主治医
私には過去がない。
名前や住所はもちろん、今までどうやって生きてきたのか、どんな人生を送ってきたのか、全く思い出せずにいる。
ある日、雑踏で立ちすくんでいた私は、警官に連れられてこの病院にやってきた。
この病院に来るまでの記憶が、全くないのだ。
「岸本さん。何か思い出しましたか?」主治医の坂崎が優しくたずねた。
「岸本」と言うのはもちろん私の本名ではない。この病院が岸本町にあるので岸本と坂崎が命名してくれた。岸本太郎、それが今の自分の名だ。
「いえ、全く」
「そうですか、記憶を取り戻すのは難しいかも知れませんね」
私は病院の近くを散歩するようになった。しかし、全く記憶の手がかりを見つけられず、もどかしい思いをするだけだった。
そんなある日。
「岸本さんの記憶喪失は『逆行性健忘』です。心因性のものですね。何かトラウマになる出来事に心当たりはありませんか?」
「いえ。特にありません。記憶喪失は治りませんか?」
「かなり難しいと思います」
「もし、このまま記憶が戻らなかったら?」
坂崎は、腕を組んだ。「その時は、人生を再構築していかねばなりませんね」
「確かに」
「そうだ、催眠療法をやってみませんか?」
「催眠療法?」
「ええ、催眠術によって過去に逆行するのです。それによって記憶を取り戻す事ができるかも知れません」
「そんな事ができるのですか?」
「はい。エドガー・ケーシーをご存じですか?」
「いえ」
「ケーシーは催眠状態で多くの難病を抱えた人に治療法を語り、治した人ですよ」
「へえ! そんな人がいたのですか」
「ええ、医学的には全く説明のつかない事ですが。やりますか?」
「ぜひ、お願いします」
坂崎は優しく笑った。「では、そこに腰かけてください」
ベッドに腰かけた。
坂崎はコップと錠剤を持ってきた。
「精神展開薬です。これを飲むと、被暗示性が亢進し催眠状態に入れます」
差し出された白い錠剤を飲んだ。
しばらくすると、急に腕が重くなり、足も重くなったので横になった。
「何だか、急に体が重くなってきました」
「効いてきたようですね」坂崎は笑顔を見せた。
「さあ、目を閉じて。あなたは過去に戻っていく。ゆっくりと、ゆっくりと、時計の針が戻っていく……過去へ……過去へと……さあ、見えてきますよ」
目を閉じた。不思議な事に錠剤の力なのか、本当にそう思えた。突如、瞼の裏側に鮮明な映像が浮かんだ。ぐったりとした若い女、その足を私がつかみ、一人の男が頭の方を持ち、深い穴に投げ込んだ。そして、スコップで土をかけた……。他には何も見えなかったが、この光景が何度も何度も繰り返して見えた。それは映画以上に鮮明だった。理由は解らないが若い女を埋める様子だ。そう言えば、もう一人の男はどこかで見た事が……坂崎、そうだ、目の前にいる坂崎だ! 間違いない! まさか!
「先生と一緒に死体を埋めるところが見えました」
瞼を開くと、そこに坂崎がいた。
「見たのですね」坂崎は穏やかに答えた。
「あれは本当ですか?」
「ええ」
「噓でしょう?」
「いいえ」
「でもなぜ? そんな事を?」
「彼女に『奥さんと別れて』と言われまして。別れなければ妻と病院に不倫をばらすと。私も困ってつい殺しちゃったわけです」坂崎は微笑した。
「そんな!」
「フフ、あなたは、金を貰って一緒に死体を埋めたじゃないですか?」
「そんな事はしていません!」
「ほかには何か思い出しましたか?」
「いいえ」
坂崎は嗤った。
「以前の記憶がないのに、本当にやっていないと断言できますか? ここに来る前、あなたは身寄りのない浮浪者で、金を出したら喜んでやりましたよ」
「そんな馬鹿な! 嘘だ!」
「まあ、いいですよ。あなたは、これから病院を抜け出して電車に飛び込むのです。飛び込む。飛び込む。誰にも言わずに。誰にも言わずに……」
坂崎の瞳が迫った。その瞳は無機質な狂気を帯びていた。
「な、なにを……」
薬のせいか、手足が動かない。意識も薄れてきた。
坂崎の呪文のような「電車に飛び込む。明日、飛び込む。誰にも言わずに。誰にも言わずに」と言う声を聞きながら意識を失った。
夕闇が迫っていた。
いつの間にか駅のホームにいる。大勢の人が、電車を待っていた。
ベンチに座っていた。突然、自分の足が勝手に立ち上がった。
え? どうして?
足が勝手に、線路へと歩いていく。
まさか!
坂崎の催眠療法で意識を失った事を思い出しながら、必死で立ち止まろうとするが、足が勝手に動く。声を出して誰かに知らせようとしたが、声も出ない。ホームの柱につかまろうとしたがなぜか腕が動かない。
脂汗が、額を伝って落ちる。足は勝手に死地へと歩いていく。その恐怖に心臓の鼓動が激しく打ち続ける。必死で足を止めようとしたが、無駄な努力だった。だんだんと線路が見えてきた。
もう、だめだ!
体が宙を舞った。
プオーン!
人生の最後に聞いた音は、列車の凄まじい警笛と全身の骨の砕ける音だった。