いは消さない。
忘れられても、シェラはリティルを想い続ける。
そうであるなら、不毛でもなんでも、許される気がしてしまうからたちが悪い。
思い出をください。あなたの心が、なくなってしまうまで何度も。
いいでしょう?あなたはわたしの前から去るのだから!
なんて身勝手なのだろう。リティルを裏切ったのは、わたしなのに……。それでもリティルを見つめる視線を、シェラはそらさなかった。
「――止まれる……自信なんて、ないぜ?」
迷いを感じる。触れてしまったら傷つけるんじゃないかと、この人はわたしを思って戒めているのだと、シェラは知っていた。
なぜ、そんなに優しくあれるの?わたしは最早、あなたに苦痛しかもたらさないのに。わかっていたが、シェラはリティルを突き放すことができなかった。絡め取って、逃げられないのだと刻みつけてしまいたかった。
「レシェに、どうやってキスしたの?」
「っ!やめろよ!」
「あなたが流されるなんて、信じられないわ。心が、芽生え始めているのではないの?」
下手な挑発だった。リティルが、まだ愛はここにあると証明するために、シェラに触れるしかなくなるように、わざと。
「ない!あるわけねーだろ!」
「あなたは風の王、あの娘は花の姫よ?まだわたしに心があることのほうが、おかしいのよ?」
「シェラ!」
両肩を掴まれ、乱暴に押し倒された。真上から見下ろす、傷ついたリティルの瞳に、ズキリと胸が痛んだ。でも、これが現実だ。
「しかたないわ。そういうものよ。わたしは手放してしまったのだから。あなたに触れてもらえる資格は、とうに――」
最後まで言わせてもらえなかった。続きを言わせないようにするかのように、リティルに口を塞がれたのだ。久しぶりの口づけは、乱暴で、怒りと哀しみに満ちていた。
「君だけだ!これからもずっとだ!オレから逃げるなよ!頼むから!」
怒りと哀しみに歪んだ瞳が、シェラを射貫いた。こんなこと、健全な関係とはいえない。2人、ベッドの上で傷つけ合うことしかできないなんて。
それでもシェラには嬉しかった。シェラを真っ直ぐに見て、怒りでも哀しみでも、感情をぶつけてもらえることが、幸せだった。
歪んでいる。甘い、琥珀糖のような愛をもう得られないなら、傷つけてほしいなんて不健全の極みだ。それでも、止められない。この人は毒だ。甘美な毒。犯されて犯されて、抜け出せない。
「逃げたいわ。けれども、逃げられないの。わたしが許せば、あなたは傷つくの?救われるの?リティル、わたしの今の胸の内を、知りたい?」
「知りてーよ。君は、オレを、どう思ってるんだよ?」
まだそこに愛はあるのか?自信のない瞳が、拗ねたようにシェラを見下ろしていた。
「迷っているのよ?あなたを求めていいのか、手放した方がいいのか、わからなくて、怖くて動けないのよ。それでもわたしの心は揺るがないわ」
シェラは、睨むようにリティルを見上げた。
「愛しているわ。あなたが誰を選ぶのだとしても、わたしの想いは奪わせないわ。リティル、あなただけを永遠に想い続けるわ」
言い切ったシェラに、リティルは嬉しそうに泣き笑った。この人は案外涙脆い。
「シェラ……シェラ……!」
証は贈らない。そこまで流されてはいけないと、2人よくわかっているから。
互いの肌を楽しみながら酔いしれて、一線を越えなかったことが不思議なほどだった。
翌朝シェラが目覚めた時、リティルの姿はなかった。
裸でなければ、夢だったと思うところだった。何気なく視線を下に下ろしたシェラは絶句した。体中にうっ血痕――口づけで咲かされた花が、そこかしこに咲いていたのだ。
こんなに執拗にキスマークを付けられたことのなかったシェラは、恥ずかしさと知られては大変だという思いに、赤くなったり青くなったりしながら、慌てて闇を呼び出して体に纏った。服を着て肌を隠せば、いくらか落ち着いた。
踊った心臓を落ち着けていたシェラは、サイドテーブルにメモが置いてあることに気がついた。
『君を諦めない』
そこには、リティルの筆跡でそう書かれていた。
こんなことを示されたら、もう落ちるしかないわ!シェラは胸の奥に生まれた温かな熱とともに、メモを抱きしめ、その頬を濡らしたのだった。
どんな決意を抱こうと、その心を守ることが容易でないことは、リティルにもわかっていた。だが、シェラ以外の者に触れると心に拒絶が起こることは確かだ。
レシェにキスしてしまった時に起こった、何とも言えない居心地の悪さ。違う!という強烈な拒否反応。だから気がついた。目の前にいる女が、シェラではないことに。
リティルは、体に起こったその反応を信じたかった。
シェラでなければならないという、確固たる理由として、この体はすでに、シェラ以外には拒否反応を示すのだと、言ってしまいたかった。
リティルもまだ迷っていた。
あれから、何食わぬ顔でレシェに引っ張られるままに闇の城に行っているが、シェラとはあれからキチンと話はできていない。ようは、水面下でギクシャクしている。
あの夜のことを、今シェラがどう思っているのか。それを聞くことが怖いのだ。
回想から戻ってきたリティルは、ナーガニアに射るような瞳で見つめられていることに気がついた。
「本当に、レシェとは何もなかったのですか?」
「ねーよ。夜這いかけられたのにビックリして、シェラを襲っちまったよ」
「襲った?シェラを?あなたが?」
ナーガニアが、おいおい、目が落ちねーか?と心配になるほど瞳を見開いて絶句した。
そんなに驚くことか?と思ったが、ナーガニア以外の精霊達の評価もそうなのだが、リティルは紳士で誠実なのだ。リティルとしては、オレのどこをどう見たら、そういう評価になるんだ?と腑に落ちないのだが、良い評価ではあるので、ありがたく受け取っている。
「ああ、あいつの寝室にゲート開いて、オレが夜這いかけちまったぜ。最低だよな。何の誠意も見せられねーのにな」
リティルは自嘲気味に笑った。
「あの娘が……それを受け入れたのですか?」
「お互い流されちまったな。けど、これで吹っ切れたぜ?オレは、シェラを手に入れる。逃がしてやらねーよ」
「婿殿……やっと、やっと心を決めてくれたのですね?」
感激して瞳を潤ませるナーガニアに、リティルは明るく笑って見せた。
「ハハ、褒められたことじゃねーけどな。元素の王同士の恋愛なんて、まして、オレが相手じゃな」
風の王には番の精霊がいることは、周知の事実だ。シェラがいかに、元王妃でも、今は花の姫ではなく翳りの女帝だ。
番を袖にして、シェラを選ぶ困難さを、破綻したときの世界が被る被害を思えば、精霊達はいい顔をしないだろう。そして、それを行おうとしているのが世界を守る立場にある風の王では、尚更だ。
シェラに、身を引けという輩がきっと出てくる。
風の王のそばに長年いて、世界のことを風の王並みに知っているシェラには、この婚姻を受けるハードルが高すぎる。今のままでは、彼女が婚姻を受けることはないだろう。シェラを、口説き落とすにはどうすればいいのか、すでに、死んでもいいほどリティルが好きな彼女の心を得るのは、容易ではない。
ルッカサンは、闇の中鼓動を打つような音に耳を傾けていた。
「どうだ?」
背後に現れた気配に、ルッカサンは険しい視線を向けたが、また、闇の奥へと戻した。
「鼓動は強くなってきておりますな。しかし、これ以上は無理かと」
「そうか」
ルッカサンの隣に並んだノインは、ふむと思案するように形の良い顎に手を触れた。
「それはそうと、いいのか?」
「何を今更。いいのです。闇の領域は存在していける目処が立ちました。女王陛下を解放して差し上げたいのです」
「勝手なことだな」
「何とでも。事実ですので。しかし、ここからが問題ですな」
ルッカサンは、忌々しげに闇を見つめていた。
そんな目で見ている相手を、受け入れられるのか?ノインはそうは思ったが、あえて指摘はしなかった。
ノインは今でも、リティルは闇の領域を滅ぼし、シェラを無理矢理奪い返してもいいと思っている。それほどのことを、闇の領域を運営する者は風の王・リティルにしたのだから。だが、リティルは力で蹂躙することは決してしない。リティルの決断を見つめながら、ノインは蚊帳の外に立っている。風の精霊でないノインは、力の精霊という世界最強の精霊であるノインには、手が出せないのだ。この力を振るえば、簡単にこんな領域1つ消し飛んでしまうのだから。
そういうふうにリティルはノインを使わない。宝の持ち腐れだ。ならば守る為に使えば?守るといっても、守る必要がないほどリティルはすでに強い。また問題を起こして、支えなければならなくなったが、この問題もいずれ解決しリティルは日常を取り戻す。それはいいことだ。ノインはまた、何の為に生きているのかわからない日常に埋もれる。それでよかったはずだ。なぜ、それを物足りないと思ってしまったのか。ノインは自分と向き合わなければならない必要性を感じている。
その前に、リティルの直面している問題を解決せねばならないが。
「究極の魔法を使うとしても、誰とという問題と、レシェのことがある」
「……リティル様にやっていただくことはできませぬか?」
「リティルが知れば、反対するだろう。しかし、1番抵抗のない流れだが……」
「お2人を、その気にさせることは、できませぬか?」
「はあ、次から次へと問題ばかりを押しつけてくれる」
「申し訳ありません」
大袈裟にため息をつけば、ルッカサンは謝罪を口にした。ノインはまったく迷惑に思っていない。不謹慎だが今、とても生きていると感じている。これでも感謝している。ぬるま湯に浸かっているこんな精霊を、頼りにしてくれることを。
「だがオレも、シェラには風の城に戻ってもらいたい。再びの転成になってもな」
ノインは鼓動の聞こえる闇の奥を見るように、切れ長の瞳を眇めた。
ノインは「問題はまだあるのです」と言ったルッカサンと連れだって、この場を後にした。今はこの暇つぶしに興じよう。ノインが必要だという場所で、息をするために。
規則正しい鼓動が、穏やかに打っていた。
その闇の前に、白い粒のような光を纏った精霊が現れた。
花の姫・レシェ。レシェは注意深くあたりを見回すと、闇に目を眇めた。しかし、立ちこめた闇が深すぎて、レシェの光であっても照らし出せはしなかった。
「ノイン、何を隠しているのかと思っていたら。けれどもこれは、好機ね」
レシェはシェラの浮かべたことのない、何かを企んでいる者の瞳で微笑んだ。
レシェは焦れていた。
お互いを知り尽くしているリティルとシェラは、レシェがどう突いても一向に進展しない。目覚めたばかりで、経験の乏しいレシェでは、世界を見つめ続けてきた風の王夫妻には、その精神も知識も敵わない。
それにしても、夜這いをかけたことをシェラも知っていて、それでも何もなかったかのような顔で付き合えるあの2人は、何なのだろうか。もっとこう、ギクシャクしたりだとか、シェラが嫉妬してあからさまにリティルを無視するだとか、何かないのだろうか。あの2人を進展させるためには、もっと、大きくて強烈な事件が必要だ。
レシェは、鼓動を打つ闇の奥へ視線を向けた。
『これ』は、役に立つかもしれない。
レシェは最近、わたしが目覚めたのは、リティルとシェラを夫婦に戻すためなんじゃないだろうか?と思っている。なぜなら、2人の動向が気になってしょうがない上に、早くくっつけ!と焦れている。手を出さずにはいられない。
シェラと瓜二つと目覚めた意味を、自分は本当は何者なのか、レシェはそれを知りたかった。
レシェが執務室に戻ると、シェラは相変わらず仕事していた。
この光景と同じ光景を、風の城でも見ることができる。応接間の机でデスクワークしているのは、リティルだが。
「似たもの夫婦ね」
少し呆れ気味に、レシェは呟いた。
「夫婦ではないわ?」
誰と誰のことを言っているかわかるくせに、可愛げのないことを言う。
「その上頑固者だわ」
「それは否定できないわね」
シェラはフフと笑った。本当に勝てる気がしない。いや、勝ちたいわけではない。レシェはあくまで、恋愛成就を願っている。
「リティルを好きなの?」
「好きよ?今し方まで話しをしていたのよ?」
「あら、どういう風の吹き回しかしら?」
「ロロンが通信したのよ。あの子ったら、リティルが戦ってるところが見たい。なんて無茶を言うのだから」
シェラは困ったわと、しかし少しも困った様子なく明るく笑った。シェラが翳りの女帝になり、わかった事がある。イシュラースに現れる魔物のことだ。魔物狩りは風の城の通常業務だが、あれを産み出しているのが闇の領域なのだ。それは悪意ではなく、世界の生理現象だ。翳りの女帝は、世界中から集まる負の感情を浄化して無害なモノに変え、世界に還している。そのときに出る老廃物、悪意の芥が魔物となるのだ。シェラは強力な魔物の産まれる周期を把握しつつあった。今は落ち着いているはずだ。
「ねえ、シェラ、子供は好き?」
「子供?ロロンやナナのような?」
「ねえ、好きかしら?」
「好きよ?」
シェラは少し警戒気味に、しかし答えた。
「そう」
「レシェ、わたしはもう花の姫ではないわ」
「そうね」
「リティルとの間に、できることはないわよ?」
花の姫には、風の王との間だけに限り、子を成す固有魔法がある。力の化身で同一の力を司る者はいない精霊は、精霊間では子ができることは非常に稀なのだが、中でも風の精霊は、死を導く性質上、グロウタースの民相手でも子ができることない精霊なのだ。花の姫は、そんな風の精霊である風の王に命を産み出し抱かせることができる唯一の精霊なのだ。
「ほしい?」
「え……?な、何を言っているの?」
これは後一押しかしら?あまり見せないシェラの動揺に、レシェはほくそ笑んだ。しかし、レシェが畳みかけようとしたその時、扉がノックされる音が部屋に響いた。
シェラは弾かれたように「どうぞ」と声をかけていた。
「失礼します。……どうしました?邪魔なら出直しますよ?」
扉を開けて入ってきたのは、インファだった。そう言えばルッカサンから、風の王の副官が訪問しますと聞いていたことを、シェラはインファの顔を見て思い出した。
「い、いいえ!ここにいて、インファ!」
シェラはどこか必死に首を横に振ると、息子に懇願していた。そんな母の様子に「そうですか?」とインファは少し嬉しそうだった。ニッコリ笑うインファが近づくと、シェラはあからさまにホッとした顔をするのをレシェは見逃さなかった。そして確信する。血を分けた子供という存在は、シェラの心を救えると。
「レシェ、母さんを虐めないでください」
「あら、わたしは未だに悪者なの?」
「あなたが花の姫である限り、風一家の感情は収まらないでしょうね。永遠に恋敵です。とは言ってもオレは、あなたのことは嫌いではありませんよ?」
「ありがとう、インファ」
レシェは花の綻ぶような笑みを浮かべた。その微笑みを見たインファは、あなたのその笑顔が、一家の皆の心を揺さぶっているんですよ?と思ったが指摘してもしかたのないことだ。インファは、ニッコリ微笑むに留めた。
「レシェ、もう、リティルを誘いに風の城へ行くのはやめて。あなたが嫌な思いをすることも、一家の皆が心穏やかでいられないことも、嫌よ?」
あと一押しなのに、冗談じゃないわ。レシェは、リティル以外にどう見られようが興味はなかった。風の城にいる精霊達は比較的に大人で、危害を加えられたことはない。
「嫌よ。あなたとリティルのことが、赤裸々に知れる貴重は情報源よ?あなた達熱烈だったのね。その場に居合わせたかったわ」
「な、何を聞いたの?」
レシェの思わぬ切り返しに、シェラは怯んだ。レシェは満足そうに目を細めて笑った。
「ウフフ、ねえ、インファ、リティルはどこにいるの?」
「父さんですか?ノインと魔物狩りですよ。一緒にロロンもいるようですね」
「そう、残念ね。リティルを呼んで、思い出を語られる会を開催しようと思ったのに」
「いい性格していますね」
本当にいい性格をしている。レシェの標的は常に1人であることをインファは知っている。
風の王夫妻の養子の次男。インファのグレている弟・レイシ。レシェに隠さない嫌悪をぶつけるレイシから、いかにリティルとシェラが愛し合っているのかを聞き出している。
「あんたの入る隙なんかない」レイシの敵意剥き出しのその言葉に、レシェは「そう。この応接間で、2人はどんなだったの?」と切り返していた。レイシは怒りのままに、リティルとシェラの日常を包み隠さずぶちまけてしまった。たまたま居合わせたノインが、何とも言えない顔をしていた。レシェが必要以上に攻撃されるのなら助けようと思ったようだが。これは……止めた方がいいのか?と困っている様子だった。恋バナもそれ以上もいけるノインだが、弟夫婦のあれやこれやを本人のいないところでという状況では戸惑う。
目で見ていることと、誰かの主観が入った言葉とでは、だいぶ感じ方が違うのだなと、インファは思って、思わず聞き入ってしまった。ノインがそろそろ止めてやるかと、わざと吹き出して笑わなかったら「それで?」とレシェに煽られるレイシは止まらなかっただろう。「レシェ、ほどほどにしておけ」と微笑んだノインにも、レシェには悪感情はなさそうだった。
「ウフフ、ありがとう。あなたのご両親、全然進展しないのよ。なぜかしら?」
「レシェ、まだまだですね。オレから言わせてもらえば、進展していますよ」
「インファ、レシェを挑発するのはやめて!」
驚いてシェラが声が上げたが、あまり焦らすとまた寝室に忍び込みかねない。
「適度に餌を撒けばいいんですよ、母さん。机の下で手を繋ぐくらいのことでは、レシェは納得しません」
「あら、机の下で手を繋いでいたの?見逃していたわ。インファ、どれくらい進展しているの?」
レシェは案の定食いついてきた。興味はあるのだろうが、彼女の行動は呷ることに重きを置いてる。
「オレは恋愛には疎いので、インジュの言ですが、恋人以上夫婦未満だそうです」
「おかしいわね。そんな素振りなかったわよ?」
「隠すことは得意ですよ?なんせ風の城は、母さんも含めて、総勢18人の上級以上の精霊が暮らす大所帯な城ですからね。加えて、召使い精霊の数も非常に多いです。なかなか2人きりになれないんですよ」
「あら、わたしの技量では、その場にいあわせられないと、そういうことなの?」
「そうですね。風の王夫妻のそういったことに遭遇する確率は、あなたでは皆無に等しいと思われます。レシェ、いったい何を期待しているんですか?」
「手始めに、キスしてるところが見たいわ」
「しないわよ?そんな関係だったとしても、しないわ?」
シェラの顔は真っ赤だった。レシェもどこまで本気なのかインファには読みかねたが、そういう挑発をして、意識させたいのだなということくらいはわかる。
本当に、本人が豪語しているとおり、レシェにはリティルに対する恋愛感情が皆無なのだなと、インファは改めて思った。しかし風の王と番の花の姫だ。何かの拍子に仲が進展してしまうことは十分に考えられる。インファも、そこだけは一家の皆と同意見で、リティルとレシェが共にいることをよしとはしていない。
インファはふと、水晶球に通信が入ったのを感じて、風の中から取り出した。
『お父さん!大型魔王クラスです。サソリ型の』
通信はインジュだった。インファ達は魔物をランク分けして狩りの計画を練る。
大型とは魔物の大きさを、魔王クラスというのは魔物の技量を表し、サソリ型はその形状を指す。ちなみにサソリ型は毒を操る難敵だ。
大型魔王クラス・サソリ型は、なかなか骨の折れる相手だ。
「誰が出ますか?」
『リティルとノインが交戦してます。ボクも参戦します!』
「待って!その場にロロンがいないかしら?」
リティルとノインと聞いて、シェラが駆け寄ってきた。
『あれ?お父さん闇の城です?ロロンは、はい、いますねぇ。ノインの背中ですよぉ?』
それはいけない。ロロンがいるということは、今サソリと戦っているのはリティル1人だ。
「表はアジャラですか?オレも出ます」
『大丈夫です。ボクとリティルでやれるんで。ボクが連絡したのはですねぇ、リティルが怪我したんで2、3日仕事の調整お願いしたいなぁと』
……手遅れでしたか、そうですか。インファは瞬時に頭を切り替えた。
「そういうことですか。今日の父さんの予定は……ああ、なるほど……これは面倒ですね。これはオレがやります。後の調整はラスに任せます」
『了解です。じゃあ、サクッと狩ってきます!』
「ねえ、リティルは怪我しているのではないの?」
仕事ができないくらいの大怪我よね?と、レシェが口を挟んできた。
『大丈夫です。この狩り終わるくらいは保ちますからぁ。今は脳内麻薬でギラギラしてます。問題はこの後なんですよねぇ。サソリ型の毒食らってるんで、2、3日使い物にならないです』
「わたしが癒やしに行くわ。守ってあげるって、シェラと約束しているから」
『ああ、じゃあ、終わったら闇の城に届けますよぉ。今は、いてくれないと困るんで!』
そう言って、インジュは水晶球からいなくなった。
「飛び入り連戦とは、運が悪かったですね」
「ごめんなさい。やはり止めるべきだったわ。ロロンがいたから、逃げられなかったのだわ……」
魔物はいつどこで湧くのか、長年戦ってきた風の精霊も、魔物を生み出す領域を管理している翳りの女帝も予測はできない。1つの狩りに乱入されることはなぜかないが、狩った直後、新たな魔物に襲われることはある。今回はそのケースだったのだろう。
新たな魔物が出た場合、一時離脱が基本だ。だが、最強クラスの魔物でしかも、ロロンという足手まといがいたために、退却できなかったのだろう。魔物が大人しい時期のはずだったが、不測の事態は起きる。やはり、気を抜くべきではなかったとシェラは後悔した。
「解毒はできるかしら?わたしは傷しか癒やせないわ」
レシェは、案じるシェラに寄り添うように隣に立った。
「できるわ。魔物の毒は闇の範疇よ。けれども、わたしが花の姫だったころのように、すぐに元気にはできないわね」
「婚姻とはすごいのね。無限の癒やししか取り柄がないのに、瀕死でもすぐに動けるまでに回復させることができたのでしょう?」
「母さんが特別だったようですよ?父さん以外の者も、その恩恵にあずかっていましたからね。あなたも、そんな治療をイメージできないでしょう?」
「そうね。最強の花の姫というのは、伊達ではないということね」
「お2人に任せていいですか?オレは仕事しなければならなくなりました」
「ええ、任せて」
インファは、あまり心配した様子なく「では」とニッコリ笑って、部屋を足早に出ていった。相当に厄介な仕事をリティルから引き継ぐ羽目になったのだと、シェラは思った。
インファは、リティルと同じで、笑顔の下に大抵のことは隠してしまう。風の仕事を他属性の王にしられるわけにはいかないのだとしても、彼の行動を見ればリティルが使い物にならなくなった穴は大きいと、長年の経験からシェラにはわかってしまう。
しかし、花の姫ではなくなってしまったシェラには、サソリ型の毒を抜くことはできても、即全快という奇跡は起こせないのだった。
「狩りしてるリティルが見たい!」
そう、ロロンにキラキラした目で見られると、断れなかった。
ロロンが、レシェが来てるよと、通信してきたとき、リティルは魔物狩りに出るところだった。当初のパートナーはラスだった。「魔物狩りで、行けねーんだよ」と答えると、件の答えがロロンから返ってきたのだ。
闇の城にはノインがたまたまいて、そのノインが「オレが共にいても難しい相手か?」と言うものだから、軽い気持ちで現地集合にしてしまった。
魔物狩りは、中型魔騎士クラス・ワニ型。リティルの技量なら、1人で事足りる相手だった。ラスがついていたのは、魔物狩りは基本2人以上でというルールがあるからだ。それでも相手的にはラスがパートナーでは強力すぎるが、2、3匹ハシゴする気だったのだ。ラスよりも強い力を持つノインがパートナーなら、ロロンがいても危険はないだろうと判断した。
「いってらっしゃい」とラスに送り出され、リティルは太陽の領域へゲートを開いたのだった。
広い平原に、ワニはいた。
エメラルドグリーンに輝くような大地に、醜い筋を付けながら移動している。リティルはそれを、空の上から眺めていた。情報通り、あれ1匹のようだ。大きさも中型は中型だが、若干小さい。
さて、あれくらいなら瞬殺だが、どうしたものか。いたぶる趣味はないので、このままハシゴコースでいいよな?と今後の予定を考えていると、ノインが飛来した。
「リティル、待たせた」
「ああ、待ってたぜ?兄貴。ロロンもな!」
ノインの背中で、ロロンは期待に胸を膨らませた顔をしていた。
まったく、狩りが何なのかわかっていないのだから、しょうがない。しかし、あえて言わない。6才の精神年齢の者に、これは理不尽に命を奪う行為だと説いたとしても、本質をわからせるのは不可能だ。じゃあ悪いことをしているのか?殺してはいけないというのなら、なぜ殺すのか?云々、ロロンの尽きない疑問に答え続けたら、最後は精神論に行き着いてしまう。それを説明するのは、リティルには無理だ。
幸いロロンには戦闘能力がない。そして、領域を初めて出た日に魔物に襲われている。魔物は自分にとって怖いモノだという認識はあるのだ。それだけでいい。
「見ても、楽しくなんかないぜ?」
「リティルが普段何してるのか、知りたかっただけ」
「そうかよ。じゃあ、まあ、見てろよ?」
そう言って笑うとリティルは、両手にショートソードを風の中から抜いた。そして、鋭く急降下していった。
ロロンの目にはどう見えただろうか。
殺気に辛うじて反応したワニが大きな口と尾を振り上げたが、リティルはそのままの勢いでワニの大きく開いた口に飛び込んだ。
金色の鋭い光が、ワニの尾に抜け、ワニの体は黒い靄となって霧散した。ワニの死を見届けて、上空へ舞い戻ったリティルは、口をあんぐり開けているロロンを見て苦笑した。
「はは、なんて顔してるんだよ?」
「……すごい……あ、魔物って死ぬと消えちゃうんだね」
「ああ、あれはな、悪意の残りカスなんだ」
「悪意の残りカス?」
リティルは頷いた。
「人の感情が行き場をなくして、魔物になってイシュラースに産まれるって、オレの知識にはあるな。どうしてとか聞くなよ?魔物が実際何なのか、知ってて戦ってるわけじゃねーんだ。ただ、放っておくとイシュラースが壊されるからな。殺す以外にできることがねーから、狩ってるんだよ」
「どうして、闇の領域には出ないんだろう?」
ロロンは首を傾げた。それはたぶん、魔物を産み出しているのが闇の領域だから。シェラが魔物の産まれる仕組みを解き明かしてくれたが、闇の精霊は襲われないのか?とか、強弱の周期があるようだがそれはなぜか?など、疑問はまだまだある。
「さあな。ロロン、どうする?オレ、ハシゴのつもりで出てきてるんだけどな」
その後にも別の仕事が入っているが、その時にはノインと別れてラスを呼び出せばいいだろうと、軽く考えていた。
「ハシゴって、まだ魔物と戦うの?」
「ああ。あれくらいのヤツなら、オレ1人でいいからな。付き合うか?」
「うん!」
明朗に頷いたロロンを見て、リティルはロロンを負ぶっているノインを見た。彼も付き合ってくれるようで、頷いた。
さて、次の得物はどこだったか。リティルが出掛ける前に確認した地図を思い浮かべ、その方角に向かって翼を広げた時だった。
「!ノイン!」
リティルが警告するまでもなく、彼は行動を開始していた。しかし、あまり無茶な飛び方はできない。とにかく高度を上げるが、大地からせり上がってくる黒い靄に追いつかれそうだ。
魔物が産まれる瞬間。リティル達はそれに遭遇していた。
「ラス!大型魔王クラス・サソリ型だ!」
黒い靄が形取ったそれは、まったく光を返さない黒い殻を持った、巨大なサソリだった。
最悪だ。よりにもよって、サソリ型とは!
『確認したよ。インジュが行く。なんとか持ちこたえてくれ』
風の城の執事は、仕事が早くて助かる。リティルがすぐさま水晶球で連絡を取ったラスは、すでにインジュに知らせてくれていた。
けど、持ちこたえろか……。とリティルは襲いかかってきた、毒の水球を風の障壁を展開して防いだ。尾から打ち出されるそれは、充填に時間がかかる。だが、すでにロックオンされていてロロンに合わせたスピードでは、振り切るまでにかなりの距離を追われることになる。
リティルがハシゴしようとしていたのは、個々の魔物の出現場所が近かったからだ。このサソリを引きずり回せば、その魔物とも合流してしまう。1体でも骨が折れるのに、それよりは弱いといっても数が増えるのは勘弁願いたい。
リティルはチラリと自分の胸に視線を走らせた。そこには、ナーガニアに押しつけられた、ゲートの仕込まれた鏡の首飾りがある。だが、ゲートも危険だ。見掛けに反して俊敏なあれごと、ゲートを越えさせるわけにはいかない。
「ノイン!行け!」
「いや、安全圏で援護する。あまり傷は負うな」
「はは、無理な注文だな!」
とはいえ、ノインがそばにいてくれるのは心強い。彼なら、リティルが万が一失敗したとしても、リティルの命の保証はしてくれる。その場合、この辺一帯がどうなるのかは、今は考えないようにしよう。
リティルは囮を買って出て、ノインを上空へ逃がした。
「ジョーカー!インジュが来るまで持ちこたえさせてくれよ?」
リティルは、うちに眠る翼ある獣の名を呼んだ。心の内から、リティルに答えて力が湧き上がってくる。風の精霊が持つ、特別な闘志・殺戮の衝動が目覚めたのだ。リティルの姿が変貌を始める。急激な力の上昇に、サソリも怯んで攻撃を忘れて見入っているようだ。
「ウオオオオオオオオン!」
切なげな遠吠えが響き渡った。リティルの姿は、翼ある上半身の逞しい人狼に変身していた。
我に返ったように、サソリはその大きなはさみで殴りつけてきた。それを両手で受けたリティルは、サソリの自分よりも何十倍もある巨体を投げていた。
ドオンッ!と大地を抉りながらサソリは背中から落ちた。尾が砕かれて、繋がってはいるが、もう自分の意志では動かせなくなっていた。砕かれた尾のひび割れから黒い液体がボタボタと滴ってそれに触れた大地が白い煙を上げた。
仰向けに転がったサソリは、ググッと体を縮ませると、ビョンッと跳んで起きあがったのだった。見掛けによらず俊敏なサソリは、リティルに目掛けて飛びかかってきた。それを避けるが、相手は巨体だ。リティルは徐々に距離を詰められていた。
これ以上逃げ回るのは無理だ。相手の機動力を落とさなければ、バテるのはリティルの方が先だった。
リティルはサソリの横をすり抜けながらその足に抱きつき、もぎ取っていた。サソリの体液があたりにぶちまけられる。
リティルの体を守っていた風の障壁が、その体液に触れてひび割れ砕けた。
リティルの殺戮形態・ジョーカーは、スピード・攻撃特化で防御と超回復能力を捨てているような状態だ。もぎ取った足は即捨てたが、リティルの翼をサソリの毒の体液が冒していた。血とともに金色の羽根が散ったがリティルは構わず、2本目の足を奪っていた。
「いっ!つ……!」
さすがに翼を毒に灼かれ、機動力が落ちていた。3本目の足を狙ったリティルは、そうさせないとサソリの反撃に遭い、狙った足に弾かれていた。受け身は間に合ったが、大地に転がるのは避けられなかった。
エメラルドグリーンの柔らかな草を、リティルから流れた鮮血が染めた。
リティルが起きあがる前に、サソリはその鋭い足で踏みつけてきた。大地を転がって何とか避けるが、脇腹を掠っていた。何とか体を起こしたリティルは、下から竜巻を吹き上げて吹き飛ばしてやったが、硬い殻に覆われた体を貫くことができなかった。ひび割れた殻から、毒の体液がリティルの上に滴った。
「はあ……はあ……くっ!」
もうこれ以上ジョーカーでは無理だ。リティルは変身を解いていた。毒を抜くことはできないが、傷は超回復能力で塞げる。ヨロリと立ち上がったリティルは脇腹を押さえた。毒に冒された血液は、赤黒く変色していた。
再び覆い被さるように飛びかかってきたサソリの巨体を避けたリティルは、足がフラついて尻餅をついた。そんなリティルに向き直ったサソリの上に、無数の艶やかな濡羽色の長剣が降り注いだ。上空のノインの援護だ。だが、彼にしては大雑把な攻撃だった。
襲ってきた土埃に、リティルは咄嗟に手で顔を庇っていた。巻き起こった風が、解かれた金色の髪を攫う。
「まだ動けますぅ?リティル」
土埃に紛れて舞い降りてきたインジュが、リティルの体を抱き上げるとその場から鋭く退く。どうやらノインの攻撃は、インジュにリティルを救出させるための目くらましだったらしい。
「無茶しましたねぇ。毒、どれくらい回っちゃってますぅ?」
「半分だな。まだ動けるぜ?」
インジュのかけてくれた治癒魔法で、リティルの受けた傷は消えていた。血に汚れた翼を広げたリティルは、汗を滴らせながらも、爛々と輝く瞳でサソリを見据えていた。
「3日、ですかねぇ」
「ん?」
「いいえ、何でもないです。アジャラに行ってもらうんで、リティルはトドメまで休んでてくださいねぇ?」
「ああ、助かったぜ?インジュ」
汗を拭いながら礼を言うと、インジュの健全で柔らかな微笑みが、急に毒々しい華やかさに彩られた。
「お礼はぁ、あいつをやっつけてから聞くわぁ?うんもぉ!無茶しちゃってぇ。シェラちゃんが知ったら泣いちゃうわよぉ?」
インジュは男性だ。だが、今目の前にいるインジュは、どう見てもクネクネ色気を振りまく女性にしか見えなかった。
「はは、アジャラ、あいつは怒る女だぜ?じゃあ、行くか!」
「はいはい、でも行くのはア・タ・シぃ!インティちゃん!シェレラちゃん!」
殺戮の衝動・アジャラは、インジュの3人目の人格だ。アジャラの声に、半透明な金色の風を纏った騎士然とした若者とミニスカートの女性が、両脇に現れた。
オオタカの翼を持ったインティは、大剣を抜くと勇猛果敢にサソリに向かって急降下していった。サソリは迎え討とうとはさみを振り上げたが、シェレラとアジャラの放った風と光の複合魔法がはさみを消滅させていた。遮るモノのなくなったインティは、サソリの眉間に大剣を突き刺していた。
のけぞるサソリ。アッサリ剣を捨てたインティは2本目の大剣を抜き、鞭のように振るわれた尾を断ち斬った。飛び散る毒の体液が、瞬間凍り付いた。アジャラが大気の温度を瞬間下げたのだ。キラキラと輝きながら、凍った体液はサソリの体の上を転がった。
インティの働きで、サソリの動きは完全に封じられていた。
「インティちゃん!」
アジャラが叫ぶと、インティは上空に離脱した。その直後、サソリの体を、白い粒のような光が覆った。シェレラの障壁魔法だった。
「出番よぉ?リティルちゃん、決めてきてぇ」
「ああ!」
差し出された金色に輝く大剣を両手で持つと、リティルはサソリの真上へ飛んでいた。アジャラの作った大剣を振り上げると、サソリ目掛けて投げ落としていた。輝く金色が走り、サソリの巨体に吸い込まれる。
ドンッと遅れて大地に衝撃が走った。シェレラの張った障壁はサソリの体液を見事に封じ込めて、スウッと消えていった。
終わった……。意識を保っていたリティルは、空中で視界が揺れるのを感じた。
「お疲れ様でした。寝てていいですよぉ?」
小柄なリティルの体を支えてくれたのは、インジュだった。リティルはフッと力なく笑うと、意識を手放した。もう限界だ。眠って、解毒にすべての力を使わなければ、さすがに死ぬ。
インジュが意識を失ったリティルを横抱きに抱え直す頃、ロロンを背負ったノインが舞い降りてきた。
「インジュ」
「魔物狩りは遊びじゃないですよぉ?ノイン」
インジュは、舞い降りてきたノインをジロッと容赦なく睨んだ。
ラスから連絡を受けたとき、インジュも魔物狩りしていた。しかも、炎の領域だった。件の太陽の領域の隣なのだが、ゲートで現地へ行ける神樹と目的の場所が同じくらいの距離で、移動に時間がかかる地点だったのだ。
今回のパートナーだったリャリスが「行ってくださいまし!」と言ってくれ、ぞんざいに魔物を縄状にした風で縛ってから、インジュは離脱した。リャリスは強い精霊だが、インジュにとっては新妻だ。1人戦場に置いていきたくなかった。ラスが「オレが行くよ」と言ってくれなかったら、ここへ来ることが、もっと遅くなったかもしれない。ラスが城にいてくれて、よかったと心底思っている。
「ごめんなさい!ボクが、我が儘言ったんだ」
「……許可したのはリティルです。ので、ロロンのことは怒りませんけど、逃げられないのはダメです!これが、大型魔王クラス・ドラゴン型だったら、リティルでも危なかったですよぉ?むしろ死んでましたよぉ?今、リティル、花の姫の加護ないんですから、慎重に!お願いしますよぉ?」
「すまない。ありがとう、インジュ」
白々しい。ノインがやれば無傷だった。いったい誰に教育的指導なのだろうか?それとも、リティルが、ノインにやらせなかったのだろうか。ノインにやらせていたら、ここら一帯どうなっていたかわからないが。魔物狩りは遊びじゃないと言ったが、ノインほどわかっている者はいない。命を優先し、地形が変わることなど気にも留めないのだから。インジュも、それでいいのでは?と思うが、リティルは、大地さえも傷つくのを嫌うのだからしかたない。
「いえ。ボクは何があっても間に合いますからねぇ」
フフンッと挑発するようにインジュは笑みを浮かべ、リティルの首から服の中にある鏡の首飾りを引っ張り出した。
「リティルは休暇です。邪魔しちゃダメですからねぇ?」
ゲートを開いたインジュは、その中へ飛び込んで行ってしまった。
ゲートの先は、合流前に話しをつけていた闇の城の執務室だ。
「お邪魔します!シェラ、レシェ、リティルの事お願いしますよぉ?」
弾かれたように席を立って駆けつけたシェラに、リティルを託すと、インジュは再び鏡の首飾りに触れてゲートを出現させ、さっさと踵を返した。
「もう帰るの?」
「はい。リティルがいない穴、埋めないといけないんで。ああ、傷は癒やしときました。解毒、してあげてくださいねぇ?」
インジュはヒラヒラ手を振って、ゲートの中へ入っていった。
「血まみれね」
レシェが呟いた。
シェラの腕の中で眠るリティルは、綺麗な金糸のようなその髪まで、自身の血で穢していた。浅く息をつくリティルの顔には、球のような汗が浮いていた。
「ええ。……ごめんなさい……助けられなくて……」
悔しそうにシェラはつぶやき、リティルの額に額を当てた。
フワリと闇の気配が渦巻き、シェラの髪やドレスの裾が浮き上がる。解毒はものの1分程度で終わった。シェラが花の姫だった頃は、解毒ができる精霊が風の城にはおらず、リャリスがその都度解毒薬を調合していた。彼女のいなかった以前は、ひたすら治癒魔法をかけて、自己治癒力に賭けるしかなかった。この力が、風の城にあればいいのに。シェラは汗で張り付いた前髪に触れながら思ったのだった。
その後、ルッカサンの手で女王の寝室に運び込まれたリティルは、1日後意識を取り戻した。
「なあ、どうしてオレ、ここにいるんだよ?」
目覚めて即、リティルはベッドの隣に座って書類を読んでいたシェラを見上げて言った。
「インジュが連れてきたのよ。お風呂の準備、できているわよ?」
「あ、ああ。ベッド汚して悪かったな」
できる範囲で体を拭き清めて、着替えさせたが、まだ髪にも翼にも血の痕が残っていた。体を起こそうとしたリティルだったが、腕に力が入らず藻掻く羽目になり、苦笑したシェラに入浴を手伝わせる羽目になったのだった。
「うあ……」
ベッドに戻されたリティルは、情けない声を出して脱力した。
「わたしに洗われたのが、そんなに嫌だったの?」
「嫌っていうかな、恥ずかしいだろ?傷がねーのに、こんな動けねーなんてなかったしな。変だな。今までこんなことなかったのにな」
リティルは困ったなと、苦笑した。気がついていないリティルの様子に、シェラは表情を曇らせた。
「それは、わたしのせいよ」
「ん?どうして君のせいなんだよ?」
神妙なシェラにリティルは首を傾げた。
「あなたは、小柄で若いわ。インファやインジュと比べると、格段に体力がないのよ。今まで、どんな怪我を負っても、傷さえ癒えればそれなりに動くことができたのは、わたしが補っていたからよ」
「へ?シェラ、そんなことまでしてたのかよ?」
「あなたを生かそうと、必死だったのよ。持てる力のすべてを使って、あなたを守っていたの。なのに、わたしはそれを忘れてしまった。あなたの花の姫は、わたしでなければ務まらなかったのに、変なことに拘って、その力を捨ててしまった……」
シェラは、横になっているリティルに覆い被さるようにして、抱きしめた。
「わたしこそが、あなたの唯一無二の花だった。死なないでリティル。レシェの力を得たとしても、無茶なあなたをあの娘では守り切れないわ」
「シェラ、どれくらい花の姫時代の魔法、使えるんだよ?」
「無限の癒しとゲート以外のほぼすべてよ」
無限の癒やしと限定ゲートは、花の姫の固有魔法だ。翳りの女帝であるシェラは当然使えない。だが、シェラは未だに光の力を扱う事ができ、人間の姫だった頃の魔力である氷の力も扱う事ができる。防御魔法にも優れていて、その力で広大な風の城をすっぽり覆うほどの障壁を展開したことがあるほどだ。
「結婚しようぜ?」
「え?」
唐突な言葉に、シェラは困惑して体を起こすと、ベッド横に置いた椅子にストンと座り込んだ。
「怪我は超回復能力で何とかなる。無限の癒やしは、最近あんまり出番なかっただろ?」
「そうだけれど……わたしは、ここから動けないわ」
「通うよ。レシェに付き合わされて、これだけ君と逢えてるんだ、何とかなるぜ?」
「一心同体ゲートがない状態で、どれだけサポートできるか……」
「考えようぜ?シェラ、これまで考えて工夫してオレを守ってくれてたんだろ?ナーガニアはオレ達の再婚に乗り気なんだ。風の城と闇の城をゲートで結んでくれるかもしれねーし、城のみんなも、力を貸してくれるぜ?」
「リティル……」
これだけ並べても、シェラは躊躇った。無理もない。どんな言葉を並べても、それこそ好きだと言い続けても理がある。精霊は理からは逃れられない。
「君を諦めない」
「!」
「諦められねーよ。シェラ」
「わたし……」
「怖いか?そうだよな。けどシェラ、オレは今でも君だけなんだ。信じてくれねーか?」
そう言って、リティルはもそもそと体をもどかしげに起こした。シェラは、そんなリティルを手伝おうとしたのだが、断られてしまった。
差し出そうとした手を下ろせずにシュンとするシェラに、リティルは小さく苦笑した。
「オレが贈らねーから、君はずっと不安だったんだよな?」
フワリと、力強くも優しい風が吹く。シェラは、頭に僅かにかかった重みに、目を見開いた。
「返してくれなくてもいいんだ。オレの魂を、持っててくれよ。シェラ」
翳りの女帝となったとき、シェラはリティルの目の前で、婚姻の証だったティアラのような金でできた羽根の髪飾りを壊した。それは、最大の裏切りだった。
泣いてはいけない。泣く資格なんてない。リティルが贈ってくれた魂を壊し、シェラがリティルに贈った魂を奪い返したのだ。それなのに、彼は、また、こんな女を妻にしようとする。
「どうかしているわ……」
シェラは見開いた瞳に、困ったように笑うリティルを映して、瞬きすら忘れていた。
「あなたを裏切っておいて」
「うん」
「あなたに変わらず愛されておきながら」
「うん」
「番がいるという理由だけで、求婚に尻込みしているような女よ?」
「そうだな」
「また、裏切るかもしれないのよ?誰かの言葉に勝手に絶望して、あなたを!他の誰でもないあなたを信じられずに、また、逃げるかもしれないのよ?」
「逃がさねーよ」
「!」
「逃がさねーよ。どこまでも追いかけて、捕まえて、オレのこと好きだろ?って聞くんだよ。そしたら君は、なんて答えるんだ?」
「愛して、いるわ…………ごめんなさい!わたしはあなたにふさわしくないとあの時は本気で思っていたの!こうすることがあなたにとって1番良いのだと、信じて……しまった……!本物も偽物もなかった!あなたをこれまで愛してきたわたしの心は、偽物ではなかったのに!取り返しのつかないことを……!」
堰を切った言葉は怒涛のように流れ出ていた。
「シェラ」
言わなくていいと止めるかのようにリティルが肩に触れてきたが、止まらなかった。
「ごめんなさい!わたしが我慢すればいいと思って、あなたが救われるならそれでいいと」
「シェラ、オレを見ろよ。見てくれよ!頼むから!」
「リティル……ごめんなさい……ごめんなさい!わたしは、手放してはいけないものを、手放してしまった……!ああ……わたし……!」
「くそ……!傷つけるしか、できねーのかよ!オレは!」
「違うわ!幸せなのよ。心も体も満たされるほどに……!だから……だから……!」
泣きじゃくるシェラが、顔を上げた。
「あなたのそばに、いられない……!」
再びシェラは「ごめんなさい!」と繰り返して狂ったように泣いた。
リティルは呆然と、しかしやっと悟った。
シェラは、罪の罰を欲している。
リティルが愛すれば愛するほど、シェラには苦痛でしかないのだ。
「!……っ。わかった。けど、シェラ……オレの魂持っててくれ。それが、オレを裏切った君への――」
「罰だ」
この後すぐ、リティルは風の城へ戻ってきた。
翳りの女帝・シェラの頭には、金でできた羽根の細工が巧妙な王冠が飾られた。
けれどもシェラは、それが誰からの贈り物なのか口を割ろうとはしなかった。
そして、あれだけ頻繁に闇の城を訪れていた風の王・リティルの訪問は、ぱったりと止んでしまった。