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二章 ロロンの冒険

 リティルは1週間ぶりに風の城に帰ってきた。

帰るとすぐに、会議となり、応接間に一家のすべてが揃った。

「やはり、連れ帰るのは無理でしたか」

苦渋の表情で瞳を伏せたのは、金色の長い髪を、肩甲骨のあたりで緩く三つ編みに結った、男性でも見惚れてしまうほどの美貌を持つ、イヌワシの翼を持つ青年。風四天王、副官、雷帝・インファだった。

「ああ、さすがに1元素の王だからな。それに、闇の領域はシェラの力でセクルースに留まってるんだ。あいつはあそこから動けねーよ」

「仲直りは、できたんです?」

伺うように問うたのは、女性寄りな中性的な容姿の、キラキラ輝く金色の長い髪を三つ編みハーフアップに結った、インファよりも1、2才年下のオウギワシの翼を持つ青年。風四天王、補佐官、煌帝・インジュだ。

「まあな。けどインジュ、おまえのシナリオで迫ったら、トラウマになるかってくらい怯えられたぜ?」

「そうでしょうねぇ。リティル、普段紳士ですからねぇ。でも、大丈夫だったんですよねぇ?」

「そりゃ、そのままにしとくかよ!あのシェラが始終甘えてくるんだぜ?すげー可愛くて、やばかったぜ……」

「手を出さなかったのか?」

おまえが?と意外そうな顔をしたのは、濡羽色の短い髪をした、額から鼻までを覆う仮面をかぶった、ミステリアスな落ち着いた雰囲気を持つ青年だ。濡羽色のオオタカの翼を持つリティルの兄、補佐官指南役、力の精霊・ノインだ。生い立ちの複雑な彼は、存在的にはリティルの兄だが、風の精霊ではない。

「出したよ。出しまくりだぜ?当たり前だろ?そこにシェラがいるのに、触らねーなんてオレじゃねーよ!」

「落ち着け。言動が危ない」

どうどうとリティルは、ノインの大きな手に背中を軽く叩かれた。

「うあああ……マジでやばかった……!やりそうだった……!」

何を思い出したのか、一家のいる前で、リティルは悶絶した。

「よく耐えられたよ、お互いに。仮初めでも、婚姻結んでしまえばよかったんじゃないのか?」

両手で顔を覆ったリティルに、同情的な視線を向けたのは、金色の長い前髪で左目を隠した、印象に残りにくい容姿のハヤブサの翼を持つ青年。風四天王、執事、旋律の精霊・ラスだった。

リティルはラスの入れてくれた紅茶を受け取り、気持ちを落ち着けたところで落とされた爆弾だった。

「おまえ!それ言うか!?それしちまうと、シェラが離れられなくなるだろ?それでなくても、帰るって行ったらものすげー引き留められて、泣かれて!うああああ!ヤバかった!」

ガチャンッとティーカップを乱暴に置いて、リティルは頭を抱えた。

「無駄に理性を鍛えてしまいましたね。それで、どうでした?」

「ああ、なかなか酷かったぜ?それともうちがしっかりしすぎなのか?」

リティルは、闇の基本業務の資料が杜撰だったことや、闇の精霊の統率がとれていないことを険しい顔で語った。

「よく調べられましたね。殆ど母さんと一緒にいたんでしょう?」

インファは手渡された資料を読みながら、感心していた。

「ああ。これくらいはな。けどシェラ、好かれてたぜ?最終日はルッカサンがオレを追い出しに来たしな」

「え?戦闘になったんです?」

「なってねーよ。さすがに戦闘能力のないヤツとやれるかよ!さっさと帰ってきたさ。そっちはどうだったんだよ?」

「母さんに殺された、前翳りの女帝・ロミシュミルの欠片を回収しました。ですが、再生は不可能だそうです」

「そうか……ロミシュミルを蘇らせても、あいつ人望なさすぎて、どのみち交代は無理だな」

そもそも、人望があったらクーデターなんて起こっていない。

ああ、なんと頭の痛いことか。領域でのもめ事は、領域内で解決してほしい。できないなら、正式に依頼してこい!と切実に思う。いちいち風の城にちょっかいかけるな!といいたい。それから、一家を許可なく攫うなと、滅ぼすぞこの野郎!と爆発したい。

「じゃあ、このままシェラは翳りの女帝なんです?」

インジュがシュンと、眉毛をハの字に情けなく下げた。

「後継が見つからなけりゃな。ただ、領域の奥から何か感じたんだ。ホントはそこまで調べたかったんだけどな、時間切れだったぜ」

「領域の奥か……オレとリャリスで行こう」

「待ってくださいまし。私もあなたも、風一家ですわ。闇の領域に入れば、ルッカサンを刺激することになりますわよ」

ノインに名を呼ばれたリャリスは、サファイアブルーの真っ直ぐな髪の、糸のような切れ長の瞳の妖艶な美女だった。顔の両脇で髪が1房ずつ曲がっていた。いや、それは髪ではなく、蛇だった。蛇の首には、ティアドロップ型のガラス玉のついたチョーカーが巻かれていた。

「……シェラは好かれてたんだけどな、あいつが信頼してるヤツがいなかった。1人、シェラを心から心配してるヤツがいたから、無理矢理くっつけて置いてきたけどな、そいつは子供で、安らぎにはなっても、あいつを支えられねーんだ。信じられるか?あのシェラが孤独なんだぜ?オレに、心細そうに縋ってくるんだ。許されるなら、あいつのそばにいてやりたかったよ」

リティルの言葉に、皆は神妙に俯いた。

「ルッカサンは信用に足りませんか?」

「あいつは仕事はできるぜ?人手不足で可哀想だったけどな。けど、シェラがあいつを頼ることはねーだろうな。ルッカサンは、オレを目の敵にしてたからな」

「ああ、それダメですねぇ。シェラに信用されたいなら、表面上だけでもリティルを受け入れてないとですねぇ」

「まあダメだな。シェラを奪ったあいつを、オレも受け入れられねーからな」

リティルは、情けない顔で笑った。


 リティルは闇の領域に入れない。

入れないが、シェラと繋がれないということではなかった。

リティルは、1人では広すぎるベッドの上で水晶球を取り出した。

緊張して、リティルは一度大きく深呼吸していた。

「シェラ」

『リティル、あれから何もないかしら?』

名を呼ぶと、待っていたかのように水晶球の中に彼女の顔が現れた。

「ああ。風の王にこれ以上ルッカサンも仕掛けてこねーよ。……大丈夫か?」

『ええ。リティル、メモをたくさんありがとう。役に立ったわ。でも、いつの間にあんなことをしていたの?』

「君が寝てるとき。寝顔なんか見てたら、触りたくなっちまうからな」

『……しても、よかったのよ?』

「できるわけねーだろ?君を傷つけたくねーよ。って、壊れた演技で怖がらせたな。説得力ねーよな!」

『リティル、愛しているわ……』

「知ってる。もう怒ってねーから、気にするなよ。オレがいなくても、ちゃんと寝ろよ?」

『あなたが歌ってくれたら、きっと寝られるわ』

「はは、子供かよ?いいぜ?歌ってやるよいくらでも」

そう言ってリティルは歌い出した。

『風の奏でる歌』風の精霊の特別な魔法の歌だ。風の精霊達と、王妃・シェラだけが歌える魔法の歌。

そんな、泣きそうな顔しないでくれよ。リティルは今すぐこの夜を飛び越えて、抱きしめに行きたい衝動を、歌うことで誤魔化した。


 シェラは、リティルが帰ってしまったあと、執務室でファイリングされた資料を見ていた。何かをしていないと、リティルがもういないことを思い出して、泣いてしまうと思えた。

資料に目を落としたシェラはふと、いくつもメモが挟まっている事に気がついた。この筆跡は……リティル?と気がついたシェラは、眉根を潜め注意深く内容をゆっくりと読んだ。

なぜ、ここにリティルのメモがあるのかしら?ここは闇の中核だ。風の王のリティルが業務を逸脱するとは思えなかった。だが、そこに書かれている内容を読んで、シェラは驚いた。明らかに越権行為だったからだ。

メモの大半は間違いを指摘し、あとは疑問だ。それが的確すぎて、シェラは目眩を覚えた。それで、ルッカサンが寝室に、あってもなくても大して困らない警備兵をかき集めて押し寄せたのかと、合点がいった。

ロロンが、ルッカサンがシェラを奪い返すつもりだと言っていた。

1週間も好きにはさせてくれないとはわかっていたが、仕事のできるあのルッカサンが、もう少しマシな策を練ってくると思っていた。それが、狂っているとしても百戦錬磨の風の王に武力で対処しようなどという、どっちが狂っているのかわからない方法をとるとは思わなかった。

ルッカサンは、リティルの越権行為を知っていたのだ。少しでも早く追い出したかったのだろう。

しかし、それにしても、これは。

 シェラはフウと息を吐くと、窓の外を見やった。

リティルは、優秀な風の王だ。副官や支えてくれる精霊達が優秀すぎて、埋もれてしまいがちだが、こんなよく知らない属性の業務も、積み重ねた経験から短時間で紐解いてしまうなんて、シェラも侮っていたと評価を変えざるを得なかった。女帝となって、精霊として知識を得ているはずなのに、リティルが気がついたこんなことに気がつかないなんてと、シェラは自身の力のなさを痛感した。

リティルがここにいてくれたら……。シェラが四苦八苦している問題も、きっとすんなり解決できるのにと歯痒く思ってしまう。ルッカサンは、変なプライドを持ちすぎていて、そしてリティルを目の敵にしている態度が許せなくて、頼れない。

しかし、他に仕事のできそうな精霊はいなかった。シェラは受け継がれた知識を使って、資料を読み解きながら、同時に勉強せねばならなかった。

現状に、シェラは何度目か途方に暮れた。ここへ来て、シェラはいかに風の城が恵まれていたのか思い知った。みんな、みんながいてくれたからこそ、風の城は存続して行けているのだと思えた。

 そうして迎えた何度目かの1人の夜。

シェラがベッドに入るのを見計らったかのように、水晶球が金色に輝いた。これは、リティルが置いていったのだ。彼は、どこまでわかっているのだろうか。シェラは逸る気持ちを落ち着けて、水晶球に触れた。

相手はやはり、リティルだった。

『シェラ』

名を呼ばれるだけで、泣きそうになるほど心を揺さぶられた。

 ずっと、そばにあったその声。なぜ、失っても平気などと思えたのだろうか。彼と離れて、生きていけるはずもないのに。

あの時のわたしは、どうかしていたとしか思えない。リティルは嵌められたのだと言った。誰にとは言わなかった。これ以上、肩肘を張らせない為だとわかっているが、その誰かに怒りをぶつけたくなる。本当はわかってる、その誰かに。無意味だ。そして空しいことだ。だからしない。たった、それだけのことだ。

歌ってと強請ると、リティルは苦笑して、けれども歌ってくれた。優しく、抱きしめるように。

「リティル、助けて」

『いつでも助けるぜ?』

「見てほしいものがあるの」

『闇の仕事のことか?専門外だぜ?』

「あなたならきっと」

『わかったよ。けど、ルッカサンに水晶球取り上げられねーか?』

「そうなったら、風の城に家出するわ」

『はは、こっちに来たらマジで監禁されるぜ?本物の変態がいるからな』

「クスクス、あなたも一緒に監禁されてくれるならいいわ」

『ヤバイなそれ、美味しすぎて暴走するぜ?』

「しないでしょう?」

『シェラ、本気で言ってるのかよ?』

「……え?」

『これだからな、君は。これだけオレに愛されてて、まだわからねーのかよ?』

「ご、ごめんなさい!」

『待てって!嫌ったりしねーよ。どうしてそうなるんだよ?……シェラ、水晶球にキスしろよ。目、開けたままな』

意図がわからなかったが、シェラは怖ず怖ずとリティルの言ったとおり、水晶球に口づけた。

「――!」

水晶球を取り落としそうになり、シェラは震える手で何とか耐えた。水晶球の中でリティルの顔が近づき、視線を合わせたままキスしてきたのだ。

普段笑っていると童顔なのに、真剣な眼差しをすると途端に大人びる、年齢詐欺な人。

リティルの瞳に射貫かれて、シェラは息ができなかった。

『――ハハ、ちゃんと息しろよな?』

「リティル……からかわないで」

『好きだ』

シェラは息を飲んで固まった。体は動かないのに、見開いた瞳からは、ボロボロと涙が零れ落ちた。温かく、彼の言葉はシェラの胸を射貫いた。

『泣くなよ……。言っただろ?君しかいねーんだよ。今、この瞬間も、この先もずっと、君だけだぜ?』

「リティル……わたしは……」

『気にするなよ。オレが言いたいだけなんだからな。さあ、もう、寝ろよ?おやすみ、シェラ』

ごめんなさい。今のシェラには、リティルの愛の言葉に謝罪しか返せなかった。

翳りの女帝になってしまったこと、リティルと離婚したこと、すべての非はシェラにある。リティルは繋ぎ止めようと必死になってくれたのに、その手を振り払ってしまったのはシェラだ。

だのに、リティルは今まで通り甘やかす。この腕の中に落ちてこいと、囁く。精霊の断りが分かつとわかっていても。

いつまで、そうやってわたしを甘やかすの?シェラは、諦めていた。

髪を縛らないリティルに、シェラは安心していた。彼の髪を束ねていたリボンは、シェラが贈った婚姻の証だった。

それがなくなり、リティルは、髪を縛らなくなった。半端な長さのその髪は、鬱陶しいだろう。この城に愛人だと笑って滞在してくれていた時、ふと目を覚ますと、リティルは真剣な眼差しで何かを書いていたことがあった。リティルは無意識なのだろうが、何度も何度も髪を耳にかけていた。サラリと落ちてくるその金糸のような髪が邪魔だったのだ。

今、水晶球から消えてしまった彼の髪も、下ろしたままだった。

君しかいないと繰り返すリティルの意地なのだろう。

もう、二度と隣に帰ってこない王妃の為に、リティルは希望を持たせ続ける為に、髪を縛らないのだ。優しくて、愚かな、愛する人……

「リティル……ごめんなさい……」

シェラの瞳から、ボロボロと涙が零れ落ちた。

 翳りの女帝となった時、もう二度と逢わないと決めた。なのに、リティルは易々とシェラの決意を砕く。いつだって。

翳りの女帝となって確信していた。

闇は、リティルに手を伸ばしている。おそらく、ずっと昔から。

理由はわかる。リティルの心にある闇に、惹きつけられているのだ。救ってほしくて。

『リティル様を、救いたくはありませんかな?』

影法師の精霊・ルッカサンは、そう言って、シェラを誑かした。

心の傷という名の闇を、優しさに変えて風の王を遂行するリティルは、多くの者を導ける。導きを必要としている者は、縋れる闇を持つリティルを見つける。これからもずっと。翳りの女帝になれば、すがりつく闇から、彼の命を脅かすモノからリティルを守れると思っていた。しかし、それは叶わないことだった。

闇は、制御したり操ったりできる力ではない。煽ることはできても、消し去ることはできないモノなのだ。

闇を抑え込むことはできる。シェラは光を使い、自分とリティルの闇を抑えていたのだ。その事実を知ったのは、翳りの女帝としてこの闇の領域に来たときだった。

ルッカサンは、それを知っていて謀ったのだ。自分自身の欲望――クーデターの為に。

気持ちはわかる。この荒れ果てた闇の領域を見れば。彼は、誰よりも真剣に、この領域のことを考えていたのだから。孤立無援だったルッカサンは、たった1人で戦うしかなかったのだから。

 誤算は、やはりリティルだった。

リティルがこの城に来たとき「愛人にしてくれ」と言って、目の前に飛び込んでくるまで何ともなかった彼の体から、溢れ出すように闇が吹き上がり、シェラはリティルに恐怖した。何が引き金だったのか、本当に突然だった。リティルと至近距離で視線が交わった直後だったと思う。

本当に怖かった。リティルが、闇に囚われその心が壊されたのだと本気で思った。寝室に引きずり込まれる前に塞がれた唇。あんな、乱暴で劣情をただただ煽られるだけの口づけをされたのは、初めてだった。あんな口づけもできるのだと、初めて知った。リティルはいつも、甘く酔わせるような口づけをくれた。一度だって、例え怒っていても嫉妬していても、あんなキスをしてきたことはなかった。

絶望した。守ろうと思ったのに、守るどころか彼を……愛するあの人の心を、壊してしまったと思った。

今まで通り、光を使える花の姫でいれば、リティルを守れたのに、リティルを守る力を手放して、そして、彼を破滅させたと思った。

何があっても、手を放してはいけなかったのだ。

放すな!放すな!とリティルがずっと手を伸ばしてくれていたのに。シェラは愚かにも放してしまった。まったく知らない精霊の甘言に乗って。

寝室で、抱きしめてくれたリティルからは、あれほど吹き荒れていた闇が綺麗さっぱり消えていた。それもなぜだかわからない。

あれからシェラは、リティルに闇の気配を見てはいなかった。

あれを見たルッカサンが、リティルを警戒するのはわかる。

わかるが、彼をあれほど怒らせたのは、あなたでしょう?と冷静な今、冷ややかな思いが拭い去れない。

侮ったのだ。わたしも、ルッカサンも、風の王・リティルを。これは報いだ。ルッカサンには、屈辱に耐える義務がある。


 シェラは執務室でファイリングされた資料を広げながら、リティルを呼んだ。

彼はすぐに答えてくれた。

件の資料を見せるとリティルは、言った。

『ちょっと待ってくれよ?リャリス、一緒に見てくれよ』

シェラは数ページにわたり、資料を風の城にルッカサンに無断で横流しした。

『大丈夫ですか?こんなことをして』

インファが心配そうに水晶球の中に顔を覗かせら。

「構わないわ。リティルが数時間で間違いに気がついたのに、ずっと放置しているような無能しかここにはいないの」

『手厳しいですね女王陛下。影ながら、オレも助力しますよ』

「ありがとう、インファ。……本当に、何を見ているのかしら……」

『風の城は、世界中と関わりますからね。きちんとしておかねば、対処しなければならない案件を見逃してしまいます。その点、闇の領域は隔絶されていますからね。杜撰でも問題なかったんでしょう』

「そうは思えないわ。リティルが何か言っていなかったかしら?」

『はあ、まあ、そうですね。母さん、今は内務に集中しましょう。また寝られなくなると、愛人を派遣しなければならなくなります』

「あら、それは願ったり叶ったりね。ルッカサンはどこかに閉じ込めておくわ?」

 その時だった。バンッと執務室の扉が乱暴に開かれた。

「ごめんなさい、シェラ様」

突き飛ばされるようにロロンが転がり込んでくる。シェラは眉根を潜めると、入ってきたルッカサンを睨んだ。

「いいのよ、ロロン。怪我はないかしら?こちらにいらっしゃい」

ロロンには、そばにいてと言ったのだが、ルッカサンが来ないように見張ってる!とキラキラした瞳で言われてしまい、許可してしまった。駆け戻ってきたロロンは、幸い怪我をしていなかった。シェラはホッとしながら、椅子に座ったままルッカサンを睨んだ。

「女王陛下、これはどういうことですかな?」

「見た通りよ?風の王に助力をお願いしているの」

「なんと!あなたは、風の王に洗脳されておられるのか!」

「洗脳?」

「そうでございましょう。そうでなければ、闇の機密を他の属性の王に漏らすなど、正気の沙汰とは思えません」

ルッカサンはキッパリと言い切った。

「女王陛下、風の王との繋がりをお断ちください。彼の王との繋がりは、闇に破滅をもたらします」

それを聞いてシェラは笑い出した。

「フフフ。あなた、これを見ても、何とも思わなかったの?」

シェラはルッカサンの前に、資料のファイルを一冊投げた。床に落ちたそれを拾い上げたルッカサンは、訝しがりながらも中身を改める。

その資料には、メモがたくさん貼り付けられていて、メモの筆跡と異なる筆跡ですでに訂正されていた。そのすべてが、的確な処理がされ、間違っていた為に滞っていた業務が正常に動いた様がありありと読み取れた。

「そのメモは、わたしの愛人、風の王・リティルが書いたのよ?」

ルッカサンは思わず顔を上げていた。その顔には、ありえないと書かれていた。

「いつ書いたのかしらね?あの人は、殆どわたしと一緒にいたのに。そもそも、出歩くあの人の姿を見ても、何も感じなかったの?」

何を?とルッカサンは眉根を潜めた。バスローブ1枚で、情事の後を匂わせながら徘徊する彼の姿に、ルッカサンは嫌悪しか感じていなかった。

彼が何をしていたのか、シェラに突きつけられるまで、疑問にも思っていなかった。抱き潰して、反応しなくなったシェラに興が削がれて、気分転換しているとすら思っていた。この執務室で、1度遭遇していたにもかかわらず。

「あの人が帰ってから、とても仕事がしやすくなったわ」

シェラは、これ見よがしにティーカップを持ち上げ、それを口に運んだ。そして「今日も美味しいわ、ありがとう」と出入り口でない扉の前にいた闇の精霊の少女に声をかけた。

「シェラ様の役に立てて、わたし嬉しいです!」

エプロンを着けた少女は、嬉しそうにコロコロと笑った。どうやら紅茶はこの少女が淹れたものらしい。他にも、埃がかぶっていたはずの執務室は隅々まで綺麗に掃除され、机には紅茶の他にクッキーも置かれていた。

「この()もロロンも、リティルが見つけてくれたのよ?ナナ、風の王は何をしていたのか知ってる?」

シェラが少女に問うと、ナナは首を傾げた。

「リティル?なんか、いろんな人に声かけてたよ?わたしも声かけられて、他にもシェラ様が好きでそばにいたい人いないか?って聞かれたかな?いたら、連れてこいって」

「それでどうしたの?」

「えっとね、お仕事覚えてくれって言われて、金色の鳥さんに紅茶の淹れ方と、クッキーの焼き方を教えてもらったの!リティルはシェラ様のそばにいないといけないし、他の人とお話しするのが忙しいから」

ナナはコロコロと笑った。

「ルッカサン、リティルは人手不足を見抜いていたわ。そしてわたしの疲労も。寝室で、わたし達が何をしていたのか、教えてあげましょうか?あの人は、ひたすらわたしに尽くしてくれていたのよ?」

「まさか!それを鵜呑みにしろと仰るのか?確かにわたしはシーツを――」

リティルは確かに、汚れたシーツを部屋の外へ毎回放り出していた。だが、それが何で汚れているのか、きちんと確かめてもいないことを、ルッカサンは今口にした。

「あれが何なのか、確かめていないのね?そもそも、わたし達に婚姻の証はないのよ?本気でリティルがわたしを抱くとでも思っていたの?」

言葉を遮られたルッカサンは、僅かに驚いていた。呆れた。子孫を残すため子を成さねばならない繁栄と衰退の異界・グロウタースの民ではないのだ。霊力の交換ができないのに、風の王の貴重な霊力でシーツを汚すはずがないと、どうしてわからないのだろうか。

あの白い汚れは、リティルが持たされた何の効果もない魔法薬だ。心地いい草の香りがしていた。風の王が草の香り?と香りを1度でも嗅げばわかる仕様になってもいたのだ。

「ルッカサン、あなたは風の王のイタズラに引っかかったのよ。ねえ、いつまでちっぽけなプライドにしがみついているの?」

ルッカサンは哀しげな怒りを湛えた瞳を、シェラに向けた。

その瞳を見つめたまま、シェラは席を立つと、ルッカサンの前に立った。

「力を貸して」

「!」

「力を貸して、ルッカサン。わたしは女王として、この闇の領域を立て直したいの」

「女王陛下……」

「わたしには、あなたと、風の城しか頼れる者がいないのよ。このままでは、せっかくそばにいてくれるロロンやナナすら守れない。あなたがわたしを欲したのは、力を誇示したかっただけではないでしょう?」

 シェラは、水晶球を両手で握っていた。彼女の手は、かすかに震えている。

心細いのだ。ルッカサンは、やっと目の前の女性を見た。

精霊的年齢19才の、まだ少女の面影を残す、大人びた表情の美貌の美姫。

精霊の精神年齢は、容姿に依存する。初老の男性の姿のルッカサンよりも、年若いシェラの精神は脆いのだ。

そんな彼女を、最愛の王から遠ざけ、支えると誓っていながら、激務を強いた。崩れ落ちそうだったシェラを救ったのは誰か。ルッカサンでも、他の闇の精霊でもないことは確かだった。では誰なのか?彼しかあり得ない。あの、狂った風の王しか。

認めざるを得ない。潰れそうな女帝を救ったのは、あの、風の王・リティルだと。

「あなた様は、ずっと暗い顔をしておいででした。それが、リティル様が去られてから明るくなられましたな」

プライド。それが、風の王・リティルの姿を見誤らせた。

彼は、許さないと繰り返しながら、それでも手を差し伸べようとしていた。その手を、狭い視野で拒んだのはルッカサンだった。

シェラと同い年の若き王は、愛する姫のために、ここに滞在できる短い時間を有効に使って、業務の間違いの指摘から、シェラの精神を補佐する小間使いの確保までしてみせた。

あの、だらしのない恰好はわざとだったのだ。シェラが言うように、イタズラだったのだろう。おまえの目は節穴か?と笑っていたのだろう。自分がどれだけ優秀だと思っていた?所詮、狭い闇の領域しかしらない世間知らずが、異界までも股にかける風の王に勝てると思っていたのか?恥ずかしいことだ。これでは、湿舌に尽くしがたいほど、無能だ低俗だと罵っていた前翳りの女帝と変わらないではないか!

「風の王、そこにおいでですかな?」

『ああ、いるぜ?』

「闇の領域をお助けください」

ルッカサンは、水晶球の中の風の王に膝をつき、頭を垂れた。

『わかった。世界を平和に保つことも、オレの仕事だからな。うちから、力の精霊と智の精霊を派遣してやるよ。それで足りるよな?女王様』

「ええ、ありがとう風の王」

シェラの微笑む声に、ルッカサンは顔を上げた。

「あなた様は来られないのですか?」

『はは、1週間休んだせいで、仕事が溜まってるんだよ。オレ、これでも王だからな。シェラ、休暇もぎ取ったら愛人しに行くからな?』

「ええ、楽しみに待っているわ」

微笑むシェラの姿に、ルッカサンの胸は、引き裂かれるような痛みを感じた。彼がこの城を訪れることは決してない。2人わかっていても交わすのだ。未来はあるのだと、互いを騙すために守られない約束を交わす。

それは、遅すぎた痛みだ。

「おまえが愛を語るなよ?」リティルの静かに怒りを滲ませた声が蘇った。もう、取り返しがつかない。愛し合う2人の手は、永遠に別たれた。それをしたのは、ルッカサンだ。

それなのに、リティルはルッカサンを許した。許さないと言いながら、許しているのだ。最愛の姫のそばにいることを。

15代目風の王・リティルを、精霊達は慈愛の王だという。

確かにそうなのだ。彼は自分の心を殺し、憎いはずの闇を助けようと手を差し伸べてくれた。

あなたに、誠心誠意お仕えします。ルッカサンは、翳りの女帝・シェラと風の王・リティルに誓ったのだった。


 ロロンはなぜか膨れていた。

「なんだ?なぜ怒っている?」

そう問いかけたのは、リティルが派遣した精霊の片割れ、力の精霊・ノインだった。

「だって、リティルこない!」

素直に不満を露わにするロロンに、ノインは仮面の奥の切れ長の瞳に優しい笑みを浮かべた。薄明かりの闇の領域には、太陽も月もでない。時間の流れのあるセクルースでは異色の場所だった。ノインは、内務の調査の合間に、城の中庭で息抜きしている。そうすると、なぜかロロンに絡まれるのだった。

「弟は風の王だからな」

「だからって!1ヶ月も音沙汰ないなんて、シェラ様が可哀想!」

「休みのない弟も相当不憫だな」

「ホントに休みないの?」

「そう聞いている」

「ホントにホント?」

「ああ。ついでに伴侶と離れ離れの我々も可哀想だな」

「え?インジュ来てたよ?」

煌帝・インジュは、智の精霊・リャリスの夫だ。彼は何かと理由をつけて闇の城に遊びに来ていた。リャリスはシェラの手前、遠慮しているらしく、ところ構わず抱きついてくるインジュを、困り顔で躱していた。

あの御仁は自由だな。ノインはただ微笑んだ。

「そうか、さすがだな。抜け目のない」

「ねえ、ノインは奥さん?と会えないと寂しい?」

「そうだな。共にありたくて伴侶に選んだ。会えないのは寂しいな」

「会いに来ないの?インジュは来てるよ?」

「妻はリティルの騎士だ。騎士は主君を守る者。職務を放棄してはいけない」

「会いたいのに会えないなんて、やっぱりおかしいよ。職務はそんなに大切?」

ノインは困ったように笑った。その微笑みが、リティルには似ていない容姿なのに彼と重なるような気がした。リティルがノインの弟?で、ノインがリティルの兄?だから?とロロンは不思議な繋がりに、名前があることを何となく理解しようとしていた。

「シェラが職務を放棄すれば、前女帝が統治していたときよりも、さらによくないことが闇の領域に起こるだろう。シェラはそうならないようにここにいる。リティルの背負っているものはもっと大きいな。闇の領域、風の領域に留まらない。広い世界と、多くの命を守っている。オレやリャリスとは違う。おまえともな」

「わからないよ……」

ノインはただ微笑んだ。そして、暗い空を見上げた。その瞳が、とても遠くを見ているように感じた。その遠くを、夢見ているような、何かを探しているような、今すぐにでもどこかへ飛んで行ってしまいそうな瞳だった。

「まずは、この場所から出ることだ。おまえはどこにでも行ける」

「どこにでも?ねえ、ノイン、ノインもどこかに行きたいの?」

ノインは、驚いたようにロロンに視線を戻して来た。言ってはいけないことを言ってしまっただろうか?と思ったが、ノインはすぐに笑みを浮かべた。そして、大丈夫だと言うように頭を撫でてくれた。

「オレもまだ旅の途中だ。たどり着けるか、そんな場所はどこにもないのかもしれないが、心が行けと言うのを無視して、ここにいるな」

「行かないのは、職務の為なの?」

「いいや。オレの場合は違うな。行かなければならないと、腹を括ることができないでいる。行かなくとも、それなりには生きられると、知っているからだな」

「行ったら、戻ってこないの?そんなの嫌だ!ここにいてよ、ノイン」

「フッ、今はここに仕事できている。終わるまではここにいる。だがおまえは、行った方がいい。行きたい場所に出向いても、おまえの帰るべき場所はここだからだ」

ノインの帰る場所は、風の城じゃないの?そう思ったが、何となく問えなかった。言わせてはいけない気がした。ノインは何となく、シェラ様と同じ物を抱えているかも知れないと感じた。

リティルのところに帰りたいのに、翳りの女帝だから帰れないシェラと、風の精霊でないのに、リティルの兄として風の城にいるノイン。ノインがシェラを支えられるのは、気持ちがわかるからだ。ノインが留まっているのは、きっといろいろわかってしまうからだ。

「ボクも、シェラ様のこと、わかるようになる?」

「ああ。知りたいと思えばな」

知ったら、ノインみたいに動けなくなるのかもしれない。でも、何もわからないまま、ただモヤモヤしているのは嫌だった。ノインは、動かないと選択してここにいる。今のロロンでは、その選択すらできないのだ。

シェラ様の役に立ちたい。ノインと別れたロロンは、リティルのくれたチョーカーに触れていた。


 ロロンは、リティルにもらったチョーカーから、金色のクジャクのインサーリーズを呼び出して、その背に乗せてもらっていた。

「世界って、こんなに色がいっぱいあるんだ……」

ロロンは、闇の領域から一歩も出たことのない精霊だった。

「シェラ様は、こんな世界に、リティルと……」

最近のシェラは、風の城から派遣されたノインとリャリスと仕事できているせいか、笑顔でいることが多くなっていた。けれども、ふとした瞬間、寂しそうに窓の外を見上げていた。真っ暗な空に何を見ているのか、確かめなくてもわかる。

シェラはリティルを待っているんだ。ロロンはそう思っていた。

だから、来ないリティルに腹を立てていたのだが、ノインと話して来たくても来られないのかもしれないと思った。だからというわけではないが、リティルに会いに行こうと思った。ノインが言うように、闇の領域から出てはいけないという枷もないのだ。出て行っても、また帰ってくればいいのだ。ノインのように、帰る事の出来ない場所を目指しているわけでもないのだから。

帰ることができない場所って、どこなのだろうか。力の精霊というが、ノインは何に属する精霊なのだろうか。精霊には属する力を現す色がある。ノインは、髪の色も瞳も翼も黒いから、闇の精霊のようだが、同族のような感じはしない。もっと何か、とてつもない感じがする。問えば教えてくれそうだが、彼に教えを請うのはまだダメだとなぜか思えた。

リティルもシェラも凄い精霊だが、ノインはもっとたぶん凄い。何となく、そんな気がする。だから、リティルが派遣してくれたのだろう。あのルッカサンが、ノインと二言三言話して、何というか敬意?一目置く?ような態度になった。その様子を、リャリスが面白そうに見ていたのが印象的だった。

「この人がいれば、すぐに楽になれましてよ?」とは、いったい?ノインはただ笑っていた。楽になると言ったのに、ルッカサンはノイン達が来る前より忙しくなったような気がする。生き生きしているが。

 インサーリーズは、乱れのない調子で空を飛んでいた。風の領域は遠いと行っていたが、あとどれくらいなのだろうか。視線をあげると、目の前にはとても大きな木が聳えていた。インサーリーズはあれを目指しているようだが、あそこが風の城なのだろうか。ただの大きな木にしか見えないけどと、ロロンはその木を見ていた。

それにしても、ちっとも近づかない。そこでロロンは、あの木が、大きいというレベルを超えた大きさの大樹であることに気がついた。

あの大樹が、3つの異世界をゲートの力で繋いでいる、次元の大樹・神樹だとロロンが知るのは、風の城に着いてからだった。世界の中心に聳える大樹のことも知らないロロンは、風の王率いる風の城が日々何をしているのかも知らなかった。

「え?」

インサーリーズが慌てて回避行動を取った。ロロンは鳥の細い首に、振り落とされないようにしがみ付く。何事?と恐る恐る見てみればインサーリーズの目の前に、真っ黒で大きな生き物が立ちはだかっていた。

 あれは手?だろうか。猿の姿をした魔物だったが、ロロンが知るよしもなかった。

インサーリーズは退却を選択していた。魔物の長い手の攻撃をスイスイと躱し、神樹を目指していた。だが、魔物の手が、インサーリーズの長い尾の一部を掴んだ。グイと引かれ、インサーリーズは空中で蹈鞴を踏んだ。そんなインサーリーズにむかい、もう一方の手が掴もうと迫った。ロロンは恐怖でインサーリーズの首にしがみ付いて、目を閉じた。

「――大丈夫?」

あんな大きな手に握られたら、小さなボクなんてひとたまりもない!と思って身構えていたが、一向に握られなくて、その上、誰かに声をかけられ、ロロンはビックリして恐る恐る目を開いて、振り向いた。

空中でこちらを覗き込んでいるのは、金色の長い前髪で左目を隠した男だった。

あれ?さっきの黒いあれは?とロロンは視線を彷徨わせてしまったが、ヒタと目の前の男性に視線を合わせた。

「あ――お兄さん、闇の精霊?風の精霊?」

ロロンの言葉に彼は、金色の右目を瞬いて、そしてフッと憂いのある瞳で微笑んだ。

「風の精霊だよ。旋律の精霊・ラス。君は、リティルが言ってた闇の精霊のロロンかな?」

「お兄さん、リティルを知ってるの?」

ラスは頷いた。

「風の王・リティルは、オレの主君だよ。城へ帰るから、一緒に行こう?」

ラスはそう言って、安心させるように笑った。

「お兄さん……さっきの黒いあれが変身したんじゃないよね?」

あれだけの存在感のものが、唐突に消え失せていた。そして、ラスが現れた。ロロンは警戒していた。金色の翼が生えているから、風の精霊なんだろうけれど、ロロンには、彼に絡みつくような闇の気配を感じていた。

闇の精霊は、リティルとシェラを引き離した。きっと、今でもリティルに、よくないことをしようとしている闇の精霊がいるんじゃないだろうか?とロロンは同族をどこか疑っていた。

ルッカサンはリティルと和解したけど、本心はどうかわからない。だって、ルッカサンは、ボク達のこと見下してた先代女帝と変わらないから!そう思っているロロンは、闇の精霊が風の精霊に化けているのでは?とラスを疑ったのだった。

ラスは、ロロンの黒いあれが変身という言葉に首を傾げた。

「さっきの黒い?ああ、あれは魔物だよ。オレ達風の城の風一家は、あれを狩る仕事をしてるんだ。に、しても、ロロン。あまり思った事を口にしない方がいい。オレは確かに、あれ以上の化け物だけど、それを指摘されて気分のいい者はいないよ?」

ラスは、真顔になると、言い聞かせるように言ってきた。

「え?あれ、たくさんいるの?風の城は、あれを退治してるの?」

「うん。それが通常業務かな?闇の領域には出ないから、知らなかったんだね?」

「うん……あ、ごめんなさい!助けてくれたのに、ボク、酷いこと言って、ごめんなさい!お兄さん、闇の精霊っぽいから、つい……」

闇の精霊っぽいと言われたラスは、驚いたように瞳を見開いた。あ、失言だった!とロロンは慌てて口を塞いだが、もう遅い。せっかく警告してくれたばかりだったのに、怒らせた?とロロンはラスを伺った。

しかし彼は、意外にも静かな微笑みを浮かべて、感心したように頷いた。

「へえ。リティルが目を付けるだけのことはあるんだ。行こう。インサー、後はオレが連れて行くからあなたは戻っていいよ」

ラスはインサーリーズの背からロロンを抱き上げると、クジャクにそう声をかけた。インサーリーズはその瞬間、金色の風となって霧散した。ラスのハヤブサの翼は、インサーリーズと比べものにならないほど速かった。あんなに遠かった大樹が今はもう目の前にあった。

「ナーガニア、風の城へゲートを」

ラスが大樹に向かって声をかけると、目の前の空間がひずんだ。ロロンはヒッと息を飲んだが、ラスは気にせずにその歪みに飛び込んだのだった。


 ロロンが恐る恐る目を開けると、見たこともない部屋の中にいた。

象眼細工の茶色の床には、クジャクとフクロウが戯れる様がたくさん描かれていた。ロロンが明るい方へ目を向けると、聳えるような尖頭窓が目に入った。その窓の足下に、ワインレッドのソファーが置かれているのが見えた。ここも、色に溢れていた。

「ただいま」

「おかえり、おまえ、1人で魔物狩っただろ?ルールはルールだぜ?ちゃんと守れよ?」

ラスがソファーに向かって声をかけると、ソファーから聞いたことのある声が答えた。

「ごめん。人命救助していたんだ」

ラスがソファーに近づく。ロロンが彼を見つけるのと、彼が顔を上げるのが同時だった。

「リティル!」

ロロンは、羽根ペンを握ったまま顔を上げたリティルに、飛びついていた。

「うわ!ロロン?人命救助って……魔物に襲われたのか?大丈夫か?怪我なかったか?」

ロロンは、机の上を横断してリティルに抱きついてしまったが、リティルは書類を台無しにされたことを怒ることはなかった。

「うん!大丈夫だった」

「大冒険だったな。ラス、ありがとな助かったぜ」

ヨシヨシと首に抱きついたロロンの頭を撫でながら、リティルはラスを見上げた。ラスは、静かに微笑みながら、首を横に振った。

「闇の精霊が領域を出たのを感じたから、監視に行ったんだ。間に合ってよかったよ」

ラスはお茶入れるよと言って、金色のシラサギがそばに待機しているワゴンに向かった。

「……あのお兄さん、ホントに風の精霊?」

「ラスか?ああ、そうだぜ?あいつ、ちょっと特殊なんだよ。6属性フルスロットルだからな。風の精霊でありながら、6属性使いたい放題だぜ?特に、闇とは相性良いんだよ」

リティルはロロンを隣に下ろし、机の上を召使い精霊のハトを呼んで片付け始めた。ロロンはその様をジッと見つめていた。

「ん?どうしたんだよ?」

顔を上げたリティルの肩や腕に、金色のハト達は戯れるように留まっていた。

「鳥だらけ」

それを聞いて、リティルは笑い出した。

「ハハハハ!オレの異名知ってるか?烈風鳥王って言うんだよ。数多の鳥を操る王なんだよ」

よく知らないが、リティルは15代目で、歴代の風の王にはそれぞれ異名がついているらしい。異名はそれぞれの王の得意な事であったり能力が現してあるようだ。

「風の城は、召使い精霊が特に多い城だよ。リティルは多くの精霊を従えてるから、城にいること多いけど、歴代の王は城に殆どいられないくらいだったんだ」

ラスが紅茶を淹れて戻ってきた。彼の話では、役割によって沢山の種類の鳥達がリティルの為に動いてくれるらしい。

「従えてねーよ。オレはみんなの善意で生きてるんだよ」

ありがとなとリティルは笑った。その明るい笑顔に、眩しそうにラスは微笑んだ。ロロンはラスの微笑みを見て、ああ、この人もリティルが好きなんだなと思った。

 ラスは「今はこんな物しかないけど」と言いながら、スコーンを出してくれた。

見たこともないお菓子に、ロロンがこれはどうやって食べるのかと眺めていると、リティルが「こうやって食べるんだぜ?」と言って、割ったスコーンにイチゴジャムをタップリ乗せて手に持たせてくれた。

精霊は、飲み食いの習慣がない。睡眠は大切だが、生きるための摂取は必要ではないのだ。それでも、味覚はあるし、甘い物を食べると癒やされる。スコーンを恐る恐る口に入れたロロンの瞳が、輝くのを見て、ラスとリティルは楽しそうに笑った。

「ただいまーってロロン?こんなとこにいたんです?シェラがロロンがいなくなったって、大騒ぎしてましたよぉ?」

そこへ、気の抜けたような声で、インジュが帰ってきた。

「ほへ?ノインに風の城行くって言って……あ!言ってない!シェラ様にも何も言ってなかった!」

風の城へ行こうと思ったのは、ノインと話をしたからだったが、彼にも行くとは言っていなかったことを思い出した。

「ああ、それで何の連絡もなかったのか。ダメだぜ?女王様に黙って出てくるなよ。それに、闇の領域は安全だけどな、セクルースは魔物が出るからな」

ついてるぜ?とリティルはロロンの口の端についたイチゴジャムを指ですくうように拭った。

「あはは。オレが目を光らせてるから、大抵は大丈夫かな?」

そう言いながらラスは、水晶球に触れた。

「シェラ、いいかな?」

『ラス!ごめんなさい、今手が放せなくて』

「ロロンならここにいるよ」

『え?風の城にいるの?』

「ごめんなさい!シェラ様!ボク、リティルに会いたくて」

「なんだよ、オレが目当てだったのかよ?はは、しょうがねーな。どうする?戻した方がいいなら、ラスに送らせるぜ?」

「え?」

ラスに送らせる?リティルが送ってくれないの?とロロンは途端に寂しさに包まれた。

『……いいえ。すぐでなくていいわ。ロロン、用事を済ませたら送ってもらってね。1人で帰ろうとしないでね?いいわね?』

「はい!ごめんなさい!」

シェラはホッとした顔をして「怒っていないわ。心配しただけよ」と微笑むと水晶球からいなくなった。

「で?オレに用事だったのかよ?」

優しい顔でリティルに笑いかけられ、ロロンはなぜか胸が詰まってしまった。言いたかった事が言えなくなった。

「えっと、会いたかった、だけ……」

「人タラシですねぇ。リティル、こんな幼気な幼児まで誑し込んでるんです?」

インジュが女性の様な柔らかな瞳で見つめてきて、ロロンは居心地悪くて俯いた。

「はは。オレに会うのが目的だったなら、じゃあ、冒険は終わりか?」

「えっと……」

「泊まっていけば、いいんじゃないかな?」

ラスの言葉に、ロロンは「いいの?」と顔を上げた。

「ロロンの知りたいことが何なのかはわからないけど、それを探してみるのもいいかもしれないね」

「どうしちゃったんです?ラスが優しいって、明日どっかが滅びるんですかぁ?」

インジュが信じられないモノを見る目で、ラスを見ている。ロロンは、ラスは本当にもの凄く怖い人なのかな?と恐る恐る風の城の執事を伺った。ラスはロロンの視線に気がついていないのか、インジュと和やかに話していた。

「ロロンは、オレが化け物だって見抜いたんだ。見込みあると思うよ?」

「へえ。じゃあ、お父さんにも会ってから帰るべきですねぇ」

「お?すげーな、この城の副官にお目通り叶うってよ!おーい!インファー!」

リティルは茶化すように笑うと、水晶球に手を伸ばした。

『はい。どうしました?父さん』

「会わせてーヤツが来てるんだよ」

『了解しました。すぐ戻ります』

インファはすぐに水晶球からいなくなった。

「……お父さん、凄いですよねぇ。リティルが呼ぶと、ホントすぐ帰ってくるんですから」

「ハハ、さて、今日はどれくらいで帰って来るかな?」

「1分」

「それはさすがに、5分かな?」

インジュとラスは答えた。その刹那、玄関ホールへ続く白い石の扉が開いた。

「ただいま戻りました」

それには、ラスもインジュもギョッとした顔をして、帰ってきたインファを見ていた。そんな部下達の様子を見て、リティルが笑いだした。

「ハハハハ!おまえ、ちゃんと狩ってきたのかよ?」

「はい?きちんと狩ってきましたよ?」

何を言っているんですか?とインファは怪訝な顔をしながら、十数メートルの距離をイヌワシの翼で一気に飛んできた。

「来客とは誰ですか?」

硬質な声だった。明らかに、来客を警戒している隙のない声だ。

「こいつだよ。翳りの女帝の従者・ロロンだ」

ロロンは、リティルの紹介で、インファの金色の切れ長の瞳が自分に合わさるのを見て、ビクッと身を震わせた。

「あなたが……1人でここまで来たんですか?」

どうしてボクのこと知ってるの?ロロンは、インファの切れ長の瞳に見つめられて目がそらせなかった。

「魔物に襲われてたから、保護したんだ」

お茶を淹れると言って、ラスは再び席を立っていった。ラスがいた席に、インファは腰を下ろした。彼の瞳は、ジッとロロンを値踏みするように見つめていた。ロロンはというと、固まりながらもインファを見返していた。

「すごい……こんなに隙なく封じられた闇、初めて見た……」

「もの凄い美形!こんな美人な男の人初めて見た!」と、ロロンは心に思ったことと言わなければならないことが逆転してしまった。

「ロロン」

「はっ!ボク、口に出てた?」

「うん。気をつけようね。無防備すぎるよ」

ラスに警告され、ロロンはあわあわしながらチラリと、インファを見た。

「あなたは、なんという名の闇の精霊なんですか?」

「ボクは、月影の精霊だよ。月の光が影を映し出すみたいに、ボクは、その人の抱えてる闇が見えるんだ」

闇とは強すぎる負の感情だ。しかし、負の感情はなくてはならない感情だ。怒り、嫉妬は向上心に繋がる感情だ。哀しみは優しさに繋がる感情だ。憎しみは愛故にもたらされるものだ。喜びや楽しさだけでは、人を思いやれない。負の感情があるから、人は人を理解できるのだ。問題なのは負の感情が育ちすぎて闇になってしまうことだ。

「ああ、それでラスの事、見抜いたんです?ちなみに、ボクの闇って、どんなですかぁ?」

「インジュはないよ。強烈な光に灼かれちゃったんじゃないかな?燃えかすみたいなのが、チラチラ見えるよ」

「ボク……真っ黒だと思ってました……」

「一周回って白くなったんじゃねーのか?」

「人格があと2つあるよね?2人がすごく強い光を持ってるんだ。たぶんインジュには、どんな精神攻撃も効かないと思う」

ノインには闇がない。かといって光が強いのかといえばそうでもない。物静かな雰囲気そのままと言えば聞こえはいいのだが、何と言っていいのか……無気力……とは違う、物足りない?のかもしれない。だから彼は、旅に出たいのだろうか。いなくなったら嫌だな。と思ってしまう。ロロンは、リティルと同じようにノインのことも好きな自分を自覚した。

「あれ?ボクが多重人格だって話しましたっけ?」

首を傾げたインジュの耳で、ティアドロップ型のガラス玉がキラリと光を返した。

「そんな主張してたら、見えちゃうよ!あ、でも、もしかして、ラスも?」

恐る恐るロロンは、インファの座るソファーの後ろに控えるように立っているラスを見た。

「うん。その通りだよ。さっき、ロロンを助けたのはもう1人の方だ。彼じゃないと間に合わなかったから」

「怖い人?」

「そうだね。優しいとは言えないかな?リティル、ロロンの能力知ってたのか?」

「いや。ロロンは、1番シェラを心配してたからな。だから従者にしたんだよ」

「あなたの野生の勘は、末恐ろしいですね。あと1人、戦闘能力の高い従者がつけば、母さんの身の安全は保証されそうですね」

「風の精霊じゃねーんだ。闇の領域にいれば、戦う事なんてねーよ。闇の領域は魔物が出ねーし、安定してる領域だからな」

「そうですね。母さんは闇の領域から出られませんし。父さん、いっそ、婚姻を結んでしまえばいいのではないですか?」

「はあ?翳りの女帝とかよ?」

「父さん、どこかで割り切らなければならないと思います」

「……そうだな……。けどな、そんな簡単じゃねーんだよ。今はまだ、無理だ。シェラの精神が保たねーよ」

険しい顔で考え込んだリティルと、神妙な顔のインファに、ロロンは不安そうな顔をした。すると、いつの間に背後に来ていたのかラスが、ソファーの背越しにロロンに囁いた。

「心配しなくてもいいよ。シェラの事は、リティルが必ず守るから」

ロロンは頷いたが、リティルも、無理をしているような気がした。


 風の城は、上級以上の精霊が数多くいて、風以外の属性の精霊もいてロロンにはとても楽しい場所だった。

「花の精霊さんって、綺麗なんだね。でも、男の人も女の人みたい」

応接間でデスクワークをしているインジュの隣で、ロロンは足をプラプラさせながらはしゃいでいた。風の城は、精霊達の相談窓口だ。愚痴や泣き言といった軽い物から、調査の依頼まで様々だった。

「そうですねぇ。あの蝶の羽根も色とりどりで綺麗ですよねぇ。あれ、みんなミイロタテハっていう種類のチョウチョらしいですよぉ?」

「え?みんな模様違ってなかった?」

風の城に出入りする花の精霊達は、花の十兄妹と呼ばれる、太陽の城に居候している花の王の息子娘達だ。花の王と風の王は兄弟の杯を交わしている間柄で、花の王はリティルを「可愛い末弟」と呼んでいる。

「それがミイロタテハなんだそうです。グロリアスって呼んで、宝石扱いしてたりするみたいですよぉ?」

ニコニコしながら相手をしてくれているインジュの視線は、ずっと目の前の書類に注がれ、羽根ペンを保つ手は忙しなく動いている。

「シェラ様も……花の精霊だったんだよね?」

「そうですねぇ。花の姫でしたねぇ。シェラの羽根も綺麗な色してたんですよぉ?輝くような深い青色でしたねぇ」

青色。空みたいな色だろうか?闇の領域は黒と灰色で、色はない。ロロンも、シェラがくるまで、色というものを知らなかった。シェラは、闇の領域に光をもたらし、満月に照らされたかのように、彼の領域は仄明るくなった。そして、闇の精霊の多くは、闇の領域も黒と灰色ばかりではないと知ったのだった。

「ええと、こんな色です」

インジュは左手の手の平を、何かを受けるように上向かせた。すると、一匹の蝶がフワリと現れ、ヒラヒラと飛んだ。それは、モルフォチョウと呼ばれる、瑠璃色の羽根の美しい蝶だった。

「生き物も作り出せるんだ」

「幻ですよぉ。無闇に命は作りませんよぉ」

命がどうやって生まれるのか、ロロンも知っていた。それが尊いことであることも知っている。

「ボクとナナを、シェラ様につけたのは、ボク達が子供の姿だから?」

「考えすぎですよぉ。グロウタースの民じゃあるまいし。シェラは聖母って呼ばれてましたけど、赤ちゃんとか子供が別段好きってわけでもないですよぉ。それに、風の王とじゃ子供はできないです」

相性最悪ですから。とインジュは首を竦めた。

「インファとインリーがいるよね?」

「はい。花の姫の固有魔法で作られたんです。シェラのお腹から出てきてますけど、お父さんに言わせれば、人造精霊なんだそうですねぇ。ああ、勘違いしないでくださいねぇ?ちゃんと親子してますからねぇ?どうしたんです?」

「……シェラ様を、リティルに返せないかって思って……」

薄々、ノインが来てルッカサンが忙しくなったのは、シェラをリティルに返す準備をしているのではないかと思っている。しかし、それが思わしくないのだろう。

「そんなこと考えちゃいます?」

「シェラ様、頑張ってるけど、きっとリティルがいないとダメなんだ。血の繋がりって、何か凄いんでしょう?シェラ様の子供なら、翳りの女帝になれるんじゃ?」

「あのですねぇ、子供って、1人じゃ作れませんよぉ?」

「リティルがいるよ?」

「なんだ、知ってるんですかぁ?うーんそれ、シェラには絶対に言っちゃダメです」

「どうして?」

「きっと、リティルのこと、永遠に無視します!」

「ええ?なんでー!?」

「ルッカサンにもダメです」

「どうして?」

「リティル、監禁されちゃいます。そうなると、困るんですよねぇ。仕事がまわらなくなっちゃうんで。風が動かないと大変ですよぉ?世界が滅びますからねぇ?」

インジュがニコッと笑って、ロロンを見た。その表情とは裏腹な心を感じて、ロロンはブンブンと首を横に振った。

「言わない!ごめんなさい!」

「言っちゃダメですよぉ?」と、インジュが念を押したところで、背後の、中庭に通じるガラス戸が開きインファが、正面の、城の奥へと続く扉が開きラスが同時に入ってきた。

「インジュ、そろそろ」

「はい。あはは、2人とも時間ピッタリですねぇ」

そう言って、インジュは散らかった机を「このままでもいいです?」とインファに断ってから、魔物狩りに行くべく迎えに来たラスと出て行った。

 インジュと入れ替わりに、インファがソファーの背を飛び越えて座る。そんな格好いいインファを、ロロンはボンヤリと見つめてしまった。

「どうしました?」

こんなに見つめては、なんだ?と思われて当然だ。ロロンは慌てて弁解した。

「えっ!ええと、インファはリティルとシェラ様の子供なんだと思って」

「精霊同士で子が産まれるのは非常に稀です。オレと妹は、母に望まれてここにいるんですよ」

「シェラ様が望んで?」

「ええ。父を助けるため、オレは産み出された精霊です。花の姫には、風の王との間に限り子を成す力がありましたから」

「……今のシェラ様とリティルじゃ、ダメなの?」

「世界が望まない限り、子ができることはありません。自由恋愛の末の婚姻であるオレ達にも、インジュしかいませんしね」

「インジュは至宝の持ち主?」

「ええ。ある精霊の至宝が、精霊として産まれたがりまして、セリアの腹を借り、オレの遺伝子を使い、産まれたのがインジュですね。自然発生した命ではないんですよ」

「新しい精霊が産まれるのには、素になる物がいるってこと?」

「オレの知る限りでは、そのようですね。ロロン、シェラが翳りの女帝の証を持っている限り、翳りの女帝は産まれる事はありません。その証がシェラを解放するときは、彼女の死の時だと。覚えておいてください」

「……はい……」

 考え込んでしまったロロンを、見守るように優しく見つめながら、インファは父王の見る目に感服していた。そして、ノインも温かく見守っている様子だ。

この子は化ける。インファは、手元に置いて育てたい衝動に駆られたが、闇の城に返すという選択以外選べなかった。

「……ノインと交代してはいけませんかね……」

ノインはおそらく、見守る以外の事はしない。自発的に教えを請われなければ、今の彼は何も教えはしないだろう。しかし「動いていいんですよ?」と言えない。今の彼の背中を押してしまったら、きっと、いなくなってしまうと感じるからだ。それが、ノインの為になることでも、インファは、彼がいなくなってしまうことが寂しくて言えない。インファはそんな自分を、狡いなと思っていた。

「?」

ロロンにどうしたのかと首を傾げられ、インファは「行きましょうか」とロロンを贈っていくのだった。

諦めの悪い風の城の副官は、力の精霊を戻して自分が闇の城に行くことを、本気で検討したのだった。しかし、その企みは、補佐官の反対に遭い、叶わぬ夢と終わるのだった。


 闇の領域に、鮮やかではないが色が戻りつつあった。

リャリスは、執務室に飾られた、赤だとわかるバラを見つめていた。シェラは翳りの女帝となったが、その心には花の姫だったころの光が残っている。けれども、その光の強弱は彼女の想いに依存していた。リャリスは、僅かに、バラの赤が黒ずんだり赤みが強くなったりする様を観察していた。

「おば様、おじ様が来るのですの?」

「……………………え?さあ、どうなのかしら?ロロンを送ってきてくれると、インファから連絡は受けているけれど」

今、タップリあった間は何なのだろうか。確かに小一時間ほど前、インファからロロンを送っていくと通信があったのは知っている。だが、インファは誰が送っていくとは行っていなかった。

「リティル様であると、よいですな。女王陛下」

「やめて、ルッカサン。今会うわけにはいかないわ」

そう言いながらも、シェラの困った微笑みには期待が透けて見えていた。

ルッカサンは、目に見えて変わったと思う。リャリスとノインがここへ来た頃は、明らかに風の王・リティルに対してしこりがあった。もちろん、女帝とも。それが、これはノインの手腕なのだが、両者は歩み寄り、今ではルッカサンの方が、リティルの名を出すようになっていた。それも、彼の人の良さそうな顔に似合いの、柔らかな笑みを浮かべてのオマケ付きだ。本当にノインは良い仕事をする。そして、ここへきて楽しそうなところもよかった。ノインは何も言わないから、埋もれてしまうのだ。何不自由ない風の城は、彼にとっては物足りないだろう。

「ルッカサン、例の実験結果が出た」

ノックもなしに扉を開き、ノインが丸めた紙の束を抱えた青年を従えて入ってきた。彼はノインが見つけてきた文官見習いだ。

「いかがでしたかな?」

「ああ、しかし――」

ノインは文官見習いの青年に指示して、執務机とは別にある大きな机に紙を広げさせ、ルッカサンと難しい話しをし始めた。

楽しそうですわね。リャリスは力の精霊でありながら、知識欲の深いノインの熱心な姿に、フフと微笑んだ。あんなノインは初めて見る。と思って、それもそうかと思う直した。風の城には副官のインファがいる。彼の出番は出しゃばらない限りない。そしてノインは、控えめだで風の精霊ではないからと、自分を戒めている。

「あの……どうでしょうか?リャリス様」

控えめに声をかけてきたのは、リティルが集めたメイドの1人である少女だ。リティルが彼女に仕事を教える前に去らねばならなくなり、リャリスが面倒を見ているのだ。

「美しくってよ?腕を上げましたわね」

シェラは、花が好きだ。闇の領域には、光を嫌う植物が生えていて、その中には夜の闇を好む花々もある。リャリスは、それらを育てる術を教えて、庭園を造ったのだ。このバラはグロウタース産で、リャリスが闇の領域でも育つように改良した新種だ。ここは、他にはない環境で、リャリスの研究魂にも火を付けていた。リャリスに褒められた少女は嬉しそうな顔をして「庭園も見てください」とリャリスは誘われて部屋を出たのだった。

 シェラは手を止めて執務室の様子を見ていた。

ここへ来たときはこの部屋に1人で、ただただ目の前の問題に忙殺されていた。それが、問題は相変わらず次から次に出てくるが、雰囲気は圧倒的によくなった。

「シェラ様」

ナナが紅茶と共に、あるお菓子の乗った皿を差し出した。

そのお菓子を見たシェラは、目を疑った。

「ナナ、これ……」

シェラが信じられない心持ちで小さな少女を見下ろすと、ナナは得意そうな顔で笑った。

「新作よ!」

シェラの前に置かれたのは、アイスクリームとコーンフレークを背の高いガラスの器に盛った、パフェだった。堆く巻かれたソフトクリームに、黄色い宝石が飾られていた。

「鉱石パフェよ!この宝石みたいなのは琥珀糖っていうお菓子なの!たくさん作り方覚えなくちゃならなくて、やっとできたの!」

ナナは、唖然とするシェラの様子に気がつかないまま、どれだけ大変だったかを力説していた。

シェラは、震える手で黄色い琥珀糖をつまんで、頬張った。硬い感触が一瞬して、柔らかな食感と共に、柑橘系の爽やかな甘さが口の中に広がった。

リティルはどこまで狙ってやっているのだろうか。

これは、シェラにとって思い出のお菓子だった。2人きりではなかったが、リティルと初めてデートしたときに食べたお菓子だった。これを一緒に食べたとき、まだリティルを本当に好きかどうかわからなかった。でもあの人に、確かに心は傾いていた。

「女王陛下、ロロンが戻りましたな。迎えに行かず、よろしいのですかな?」

ルッカサンが意味深に声をかけてきた。シェラは察したが「ここで待つわ」と微笑むだけに留めた。ルッカサンは何か言いたげに眉尻を下げたが「そうですか」と引き下がった。

 逢ってはいけない。今、彼に逢ってしまえば、ただのシェラに戻されてしまう。女王でいられなくなる。笑っていられなくなってしまう。

やっと、ルッカサンともいい関係を築けて、業務も機動に乗ってきた。闇の領域の機能を回復させて、ここに暮らす精霊達の水準を上げなくては、セクルースの別の領域を知った彼等は不満に思う。

その不満が向かう先は、魂の生き死にに関わる風の王が守り慈しむ異界・グロウタースだ。

繁栄と衰退の異界・グロウタースは、シェラとリティルの故郷でもあった。もしも故郷でなかったとしても、グロウタースに何かあれば駆り出されるのは、すべての世界を行き来する権限を持つ世界の刃・風の王だ。彼の世界では、精霊の力は制限される。その世界での活動は、いかに風の王であっても大きな危険と隣り合わせだ。

グロウタースに、闇の精霊が問題を起こすことはなんとしてでも阻止しなければならない。闇の領域を掌握するまでは、シェラは、リティルに逢わないと決めていた。それを、リティルもわかっているだろう。だから、ロロンを送ってきても、城に入らないのだ。

でも、でも!これを逃せば、あなたは、2度とわたしの前には現れないのではないの?

追い詰められたかのようにシェラは立ち上がると、背後の大きな窓を開いていた。

「女王陛下!」

ルッカサンの焦った声が背中に聞こえた。

シェラは躊躇わずに窓枠に足をかけ、空に向かって身を躍らせていた。

 シェラは、忘れていた。

もう、空を飛ぶ能力を持つ精霊ではなくなっていたことを。


 やられたな。

リティルは、ロロンにしてやられたことにやっと気がついた。今、背中に負ぶさっているロロンは、上機嫌だ。

インファが闇の城まで送ると行っていたのだが、ロロンは「リティルがいい!」と言ってその容姿に見合った大泣きを披露した。インファは「どうしますか?」と笑いを堪えるような顔をしていたが、リティルはすっかり騙されていた。どうにも、庇護欲をそそられる容姿の者に泣かれると弱いのだ。インファが闇の城に連絡しておくと言ってくれ、リティルはロロンを負ぶって風の城を飛び出した。

城を出てすぐに泣き止んだロロンに思惑があることに気がついたが、闇の城に入らずにすぐ帰れば問題ないと思っていた。闇の領域には本当は近づきたくないのだが、ロロンを途中で放り出すわけにもいかず、リティルは渋々闇の領域を目指していた。

 普段はゲートを使い、移動距離を短縮するのだが、ロロンは見るモノ聞くモノすべてにキラキラした瞳を向けていて楽しそうだった。インファならもっといろいろな話しをしてやれるのだろうが、リティルもできるだけ見せてやろうと、水の領域、大地の領域の上空を経由して闇の領域を目指した。

「水ってあんな色なんだ。えーと、青色?」

「ああ、よく知ってるじゃねーか」

「インファが色の本?くれた!でも、闇の領域でもちゃんと見えるかな?」

「シェラに頼めば光灯してくれるだろ?あいつ、翳りの女帝なのに未だに光が使えるからな」

翳りの女帝は、光を操り自在に闇の形を変える者。光を灯す力はないはずだが、シェラは未だに光の魔法が使えるようだ。それが、歪みとならなければいいと、思っている。

ルッカサンが折れてくれなくても、リティルはリャリスとノインを派遣するつもりでいた。セクルースの総括をしている太陽の精霊、夕暮れの太陽王・ルディルから提案してもらい、無理矢理送り込むつもりでいた。闇の領域の安定もそうだが、シェラ自身を調べさせるつもりだったのだ。体や精神に歪みが発生していないか。今のところはないと、ノインとリャリスから報告を受けている。

「こういうのを、綺麗っていうんでしょう?」

「美的感覚は人それぞれだけどな。オレは好きだぜ?」

「じゃあ、ボクも好き!」

「ハハ、なんだよ?それ」

闇の領域が変わり始めている。その変化がいいことなのかどうか、リティルにもまだわからない。何が起こっても行く末を見守るだけのリティルには、関係のないことだった。

だが、できることならシェラが笑っていられる世界になればいいと思う。

例え、笑う彼女の隣にいられないとしても。

 世界中を股にかけるリティルであっても、何も目的なく飛ぶことはない。

こんな空中散歩は、初めてだったかもしれない。ここ数年、智の精霊・リャリスの趣味に付き合って、薬を作る為の材料集めに歩き回っていた。自分の目的なくただひたすら歩き回る行為は、リティルのいい息抜きになっていた。この空中散歩も、それと同じ効果があるらしい。不本意な外出となったが、これはこれでよかったのか?と仕事中毒の風の王は思った。

「リティル、本当にお休みなかったんだね?」

「ああ?休み?寝てるぜ?適当に」

休みと聞いて、睡眠のことを思い浮かべるあたり、ロロンでもこの人ダメだと思った。

そして、1週間も闇の城に滞在していたことは、彼にとってはあり得ない事なのだということを、ロロンはあらためて知ったのだった。

「違うよ!休暇!」

「休暇?……そういや、1日何もねーことなかったかなー?」

リティルは考えた事もなかったというふうに、前方の空を見上げた。

ロロンが風の城に滞在している間も、リティルは常に何かしていた。応接間にいないことも多く、ロロンは代わる代わる一家の皆に構われて退屈しなかったが、リティルに会いに来た割に彼と一緒にいられた時間は、そういえば僅かだった。

「――大違いだ」

「ん?何か言ったか?」

ロロンは思わずギュッとリティルの首に回した腕に力を込めてしまい、リティルにさりげなく緩められた。

先代女帝・ロミシュミルは暇をもてあましていた。しかし、新女帝のシェラは、忙しそうにしている。リティルがちゃんと寝てるか監視しろとロロンに言った意味が、従者としてそばにいるようになってわかった。

ルッカサンも、風の城から派遣されてきている2人もシェラに寝室行きを促すが、大人しく寝室に戻っても、シェラは資料のファイルを持ち込んでいることが多々あった。ロロンが取り上げても、他にも隠し持っていることがあり、リティルに泣きついたことが何度かあった。リティルが水晶球で話してくれると、すんなり寝るのだから、どんな魔法を使っているのか気になっているロロンだったが、教えてくれと頼んでも、リティルははぐらかすばかりで絶対に教えてはくれなかった。

「ロロン、そんなに怒るなよな。今は、おまえが思う、まともになってきただろ?」

「ねえ、なんで、シェラ様があんなに頑張らないといけないの?シェラ様、笑ってくれるようになったけど、全然幸せそうじゃない。リティルがいないからだよ!なんで、リティルはこないの?ねえ、なんで?」

ロロンはリティルの背中に負ぶわれているために、彼の顔が見えない。黙ってしまったリティルに、ロロンはラスにダメだよ?と言われていたのに、また何か余計なことを言ってしまったのかと、口を噤んだ。

ノインは職務があるといった。でも、こんなに時間が取れないものだろうか。ロミシュミルは日がな一日遊んでいたというのに!

「……怒ってねーよ。けど、答えられねーんだ。なんて言っていいのか、わからねーんだよ。ただ、無理なんだとしか言えねーんだ」

「休暇がないから?」

「それは、何とかすれば何とかなるんだ。ごめんな、無理なんだ」

風の王にごめんと言われ、ロロンはそれ以上何も言えなかった。ロロンがリティルの金色の頭越しに視線をあげると、嵐を起こす黒雲の中にあるような、闇の領域が見えていた。

明るい太陽光を拒否するようなその場所は、ロロンの目にも異質に見えていた。

「翳りの女帝は、本当は常夜の国・ルキルースの支配者になるはずだったんだ」

セクルースと表裏一体の夢の国・ルキルース。治めている王は、幻夢帝という月の精霊だ。

「先代女帝のロミシュミルには、一国を支配できるだけの力がなかったらしいな」

「無能だったって、ルッカサンが言ってた」

「はは、あいつ、開き直ってるな。けど、おかしいよな?ロミシュミルは創世の時代から生きてる古参の精霊だったんだろ?しかも、精霊に無能なんてヤツがホントにいるのか?」

「リティルは、ルッカサンが嘘ついてるって思ってるの?」

「いや、あいつは1人で頑張ってたからな。これでも、同情はしてるんだぜ?ただ、闇の領域には、ルッカサンも知らねーことがあるんじゃねーのか?って思ってるんだ」

闇の領域に何かある?闇の領域は黒と灰色しかなくて、真っ黒な部分は闇の精霊でもよく見えなくて、知られていない場所がたくさんある。シェラが光を持ち込み、その光が徐々に領域の奥まで伸びていっていて、ルッカサンとノインが調査を計画していることをロロンは知っていた。

「リティル……あの――」

「ダメだぜ?中核のことは、他の属性の精霊に漏らしちゃいけないぜ?今回は、介入したけどな、本当は、依頼もねーのにしちゃいけねーことなんだ」

「リティルでも?」

「ああ。領域のことはその領域の王が管理する事になってるんだ。精霊なんだ、王ならそれが当たり前にできるしな。ただ、今回は新女王が潰れそうだった。元風の王妃だしな。オレ自身が無関係じゃなかったからな、例外って言えば例外だったんだ。けど、もう自分達で何とかできるだろ?派遣してる奴は2人とも風の精霊じゃねーし、風の精霊の居候だけど、王に匹敵する力を持った1精霊だ。オレの手はとっくに離れてるんだよ」

ロロンは、難しいことはわからない。けれども、リティルが闇の領域にシェラに逢いに来られない理由は何となくわかったような気がした。

風の王・リティルと、翳りの女帝・シェラは、何の関わり合いもない精霊だから、用もないのに忙しい風の王がわざわざ足を運べない。そんな感じなのだろう。

「リティル、愛人なのに……」

「ハハ!おまえ、精霊に愛人が許されるわけねーだろ?婚姻の証もなしに抱けねーし、なにするんだよ?グロウタースの民じゃあるまいし」

「じゃあ――」

「婚姻の証を贈ってよ!」と言いそうになって、ロロンはインジュに「世界、滅びますよぉ?」と言われたことを思いだして口を噤んでいた。リティルはロロンが何を言いかけたのか察したようで、小さく笑った。

「風の王の妃は、花の姫以外、ありえねーんだよ」

リティルがそう言った直後、ロロンは高度が下がるのを感じた。

 見れば、四角が積み重なったような真っ黒な石でできた闇の城が、目の前にあった。

「リティル、」

「じゃあな」

地面に下ろされたロロンの頭を、リティルは乱暴に撫でた。言葉すら紡がせない性急さだた。一刻も早く、ここを離れたい。そんな心を感じて、ロロンは哀しくなった。しかし、チラリと見えたリティルの視線が、3階にある執務室のあたりを見ているのを見て、更に哀しくなった。

逢いたい。と、そう思っているのはリティルも同じなんだ。それだけは、ロロンにもわかった。

リティルは何事もなかったかのように笑うと、ロロンの頭から手を放し、その身を金色のオオタカに変えた。一瞬で空高く舞い上がった彼の姿は、闇を切り裂く1本の矢のようだった。

ああ、こんなにも光は儚い。ロロンは、まばゆい矢のようなリティルの光でも、一線しかしか照らせない闇を見ていた。

帰ろう。明るい光にリティルが同化してしてしまったのを見て、ロロンは城へ入ろうと振り返ったその時だった。何かが視界の端をかすめた。

「え?」

ロロンの体は、強ばって動けないどころか声も出なかった。

3階の執務室の窓が開け放たれたかと思うと、黒いドレスの女性が飛び降りたのだ。

闇の精霊は浮力を持たない精霊だ。彼女の背に、変わらず蝶の羽根が生えていようと、その羽根は空気を掴みその体を浮き上がらせることはない。

ロロンの目には彼女――シェラが窓から身を投げたように見えた。一歩遅れてルッカサンが窓枠に齧り付くが、すぐに慌てたように部屋の中へ消えた。シェラが落ちてくる。その下にあるのは、闇色の低い茂みだ。あの上に落ちても、クッションにはならない。

なんで?どうして?ロロンはどうしてシェラが死を選んだのかわからなかった。地面を見つめていたシェラの瞳が閉じられるのを、ロロンは何もできずに見ていた。

 刹那、突風のような風が、闇を切り裂いた。

比喩ではない。本当に切り裂いたのだ。その風は金色の、昼間の色をして眩しく輝いていた。

「――ぶねーな。オレを引き留めるにしても、他にもっとやり方があるだろ?」

呆れた声が、城の1階の天井くらいの高さから聞こえた。ロロンは呆然と、リティルに横抱きに抱きしめられているシェラの姿を見たのだった。


 落ちてくるシェラを、空中で抱き留めたリティルが舞い降りるころ、血相を変えたルッカサンが、城門を開き飛び出してきた。

「っ!リティル様!」

シェラを抱き留めたリティルの姿を仰ぎ見て、ルッカサンは上がった息のまま瞳を見開いた。それはそうだろう。彼の気配はシェラが跳び下りたときにはすでに、去っていたのだから。

「よお、おまえのところの女王様はお転婆だな」

何事もなかったかのように、明るく笑うリティルを前に座り込まなかったルッカサンを、ロロンは褒めたいと思った。ロロンはすでに腰が抜けていて、座り込んでしまっているのだから。

「申し訳ありません。わたしがあなた様を引き留めてさえいればこんなことには……」

「ハハハ!おまえにお茶に誘われてたら、全力で逃げてたぜ?あいつら、役に立ってるか?」

あからさまに肩を落とすルッカサンに、リティルは敵意をまるで感じず、内心首を傾げていた。あれだけ嫌われていたのに、こんな態度を急に変える事ができるモノなのだろうか。

「どんな言葉を尽くしても足りぬほどでございます」

「そっか、そりゃよかった。ああ、インジュがたまに来てるだろ?邪魔してねーか?邪魔だったら追い返していいからな?あいつ、サボりだからな」

「そうでしたか。して、リティル様、此度は幾日滞在なさるおつもりですかな?」

ん?リティルは首を傾げた。ルッカサンの言い方は、すぐに帰れと言っているのではないと感じた。ルッカサンの瞳が、妖しい光を帯びて伺っているのを見て、リティルはたじろいだ。即帰るつもりだったのだから。

そして、ああ、シェラを抱いたままだったと気がついた。シェラはというと、よほど落ちたのがショックだたのか、リティルの首にしっかり腕を回して抱きついていた。

気を失っていないはずなのに、一向に顔を上げない。

そんなシェラの様子も、リティルには違和感を与えていた。

「どうぞ、ナナの紅茶を飲んでやってください」

シェラを下ろそうとしたが、その手が離れず、そうこうしているうちに、城内へ招かれる事になってしまった。

 おかしい。どうしてこうなった?リティルは首を傾げたが、ナナとは殆ど時間が取れずじまいで別れることになってしまった。紅茶の淹れ方は、コッソリ付けた風の城の召使い精霊のシラサギが教えたはずだ。

リャリスとノインが出向してからは、リャリスを通してお菓子作りを教えていた。彼女のお菓子作りの腕前はうなぎ登りで、次のレシピをくださいとリャリスが言ってきたばかりだった。どこまで上手くなったのか、ナナの紅茶とお菓子には興味があった。リティルは警戒することなく、闇の城に再び足を踏み入れたのだった。

 うーん、だからどうしてこうなった?

リティルはお茶を飲む、つまりはルッカサンやノイン達から何か話しがあるのだと思っていた。しかし、ルッカサンが案内したのは、見慣れた扉――女王の寝室だった。

「ごゆるりと寛ぎください」

いや、お茶飲むんじゃねーのかよ!とツッコみそうになって、リティルはやっと、ああ、嵌められたのかと思った。

「シェラ、逢う気はねーんだと思ってたんだけどな。違ったのかよ?」

リティルの言葉に、シェラはやっと顔を上げた。

「逢うつもりは、なかったの。けれども、我慢が効かなくなってしまって……」

オレの元奥さん可愛いな!リティルの首からやっと腕を解いたシェラは、シュンと俯いた。そんなシェラの様子に、リティルの心は掻き乱された。だが、ここで流されるわけにはいかない。

「オレがノコノコ来たせいだな。ごめん。で?ルッカサンのあの態度はなんだよ?なんか企んでるのかよ?」

シェラはやっとリティルの腕から降りながら、キョトンとしていた。

「おかしかったかしら?彼はいつもあのような感じよ?」

「ほんの1ヶ月前は、毛嫌いされてたぜ?」

「ルッカサンはバカではないわ。あなたがどれだけ優秀かわかったのよ。本当に、人が悪いのだから」

シェラに意地悪ねと可愛く睨まれて、リティルは途端に思考がまとまらなくなった。といっても、本当に心当たりがない。

「ああ?オレ何かしたか?」

「いいえ、わからなくていいわ。けれどももう、ルッカサンは敵ではないのよ」

そう言って、シェラは言葉を切るとフフと吹き出すように笑った。そんなシェラの様子を、リティルは少しばかり置いていかれているような心持ちで眺めていた。

「あの人ったら、わたしがリティルに、そういうことをされることを望んでいると思っているのだから」

寝室に連れてこられるとは思わなかったと、シェラは心底おかしそうに笑っていた。

「マジかよ?オレ、あいつのこと虐めすぎたな」

リティルはシェラが淫乱認定されてしまったと、苦笑して頬を掻いた。

「ねえ、シフォンとリャリスがグロウタース産のバラを品種改良したの。今綺麗に咲いているのよ?見に行きましょう?」

バラ?そう言えば、出向するリャリスに庭園の設計図を数枚持たせたなと、リティルは思い出した。あれを、本当に作ったのか?とリティルは少し驚いた。この城は、風の城と違い、召使い精霊の数すら、いるよな?と疑問に思うくらい少ない。風の城では短時間の作業も、比べものにならない時間がかかるだろう。

「みんな、働き者よ?」

シェラは笑うと、寝室の外へリティルを誘ったのだった。そんな彼女の行動はありがたい。こんな部屋にいては、そんな雰囲気にいつなってしまうかわからない。

リティルもシェラもお互いの体の味を、知っているのだから。

触れてしまったら、もう歯止めがきかずに落ちるところまで落ちると思えた。

離れれば離れた分だけ、想いが募る。

ヤバいな。シェラを、本当に諦められねーよ。リティルは、胸に切り裂かれるような痛みを感じていた。

 少女のように笑って、リティルを誘うシェラに、リティルは翼を使わず歩いてその隣に並んだのだった。

「シェラ」

シフォンがナナがとリティルが見つけて、ノインとリャリスが仕込んでくれた精霊達の話しを嬉しそうにするシェラの手を、リティルは指を絡めて握った。途端にシェラは口を噤むと、俯いてしまった。その頬がホンノリ赤く色づいている。

「慣れねーのな」

リティルはしてやったりと笑った。シェラが初心な反応を示すことを知っていてやっているのだ。

「そ、そんなことはないわ?」

「そうか?ま、オレはおかげでいつでも楽しいけどな」

「リティルったら……」

「ハハ、いいじゃねーか。照れてろよ」

リティルは楽しそうに笑いながら、黒い廊下を進んでいった。

 外回廊に出たらしく、ねじれた黒い石の柱が等間隔に両側に並んでいる。あたりはボンヤリと仄明るい。リティルの鼻孔を、バラの香りがかすめるようにくすぐった。

「ん?何か見覚えあるような?」

リティルは回廊の外に見えてきたバラのアーチを見て、呟いた。

「あら、わざとではなかったの?」

庭園の設計図は3枚あった。3枚とも、シェラとリティルにとって思い出深い場所にあった庭園だった。シェラは当然というか、グロウタースにある実家のバラ園を選んだ。シェラが手を引き、リティルをバラのアーチへ誘う。アーチを潜るとき、シェラはスルリとリティルから手を放した。イタズラっぽく微笑むと、シェラは闇に紛れるようにして走った。

「シェラ?シェラ!」

姿が見えなくなりリティルは不安に駆られ、シェラに手を伸ばしていた。リティルの手を、シェラはすりぬけた。リティルは前を走るシェラの後を追いかけ、バラの植え込みで作られた路地を走る。

路地を知り尽くしているシェラは、追いかけてくるリティルを翻弄した。彼女の着る闇色のドレスが、路地を作る闇に沈むバラの茂みと同化して、リティルの目を惑わせる。

行くな。行くなよ!いつしかリティルは本気でシェラを追いかけていた。

「シェラ!」

シェラの体を、金色の風が後ろから抱きしめた。逃げられて焦れたリティルの風は、せっかく咲いたバラを散らしていた。

「リティル。リティル?どうしたの?」

後ろから抱きすくめて、肩に顔を埋めたまま何も言わないリティルに、シェラは疑問符を浮かべてその頭を見た。

「好きだ。君だけだ。永遠にずっと」

まるで、言い聞かせるみたいね。シェラはそっと、リティルの髪を解いたままの頭を撫でた。

「知っているわ。わたしは永遠に、あなたの物よ?」

シェラの肩で顔を上げたリティルに、シェラはそっと口づけした。

意味のない行為。愛を囁くことは、精霊にはまるで意味のないことだ。

婚姻の証を贈り、交わり、相手の霊力を得る。その行為を彩る為だけのちょっとしたスパイスにすぎない。こんな戯れに、利益などありはしない。

愛は不要だ。精霊にあるのは相手の霊力を得たいという欲望と打算だけ。

「シェラ、君だけだ」

「いいのよ、リティル。あなたは風の王だから」

「君だけだ!」

「リティル、わかっているわ」

もう、リティルと逢うことはできないだろう。

花が咲いてしまえば、もう、本当に風の王との接点は切れる。リティルのこのにじみ出るような必死さは、神樹に、その兆候があるのだろうか。

戦い続ける風の王には、無限の癒やしを持つ花の姫が必要だ。

神樹は、短命な風の王の為に、唯一無二の花を咲かせてきた。風の王の命を守る番の姫・花の姫を。

死を導く鳥である風の王は、これまでに花の姫が命その者だという理由から、ことごとく番の運命を拒んできた。リティルとシェラは、そんな、歴代王達が拒んできた絆を結んだ運命の夫婦だったのだ。シェラはリティルを、花の姫として守ってきた。

けれどももう、守れない。

その役目は、新たな姫の役目となるのだろう。

「どうすれば、いい?」

「え?」

「どうすれば君は!」

「リティル?」

「君がほしいよ。今すぐに」

「そんなこと、今更断る必要はないわ?あなたはわたしの愛人よ」

「はは。敵わねーな」

再びシェラの体を抱くリティルの腕に力がこもる。

最後なのね?シェラは唐突に理解した。抱きしめるリティルの腕に、シェラはそっと触れた。2人、思いは同じだ。けれども叶わない。それを2人、知っていた。

繋ぎ続けた手を、放してしまったから。

「シェラ、今日はこれで帰るよ」

やっとシェラを解放したリティルは、いつもの明るい表情に戻っていた。

「ええ。さようなら風の王。ロロンを送ってきてくれてありがとう」

これ以上会えば、別れが、辛いモノになる。

こうして、2人の道は別たれた。


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