9月
夏休みが明けるとすぐに体育祭の練習が始まった。
今年はどういうわけかクラス対抗ではなく、全学年の奇数組を紅組、偶数組を白組、という風に分けることになったらしい。世の中不景気。少しでも経費削減するべく学校側から生徒会、生徒会から体育祭実行委員会へとその旨が伝えられた結果そうなったという噂だったのだが。
それはどこまで本当なのだろうか?
互いの足をがっちり固定するため、先程から四苦八苦して紐を結んでいる男のつむじを見下ろしながら、どうしても私は首をひねざるを得ない。
例年通りクラス対抗であったのなら、フォークダンスの時に顔を合わせるか合わせないかくらいなものだったろう。もしかすると男女混合の借り物競走くらいで敵として相見えることもあったかもしれないけどな。
それにしても。
紅白に分かれるだけとはいえこんな偶然があって良いのだろうか?
今年の三学年は八クラス。一クラスの平均が三十五人だとして、八クラスで二百八十人。その半分の百四十人が紅、そうでないもう百四十人が白。紅白双方に平均七十人ずつの男女がいる計算だな。その七十人ずついる男女のうち、どんな偶然が重なるとこういう結果がもたらされるのか甚だ疑問である。ここまで来ると誰に食ってかかればいいのか分からないし、食ってかかるのも気合と根性が必要なのでもうこの際どうでもいいような気もするが。
ふと、実行委員会のクラス代表である海野君に抗議すればよかったのだろうかと今更ながらに考える。
それとも、一緒にやるからね? と、拝むような視線でこちらを見てきた結衣ちゃんを振りきればよかったのだろうか。
黒板に書かれた競技種目の欄に私と結衣ちゃんと他男子二名の名を見れば、普通その中で組が決定すると思うだろう?
それなのに。
以前から片思いをしていた相手、三組の元サッカー部の秋葉君と楽しそうに練習に励む親友の笑顔を遠くに見て、こちらはやりきれないため息を漏らす。そうは思いたくない。そうは思いたくないが、ましてや考えたくもないが、まさかアレで買収されたとか言う話じゃあないよな……。
そんな力がコイツにあるとは思えないが、なくもないような気がするのはどうしてだろうか。
ああ、ドナド○の歌が聞こえる。むしろ一緒に合唱してもいい。いっそ、紅組の応援歌として歌うってのはどうだろうな。くそぅ。
「さてと、これでがっちり結べたしオレ達も練習してみようか、明日香」
「……なぁ、一之瀬。男子組でやったほうが確実に一着とれるんじゃないかな? なにもわざわざ男女で組まなくったってさ。男女で組まなければならない規定なんてないだろ?」
最後の悪あがきと分かってはいるが、言わずにはいられない。
だが返ってくるのはいつもの魅惑王子スマイル。いつもより近すぎる分余計に暑苦しくて胡散臭いスマイル。
ああ、無駄だ。無駄な綺麗さだ。
「あのさぁ、どうして汗臭い男なんかと一緒に肩組んで走りたがるヤツがいると思う? 周り見てごらんよ同性で組んでるところなんてひとつもないよ?」
見回せば、なるほど。どこもかしこも公然と女子の肩に腕をまわした締まりのない顔の野郎どもがごろごろと。
そのうち明らかに好意を寄せ合っているところもあれば、男女どちらかが嫌嫌そうな態度のところもある。が、見れば見るほどヤツの言うとおり、百パーセント男女の組しか見当たらない。
グラウンドの隅で騎馬戦の練習をしている野郎どもの刺さるような視線さえ目に入らないほど彼らは概ね楽しそうにちょこまかと走りまわっている。
「きゃ、転んじゃう!」「ははは、大丈夫さ僕がちゃんと支えているからね!」
あはははは、うふふふふ。
わき目もふらずに青い春を謳歌している一組が我々の横を通り抜けて行く。なんて軽やかな走りなのか。走るどころかスキップさえも簡単にこなしそうな勢いに見える。
「爽やかな一陣の風って感じ?」
「そんな描写か? そんな描写でいいのか? いや、と言うかああいう意欲的な奴らに勝負を任せておけばいいじゃないか。私たちが頑張る必要はどこにもないだろう? 適当に練習してだな、適当に走ればいいじゃないか」
「はー? なに言ってるの明日香。出るからには一着じゃないと意味ないでしょ」
「そ、そんなもんか?」
「そんなもんだよ。それにさぁ……」
聞いてないの? と、意味ありげに寄せてくるアホ面にとりあえず脇腹を小突いて遠ざけ、その先を促すとヤツは残念そうな顔をして話を続ける。
「今年は特別ルールがあってさ。どの種目のビリにも罰ゲームがあるんだよね。生徒会公認、体育祭実行委員会仕切り、のね。あ、罰ゲームの内容一応聞いておく?」
「……一応、な」
そこでくくくッと笑う顔はどうしたって悪人のそれ。
本当にコイツはろくでもないと思う。無駄に顔がいいだけで性格はねじ曲りすぎてもう少しのところでねじ切れるに違いない。こんなのがちやほやされる世の中は絶対に間違ってる。
「文化祭あるでしょ? その宣伝を街でしてくるんだって」
「駅前とか商店街でよくやるアレか?」
「そうそう」
なんだ。そんなことなら大したことじゃないじゃないか。どうせ毎年誰かがやっていることだし。派手な看板を持って通行人にビラを撒くくらいなもんだろう。そんなもんでいいんだったら……。
「そんなもんでいいんだったら別にビリでも構わないとか思ってる? 甘いよー明日香。普通のかっこうで宣伝するわけじゃなくて、着ぐるみ、コスプレ、ついでに歌って踊ってもらうんだから」
お芝居と言うか、ミュージカル風味な感じ? と付け足して一之瀬は他人事のようにニヤリと笑う。
「どこのバカがそんなくだらない罰ゲームを思いつきやがったんだ。実行委員会の委員長か? 生徒会長か? そのふやけた脳みそに一撃くれてやるぞ」
「うん、生徒会長の山根さんと実行委員会の委員長の飯田君の両名の一致でね。あ、でも、その二人に直談判してどうにかなるもんじゃないよ? もう決定事項だしね。それよりもビリにならないように練習するべきじゃないかな?」
珍しくまともな正論にうっかりと頷き、私達はとりあえず練習を開始した。
そんな恐ろしく恥ずかしいことにだけは絶対に巻き込まれたくないと、心に決めて。
だが、ビリの罰ゲームも恥ずかしいが、二人三脚というコレもある意味恥ずかしすぎる。
ここは協力的に練習して一刻も早く二人三脚をマスターするべきだと思い至った。そうすれば少しでもこうしてくっついている時間が少なくて済むだろうからな。
こちらとしては上着の背中を掴むだけでも精一杯だというのに、ここぞとばかりに肩から腰に落ちてくるバカの手を振り払う作業も含め、我々は三日分の昼休みでどうにか息を合わせて走ることを習得することができた。周りの組たちと比べても、はっきり言ってビリになる可能性はかなり低いと見るまでの成果にあとは本番を待つだけとなった。
「朝練とか必要だと思うんだ。ふたりっきりで」とか真顔でぬけぬけとヤツは言ったが、ビリを回避できさえすればあとはどうでもいいと思うのは普通だろう? 受験を考慮して三年は一種目だけに出ればいいということになっているのだから時間は有効に使いたい。
けれど。
「今日も練習するのか?」
「う、うん。一応ね。ごめんね明日香」
放課後、すまなそうに、けれど頬を染めて走り去って行く結衣ちゃんの後ろ姿を寂しく見送って、私は自分のようにビリでさえなければいいとかそういうことではなく、ただ一緒にいる時間を長く作りたいと思う人もいるということを知った。まぁ、年頃の男女がぴったりと密着する競技では恋が発展する場合もあるかもしれないしな。うん、うまくいくといいなと親友のために祈り、私は社会科準備室に入り浸ることを決めた。たぶん、今日はここならあの煩わしいのに見つかることはないだろうから。
「失礼します」
西棟の二階の端っこにひっそりと「社会科準備室」と掲げられているドアを開けると、
「なんだ? 南は体育祭の練習はいいのか?」
銀のフレームの眼鏡を押し上げながらの第一声がそれだった。
まだ若いのに体力も気力もないこの和久井という男性教師は、その無気力で無愛想な人柄を買われてどの部活の顧問にも付いていない。もちろん何を考えているのか分からないぼうっとした顔と、いつでもだるそうな言動から生徒たちの人気もあるとも言い難い。むしろ人気のある数学の押井先生と真逆なので誰も好き好んで近づかないと言った方が早いかもしれない。まぁ、だから私にはちょうどいいのだけれど。
いつものように教材の地図やらをかき分けて空いているスペースに腰かけた私など一向に気にする様子もなく、「コーヒー飲むならそこ」とコーヒーメーカーを指差して言ったきり彼は自分の手元に視線を落とした。
ただ時計の針が音をたて、時折どちらかの筆音が耳に付くだけの静かな空間。そう、いつもならそれだけのことなのだが。
「南」
「はい?」
どういうわけか、どういう風の吹きまわしか、先生はコーヒーの入ったマグカップと小分け包装されたクッキーを私の広げた教科書の横に置いた。
それもあの無気力な、活きの悪い魚のような目ではなく、きらきらと輝く清流のような瞳をこちらに向けて。
「すいません、所用を思いついたのでいますぐ帰ります」
「せめて思い出すって言ってみれば? 相変わらず面白い日本語を使う子だねーえ」
くすくすくす……。
どこかで、いや、いつもすぐ近くにある迷惑極まりないどっかのアホと同じ笑顔を向けられれば自然と防衛することが身に付いているらしい。面倒なことを言いだされる前兆はもう感覚で分かる。
「白雪姫とシンデレラと赤ずきんと眠り姫、あとはそうだなぁ、マッチ売りの少女か人魚姫、それに鶴の恩返しでもいいか。うん。どれがいいと思う?」
「何のことか分かりませんし、興味ありませんのでどれでもいいです」
机の上に広げていたものを鞄に詰め、あとは席を立ってドアを出るだけというところまで用意して私は言い返す。
「そんな冷たいこと言うなよ。もしかすると南が一番関係あるかも知れないんだぞ?」
聞くべきか聞かざるべきか。それが問題だ。
うっかり聞いてしまって墓穴を掘るなんて間抜けな事態はぜひとも回避したい。けれど、そんな風に言われると聞きたくなるような気がしないでもない。
困った。
思案していると、先生は実に楽しそうに笑っていた。こんな風に笑えるのかと観察してしまうほど綺麗な笑顔で。
「南も大変だなぁ。裕樹のやつ手段を選ばないんだもんな。まぁそのおかげで僕も好きなこと出来そうなんだから何とも言えないけど」
……うん? なんだか聞き覚えのある名前が出てきたような。
「ひろき、って、あのー、えーと、……もしかしてあの一之瀬の話ですか?」
「もちろん。先生方にも生徒にも内緒だけどね、裕樹は僕の甥っ子なの」
知らなかった? と悪戯っぽく笑う顔はなんとなくだがアイツに似ているような気がした。
「噂さえ聞いたことないですが?」
「当たり前だよ。絶対に秘密だからね。あ、南は別な。教えてやらないとフェアじゃないし」
「なんのことです?」
「うん。実はね……」
と面白そうに話しだす先生を珍しいものを眺めるように軽い気持ちで見ていたら、話はとんでもない終着点に辿りつきやがった。
そして迎えた体育祭当日。
雲ひとつなく晴れ渡った秋の空を見上げ、私は今日この場にやってきた自分を心の底から褒めてやりたかった。
隣にはもちろんいつものアレ。
競技に参加するべく足を固定し、先頭を行く係りについてゆっくりとグラウンドのスタート位置に誘導されていく途中である。
「なぁ、一之瀬」
「なに?」
何にも考えてなさそうな顔に見えるのに。実際にはどれだけ腹黒いのだろう? 知りたいような知りたくないような。
「生徒会長と実行委員の委員長の弱みを握ってクラス対抗を取りやめさせたとか、紅白組の案や競技内容や、いつだか聞いた罰ゲームでさえお前が生徒たちを後ろで操って学校側の承諾を得させた、というのは本当か?」
「本当だね」
さらりと。事も無げに何の悪意もなく肯定する様に、一瞬自分が間違っているのかという錯覚をしてしまいそうになる。
第一組目が位置に付きスタートの合図が鳴った。
「だってクラス対抗だと明日香と一緒に二人三脚できないじゃない。ふたりで力を合わせることによって恋が芽生えて愛が育まれるものなんだよ」
わかるぞ! と、突然振りかえって一之瀬に親指を突き立てる見知らぬ男女。めでたく恋が生まれたらしい彼らはいちゃいちゃしながらスタートラインに付いて行く。
なんか、もうどうでもいいとしか思えない。
乾いた音がまた空に向けて発射される。
「ところでさ、明日香」
前の組の一着目。例のあのカップルがゴールテープを切ったところで係の子に促され、ヤツの手が私の肩に乗り、私はその背中を掴んで位置に付く。
「一着とったら何かご褒美とかあるとやる気出るんだけど」
「あるわけない」
「そうなの? それって明日香にとってもあんまり良くないことだよ?」
「……ちなみにどんな褒美が望みだ」
「もちろんちゅ……」
「却下」
ち。と隣で舌打ちが聞こえるのと同時に、
「位置に付いて、よーい」
パーン! と、私たちの組のスタート合図が放たれた。
息を合わせて走り出す。
そして。
順調に一位を走り、あと一歩でゴールテープを切る。というところで、わざとらしく隣の男が崩れた。
それはスローモーションのようにゆっくりとした、テレビのコマ送りのような、パラパラ漫画のような光景だった。
二人そろってすっ転び、両膝と手のひらにかるい擦り傷ができた。起き上がろうとする我々の横を息を合わせて走って行く敵チームの男女がゴールテープを切るのが見えた。
ビリ。
よたよたと両足を引きずるようにゴールのラインを超えると、和久井先生がそれはそれは嬉しそうにおめでとうと云わんばかりの死の宣告で迎えてくれた。
トラックの内側に入って結んだ紐を解く作業にかかる一之瀬。
「わざとだな」
埃を払いながら言うと、
「ちょっと足がもつれただけだよ。ごめんね?」と、ほんの少しすまなそうな顔をしてヤツはこちらを見上げた。
それが嘘なのか本当なのか見分けるのはすごく難しい。
「本当にごめん」
そして立ち上がろうとした瞬間にヤツは血のにじむ私の膝を見て顔を歪め、なぜかまた元のようにうずくまった。
土下座でも披露してくれるのかと思いきや、ヤツの頭の向きが違うことに気付く。
「何だ?」
「おんぶ」
切り返されて言葉に詰まったのは私だけではない。
周りにいた女子達はの半分は固まり、もう半分には「きゃあ」と純粋に面白がられた。ついでに男子生徒たちからは感心のようなよく分からない低い声が漏れたのはどういうことだか知りたくもないがな。
「だから厄介なことになるって注意してあげたのに」
自分のしたことを棚にあげやがって! と、全校生徒の前で声を張り上げるのも億劫で、私はぐったりとその背中に歩み寄る。
「ここでオレの優しさを踏みにじるともっと厄介なことになるからね。うん、賢明、賢明」
囁く男の背中でどうしたら文化祭を中止にできるか、なんて考えた自分が空しかった。
なんだかなぁ。