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3月

「あらー、明日香ったらいつの間にこんな素敵な彼氏を作ったのよ〜」

「はじめまして、一之瀬裕樹です。やっぱり明日香さんのお母さんも若くておきれいですね」

「あらやだ、一之瀬君たら上手ねぇ。ほら明日香、いつまでもそんな寝起きのかっこうしてないでちゃんと着替えてきなさいよ? 待たせちゃったら可哀想じゃないの」

「南さん、僕が約束より早く来ちゃったんだから急がなくっても大丈夫だよ」

「じゃあ一之瀬君、明日香の用意ができるまでお茶でもどう? さ、あがってあがって」

「はい、遠慮なくそうさせていただきます」

 私抜きで展開して行く会話が途切れ、にっこりと笑って居間に消えて行く珍客とはしゃぐ母を見送ってから、私は戦慄した。

 南ちゃんが嫌がるなら、外堀から埋めて行くからそのつもりで。本丸は絶対に落としてみせるよ。

 先日、どこから入手したのか私の携帯電話にかかってきた突然の宣戦布告の意味がようやく理解できた。が、理解できたところでなんになるというのか。単身赴任中の父を除けば家族は母一人と犬のちくわしかいないというのに。

「なんて恐ろしい奴……」

 いや、待て。母は簡単に流されてしまったが、動物はどうだろうな? 自分のテリトリーに突然見知らぬ男が侵入してきたら絶対に敵だとみなすに違いない。しかも、あの凶暴なちくわのお気に入りは居間だ。

 そうだ居間に入った途端にスピッツにしてはサイズのでかいちくわに噛まれてしまえばいい。

 なのに。

 願いもむなしく、そっと窺った居間ではソファに据わった一之瀬に向かい、ちくわがものすごく嬉しそうに真っ白な腹をさらしていた。「撫でて撫でて〜」とでも言いたげなうっとりした愛犬のショッキングな姿に軽いめまいがする。くっ、ちくわめ、こんな時に女子ぶりおって。いつもの凶暴さは何処へ行った!

「南ちゃーん、そんなところにへばりついてないでとっとと着替えてくれば? 映画、間に合わなくなっちゃうよ?」

「誰がお前なんぞと映画など見に行くものか。そんな約束をした覚えはない」

 ドアの隙間を少しこじ開けて反論を試み、あわよくばお引き願おうという算段なのだが。

「あら、明日香ったらそんなに照れなくてもいいのに。聞いたわよ〜、一之瀬君にチョコレートあげたんですってねぇ。ホワイトデー、楽しんでらっしゃいな」

 二人分の紅茶を乗せたトレイを持って登場した母の思わぬ援護にあえなく撃沈した。

「うわ、いい香りの紅茶ですね」

「あら? 分かる? ちょっといい茶葉なのよ、これ。明日香なんてこういうのに興味ないからつまらないんだけど、一之瀬君は違うのね」

 そうしてまた私を抜きにした会話が展開していくかと思われたが、一瞬何かを思いついたように顔を上げた母が一言。

「明日香、ジーンズじゃダメよ。この前買ってあげたワンピース着て行きなさい」

 外堀、完全に埋まってまさかの山ができたんじゃないだろうかと思う。



 右手に絡んだ他人の指が熱い。

 人と手をつなぐのがこんなにも恥ずかしいとは。

「はー、映画面白かったねー」

 そりゃあ映画は面白かったさ。どこで好みを聞いてきたのか知らないけれど、主演俳優も好みならスパイアクションの内容までもまるっと好みだったさ。

 へらりと軟弱そうに笑ってるわりにがっちりと掴まれた手が外れない不思議。振り払って肘鉄でもお見舞いして逃げてみてもいいような気もするけれど。あああ、周りの視線が痛い。

 コイツが明るく笑うとそこだけ春が来たみたいにふわっと華やいで誰もが振り向くんだ。

 全く、こうも視線にさらされたんじゃこれ以上目立つ行動はしにくい。とっとと家に帰ってもっと動きやすい服にも着替えたいぞ、コンチクショウ。

「あれ? もしかして南ちゃん疲れたりした?」

「まぁ……な」

 覗き込んでくる奴の視線から逃れるように顔をそむけ、お前から解放されりゃ気が楽になるわと、心の中で毒づいてみる。そう、ちょうど駅前に歩いてきたんだし、ここで別れられればそれが一番いいのに。

「ん、わかった。じゃあ、俺んちすぐそこだからお茶でもどう?」

「結構だ」

 これ以上の否定があるだろうか。満足げに自分の右手にくっついている奴の手を引っぺがし、清々したという素振りで髪をかきあげた。さて、下りの電車は何分後に発車するのだろうか。手首につけた時計の文字盤を確認すれば午後二時四十三分を指している。私たちの身分では春休みだが世間一般では平日の水曜日。少し待てばすぐに電車は来るだろうし、三時ちょっとには家につける。となると、母と一緒におやつをすることになるだろうしと考えついて、駅前に立ち並ぶビルたちに目を走らせた。確か、この前結衣ちゃんと一緒に食べたケーキ屋が近くにあったはず。あそこのショートケーキは最高だったからな。

 この後の予定を立て、しかしそれを実行するにはとっとと傍らに立ちつくす男に別れを告げなければならないのを思い出し、私がこの日一番の笑顔を浮かべて最後の一言を口に出そうとした瞬間に、奴はあろうことか逆に完璧な悩殺スマイルで、

「……。そう、よかった。ウチ喫茶店やっててさ、軽食とかも出すから休憩してくのにちょうどいいと思うし」

 なんて言いやがった。

 なにより腹が立つのは、女の私よりも数倍愛らしいその笑顔。厭味も屈託もないその会心の笑みに嫉妬すら覚える。

「ちょっと、待て。今のは否定的な意味だったんだ! 分かってやってるだろ!」

「あはは〜。何言っちゃってるの。結構だっていうのは世間一般肯定的な意味に受け取られるんだよ〜」

 にっこり。

 あああああああ。最悪だ。最悪な予感がする。

「いや、すまんが、これからどうしても見たい番組があるから帰らねばいけないのだ」

「ならうちで見ればいいじゃない。テレビくらいあるよー」

「いやいや、他所様の家にテレビを見る目的で上がり込むのは親から止められていてな。そういうわけだから一刻も早く家に帰らねばならぬのだ。すまんな、一之瀬。映画面白かったぞ。じゃあ」

 な。

 といい終わるよりも早く、男はズボンのポケットから携帯電話を取り出しどこかへ電話をかけ始めた。

 この隙にと思い駆けだそうとしたところで、どういうわけか自分の左手が体に付いて来ないことに気づくのと同時に、

「あ、南さんのお宅ですか? 一之瀬と申します。はい。そうです。今日お伺いした一之瀬です。あの、明日香さんが見たがっている番組があるそうなんですが分かりますか? ええ、これから放送されるそうなんですが。え? 本当ですか? ああ、よかったです。とても気にしていたので。そうですか、じゃあよろしくお願いします。はい。ええ、もちろんあまり遅くならないようにしますし、責任を持って家まで送りますから。ええ、じゃあ、そういうことで。失礼します」

 ピッ。

 会話を終了させて奴はにっこりと本日二度目の会心の一撃。

「そういうわけで、ウチでコーヒーでも飲んで行きなよ。おいしいケーキもあるよ」

 この人畜無害そうな笑顔に勝てる気がしない。

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