2月
俺の恋人は諦めが悪い。
意地っ張りで意固地で素直じゃない。
そのくせ、不意に無邪気な満面の笑みなんか浮かべるところは、――俺が言うのもなんだけど――性質が悪い。あんまり突然に笑うからうっかりしてると見惚れてしまうこともある。何と言うか、俺もまだまだだよなぁ、なんて思わせられるのだけれど、それすら悪い気がしないから困るというか。
最初はほんの興味本位だった。
妙な喋り方でまわりの女子とは一線を画していた南明日香を知ったのは単なる偶然だったと思う。
あの日も甲高い声できゃあきゃあとまとわりつく何人かの女子を巻き、彼女らが諦めて帰るまで屋上へと続く階段の踊り場――使われない机といすが乱雑に放置されていてそこへ入りこんでしまえば誰の目にもつかない秘密の場所――へ逃げ込んで辟易していると、
「南さんって変わってるよね」
「そうそう。なんか孤独って感じ? どこのグループにも入ってないみたいだしね。なーんか、こー、少し冷たい感じ?」
「そうそうそう。でもさぁ、何人かの男子に告白されたらしいじゃない? 聞いた?」
「聞いた聞いた。断る、って一言言って終わりなんだってね」
「らしーよー。南さんのどこがいいんだろうねー。あたしの方が確実に可愛いのになぁ」
「やっだ、それ面白いんだけど」
耳に付く声で笑い去っていく女子の話が全部丸々聞こえてきたのだ。もちろん聞きたくて聞いていた訳じゃない。じっとしていたら耳に入って来ただけの話。
だから、別に南明日香という人物が誰に告白されようと振ろうと、俺には関係のないことだった。
しかし。
一体どんな子なんだろう、と少なからず興味がわいた。
そして突き止めた二クラスとなりの南明日香という子は、凛とした、独特の雰囲気を持つ女の子で、更に探りを入れれば、彼女に告白したのは野球部とサッカー部、それにバスケ部のいずれも目立つポジションの比較的顔のいい部類の奴らだった。そして性格もそう悪くはない奴ら。「好きじゃなくても一応オッケーしちゃうよね」と言って笑った女の子たちが一般的ならば、南明日香、かなり手強いんじゃないか、と更に興味がわいたのだから、思えばあの時からすでに彼女のことが特別だったんだろう。
「懐かしいな」
振り払われないようがっちりつかんだ手を心もち大きく振って言えば、
「何の話だ」
彼女は間髪いれずに不機嫌そうな声を出す。
二月。三年生は自由登校になり、進路が決まった者はこれまでの勉強漬けから解放されてほんの少し気が緩む時期であり、同時にこれからの新しい生活に向けての不安と期待が入り混じった複雑な時期、らしい。
くれぐれも事故や間違いのないようにな。
生徒いびりが趣味だと噂される小野先生はそう言っていたけれど。
「なんでそういつでもにやけた顔してるんだ、お前は」
眉間にしわを寄せた明日香がそこにいる。
事故や間違い。生死にかかわるようなそれはもちろん避けたいし、誰も歓迎しないだろうが、一年前、きっと間違えて俺にチョコレートを投げてよこした明日香にとってあれは事故に近かったんじゃないだろうか。事故は処理さえしてしまえば表面的には何も残ることはない。ただ、事故にかかわってしまった当人たちの心には何らかの痕を残す。その小さな小さな痕を辿って、つけ入って、今俺は明日香の隣にいる。
「気持ち悪いぞ」
「やだな、明日香が可愛いからにやけちゃうんだよー?」
「そういうのが胡散臭いんだよ。結局ただのおっさん思考だろ」
「言うね」
「フン」
耳まで真っ赤にしてそっぽを向くのがどれほど可愛い仕草なのか彼女はまだ自覚がないのだろう。
無自覚だから可愛い。けれど、それでは俺が困る。どこの馬の骨とも分からない輩が彼女に視線を送るのさえイラつく。できることならばずっと一緒にいたいと思う俺の気持ちを考えてくれることがあるんだろうか。
それなのに明日香は俺の進路のことなんて全く問題にもせず自分の進路を県外に決めた。俺と離れることなんて全くもって恐れずに。むしろ、率先して距離を置こうとしているのが見え見えなほどに。
だけど、物事は思う通りにはいかないんだとそろそろ知った方がいい。
「ねぇ、明日香また承諾してないんだって? 部屋のこと」
「するわけないだろう。なぜ私がお前と一緒に、す、住まなければならないのか、訳が分からない」
すれ違う人たちを気にしてなのか、明日香の語尾がだんだんと小さく最後は途切れるように消えた。
「だってさ、お互い近くの大学に行くことになるんだから一緒に住んだ方が経済的じゃない。それにこっちの親もそっちの親も承諾しちゃってるんだから、今更だよ?」
「承諾なんて……」
「あー、でも、書類にサイン貰っちゃって……うん、今は何でもない」
明日香の瞳が俄かに怒りの色を帯びてくるのが見え、これ以上何かを言えば今日という日が台無しになりそうな予感がしてトドメの台詞を慌てて飲み込んでできるだけ感じ良く見えるような笑顔を作る。なんだかんだいっても最後には明日香は落ちるだろう。すでに周りは固めてある。明日香だって本心から俺を拒絶しているわけじゃない(と思う)、となれば、彼女から到底守りきれない条件を突きつけられる形で俺たちのルームシェアという名の共同生活が春には始まるのだ。
結果が分かっているのだから何も焦る必要はない。
「だから、にやけた顔が気持ち悪いって言ってるんだよ。っていうかどこまで行くんだ? いい加減寒く……」
「なんだ。寒いなら寒いって最初から言ってくれたらよかったのに俺が温め……」
握っていた手を離して、そっと肩に手を伸ばそうとするが、
「死にたいようだなぁ、おい」
その手を容赦なく明日香に払いのけられる。
あーあ。一年経ってもこの程度か。と、思ってしまったら負け。
たった一年で一緒に街を歩いてもらえるのはものすごい進歩だと思うことにする。
相変わらず怪訝な顔でぶちぶちと文句を言いながらも、繋ぎ直した手はそのままにしている明日香。これを進歩といわずして何を進歩と言おうか。
「明日香、今日はすごいプレゼント用意したから驚く用意しておいてね」
「ああ。高原んところのチョコレートケーキだろ? うまいよな」
「……ん?」
けろりと言う明日香に不覚にもおかしな声が出た。
内緒で、彼女を驚かせようと思って頼んだプレゼントの中身がどうしてバレているのか、想像もつかなかった。
声もない俺に明日香がしてやったりの顔で笑う。
「一之瀬、私にだって味方はいるんだよ」
くつくつと笑いながら、彼女は空いている方の手でごそごそとコートのポケットを探った。
そして――。
チャコールグレーの手袋の上にひとつ乗っかった包みを「ほら」と差し出して、
「借りは作らないからな」
俺の手にピンク色の星が一つ降って来た。
去年は泣き落した末に手に入れた棚ぼたのハート型。
そして今年はレア物のチョコレートケーキと引き換えに手に入れた星。
「あ、りがとう。大事に食べるよ」
包みを解いてしまえばすぐに消えてなくなるであろうチョコレート。それを大事に大事にポケットにしまう。
飾り立てられた高級チョコレートでもなければ手づくりでもない一見して駄菓子と見てとれるそれ。だけど、値段も大きさも関係ない。俺にくれようとするその気持ちがとても嬉しかった。
「大げさな奴だな」
確かに大げさだ。
だけど可笑しそうに笑うその顔がすぐ隣にあれば他は何もいらないと思った。