一章 女帝とリティルの爛れた1週間
本気で怯えるシェラを引きずって、リティルは彼女の寝室になだれ込んだ。
そして、扉を閉めると、誰にも入られないように念入りに封印を施した。扉の外に意識を集中すると、まだそばに影法師の精霊・ルッカサンの気配と数名の闇の精霊の気配がした。リティルの隙をつき、女帝を奪い返そうというのだろう。
まあ、当たり前だよな?リティルは苦笑した。
闇の王に転成し、もうリティルの妃でいられないと婚姻を解消したシェラを追って、乗り込んできた風の王が、いきなり「愛人にしろ」と女帝に迫り、暗い微笑みを浮かべて追い回したあげく、寝室に連れ込めば誰だって心配する。むしろ、心配すらされなかったら、闇の領域を滅ぼしてやるところだ。
リティルはガンッと扉を殴りつけた。その行為に、足下に放心して座り込んだシェラが、ビクッと身を振るわせて短く悲鳴を上げた。女帝の弱々しい悲鳴と扉を殴る音に、外の気配が遠ざかりやがて消えた。リティルはしばらく外を窺っていたが、フウと息を吐いて緊張を解いた。
まったく、こんなのガラじゃない。
リティルは風を巡らせると、音が外へ漏れないように、聞き耳を立てても聞こえないようにした。
そして、ゆっくりと床に座り込むシェラを見下ろした。
彼女は、可哀想なくらいガタガタと身を震わせていた。きっと、リティルが本気で壊れたと思っているのだろう。それはそうだろう。リティルは自分で言うのも何だが、いい夫だった。優しくて滅多に怒らなくて、もちろん手を上げた事なんてない。シェラへの奉仕も欠かさなかった。そんな夫がこんな乱暴な振る舞いをしたら、驚くだろう。……にしても、怯えすぎではないだろうか。
「シェラ」
一抹の不安を覚えつつ、努めて優しく声をかけたつもりだった。だが、シェラはビクッと体を震わせると、堰を切ったように謝り始めた。
「あ……ごめんなさいごめんなさいごめ――」
「あああ!ごめん!そんなに怖がるなよ!悪かった!オレはオレだ。変わってなんかいねーよ!」
抱きしめ方が乱暴になってしまったのは、許してほしい。頼むから。
これ以上怯えられたら死ねる。
リティルは、壊れたおもちゃのように謝りだしたシェラの言葉を遮ると、膝を折ると正面から抱きしめた。腕の中のシェラの息が上がっていて、体がガチガチに緊張していて、いたたまれない。リティルが抱きしめて、こんなに怯えられたのは初めてだ。心を乱したシェラは、いつだってリティルの腕の中では安心しきって体の力を抜いたものだ。
「ごめん……こうでもしねーと、君は、追い返すだろ?それに、ルッカサンの目もある。時間なんかかけてられねーし、インジュが描いたシナリオ通りに演じるしかなかったんだよ」
リティルはヨシヨシとシェラの背中を優しく撫でた。言い訳を聞いてくれなかったらどうすればいいんだ?リティルの心の中は、嵐だった。
リティルの緊張とは裏腹に、強ばっていたシェラの体から、徐々に力が抜けていった。それを感じて、リティルは詰めていた息を安堵で、はあー……と吐いた。
「リティル……本当に怒っていないの?」
リティルは伺うようなシェラの言葉に、うーんと唸った。
「怒ってるか怒ってねーかっていったら、怒ってる。当たり前だろ?大好きな君に捨てられたんだぜ?自暴自棄になって世界滅ぼさなかったオレを、褒めてほしいぜ」
いつものように、戯けた調子で答えれば、シェラはしゅんっと肩を落とした。
「ごめんなさい……」
「あー……もう、いいよ。怖がらせたし、あいこだ」
ため息交じりに苦笑したリティルは、シェラを軽々と横抱きに抱き上げた。そうしてベッドの上に下ろされたシェラは、戸惑いながらリティルを見た。リティルは苦笑を深める。
「なにもしないわけには、いかねーんだよ」
靴を脱いだリティルは、ベッドの上に上がった。押し倒すようにしてやれば、シェラはすんなりと応じた。これは期待されてる?拒まれたら凹むなと思っていたが、シェラもまんざらでないと受け取っていいのだろうか。緊張しているようなシェラを前に、リティルも内心緊張していた。だが、緊張はすぐに忘れた。風の城にいた頃は彼女の頬はこんなに痩けていなかったと、思ってしまったからだ。
「最愛の王妃を失って狂った王。それが今のオレなんだよ。正直、狂えるなら狂いたいぜ?」
ベッドに横たわったシェラの体を跨ぎ、上から見下ろしながら、リティルは愛しそうにシェラの頬を労るように撫でた。
「っ!リティル!バカなことをしたと思っているわ」
「そうか?じゃあ、いきなりで悪いけどな、外の奴らに聞こえるように激し目に抱くから、そのつもりでな!いつもの5割増しで喘げよ?」
ニヤリとリティルは意地悪に笑った。
「あっ!待って!リティル、婚姻の証――」
精霊は、お互いの霊力で作ったアクセサリーを贈りあうことで婚姻を結ぶ。婚姻を結ぶと、交わりによって相手の霊力を体に取り込む奇跡の魔法が発動するのだが、婚姻状態でない精霊の交わりは禁忌とされていた。
それは、霊力以外の力、生命力なども相手から奪ってしまうからだ。それは危険な行為で、命を落とすことさえあるのだ。
リティルも当然知っている。リティルは、シェラの言葉を遮って言った。
「オレ、女王様の愛人。最後まではできねーから、欲求不満持て余してくれよ。それくらいの意地悪許されるだろ?」
婚姻の証は、贈れない。本当は今すぐ連れ帰りたい。だが、できない。シェラは翳りの女帝だ。風の王と同じ元素の王。王は領域を放棄できない。シェラが風の城にいられたのは、領域を持たない精霊だったからだ。シェラを連れ帰るためには、彼女が持ってしまった闇の王の証を譲渡し、花の姫の証を取り戻さねばならないのだ。
またすぐに、離れなければならない。リティルは、自分の物にはできない最愛に、夢を見るように触れたのだった。
初老の人の良さそうな男性。
それが、影法師の精霊・ルッカサンの容姿だ。
この世界に目覚めた時から、翳りの女帝・ロミシュミルのお目付役だった。
精霊は、そういうふうに目覚める者。ルッカサンも、仕える主を選ぶ事はできなかった。精霊は、世界を運営する力の管理者だ。グロウタースと呼ばれる、衰退と繁栄の異世界のために存在していると言っても過言ではない。グロウタースに精霊が関わることを、世界はよしとしていない。大きすぎる力を持つ精霊が関われば、彼の世界の均衡を容易く崩してしまうからだ。
その世界と関わる権限を持つ精霊。世界の刃である風の精霊は、その均衡を保つため、禁忌を犯す精霊を取り締まっている。故に、守り慈しむグロウタースを知らない精霊は多い。ルッカサンのかつての主、ロミシュミルもそんな無知の精霊だった。
精霊の王は、存在しているだけでいい。風の王のように、いつでも飛び回っていなければならない激務な精霊はいない。それはそうだが、きちんと領域のことを把握していなければ、力の運営はできない。最低限の内務は課せられている。
特に、闇の領域は、表に出られないこともあり、仕事は他の領域よりも少ない上に、ルッカサンが優秀だった。ロミシュミルは、ただ、暇を持て余す我が儘な娘でしかなかった。
閉じ込められているようなこの領域。世界を覗き見ることは許されていたルッカサンは、無能な女帝の目を盗んで、グロウタースやイシュラースの情報を集めていた。
いつか、下剋上を起こすために。
風の王のことはもちろん知っていた。
今代の王、リティルが優秀で、風一家と呼ばれる風の城の住人達も粒ぞろいだ。精霊的年齢19という若さのリティルを、一家は支え、リティルは一家に甘えることなく信頼し重宝し、その力で守っていた。
ルッカサンも、グロウタースを知らなければ、こんな認められたいだとか報われたいなどということを思わずに、ただひたすらに与えられた責務を何の疑問も抱かずにこなしていけたのだろう。だが、知ってしまった。風の城を、羨ましく思ってしまった。そして、その思いは止められなくなった。
リティルを見ているうちに、ルッカサンはその傍らにあって、年若い王をその光で照らしながら守り愛する王妃の存在に気がついた。
グロウタース出身の異色の風の王夫妻は、グロウタースの民時代に受けた心の傷を、未だに闇としてその心に内包していた。その闇に取り込まれ、いつしか破滅していく者が多い中、2人は守り守られながら闇を光に変えて生きていた。その輝きに嫉妬して、魅せられ、いつしか手に入れたいと、ルッカサンの心にほの暗い感情が灯った。
闇は闇だけでは生きていけない。光がなければ、闇は形すら認知してもらえないのだ。闇を光に変える、もしくは光を操り闇の姿を見いだす者こそが、翳りの女帝だ。今の女帝は偽りの女帝だ!ならば、正さねばならない。長年の鬱憤が溜まっていたルッカサンは、クーデターに向かい準備を始めた。
闇が深いのは、リティルの方だったが、闇を内包しながら強い光を発しているのは、シェラの方だった。
シェラのその光は、癒やしとなってすべてを癒やしていた。
あの光があれば、闇の領域を単体で存在させることができる。彼女が、風の王・リティルにとってどんな存在なのかは知っていたが、ルッカサンの欲望はシェラを渇望した。そして、ルッカサンはついに行動を起こし、罠を仕掛け、リティルからシェラを奪い取るに至った。クーデターは成功してしまったのだ。
女帝となったシェラは、ルッカサンの理想の主だった。
闇の領域は、彼女の光で一領域としてセクルースに出現し、領域に暮らす闇の精霊達は活気づいた。彼女は職務にも積極的で、あまり玉座にいずに、闇という力を知ろうと闇の城を、時には城の外にまで足を伸ばしていた。しかし、誰にも心を許さないような冷酷さが常に漂っていた。彼女に毛嫌いされていようと、ルッカサンは構わなかった。
やっと、仕えたい主を迎えたのだ。精一杯仕えようと誓った。彼女自身も、風の城に、リティルの隣に戻ろうという素振りなく、彼が連れ戻しにきたら追い返そうとしていた。ルッカサンは、そんな彼女を守ろうとしていた。
だが、城を訪れた風の王・リティルは、噂通りの人物ではなかった。
それはシェラにとっても同じだったらしく、彼女は激しく動揺し「愛人にしてくれ」と言ってほの暗く笑った彼に恐れを抱いて、ただのか弱い女のように震え上がった。
「ああ……わたしがリティルを壊してしまったの?ああ……わたしはあなたを、ただ、守りたかっただけなのに……!」
見たこともない冷酷な欲望を滾らせて追いかけてくるリティルから逃げながら、シェラは嘆いていた。本当に彼女は、闇をリティルにとって無害なモノにしようと、その想いだけでロミシュミルを討ち、翳りの女帝になったのだ。そんな元妻に対するには、リティルの行いは非情だった。
風の王のオオタカの翼から逃れられるはずもなく、シェラは捕らえられ、寝室に引きずり込まれてしまった。彼の王の怒りに、ルッカサンは為す術もなく女王を差し出すしかなかったが、救出の機会は窺っていた。物音がしなくなった部屋に近づけば、狂ったようなシェラの叫びが漏れ聞こえてきて、さすがに聞いているわけにはいかずに、退散するしかなかった。
リティルが1人で部屋から出てきたのは、それから丸1日経ってからだった。
ルッカサンが気がつくと、リティルはバスローブを羽織っただけの恰好で、城の執務室に入り込んでいた。彼はファイリングされた資料を熱心に読んでいた。
「リティル様……」
ルッカサンが咎めるように声をかけると、ジロリと睨まれた。しかし、怯むわけにはいかなかった。
「ここは闇の中核でございます。ご容赦を」
鷹揚に頭を下げれば、その頭に声が降ってきた。
「なあ、これ、変だぜ?こっちの数値とこれ、あってねーけどどうしてなんだよ?」
何を?と思いながらそれに目を通すと、確かに辻褄が合わない。ルッカサンは奪い取るように資料に目を落とした。クーデターを画策してから、ルッカサンは領域経営を怠っていた。それもそのはず、ロミシュミルは何もしない女帝だったのだ、ルッカサンが目を向けなくなれば荒んで当然だった。
「この城、人手不足か?他の元素の王の城には、もうちょっと誰かしらいるぜ?」
リティルはバスローブの合わせ目から、薄い――体型からしたら厚いのかもしれないが、胸板を覗かせながら腕を組んで、シェラが来るまではあまり使われていなかった、大きな執務机にもたれかかった。
ルッカサンは唸った。あまりに屈辱的で、答えたくなかったのだ。
「……下剋上」
その言葉に、ルッカサンはゆっくり顔を上げた。リティルはルッカサンを真っ直ぐ見ていた。その瞳にはほの暗い感情はなく、ただ美しく力強い光しかなかった。
「そんなことするほど、闇の領域は追い詰められてたのかよ?」
風の王は世界の刃。他領域の経営に踏み込むことはできないが、要請があれば問題を正し、経営を立て直す手助けも行っている。ただ、世界に仇なすモノを斬るだけが仕事ではないのだ。
「申し訳……ございません……」
「許さねーって言っただろ?そんな言葉がほしいわけじゃねーんだよ」
だったら何を言えというのか。ルッカサンは惨めになった。そして、嫉妬に似た怒りが湧いた。
「シェラを返せよ」
「できません」
「オレが何とかしてやるって言ってもか?」
他の元素の王に、何ができるというのか。ルッカサンは嘲るような笑みを浮かべてしまった。リティルはフンッと鼻を鳴らすと、執務室を出て行こうとした。
ああ、言い忘れてたと、扉を開いたところで立ち止まったリティルは、ルッカサンを振り返った。
「最低1週間はおまえらの女王様は、返してやらねーよ」
「それは――」
「踏み込んでみろ。おまえらの目の前であいつを犯してやるぜ?オレ達に婚姻の証はねーんだ。あいつがどんな目に遭うか、傷つけたくなかったら、変な気起こすなよ?」
リティルの睨む瞳には、哀しみと怒りが渦巻いていた。
「リティル様……!」
「オレ達の絆を踏みにじったおまえが、間違っても愛を語るなよ?」
ルッカサンの耳に、聞いてしまったシェラの悲鳴が蘇った。
愛の産む闇が、どれほど深いのか、ルッカサンは知っていたはずだった。
翳りの女帝となっても、シェラはリティルを深く愛していた。彼女がロミシュミルを討ったのは、闇の精霊がこれ以上リティルを苦しめないようにしたいがためだった。シェラはリティルを思い詰め、自身の幸せをなげうって、女王となったのだ。それなのに、この所業はあまりにも……。ルッカサンは、2人の愛が消えるように画策したが、2人の愛は翳ることなく、シェラは翳りの女帝となったのだ。どこまでも気高く美しいシェラ……。
リティルのシェラに対する愛は一方的で、今や傷つけるモノでしかないのだ。彼が風の王とはいえ、そんな横暴を、許してなどおけない。
ルッカサンは、シェラを救わねばと決意した。ルッカサンにとってシェラは、闇の領域の為の道具ではなかった。仕えるに値する、主となっていたのだ。
寝室に引き返したリティルは、ベッドの上でシェラが身動きしたのを見て、翼を広げて彼女のもとへ飛んだ。
「おはよう、よく眠れたか?」
頭をそっと撫でると、シェラは甘えるように手を伸ばしてきた。その手を空いている方の手で取った。確かめるように握ってくるその手が、愛しくてたまらない。
「……リティル……どこかへ行っていたの?」
目の下のクマは、薄くなっていた。それを確かめて、リティルはホッとする。できるなら、風の城に連れ帰りたい。彼女の、疲れ切った顔を見れば、ここでの暮らしが決して楽ではないことなどすぐにわかった。
それでも気丈に、訪ねてきた元夫を追い返す気満々で身構えていたシェラに、乗り気でないシナリオを携えてきたはずのリティルは、一瞬にして怒りが沸点を超えていた。
大事にする気もなく、オレの最愛を奪ったのか?気がついたら、自分でも「あ、壊れたな」と思うほどすんなり『逃げた妃に怒り狂って肉欲をぶつけようと追いかける壊れた風の王』を演じていた。シェラがあれほど怯えたのだ。相当真に迫っていたのだろう。いや、素だったかもしれない。
「ん?探検?」
もしやと思って執務室に入り込んでみれば、息子で副官のインファの推測した通りだった。
闇の領域は、経営放棄にあっていたのだ。故の腹心・ルッカサンの暴挙だ。だったら、シェラを奪い取ろうなどと画策する前にロミシュミルの目を盗んで助けを求めてほしかった。そうしてくれれば、もっと他にやりようがあった。
「その恰好で?」
リティルはバスローブ1枚だ。しかしシェラはきちんと寝間着を着ていた。
その様子は、とても狂った王に体を貪られたとは思えない、事後特有のけだるさの欠片も見えないだろう。それもそのはずだ。何もしていないのだから。リティルは何もしないわけにはいかないと言ったが、されたのはただのマッサージだ。「激し目に喘げよ?」と言われていたから凝りを解されながら大袈裟に叫んだだけなのだ。その後は寝た。今の今までグッスリだった。
所構わず触れてくる人だが、リティルのそれは健全で、爛れて甘い雰囲気など、それこそ情事の最中でなければ醸さない。「癒やし!オレの癒やし!」と言ってシェラに戯れるリティルの姿に、城の皆は和んでいたくらいだ。そんな人が、事後です!と主張するような恰好をしているのは、シェラには見慣れなくて笑ってしまった。らしくない姿を演じてまでそばにいてくれるリティルに、虚勢もプライドもすべて剥ぎ取られてしまった。凄い人。こんな人に、敵うと思っていた自分が道化のようだ。
「言っただろ?君を蹂躙する狂った元夫だってな。これ脱いだらいつでも素っ裸だ」
こんな恰好をしていても、こんな健全な空気で、誰が元妻を欲望で蹂躙していると信じるだろうか?明るく少年のような顔で笑うリティルを、シェラは安心しきった顔で見つめていた。
フフと「冗談ばかりね」と笑ったシェラは、すぐに心配そうにリティルを見上げていた。
「もう少し寝てろよ。そばにいる。これまでろくに寝てなかったんだろ?」
チュッと額にキスを落として、リティルはシェラの痩せてしまった頬を確かめるように撫でた。昨日から、マッサージの間にもこうやってリティルは、シェラの頬を労しげに撫でてくれていた。
あんなことをしてしまったのに、それなのに無条件で心配してくれて、優しく甘やかしてくれるリティルに、寄りかかっていたくなる。
「でも……仕事が……」
可愛げのないことを口にしたシェラに、リティルはあからさまに不満そうな顔をした。
「シェラ、1週間抱き潰されるんだよ!君は!」
グリグリと額に額を押しつけられ、シェラは笑いながら小さく悲鳴を上げた。
そんな無体なことはされないと信じて疑っていないシェラに、リティルはもう少し怯えさせておけばよかったか?と思った事は内緒だ。
「大丈夫だ。心配するなよ。オレが闇の領域も救ってやる」
「リティル……」
シェラの瞳が、涙に潤んだ。リティルはその目尻に口づけた。
「わたし……ねえ、リティル……!」
「ああ、わかってる。好きだよ。放さねーから大丈夫だ。シェラ、大丈夫だ。だから、笑ってくれよ?頼むよ。シェラ……」
今このときだけ。リティルは全力で現実逃避したかった。言葉を詰まらせた彼女も、一緒にいたいと、同じ想いなのだとそれだけが悦びだ。
リティルの為に、何をするかわからない恐ろしい愛情の持ち主であるシェラに、リティルがシェラに向ける愛を疑われたことが、そもそもの発端だった。そこに、闇の精霊の介入があったことなど、言い訳に過ぎない。シェラがどんな女なのか、それを1番リティルがわかっていたのに、シェラの愛が揺るがないとその上に胡坐をかいた結果がこれだ。失って当然だ。最愛というのなら、彼女をどんな場面でも優先すべきだったのだ。リティルは、その選択を誤った。
シェラは、リティルが選ぶはずのない恋敵を選ばせ、自身は身を引こうとした。そこを、ルッカサンにつけ込まれて彼の描いたクーデターに巻き込まれたのだ。許せない。許せるはずがない。リティルはシェラを繋ぎ止め損なった自分自身を許せなかった。
「リティル……!」
2人は抱き合った。互いの存在が、そこにあるのだと確かめるように。リティルの背中に回されたシェラの手が、リティルの羽織ったバスローブをスルリと落とした。
風の王という人が、新女王を寝室に押し込めて無体を働いていると聞いた。
新女王のシェラは、とても優しくて、ロロンはすぐに大好きになってしまった。だから、シェラを苦しめる人は、絶対に許せなかった。だから、今まで行きたいとは特に思わなかった闇の城に、ロロンは乗り込んだ。
城に行けば、風の王・リティルの所在はすぐに知れた。彼は、ここにはない異質な色をしていて、どこにいても目立っていたからだ。ロロンがリティルの色を、金色というのだと知ったのは、それから少し後のことだった。
「ふーん?風の王のオレに敵うと思ったのかよ?」
ロロンはリティルに頭を押さえられて、身動きが取れなくなってしまった。腕を振り回すが、彼の体には届かない。ロロンは小柄なリティルよりも更に小さな幼い少年だった。
「シェラ様を虐める悪い奴は、ボクが倒すんだー!シェラ様を放せー!」
リティルは鬱陶しげにトンッと押し倒すと、翼を広げ、行ってしまった。眩しい翼。これが眩しいということを、ロロンは初めて知った。
「ふん!逃げるなんて、卑怯だぞ!」
それからロロンは、毎日城に出向いては、リティルを捜した。観察していると、リティルは日に何度か、短い時間城の中を歩き回っているようだが、大半は部屋から出てこない。
出没ポイントも様々だったが、ロロンは闇の精霊でないリティルの異質な霊力を嗅ぎ分け、殆ど出てこないリティルに毎日、毎回ちょっかいをかけた。それができるのは、ボクだけだとロロンは自負している。この、闇の城という場所は、殆ど空き部屋なのだが無駄に広い。それでもロロンは、正確にリティルの居場所を嗅ぎ分けていた。
「またおまえかよ?ロロンって言ったか?いい加減に諦めろよ」
3日目、その日3回目の遭遇で、リティルはさすがに困ったように頭を掻いた。
「ふん!シェラ様を助けるんだー!」
リティルに突進したロロンだったが、ヒョイッと避けられてまたしても逃げられてしまった。
「飛ぶなんて卑怯だぞー!」
そう叫ぶと、リティルはロロンをチラリと振り返り、楽しそうな笑みを浮かべた。その笑顔に、ロロンはよくわからない温かさを感じて、首を傾げた。
思ってた人と違うかも?ロロンは、数日の観察で、そんな印象を持ち始めていた。だが、依然としてルッカサンは、リティルを敵視していた。顔を合わせれば険悪に、2人は難しいことを言って喧嘩しているようだった。
やっぱり悪い人なのかな?ロロンは首を傾げながら、毎日毎回リティルに付きまとった。
顔を合わせれば喧嘩腰で突っかかったが、リティルはいったい何をしているのだろうか?と疑問が湧いていた。リティルはいつも、城の違う場所にいるのだ。この城で使われている部屋なんて、数えるほどしかないのに、リティルは埃のかぶって誰も行かない場所にいることが多かった。そうして徐々に、城の埃は取り払われていっていることに、リティルを追いかけ回していたロロンは気がついていた。
「リティル!ここであったが百年目!……何してるの?」
リティルは、城の1階にある『厨房』と呼ばれている、何をする部屋なのかロロンにはわからない部屋にいた。使われた形跡のないその部屋で、リティルは燭台に火を灯して立っていた。
「ん?またおまえか。毎度毎度ご苦労さん。使えるか調べてるんだよ」
リティルは部屋を照らしながら、棚にしまわれている埃がかぶった皿やコップを見ていた。ロロンは使ったことはないが、皿やコップがどうやって使われる道具なのかは知っていた。
精霊には必要ない、食べるという行為のために使う道具だ。
「使うの?どうやって?」
「どうやってって、料理って知ってるよな?ここは、料理を作る為に必要な物が揃った部屋なんだよ」
「リティル、できるの?料理」
リティルは鍋を手に取って、眺めながら答えた。リティルはいつも何かしていた。だから、殆ど顔を見てくれないが、それでも話しかけると必ず答えてくれる。
「簡単な物なら作れるぜ?食べたことあるか?」
「木になってるヤツなら。でも、料理は食べたことない」
「興味あるのかよ?」
「え?あるけど、あ、それならナナが詳しいよ?ナナ、食べることに興味あって、料理の本を大事に持ってるんだ」
料理の本は、闇の城の図書室で見つけたと言っていた。ナナは、美味しそうと言いながら、楽しそうにその本を何度も読み返し、いつでも持ち歩いている。しかし、ナナが料理なる物を作っている所は見たことがなかった。
「そいつ、連れてこられるか?」
「ナナ?いるよ?一緒に来たし」
「会わせてくれねーか?」
リティルがこちらを向いた。リティルと目が合うとロロンは、嬉しそうに笑うと、反射的に答えていた。
「うん。いいよ!」
ロロンは驚くほどすんなり、リティルの頼みを聞いてしまっていた。
おかしい。シェラ様を虐める悪い奴なのに、どうしてボク、ナナにリティルを会わせたりしてるんだろう?ロロンは首を傾げながら、幼い少女の姿をした闇の精霊の前に膝を折って目線を合わせ、何かを話しているリティルの姿を見ていた。少女はロロンが連れてきて引き合わせたナナだ。
しばらくして、ロロンはリティルがシフォンという年頃の少女と一緒にいるのを目撃した。リティルと話すシフォンの表情は柔らかで、どこか嬉しそうで、最後に笑うとリティルに深々とお辞儀して離れていった。
「今のシフォン?」
「ん?あいつとも知り合いなのかよ?おまえ、顔広いな」
隣に並んだロロンを、リティルは見下ろして笑った。
「うん、知ってる子だよ。花に興味あって、植物図鑑って本を持ち歩いてるんだ」
「ああ、本人もそう言ってたな。そういうヤツ、他にもいるのかよ?」
「本持ってる人?知らない」
「そっか」
そう言って、明るく微笑むリティルの顔を見上げて、ロロンはなぜか心がモヤモヤするのを感じた。闇の城は、全貌がわからないほどに真っ黒だったのだが、今はその形がボンヤリわかるようになっていた。
そしてある日、ロロンはリティルに捕まった。
リティルは悪い奴だ!絶対悪い奴なんだ!とロロンはその日、そう言い聞かせてリティルに挑んだ。
「リティル!シェラ様を放せ!独り占めなんて狡いぞ!はーなーせー!」
論点がずれた気がするが、ロロンは気がついていなかった。
「ハハ、そりゃ譲れねーな。独り占めするために来てるんだからな!」
意地悪な笑みを浮かべて、リティルはロロンのおでこをツンッと突いた。
「鬼!鬼畜!風の王!」
突かれた額を両手で押さえながら、ロロンは威勢よくリティルを罵った。
「ハハハハ!そうだぜ?オレは冷酷無慈悲な風の王だぜ?おまえ、シェラの事好きなのかよ?」
殴りかかったロロンをひょいと躱し、リティルは楽しげに笑った。そういう顔で笑わないでほしい。ロロンは、胸のモヤモヤを振り払うように叫んでいた。
「シェラ様、ずっと無理してる!辛いの我慢して、どんどん痩せちゃって。ねえ、どうして苦しめるの?シェラ様を虐めるなんて許さない!」
「あいつを、心配してくれてるのかよ?」
「え?心配?」
ロロンは首を傾げた。ロロンは見下ろすリティルをマジマジと見上げていた。ロロンは、感情という、心が動くことを指す言葉さえ知らなかった。それが、1つずつ、リティルを接するようになって名前はわからなくとも、わかるような気がしていた。
ルッカサンは狂ってると言っていたけど、リティルのどこが狂っているっていうんだろう?唐突にロロンは思ってしまった。
話しがちゃんとできて、こうやって視線を合わせてくれて、吸い込まれそうな金色の瞳をしてて、いやいやでも、シェラを寝室に閉じ込めてるのは確かだ。騙されないぞ!とキッとリティルを睨もうとして、それはリティルの言葉で上手くいかなくなった。
「まあ、いいや。なあ、おまえ、働かねーか?」
バスローブ1枚の不審な風の王は、ロロンにそう持ちかけると、彼の返事を待たずにヒョイッと小脇に抱えて床を蹴った。
「ぎゃー!放せー!」
リティルは暴れるロロンを無視して、寝室まで飛んだのだった。
働く?働くってなにー?ロロンは、自称・冷酷無慈悲な風の王に拉致されたのだった。
リティルはロロンを抱えたまま、寝室の扉を開き中に滑り込んだ。
素早く部屋の中を見渡すと、シェラは小さな窓のあるアルコーブに置かれたソファーで、本を読んでいた。カーテンもついているその場所は、小さな小さな部屋だ。ああいう場所は落ち着くんだよなと、リティルは寛いでいるシェラの様子にホッとした。
リティルは、本を読んでいる彼女の様子から、起きてからしばらく経っていることを察した。
ダメだな。シェラが起きる前に帰ってこようとは思っているのだが、やりたいことが次から次に見つかってしまい、徐々に寝室を離れている時間が長くなっている。
だが、最初の頃より格段に、シェラの様子は落ち着いた。眠ったシェラを置いて出て、帰ってきたらベッドで蒼白な顔をしていたこともあったシェラが、見違えるようだ。
そんな症状が現れるようになったのは、リティルがここへ来て2日目だった。初日には見られなかったシェラの錯乱とも取れる取り乱しかたは、彼女の極限まで張り詰めていた緊張を、リティルが解いてしまったことで起こったことだった。
シェラはリティルを求め、リティルに傷つけられたがった。それを宥めて「どこにも行かねーよ」と言い聞かせて、部屋を出るときは枕元にメモを置いた。それでも、2日間くらいは戻ってくると泣かれた。
「そばにいて……!」と泣き縋るシェラに「そばにいるぜ?いるだろ?」と抱きしめてキスして宥めて、何をしてきたのかを軽く話すことを繰り返した。
闇の仕事に手を出していることは言えなかった。花の姫でなくなった自分を、シェラは酷く責めていて、そんな彼女に翳りの女帝であることを思い出させるようなことをいえば、死んでしまうんじゃないかと心配になるほどだったからだ。
1週間で足りるか?と思った。
相変わらず何も見えていないルッカサンが、リティルがいないときに寝室に押し入ろうとして、扉が破られる前に間に合ったリティルだったが、その後シェラがしばらく泣き叫んで収拾がつかなくなり、リティルは本気でルッカサンを殺してやろうか?と殺意が湧いたくらいだ。
シェラを宥めて寝かせ部屋全体にかけている封印を強化したあと、リティルはルッカサンに剣を突きつけて凄んでおいた。ずっとは効かないだろう牽制は、今のところまだ効いている。
「リティル」
リティルが帰ってきたことに気がついたシェラが、フワリと花が綻ぶような柔らかく微笑んだ。花の姫だった頃、リティルと離れる前にシェラが自然と浮かべていた微笑みだ。
もう大丈夫だな?リティルは安堵した。
「はは、シェラ……そんな嬉しそうな顔するなよな」
アルコーブに置かれたソファーに座っていたシェラは、リティルの姿を見ると嬉しそうに微笑んで、駆け寄ってきた。慌てた様子で扉を閉め、キッチリ封じたリティルは、困ったように笑った。小脇に抱えられたロロンは、甘く笑うリティルが、シェラの頬を労るように触れる様を、信じられない顔で見ていた。
頬に触れられて、シェラは安心しきった顔で笑っていたからだ。
「虐めてるんじゃないの?」
「どう見えるんだよ?」
リティルは意地悪に笑った。リティルの手に触れているシェラは、少し強ばった顔でロロンを見つめていた。その表情はまるで、リティルを庇っているかのようだった。
「どういうこと?ルッカサンが、シェラ様を奪い返そうってしてるよ?もしかして、シェラ様を虐めてるのルッカサンなの?」
「いや?あいつはあいつで、シェラの事大事にしてるぜ?けど、そっか。そろそろ、ヤバいな」
リティルは「ヤバイ」といいながら、どこが「ヤバイ」と思っているの?と疑問に思うほど余裕に見えた。けれども、シェラは心配そうにリティルの腕をギュッと掴んだ。
「リティル、もう無茶はやめて。あなたが何かを嗅ぎ回っていると、目を付けられたのよ」
「そうみてーだな。オレの休暇も終わっちまうしな……まだいろいろわからねーこともあるんだけどな。どうするかなー?」
リティルはロロンを床に下ろしながら、何かを考え込んだ。2人を見上げていたロロンは、シェラが哀しそうに俯いたのを見た。何か言いたそうなのに、彼女は何も言わない。
「シェラ様?リティルに何か言いたいの?」
ロロンに指摘され、シェラは「え?」と顔を上げた。戸惑いながら視線を彷徨わせると、リティルと目が合って更に困ったように眉を下げた。
「シェラ?」
リティルが瞬間瞳を見開くと気遣わしげに、シェラの様子を窺った。心の底から案じている。そんなリティルの様子に、ロロンはますます首を傾げた。虐げている人が、こんなふうに相手を労るように見つめるだろうか。シェラにも怯えている様子は見えない。それどころか、リティルを頼りにして見えた。
「……離れたくないの……。帰ってしまったら、もう、ルッカサンはあなたを領域にすら入れないわ。我が儘を言ってるのはわかっているわ。でも……わたし……」
「ハハ!オレが怖えーって逃げ回ったのにな!」
「あれは!……本気で怖かったのよ!……ごめんなさい……わたしが素直に話しを聞かないから、あんなことしたのよね……」
「シェラ、離れたくねーのはオレも同じだぜ?けど、今の君を風の城には連れて行けねーんだ。婚姻も結べねーしな。今のオレにできるのは、ルッカサンが痺れを切らすまでの期間限定の愛人が、精一杯だな。……泣くなよ。しょうがねーな」
泣き出したシェラを、リティルは抱きしめた。抱きしめてくれたリティルを、シェラは縋るように抱きしめ返した。
「闇の王の証さえ、誰かに継承できれば、君は花の姫に戻れるんだ。オレ達は候補者を捜してる。大丈夫だ。迎えにくるぜ?」
「嫌……リティル……怖いのよ、怖い……」
「こんな弱くなっちまうのかよ?オレってホントすげーな」
リティルは冗談のように明るく笑いながら、ロロンに視線を落とした。
「おまえ、シェラについててやってくれよ」
「へ?ええ?ボクが?」
「おまえだけなんだよ」
「ほえ?」
何が、おまえだけなの?ロロンは何もわからなくて、首を傾げることしかできなかった。
「シェラを本気で心配してくれたヤツ」
シェラは思った以上にこの場所で孤独で、気を張りすぎてろくに眠れていなかった。
リティルがちょっと部屋にいなかっただけで、いないことに絶望して錯乱するくらいだ。その精神はとっくに限界を超えていたのだ。知れば知るほどシェラを取り巻く現状に、怒りしか湧かなかった。イシュラースに傷がついても、シェラを風の城に連れ帰りたかった。
今も揺れている。泣き縋るシェラを、置いて帰りたくない。
だが、世界を守る風の王が、私情に流されるわけにはいかない。世界を裏切り、リティルが粛清されれば、この世界は滅びる。無慈悲だと、世界はリティルを慕う多くの精霊達の手によって、攻められ壊される。
リティルはいつの間にか、世界の命運を左右する信頼と親愛を得てしまっているのだった。
イシュラースの王なんて、リティルが望んだわけではない。
それでも、多くの者達の心が、リティルをそんな存在にしてしまった。間違うわけにはいかない。たとえ、最愛の者の手を一時放しても。
1週間。リティルがここにいられる時間はそれだけしかない。後は去らねばならない。だから捜していたのだ。リティルがここを離れたあと、1人になるシェラのそばにいてくれる者を。そして見つけた。
幼い少年の姿のロロンは、その見た目からもシェラの安らぎになるはずだ。
あとは願うしかない。リティルが、この手に取り戻せなくても、シェラを、シェラでいさせてくれる支えてくれる存在になってくれることを。
「シェラ、必ず迎えにくる。だから、待っててくれよ?」
「リティル……嫌……嫌よ!行かないで!」
頭を振り乱し、しがみ付いて泣くシェラを、リティルは哀しそうに静かに、愛しそうに切なく微笑みながら、泣き止むまでずっと抱きしめていた。
ロロンは、聞いていた話と違いすぎて、再び混乱していた。
今、女王を苦しめていると言われている風の王は、泣き疲れて眠ってしまったシェラをベッドに運びその手を握ってやっていた。
聞いた話では、リティルはシェラをベッドから出さないで、いかがわしいことをしまくっていると聞いていた。しかし、部屋にいたシェラはちゃんと服を着ていて、憔悴した顔はしていなくて、顔色がよくて健康そうだった。それから、リティルを本当に好きに見えた。
「リティル……何がホントの事なの?」
本当は、とっくにロロンも気がついていた。リティルがシェラに酷い事なんてしていないことを。シェラを、本当に大切にしている者が誰なのかを。
「ん?さあな。おまえが見たままなんじゃねーか?」
ロロンの問いに、リティルは優しい顔で笑った。その笑顔はとても、シェラを苦しめている恐ろしい風の王が浮かべられるとは思えない笑顔だった。そのことを、ロロンはとっくに知っていた。リティルはロロンにも、怖い顔はしなかったからだ。引き合わせたナナやシフォンにもそうだ。
それに「行かないで」と言って泣いたシェラが、洗脳されているとか調教?されているとか、思えなかった。むしろ、シェラにはリティルが必要?に見えた。それを、ルッカサンは引き離そうとしている?悪いのは、ルッカサン?ロロンはグルグルとまた混乱した。
「ロロン、変な気起こすなよ?おまえの役目は、こうやってシェラがちゃんと寝られるように、監視することだぜ?」
ロロンは頭を振って今し方考えていたことを追い出すと、コクコクと頷いた。
「リティル、帰っちゃうの?」
「ああ」
「どうして?ルッカサンが意地悪するから?」
「それもあるけどな。オレ、これでも風を統べる王だからな。風の王のこと知ってるか?」
ロロンは、しらないと首を横に振った。
「そうか。ここはずいぶん閉鎖された場所なんだな。無理もねーか。オレだって初めて来たしな。風の王はな、世界を平和にしておくためにいるんだよ」
「だったら、シェラ様のそばにいてあげてよ!シェラ様の世界を、平和にしてあげてよ!」
「……1人のために、オレは生きていられねーんだ。オレは王だからな。ロロン、シェラのおかげでセクルースと地続きになっただろ?おまえが生きてる世界を、見に行けよ。これだけ広いんだってわかったら、オレの言ってることがきっと理解できるぜ?」
リティルはそういうと、金色のオオタカの翼から羽根を1本抜くと、握り、手を開くとそこにはチョーカーがあった。
「これをやるよ。インサーって呼べば、オレの右の片翼・インサーリーズが応じてくれる。背中に乗っけてもらって、世界を散歩してみろ」
リティルはそのチョーカーをロロンの首に巻いてやった。
「リティルのお城はどこにあるの?」
「風の領域だ。ここからだと遠いぜ?」
「行っていい?」
「いいぜ?けど、シェラにちゃんと断ってから来いよ?」
「うん!へへ」
「なんだよ?」
「なんか、嬉しい」
「そうなのかよ?どうして?」
「だって、前の女王様は、ボクらのことなんていてもいなくても一緒で、だけど、シェラ様もリティルもちゃんと見てくれるから!このチョーカー、大事にするね!」
ロロンはリティルがくれたショーカーを、大事そうに胸に押し抱いた。
「そっか。シェラ、人気あるか?」
「うん!だって、優しい!ボクの周りはみんな、シェラ様が大好きだよ」
「いなくなってほしくねーよな」
「うん……でも、シェラ様が笑顔の方がいい!だから、リティル――」
ロロンはすべて言えなかった。優しい眼差しで見つめてくれていたリティルの瞳が、一瞬で険しくなり、扉の方を向いてしまったからだ。
立ち上がったリティルの服装が、金色の風が撫でるように吹いたかと思うと変わっていた。靴まできちんと履いたその姿に、ロロンはお別れなんだと唐突に思った。
リティルは眠るシェラに視線を一度も送らずに、扉まで飛ぶと一思いに開いた。
ロロンは、慌ててリティルを追っていた。行っても何もできないが、見届けなくちゃならないと思った。お別れを言えないシェラに、何があったのか教えてあげないとと思った。
少しだけ開けておいてくれた扉から外を覗くと、扉の前に立ちはだかるリティルを囲んで、槍を持った闇の精霊がズラリと並んでいた。リティルの真っ正面にいるのはルッカサンだ。
「見送りって、雰囲気じゃねーな」
この人数を前にしても、リティルは不敵に笑うだけだった。
「風の王、女王陛下を返していただく」
「ああ、休暇は終わりだからな。帰るぜ?」
リティルは悠々と歩き始める。槍を持った闇の精霊が、同じ間隔で切っ先を突きつけたまま動く。
どうなるのかな?固唾をのんで見守っていたロロンは、背後の気配に気がついたが、止められなかった。扉が押し開けられる。
「リティル……」
控えめな声にリティルがゆっくりと振り向いた。フッとリティルが笑うのを、ロロンは見た。切なげで、しかし勝ち気な笑みだった。大丈夫だ。そう思わせてくれる笑みだった。
「そんな顔するなよな、女王様。いい休暇だっただろ?」
ロロンは、背後に立ったシェラを見上げた。泣きそうな、今すぐ後を追いたいようなそんな顔をしていた。しかし、彼女も笑った。
「ええ。うっかり、あなたに溺れてしまったわ」
「はは、そりゃ愛人冥利に尽きるな」
トンッとリティルは踏みきった。ザワッと驚きがあたりを包み、槍が天井を向いたが、そこには飛び去る金色のオオタカがいるのみで、風の王の姿はなかった。