第9話 魔王と若き〈魔将軍〉 −2−
「逃げた――だと? しかも、初めからそのつもりだった……?
〈勇者〉であるというのに……か?」
ガガルフの報告に……余は、思わずそう聞き返していた。
まさか、〈勇者〉の名が出てきた直後に、およそそこから想像出来ぬ『逃げ』という単語に繋がるとは……。
「はい。そもそもが彼は、我らに敗北した騎士団が無事撤退するための囮として、ボクとの一騎打ちに臨んだようでした」
「バカな……逆ではないか。
切り札たる〈勇者〉を守るため、騎士どもが時間を稼ぐというなら分かるが……」
「『だから囮として有効なんじゃないか』……と、当人はそう申しておりました。
また、『被害を出さないためには最善だから』とも。
――そして、その言葉は敵であるはずの我らにも適用されているらしく……〈勇者〉と戦った部下は全員、命までは奪われていませんでした」
ガガルフの評を聞いて、当代の〈勇者〉は『戦いの何たるかを知らぬ甘ったれ』なのかと、真っ先に考えたが……。
しかしそんな程度の人間ならば、ガガルフほどの男を相手に戦い、さらに逃げ延びるなど、とても叶わぬだろう。
あるいは、愚かな自己犠牲精神に駆られた行動であったとしても、また同様だ。
そして、そもそも〈勇者〉としての役割に忠実であるなら、このような真似をやらかすはずもない。
つまり、この〈勇者〉は――。
自らの命も含めて誰をも犠牲にしないための、当人にとっての最良の一手を打った、ということになる。
敵の命すら守り、将を前にあっさり逃げ出すなどと――〈勇者〉の名誉などかなぐり捨てる勢いで。
だがそれも、相手がガガルフとなれば決して容易ではない――どころか、たった1つの些細な失敗が、即、死に繋がるような……恐ろしく困難なものであったろう。
にもかかわらず、その〈勇者〉は。
そんな真似を、見事にやってのけたというのか……。
「……なるほど、な。
ガガルフ、お前がわざわざ余に直接報告したがったのも分かるというもの。
――なかなかに面白い男のようだ……余の宿敵となる〈勇者〉は」
気付けば、ガガルフと同じように……余の口元にも、自然と笑みが浮かんでいた。
いかに一見無謀で困難であっても、それこそが最良と判断するなら、迷わず突き進み――そして成し遂げる、か。
フッ……まるで、余の良く知る――どこぞの跳ねっ返り令嬢のようではないか。
「ハイリア様なら、そう仰って下さると思っていました。
ですが――このガガルフ、〈勇者〉と相対しておきながら、みすみす逃してしまったのもまた事実。
ゆえに今日、こうして罷り越しましたのは、その失態について、罰をお与えいただくつもりでもあったからにございます」
そう言って――ガガルフは改めて、深く頭を垂れる。
「……そうよな……。
いかな困難を前にしようと、決して諦めず、己の信念を貫き通す――そんな人間は、〈勇者〉であるか否かなど関係なく、間違いなく強くなる。
間違いなく、この先、我らの脅威となり得るだろう。
そんな存在を、早い段階で摘み取れずにみすみす逃したのは……確かに失態だ」
「――仰せの通りにございます」
「ふむ、よかろう。では――。
次に〈勇者〉と対した際には……その手で必ず討ち取れ。
ただし、〈魔将軍〉の名に賭け――余計な小細工には頼らず、正々堂々と真正面から実力で、だ。
……良いな? ガガルフ」
ガガルフは一瞬、驚いたように視線を上げて段上の余を見ると……。
喜色と闘志の入り交じったような顔で、再度、深々と頭を下げた。
「寛大なるご処置、有り難き幸せにございます……!
このガガルフ――身命を賭して、次こそは必ず、〈勇者〉を討ち果たしてご覧に入れます――!」
「ああ……期待している。
――他に無ければ、下がって良いぞ」
余の本心からの言葉に、勇ましい返事を返し――そのまま、指示通り退出しようと思ったのだろうガガルフだが……。
何かを思いついたように、立ち上がろうとする動きを止めた。
「ハイリア様……畏れながら、1つ、お伺いしても構いませんか?」
「む……? 姉のことでも心配しているのか?
ニニなら、さすがというか……こんな状況でもこれまでと変わらず、しっかりと仕事をしてくれているが」
「ああ、いえ、姉上ではなく……シュナーリア殿のことです。
――ハイリア様が〈魔王〉となられたあの日以来、お見かけしないもので。
新たな研究に没頭されているとは、以前、ハイリア様からお聞かせいただきましたが……」
「そうだな、あやつの家令のギリオンを通じて、そう報せを受けている。
まあ、研究に夢中になって数ヶ月屋敷に籠もることなど、あやつにとっては珍しいことでもないからな」
それに、余にとってもその方が好都合と言えた。
あやつが、ああして公の場で『和解』を口に出した以上――ヘタに会議だ何だといった場に呼び出しては、他の〈列柱家〉と衝突する可能性が高いからな。
あのときの意見具申程度なら、何とか不問にも出来たが……。
あやつがあの主張を、何度も、堂々と戦わせてくるようなことになれば、余もかばい立てするのが難しくなってしまうだろう。
もちろんそこには、長い間共に育ってきたあやつを守ろうという、個人的な想いもある。
しかし――それとともに、何よりも。
あやつは、あの得難い才は……決して、つまらぬ諍いなぞで失われるようなことがあってはならないものだからだ。
この戦いが終わった後、人族をも組み入れた新しい世界を、より良く発展させていくために――あやつの才は、これまで以上に必要となるのだからな。
そう――余の、〈魔王〉としての破壊のチカラなぞ必要なくなった……その先にこそ。
「で……シュナーリアがどうかしたのか?
あやつが、戦を差し置いて研究に集中するのは、余も許可したことだが」
「はい、それは承知しています。ですが……。
オーデングルム殿や主戦派の方々は、魔法使いとしても比類無きチカラをお持ちのシュナーリア殿が、まるで前線に顔を見せないのはどういうつもりか――と、日に日に不満を募らせているようで……。
あの日の『和解』発言から、〈列柱家〉でありながら我ら魔族を裏切り、売ろうと画策しているのではないか――といったウワサすら漏れ聞こえます。
ボクのように、シュナーリア殿に少なからず恩義を感じている者は、あの発言も、凡人では推し量れない深謀遠慮があるのだろうと受け止めていますが……。
そうではない方々も、それなりにいるのが事実。
なので……あらぬ嫌疑を深めないためにも、一度、戦場にお出でになられた方が良いのでは――と、おこがましくも進言しておくべきかと考えた次第です」
「……ふむ……」
そう言えば……以前、ガガルフの領民の間で広まった流行病を、シュナーリアが薬の製法と治療法を確立して食い止めたことがあったな。
本人は、他に進めていた研究の副産物のようなもの……と言っていたが、その真偽にかかわらず、ガガルフの領民が救われたのは確かであり――。
以来、もともとシュナーリアとの関係も悪くなかったガガルフは、その恩もあってか、あの跳ねっ返りを擁護するような立場に回ることが多くなった。
そのことから考えれば……これもまた、ガガルフなりの純粋な善意なのだろう。
「――分かった。
あやつが聞き入れるかはともかく、今の話は伝えておこう」
「畏れ入ります、お願いいたします」
今一度、深く頭を垂れ――。
そして今度こそ、ガガルフは玉座の間を辞していった。
 




