私たちの名前
やっと二作目投稿が叶いました。以前SNS上で付き合わない恋愛小説が読みたいと言うつぶやきを見かけ、それに沿うような小説を書きたいな~と常々思っておりました。そんな感じのお話に出来ていれば良いなぁと思います。
真っ暗な部屋のなか、テーブルと周囲の人間の顔だけがぼんやりわかる程度に揺らめく炎を一息で吹き消した。
「ハッピーバースデー!明梨」
「ありがとう・・・」
人生三十回目の誕生日、相も変わらず母親がにこやかな笑顔で手を叩く。真っ白な生クリームをたっぷり使ったショートケーキには、ご丁寧に数字の3と0を象ったロウソクが刺さっていた。誕生日が嬉しいなんて思っていたのはほんの五年前くらいまで。そこからは三十路という言葉が日に日に近づいてくる恐怖と、無下には出来ない母親の笑顔が妙に印象に残る日となっていた。そんな恐怖の対象だった三十路を迎えた今となっては、ああ、またこの日が来たかなんて思う、一年の家の通過儀礼のようなモノだった。毎年のことだけど、笑顔の母親がケーキを取り分けて、一口目を食べる頃に必ず口にする言葉がある。
「もう三十歳ね・・・・そろそろ彼氏とか・・・良い人いないの?」
今年はほんの少し申し訳なさそうな表情を浮かべてはいるが、聞かれる言葉は一つも変わらない。彼氏はいないのか、子供はまだか。そんな言葉が私を強く責めてくる。ケーキの真っ白なクリームが、私に彼氏がいない綺麗さを物語っているようで、飲み込むのにはかなり苦労した。
「毎年言ってるけど、職場と自宅の往復なんだから彼氏なんてできるわけ無いでしょう?」
「そうだけど・・・・職場に良い人とか・・・」
「うん、いないね」
爽やかに言い切って私はケーキをもう一口、口に含んだ。母は困ったような表情でケーキにフォークを刺した。実際職場には自分より年上の既婚者か年下の彼女持ちしかいない。同期は入社してすぐはいたが、転職や引き抜き、転勤などでどんどん会社からいなくなっていった。私の会社では未婚は女性か彼女持ちの後輩達しかいない。私は不倫や浮気には全く興味がない。つまり会社の人間は全員が射程圏外と言う事になる。
以前友人には二~三回合コンに誘われたが、今は誘われても行かなくなってしまった。そもそも合コンという場が私はとても苦手だった。顔を見たこともない、話したこともない人間との関係を最短二時間で築くなど、私には到底ムリな芸当だった。そもそも参加した合コンで、相手の男性達に魅力を感じたこともなければ、相手から言い寄られることもなかった。見ず知らずの人間とただ食事をするというだけの合コンに私は意味を見いだせずにいた。
黙々とケーキを食べていると、珍しく父が口を開いた。
「まぁ・・・お前の人生だ・・・・」
「・・・・・そ、そうよね・・・」
無口な父の言葉は、少ない分的確だ。おしゃべりな母も、無口な父が口を開いたときは静かになる。私はそんな父を尊敬していた。口は災いの元なんて言われるけど、父にはほとんど縁のない言葉だと確信していた。
「・・・・いい人が出来たらすぐに教えるよ」
「慌てなくて良いのよ!良い人かどうかは会ってみないとわからないもの!」
母はそう言うが、二人は既に定年が近づいており、年齢だけで言えば孫がいてもおかしくない年齢だ。そんな二人に、娘の私が出来る親孝行は、やはり結婚や出産なのだろう。父はわからないが、母はそう思っているに違いない。それがわかったとしても私には、今すぐに結婚を考えられる相手が存在しないことが現状だった。ぼんやりとTVを見る二人を眺めて、明日家を出たすぐの曲がり角で食パンでも咥えてみようかなんて、そんなアホみたいな事を考えながら、想像を鼻で笑い飛ばした。
入浴後ケーキで胃もたれ気味のお腹をさすって布団に潜り込んだ。明日は出勤してすぐに会議が入っているのだ、変なことを考えていないで早く寝なくては、そう思って目を閉じた。
翌朝目を覚ますと、壁に掛けたシンプルな時計が、既に家を出る時間をゆうに越えた時間を指していた。ぼんやりする視界と頭に、母の声が響き渡った。
「あんた!今日仕事でしょう!?」
母に起されるのは、普段であれば少々イライラしてしまうのだけど、今日はそんな事を考えている余裕はなかった。
「っやば!!」
心臓の拍動に起されて私は慌ててスーツを羽織った。階段を落ちそうな勢いで駆け下りると、食卓に美味しそうに焼かれた目玉焼きときつね色のトースト、プチトマト二つ、香りの良い珈琲が鎮座していた。
「朝ご飯は?」
「と、トーストだけもらうっ!」
ほとんどカラスのようにトーストをかっさらって、鞄を背負いなおして、すぐに家を出た。会議には間に合うかもしれないが、始業時間には確実に遅れてしまう。走りながら時計を確認していると、家を出て二つ目の角で自転車にのったサラリーマンとぶつかりそうになった。飛び出した私も悪いが、交差点や見通しの悪い曲がり角でスピードを落とさないのもどうかと思う。そんな事を思いながら、食パンを落とさないように注意して、もごもごと済みませんとだけ言った。相手もそう悪い人間ではないようで、コチラこそとだけ言って、お互いの道を進んだ。ふと昨日のアホな考えを思い出した。少女漫画であれば、食パンを咥えた私が彼とぶつかっていれば甘い恋の始まりが垣間見えたかも知れない。しかし現実を見れば、なんの武装もしていない私とスピードのついた自転車、そんな相手にぶつかれば病院へまっしぐらだ。こんなもの恋だなんだに発展する前に警察沙汰になってしまう。それにそんな関係からのスタートはごめんだった。気を取り直して食パンを食べ進めながら走れるところを走って、慌てるところは慌てながら、何とか業務開始一分前に会社に滑り込むことが出来た。
「せ、セーフ・・・・」
「山室さん、おはよう」
「あ、お・・・はようございます・・・」
「セーフだけどギリギリね」
「はい・・・すみません」
係長席に座った和田さんが、移動することなく私に陰湿な視線を向けてきた。入社してから遅刻はほとんどなかったけど、ギリギリは何度か経験がある。その中でも今日はさすがにやばかった。息を整え、今日の会議の資料に目を通した。誤字脱字のないことを確認すると、私は深呼吸をして係長に資料を渡した。
「和田さん、今日の会議の分です」
「はい。受け取りました」
和田さんは基本怒鳴るような起こり方をしない。常に怒っているような顔をしていることで入社当初はかなり怖かったけれど、慣れてしまえば怖くはない。それに私がこの会社に入社するだいぶ前には鬼の和田の異名を持っていたらしいけれど、今ではそんな過去はなりを潜めているようだ。怒られることがとことん嫌いな私には丁度良い上司だと思う。会社の時計が十一時を指す頃に、和田さんとともに会議室に向かった。新商品の企画部との打ち合わせだ。予定は1時間だけど、企画部との会議が時間通りに終わった事がない。昼食を買いそびれたが、買ったところで無駄になってしまっていたかもしれない。そう思うと、昼食の分お金が浮いたと思うことにしよう。
案の定、会議は白熱した。一昨年入社した企画部の新人がとても熱い心の持ち主で、彼が関わると売り上げと会議の時間が比例するともっぱらの噂だった。会議開始から目をランランと輝かせ、興奮したような笑顔の彼は生き生きしていた。その元気さを多少なりと分けて欲しいくらいだ、なんて考えている内に、会議室に一応置かれている時計は既に十三時をさしており、新人の彼以外は、会議が終わる頃には二~三キロは体重が落ちると言う。かく言う私も食パン一枚のカロリーで耐えきれる会議ではなかった。
「おつかれ、お昼今からで良い?1時間ちゃんととってね」
「あ、ありがとうございます」
和田さんはそれだけ言うと、自分の机に戻って愛妻弁当を開いていた。遠くからでも彩りの良さがうかがえる。ほとんど毎日奥様お手製の愛妻弁当を広げる姿は、女性社員からはかなり高評価だった。私も和田さんが愛妻弁当を食べる姿は良いと思っている。愛し愛される関係。ほんの少し羨ましくもあり、そんな関係の相手は遙か遠いとも感じてしまっていた。
会社近くのコンビニで適当にパンと野菜ジュースを買って、会社の外のベンチに腰掛けて昼食をとった。季節ごとの新商品の野菜ジュース。今回は春らしく大きなイチゴが描かれていた。イチゴの酸味と、甘み、あらごしの粒の食感が春を感じさせた。日差しが優しく照りつけて、爽やかに風が頬を撫でる。あぁ、こんな時間がいつまでも続けば良いのに、なんて、小説家みたいな事を考えながら、ソーセージを包んだ柔らかいパンをかじり飲み込んだ。きっと温かい方がもう少し美味しく感じるのだろうけど、時間のない社会人の私には冷めたパンで十分なのだ。機械的に口を動かして時計を見た。一時間は長いようで短い。気がつけば後十五分で戻らなければいけない。
「はぁ・・・・社畜はつらいよ・・・」
ため息を一つ吐いて、味の薄くなったパンの端を口に放り込んだ。
明日の会議で使う資料を作り終える頃には、日は傾き、時計は定時を指していた。
「はい、みんな定時だからね、早めに帰ってね」
世に言う働き方改革というヤツのお陰で定時退社が実現した。以前からそれほど残業のある会社ではなかったけれど、それでも定時に帰宅できるのはありがたい。と言っても、帰りに飲み会に参加したり、合コンに参加したり、そんな華々しい時間の使い方は、私はしない。会社と家の往復、ソレが私のルーティーンだ。会社帰りに職場の面々と酒を飲むくらいなら、自宅で缶酎ハイをあおっている方が楽だ。そう言えば、昼にみたSNSに普段飲んでいる酎ハイの新作がでたと書いてあった。それを買って帰ろう、そう思うだけで私の心はほんの少し躍り出す。
家の近くのいつものコンビニに入って、酒類の棚を物色し、目当ての春めいたピンク色の缶を手に取った。新商品と謳ってはいたが、よく見るとパッケージが変わっただけで、中身はほとんど変わっていないようだった。心の中でなぁんだとほんの少しがっくりしたけど、美味しいという事に変わりはない、少し沈んだ気持ちと共に、酎ハイ片手に帰路についた。
家の直前の曲がり角で曲がった瞬間、何かにぶつかった。よろけた私はそのまま尻餅をついてしまった。
「わっごめんなさい」
今朝と言い、今と言い、最近の私は不注意気味だ。反射的に謝罪の言葉を発して、ぶつかった何かを見ると、大きなリュックを背負った若い男性だった。男性は慌てた様子で私に手を差し出した。
「コチラこそすみません」
暗がりで顔は分らなかったけど、謝罪の言葉を述べてくれた事で、悪い人物でないと判断した。
「お怪我ありませんか」
「大丈夫、全然気にしないでください」
声色から若い男性である事がわかったが、それ以外の情報は大きな荷物以外記憶に残らなかった。
「本当にすみませんでした」
「いえいえ~」
丁寧にお辞儀をしながら去って行く姿を見て、何事もなかったことにほっとした。しかしあんなに大きなリュックを背負ってこんな時間に一体どこに行くのだろう。一瞬彼に対する興味が湧いたけど、追いかけて声をかけるなんて事はしない。どうせ彼に今後会うことは基本ないだろう。家出してきた若者か、金のないバンドマンとかそんなところかも知れない、なんて勝手な物語を想像した。うーん、私漫画家か小説家になれてしまうかも知れない。なんてバカみたいな事を考える、それもルーティーンの一部。なんて、人には言えないような妄想を膨らませていた私は、この出会いが私の人生に大きく関わってくるなんて全く想像もしていなかった。
普段寝坊気味だけど、土曜日の朝はランニングの為に早起きするようにしている。平日はほとんど椅子に座って過ごしているから、せめて週一回は、と始めた。コレがなかなか良い運動になる。家を出て、公園まで走ってほぼ十分、公園内を二~三周して、そこから家に帰る、合計三十分程度の本当に簡単なランニングだけど、やらないよりはマシだ。いつも通り家を出て、いつも通りの道を走る。公園は砂場と滑り台、ブランコと言った定番の遊具が設置されていて、たいして広くはないけれど、内周を二~三回ほど周回するとほどよく汗が出てくる。今日もいつも通り公園の中に入って、ペースを落とさずに一周し始めようと視線を移すと、入り口に一番近いベンチに、見慣れない塊が乗っていることに気がついた。一瞬の後、ソレが人間である事を悟った。
「寝てるみたいだし・・・・いいか・・・」
いわゆるホームレスだと悟った瞬間はたじろいだけど、刺激しなければ何かされることはないだろう。視線を自分の正面に据えて、ベンチの方を見ないようにさっさとペースを上げて走りきって帰ろう。そう決意して走り出した時、無情にもベンチの上の人間は体を起してしまった。予定変更、残りの二周はせずに帰宅しようと公園の入り口を目指し、少しスピードを上げたとき、声をかけられた。
「あ、すみません」
「はいっ」
この時ほど、反射的に反応する自分の性格を呪ったことはない。反応してしまった手前無視して走り去ることは出来なくなってしまった。上がっていたギアを落として、私はぎこちない笑顔を向けた。
「あの・・・・あれ?お姉さん、昨日の・・・・」
「昨日?」
寝ぼけた目を擦るベンチの上の人間は、私の事を知っているようだった。私は昨日の記憶を辿ったけど、ほとんど誰かわかっていなかった。
「昨日の今日で走っていると言うことは、大した怪我はなかったんですね、良かったです」
人懐っこい朗らかな笑顔を向けられて、慌てて視線を外したら、枕代わりだったのか大きなリュックがベンチの上に乗っかっていた。私の脳裏に、昨日ぶつかった大きなリュックの男性が浮かんだ。
「え・・・昨日ぶつかった人?」
「あ、はい、そうです。昨日はとんだ失礼をしてしまって、申し訳ありませんでした」
気恥ずかしそうに頭を掻く男性は、昨日暗がりで見たよりも少し小さく見えた。
「・・・・で・・・何か?」
男性は私の問いかけに慌てたようにリュックを探り当て、一枚の紙を取り出した。
「あ、そうだった・・・えっと一応コレ僕の名刺です」
「はぁ・・・・」
警戒心の薄い相手には自分もとことん警戒心が薄くなる。いつでも走って逃げられるように構えていたけど、入っていた力は抜けていた。受け取った名刺には“高尾健星”とだけ書かれていた。しかも手書き。会社の名前や役職などの彼の名前以外の情報が一ミリもない名刺を受け取って、私の警戒心と困惑は再び強いに振れた。
「あ、えっと・・・この辺にたかおって名前の駄菓子屋さん知りませんか?」
たかおという名前の駄菓子屋なら、小学生の頃良く通った場所だ。しかしあの駄菓子屋は確か
「知ってるけど・・・あそこってもう閉店してる・・・はず・・・」
私の言葉に、朗らかで人懐っこい笑顔が崩れていく瞬間をまざまざとみせつけられてしまった。たかおという駄菓子屋は、私が小学生の頃、優しい笑顔の老夫婦が営んでいたはずだ。年齢が上がるにつれて次第に駄菓子屋には行かなくなっていたけれど、高校生の頃店の前を通る頃にはおばあさんだけ見かけることが増え、私が就職したあとには既に閉店の張り紙が貼ってあったはずだ。
「あれ・・・・知らなかったの?」
「あ・・・はい・・・」
青ざめた表情で悲しげな笑顔を見せた彼は、明らかに落ち込んでいた。
「高尾ってことは・・・・お孫さん?」
「あ・・・えっと・・・はい」
力なくベンチに座り込んだ高尾健星は私を見ずに、とりあえず返事をしているようだった。あまりに落ち込んでいる姿を見て、どうしようか悩んでいると、まるで地響きのような大きな音が彼の方から聞こえた。
「あっ・・・その・・・」
お腹を押さえたことで彼が空腹名事は明白だった。ここまで関わってしまった手前、そのまま置いて帰るなんて、私にはできそうになかった。
「・・・とりあえず家においでよ、朝ご飯くらい出してあげるよ」
「えっでも・・・・」
「お風呂も入った方がよさそうだし・・・気味が良ければだけど」
何で家においでなんて言ってしまったのか、自分の事ながら理解は出来なかったけど、礼儀もしっかりしている貧乏な若者をそのままに出来るほど薄情ではないつもりだった。
家に帰ると案の定両親はかなり驚愕していたけど、高尾君の手書きの名刺と朗らかな笑顔に警戒心は薄れていった。とりあえず彼を風呂に案内して、長いこと着ていなかった昔好きだったバンドのTシャツとズボンを脱衣所に置いて、簡単に食べられそうなものを冷蔵庫から見繕った。
「ちっょと、明梨、あの子は誰なの?」
「高尾健星君、たかおって名前の駄菓子屋さんあったでしょ?あのばーちゃんのお孫さんだって」
「あらぁ、そうなの?」
母はほんの少し期待を込めたような表情で私を見ていたが、私にとってコレは気まぐれで、なんの下心もない行為だ。ソレをはき違えないでいただきたい。少し怒り気味に冷蔵庫をあさっていると、申し訳なさそうに風呂から出てきた。
「あの・・・すみません、お風呂いただきました」
「ん、じゃぁ座って。すぐご飯出してあげるから」
彼は戸惑いながら私の普段座っている席を選び腰掛けた。テーブルに三つ席があって、二つ並んでいる方に父が座っていたら、誰でも迷わずに一つの方に座るだろう。肩身の狭そうな表情を浮かべる彼の前に、温まった順に食べ物を出した。
「色々あるから慌てずにね」
「あ、ありがとうございます」
小汚かった公園での彼と、風呂に入った後の彼では印象が雲泥の差だった。遠慮がちな上目遣いに小動物を思わせる可愛さを兼ね備えていた。
「いただきます」
きっちりと両手をそろえ、綺麗に箸を使いこなす姿を見ていると、育ちの良さがうかがえた。きっと厳しい両親に育てられたのだろう。背筋がピンと伸び、まるで見本を見せられている気分だった。かなりの空腹だったようで、彼は出される皿全てをほんの数分で食べきってしまった。なんだかどこまで食べられるのか気になって、調子に乗って冷蔵庫の中を空にしてしまいそうだったけど、母の視線がそれを制止した。肩をすくめて母の視線に応えると、お茶を父の前と彼の前に出した。
「っはぁ・・・ごちそうさまでしたっ」
体格はそう大きくないのに、二日分の我が家の残り物が一掃されてしまった。見事な食べっぷりに、私も母も心底感心した。
「さて、高尾君はなんで駄菓子屋さんに行きたかったの?」
一息ついた辺りで私もお茶を持って折りたたみの椅子を出して隣に腰掛けた。
「あ、えっと・・・俺、家出をしてきたので・・・・おばあちゃんの家に行こうと思ったんですけど、なかなか見つけられなくて・・・閉店していたなら店ももうないですよね・・・」
先程まで満腹で笑顔だった彼の表情は既に底まで落ちてしまっているようだった。表情の家里代わりが激しい青年だ。
「おばあちゃんの家はどこにあるの?」
「・・・わからないんです」
高尾君の話では、彼が幼い頃は良く祖母の家に遊びに行っていたが、彼が中学に上がる頃に父親と祖父の関係が悪化し、次第に祖父母に会えなくなっていたのだそうだ。それから長いこと父親に従ってきたが、大学卒業と共に父親と大げんかの末、家を出て祖父母の家を探しに出たのだという。ただし手がかりが、あの駄菓子屋と言う事しか無く、ほとんど思いつきのような状態で家を飛び出したので、学生時代にバイトで溜めた貯金を大事に使うためにほとんどの時間を野宿で過ごしていたのだと言う。
「父とケンカして出てきてしまったので・・・家にも帰れなくて」
指をもじもじと絡ませながら高尾は視線を泳がせた。身よりもない、帰る場所も無い、そんな若者を再び追い出すことは難しく、私は頭を抱えてしまった。自分の経営しているアパートでもあれば貸し出すことなど出来るのだろうけど、なかなかそんな都合良くは行かない。私は一応の確認として両親の表情を見た。真剣な表情の父に対し、母は目に涙を浮かべていた。ドラマ好きな母にとってなんとも良い話だ。何より彼は母の好みの可愛らしい容姿をしている。
「高尾健星君だったわね・・・・いいわ、おばあさんの家が見つかるまでこの家にいてくれて構わないわよ」
「え、よろしいんですか!?」
図々しくも高尾君は目を輝かせた。連れてきてしまった手前簡単に追い出すことも叶わないだろう。私は正直乗りかかった船というつもりで同意していた。
「ちょっとまった」
ほとんど彼を家に入れるという方向で話がすすんでいたけれど、父の一言で空気は変わった。きらきらに輝いていた高尾君の表情が一気に堅くなった。私でさえも驚いたのだ、あの無口な父が口を開くなんて。まぁこの状況では、一家の大黒柱として見過ごせないのだろう。連れてきたのが私でなければ私も母を止めていた。
「名前を知ったからと言って、君の言っていることが証明されたわけじゃ無い」
珍しくはっきり言い切った父は少し悩んだような表情をうかべた。
「君を連れてきたのはうちの娘だが、君をこの家に住まわせるかどうかはまた別の話だ」
「・・・・・はい・・・」
まるで悪戯が見つかって叱られている子犬の垂れた耳が見えるようなあからさまな落ち込みようだった。
「だからといって、君を無下に追い出すのは男が廃る。そこで、だ・・・・この子と一緒に住むというのはどうだ」
「・・・・・・・はぁ!?」
ここ最近で一番大きなはぁ?が私の口から出たのは言うまでもない。もちろん母も、高尾君もまるでクルミを待つくるみ割り人形のように口を大きく開け、父を見つめていた。
「この子、明梨は三十にもなって恥ずかしながら相手がいない。この家に住んでいるから、自立出来ていない。そろそろ家を出そうかと考えていたんだが、なにぶん一人だと生活が安定しなさそうだ。家事が得意というわけでもない。そこで君だ。君には明梨と一緒に住んでもらって、明梨が怠けないよう、監視して欲しい」
「・・・・え・・」
「ちょ、何言ってんのお父さん!!」
「もちろん君の目的が達成されるまでで構わない」
「構わないって私が構うんだけど!!」
高尾君は顎に手を添えてなにやら考え込むような表情を浮かべると、ほんの少しの間を置いて笑顔を見せた。
「ふつつか者ですがよろしくお願いします」
「ちょ!!何言ってるのよ!!」
「よろしく、高尾君」
怒る私を差し置いて、父と高尾君の間で契約が成立した様子だった。開いた口がふさがらないという言葉をここまで痛感したことはない。
「よろしくね、明梨さん」
柔らかな笑顔の彼が差し出した手を掴めなくて固まっていると、父が半ば強引に私の手を握らせていた。一体何がどうしてこうなったのか、誰かに説明して欲しい位だった。
翌日昼頃に起きた私の目に飛び込んできたのは、2LDKのアパートで会社の最寄り駅から五駅程度離れた賃貸の情報を数件分かき集めてきた両親の笑顔と、私よりも先に食卓に着いていた高尾君の存在だった。昨日の出来事は現実だと言うことをまざまざと見せつけられた気分だった。
「私・・・まだそれやるって言ってないんだけど」
「いい話じゃない。高尾君もイケメンで良い子みたいだし」
「いやいや・・・娘が心配じゃ無いの?ってか彼は今仕事してないじゃん、家賃は私持ち?」
「俺バイト見つけるよ。家賃は折半。生活費も折半。そこまで明梨さんに甘えるわけにはいかないよ」
爽やかな笑顔を見せていたが、そんなのは当たり前だと大声を出したい気持ちは何とか押さえ込んだ。この両親と、彼に何を言っても通じない気がした。何より言い出しっぺの父がなんともはしゃいで物件情報を持ってきた様子が、本当に意外だった。無口で必要最低限しか喋らなかった父が、まさかこんなに訳のわからない状況を提案し、喜んで準備に取りかかっているだなんて、にわかに信じがたかった。しかし物件探しはそう簡単な話では無い。とりあえずあれこれ理由を付けて全ての物件を却下していった。何とかこの作戦を頓挫させるため、私は頭をフル活用した。
翌日の月曜日、父も私も仕事で、母はパート。高尾君だけ家に残す事は私としては不安だったが、高尾君が一人で家にいたとしてもあの話は進まないだろうと高をくくっていた自分を本気で締め上げたい。定時になってすぐにスマホを開くと、メッセージアプリからの通知が数件届いており、恐る恐る開いてみると、ほとんどが母からで浮かれた様子の母の写真が私の苛立ちを助長させた。[明梨~家決まったわよ~。即日入居できるって言うから、明梨の荷物も高尾君にまとめてもらってるから!]会社を出てすぐに自宅に電話をかけると、未だ浮かれたままの母から更に絶望的な発言が飛び出した。
「ちょっとお母さんっ」
「あぁ、明梨?今日からあの家住めるから、住所送るわね~。すごいわよね~本当に即日入居可だったんだもの~。だから、あなたの家は今日からあっちだからね~」
「はあ!?今日からって!!荷物は!?ってかあっちって!!」
「高尾君とお父さんがあらかた運び込んだから大丈夫よ。残りの荷物は後でまとめて運び込めば良いわ」
絶句、と言う言葉が正しいのだろう。まさかこんなにも早く話が進むなんて、私には理解出来なかった。コレが夢なら今すぐに覚めて欲しい。しかし絶句していても何も始まらない。とりあえず私は実家に帰ることにした。文句の一つでも言わないと気が済まない。
「ただいま!ちょっとお母さん、お父さん何勝手に・・・・」
「あら、あんた、なにこっち帰ってきてんのよ。住所送ったでしょう?」
「いや、そうじゃなくて!!」
「あ、でも丁度良かったわ、煮物持って行きなさい」
「え、あ、ありがと・・・じゃなくって」
「明梨、甘えていないで現実を受け入れるんだ」
「そうよ、明梨。大丈夫高尾君とても良い子だから」
「いや、だから・・・」
「さ、早く帰らないと、高尾君お腹空かせて待ってるわよ~」
「あの・・・ちょ・・・・」
あれよあれよという間に、煮物と共に追い出されてしまった。私の家族は一体、どうしてしまったんだろう。理解出来ないことが起ると、人間の脳は活動を停止してしまうようだった。家の門の前で立ち尽くす日が来ようとは、いつ、そんな事を想像するだろうか。
「・・・・・・・か・・・帰る・・・しかない・・・の?」
私の口からこぼれ落ちた言葉は、夕日が沈んで暗くなった道路に消えた。
地図アプリを頼りにたどり着いたマンションのエントランスで部屋番号を押して呼び出しを押すと、三コール目で高尾君の声が響いた。
「はーい!」
「あ・・・明梨です・・・」
「あ、明梨さん!良かった!俺明梨さんの連絡先知らないので、お母さんに電話しようかと思ってたところです」
「あ・・・・うん・・・えっととりあえず開けてもらえる?」
「はっそうか!!今開けます!」
自動ドアをくぐってエレベーターに乗り込んだ。目的の部屋のドアの前に立ち、インターホンを押した。
「はーい・・・・お帰りなさい」
「あ・・・・・ただいま・・・・です・・・」
入ってすぐ左の壁に風呂とトイレが並び、反対の壁には二つの扉が並んでいた。正面にもう一つ扉があり、高尾君に続いて正面の部屋のドアを開けると、少し小さいリビングダイニングが広がっていた。
「急でビックリですよね・・・あと荷物は玄関側の部屋に運び込んであります」
「ありがとう・・・・・あ、これ煮物・・・夕飯は?」
「まだ食べてないです、明梨さん仕事で疲れてますよね?俺、夕飯の準備しておきます。お風呂入っちゃってください」
「あー・・・・そうするわ・・・・」
「とりあえず今後のことはご飯食べながらでも」
どうにも彼の笑顔を見ると毒気を抜かれたような気持ちになる。煮物だけリビングに置いて、とにかく風呂に入ろう、と気持ちを切り替えた。部屋に入ると、ベッドが壁際に置かれ、クローゼットの中に既に私の着替えが詰まった衣装ケースが綺麗に積まれていた。見回すと実家の部屋とほとんど変わらない様な配置で荷物が運び込まれていて、なんとなく安心した。
風呂から上がって髪の毛を乾かすと、リビングから高尾君が声をかけてきた。
「明梨さん、もう大丈夫?ご飯の用意できたけど」
「あ、すぐ行く」
リビングに入ると、母の煮物と、高尾君が作ったのであろう味噌汁と炊きたての白米が並んでいた。
「さ、食べよう」
「う、うん・・・」
人間空腹には勝てない。色々考え込んだって仕方がないのだ。二人で号令をかけて、味噌汁に手を伸ばした。
「おいし」
「そう?良かった」
こんな簡単な事で気を許しそうになるが、この状況は一般的におかしいのだ。雰囲気に飲まれないようにしなくては。
「えっとさ、高尾君」
「あ、健星でいいです。俺も明梨さんだし」
「・・・・わかった。じゃあ敬語とかも気にしないで、なんか敬語使われるともぞもぞする」
「もぞもぞ・・・わかった」
もぞもぞと言う言葉が何かツボに入った様で、クスクスと笑っていた。笑うと目尻にしわが寄って人懐っこさが倍増する。いかんいかん、また空気に飲まれていた。
「んで、健星君は、この状況どう思うわけ?」
「え?この状況?・・・・・うーん、まぁ面白いかな。明梨さんのご両親何て言うか突拍子もなくて面白いよ」
「そっか・・・まぁいいや」
この状況がおかしいのは重々承知しているのだが、問題視しているのが私だけのようで、なんだか自分が間違っているのではないかという錯覚を起しそうになる。
「じゃぁまずは家賃、光熱費的な部分だけど・・・」
「あ、そうだね、俺は明日からすぐにバイト探すよ」
「そうね、お願い・・・・ってかここの家賃って幾らなの?」
健星君は笑顔で資料を渡してきた。
「二人で出す分には問題ないくらいだよね」
「・・・・・そう・・・だね」
予想よりもほんの少し割高だったが、二人で住むなら、許せる範囲だろう。
「ま、早急にバイト探してね。とりあえず私の貯金で何とかなるかな・・・・」
「ごめんね、なんか、俺のせいで・・・」
現実的な話しと、眉間にシワを寄せる私をみて、健星君は落ち込んだような表情を見せた。
「い、いや、まぁ・・・その・・・・この状況は半ば両親のせい・・・だから、あんまり気にしないで。それに私も家出たかったし・・・・家にいるとほとんどの会話に彼氏がどうとか、結婚はまだかとか、そんな話ばっかりで滅入っちゃいそうだったし」
ここは本心だった。家を出たいと言う気持ちはあったけど、転勤があったわけでも、転職するわけでもなく、ましてや彼氏と同棲というわけでもない。きっかけがなくて家を出られなかったのが、こんな訳のわからないきっかけとはいえ、親に心配をかけることなく自立できたのだ。それだけでも良しとしないと、今度は私が行き場を失ってしまう。とにかく現状を受け入れるところから始めないと。
「じゃぁ金銭面はまず健星君のバイトか就職が決まり次第、にしよう。それまではとりあえず私が払うから」
「あ、うん。できる限りすぐに見つけるね」
「お願い。次は、生活のことだね。私は平日会社に行ってて、土日休みだから、平日は家事ほとんど出来ないし、残業はほとんどないから帰り時間は大体一緒」
「あ、それなんだけど、俺料理得意だからご飯作るよ。あ、そうだ連絡先交換しないと」
妙に嬉しそうな顔をした健星は少し型の古いスマートフォンを出した。
「え、古いの使ってるんだね」
「あ、うん。まだ使えるし」
そう言って笑った健星君はメッセージアプリで可愛らしいクマのスタンプを早速送って来た。人懐っこい彼は連絡も人懐っこい。そうこうしながら私たちは一応のルールを決めた。
・洗濯は昼間に健星が回し、干す。帰ってきたら明梨も取り込み、畳む
・掃除は土日を利用して二人で
・お互いの部屋には干渉しない
・風呂は声を掛け合って入る
・買い出しなど食費も含め金銭面は基本折半(ただし個人的に必要なモノは個人で購入する)
・必要な連絡は逐一
「とりあえずこれでいいかな」
「うん」
「ま、今後新しく何かが必要になったら話し合おう」
私は食器を台所に片し、水をかけた。スポンジに洗剤をつけると、健星君が慌てて自分の分の食器を台所に置いた。
「明日は俺が洗うから」
「あー、こう言うのも決めた方が良い?細かいところまで決めるの大変じゃ無い?」
「え?あぁ、そうだね、じゃぁ細々したモノは気がついたら、にしよう」
「おっけー」
食器を片しながら、なんとなく、兄弟がいたらこんな感じなのかな、と考えていた。一人っ子でずっと実家にいた私は、他人との共同生活なんて初めてで、どうすれば良いのかわからなかったけど、何だか少し楽しい気がしていた。高校時代の合宿はこんな感じだった気がする。懐かしい思い出がほんの少し浮かんで何だかおかしかった。
翌朝目を覚ますと、何だかいい匂いがした。
「・・・・おはよう」
「あ、明梨さんおはよう。昨日のお味噌汁とご飯」
「あ、ありがとう・・・」
今まで朝は食パンだったけど、ご飯の朝食も悪くない。一晩経って味噌が染みた大根は格別だ。寝起きですぐに温かい汁物を胃に入れると言うのも何だか健康になる気がしていた。
「んー・・・美味しー・・・」
「そう?良かった」
寝癖の残る人懐っこい笑顔を朝から拝めるなんて、ちょっと不服だが両親のお陰かもしれない。いつもより早く起きて、健星君と朝食を食べ、いつもよりほんの少し早く家を出た。何だか清々しい気分だった。
「うーん、悪くない、と思ってる自分がいるな・・・・」
引越して早一日というか一晩で、私はほとんど彼に懐柔されているようだった。
「え!?明梨、実家出たの!?」
昼休憩の時間、同期の秋山が会社に響くような大声を出した。
「声大きいよ・・・・まぁ一応・・・だから転居届とか出さなきゃなんだよね・・・」
「へぇ・・・ついに一人暮らしかぁ・・・・」
「あ、いや・・・・一人暮らしでは・・・・ないんだけど・・・・」
つい正直に本当のことを言ってしまってから、私は後悔した。秋山は声も大きいし、噂好きで、彼女に何かを話すとすぐに会社に広まっていく。案の定彼女は先程よりもあからさまに驚いた顔を見せた。確実に脳内では彼氏、もしくは結婚という文字が大多数を占めているのだろう。
「やだ、なに!?結婚するの!?」
「いや・・・えっと・・・・・」
基本私は隠し事が苦手だから、私の情報はほとんど会社の人間に筒抜けだ。まぁ、それで害があったことはほとんどないので、あまり気にしてはいなかったが、今回の話は正直に話しても変な話だし、嘘をついてもすぐにバレてしまいそうだった。
「すっごく変な話だなって私も思ってるんだけど・・・」
と前置きして、私は昨日までの数日間の話をした。話し終えてもヤッパリ変な話だと感じた私の感覚はどうやら間違っていないようで、秋山の眉間には、重要案件を抱えているときよりもしっかりとシワが寄っていた。
「え・・・・結婚とか、彼氏とかでもなく、偶然知り合った男と、同棲するってこと?」
「うん・・・・まぁ、同棲って言うか、共生?同居?するって言うかしてるって言うか・・・」
「はぁー・・・・ご両親なんて言うか・・・思い切ったね」
「あーそうね・・・私もそこに一番ビックリしてる。まさか父さんがそんな事を言い出すなんて思ってもみなかったもん・・・・」
食べ終えたパンのゴミを袋にまとめながらそう言うと、秋山はいつにない真剣な表情を浮かべた。
「あのさ、人懐っこいからってあんまり信用し過ぎちゃダメよ?・・・同性ならともかく、相手は見ず知らずの男でしょう?・・・それに彼氏って言うわけでもないんだからさ・・・・お金とか、そう言うのちゃんと管理しないと」
「あぁ、でもそう言う悪いことしなさそうなんだよなぁ・・・」
「いやいや!あんた!何かあってからじゃ遅いんだから」
秋山の言うことも一理ある。健星君が本性を隠しているだけなら、今後何かを盗まれたりするかもしれない。小さな不安が芽吹くとどんどん大きくなっていく。そもそも名前だって(名刺をもらったが手書きだったし)嘘かもしれない。駄菓子屋を探していたという話もでっち上げで、最初から人の名義で家を借りるなどする事が目的だったのかもしれない。
「うわ・・・なんか怖くなってきた・・・」
ちょっと身震いした私に、秋山は落ち着くように言った。
「あんまり刺激しないように、よく観察して、証拠はばっちり押さえた方が良いわ」
「証拠って・・・まぁ、用心に超したことはないよね」
「そうよ!」
秋山の力説のお陰で、ほんの少し冷静になれた気がした。両親の圧に押され冷静さを欠いていたのかもしれない。
「ありがとう、秋山・・・気をつけるよ」
「うん、そうしな」
秋山が割り箸を握ったまま、親指を立てて見せた。秋山のグッドサインには、人を安心させる効果がある、気がした。
家に帰るとまたいい匂いがした。
「あ、明梨さんお帰り~」
「た、タダイマ・・・・」
昼の話を思い出して何だか片言になってしまったけど、台所でフライパンを振る健星君を見ると、昼に浮かんだ不安が払拭されるような気がしていた。
「もうちょっとかかるから先お風呂入っちゃって~」
「あ、うん」
湯船に浸かりながら、昼間に秋山に言われたことを思いだしていた。彼の話が嘘で、名前も偽名だった場合、何故私と一緒に住むのか。もしかしてぶつかったときに私に一目惚れしたとか。いやいや、それはあり得ない。そもそも話の発端は、私が偶然出会ったぼろぼろの彼を見るに見かねて家に上げたことなのだから、元から誰かの家に寄生するような人間だったらこんな手法はとらないだろう。色々考えたけれど、どう頑張っても健星君が害を及ぼすような人間には思えなかった。
「うーん・・・色々考えすぎかも」
じわじわと汗が出てきて、だいぶ長風呂してしまった事に気がついた。慌てて湯船からでて、ドアを開けたとき、目の前に健星君がいた。
「・・・・!」
「あ、ごめん」
驚いた私に対して、健星君はなんとも冷静で、畳んだタオルを持ったまま、ニコリと微笑んでドアを閉めて出ていった。いるはずのない人間が目の前に現れると人間は動きを停止するらしい。ほんの数秒の間のあと、ゆっくり自分の体を自分で確かめてみると、太りすぎという訳ではないけれど、脂肪のついたふくよかなお腹、そのくせ胸の膨らみはほとんどない、そんな容姿をみて世の男性は性的興奮を覚える事がある。マルかバツか!?バツ!と脳内クイズ大会で、棒餅のCMの男性のごとく素早い手さばきでボタンを押していた私は、多分混乱していたんだと思う。以前の私ならきゃー!とかいやー!とかそんな可愛らしい反応を示せると思っていたけれど、実際そんな場面に遭遇すると、そうそう黄色い声は出ないらしい。自分の新しい発見だった。
「・・・・・着替えよ」
混乱と冷静が渦巻く頭のまま着替えを済ませて食卓に座ると、健星君が躊躇いがちに視線をコチラに向けた。
「あの、明梨さん・・・その・・・・ごめんね、声かければ良かった・・・」
「あー・・・」
冷静だと思っていた健星君も少なからず動揺していたようだ。
「仕事で疲れてるだろうから、入浴の時くらいゆっくりしたいだろうなって思って・・・声かけなくても良いかなって、タオル置くだけだしと思って・・・・ホントごめん。女性の入浴中に脱衣所に入るなんて非常識だったよね・・・」
柴犬のピンと尖った耳が垂れている場面を思い出していた。そもそも自分の現状を把握するので手一杯で、彼に対する怒りなんてほとんどなかった。
「まぁ、ほら、わざとじゃ無いんでしょ?・・・・とりあえず今回は事故、ってことで・・・次から気をつけてくれれば良いから・・・・私も健星君が入ってるとき気をつけるようにするね・・・ご、ご飯食べよう!」
精一杯明るく振る舞ってはみたけど、彼の頭の上に浮かんだ、「しょんぼり」という文字は寝室に戻るまで消えなかった。
彼との生活はそんな小さなハプニングがあったものの、ケンカをしたりすることもなく、彼も私に強く干渉しないし、私も彼に干渉しない。互いに丁度良い距離感を保っているように感じられた。その距離感がいつしか心地よく感じられるようになった。一緒に住み始めてからたった三ヶ月しか経っていないのに、私と健星はずっと以前から一緒に住んでいるような錯覚に陥っていた。
「あ、そうだ健星、今日私飲み会」
「んえ、昨日鮭の味噌漬けちゃった・・・味噌焼きにしようと思って」
「えぇ!!健星の鮭の味噌焼き美味しいんだよね~・・・食べたい~・・・明日のお弁当にできる?」
「焼きたてが美味しいけどしょうがないよね・・・」
「ごめんね、昨日急に決まってさ~。昨日のうちに伝えておけば良かったね」
「わかった、じゃぁ明日のお弁当に入れとくね」
「ありがとう、じゃ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
「健星もバイト頑張って」
「ありがとう」
こんな些細なやりとりが、今の私には安定剤のような働きをしていた。
「明梨、最近彼とはどうなの?」
「どうって?」
最近の昼休憩の時間はほとんど秋山と過ごすことが増えた。それもコレも、健星が弁当を用意してくれるからだ。お陰で余計な出費は減ったし、健星の弁当は冷めても美味しかった。
「彼氏の事よ!」
「彼氏じゃ無いってば~。別に心配するようなことは何も無いよ」
ゴシップ好きの秋山は、ここ最近昼の度に必ず私にこの話を振る。健星の事は何度言っても彼氏だと言って聞かない。
「えぇ~。でももう同棲して三ヶ月でしょ~?何か無いの?面白い話」
「面白いってね・・・私の私生活で遊ばないでよ。それに同棲じゃなくて同居ね」
「ごめんごめん・・・・今日も美味しそうねお弁当」
秋山がそういうのもムリはない。健星の弁当は彩りがちゃんと意識されていて、見た目も鮮やか、味はもちろん申し分ない。私がほとんど料理できない分、健星はめきめきとその能力を向上させていった。今や健星がいなくては、私の衣食住の食の部分は成り立たないと言っても過言ではない。
「健星、料理上手いのよね~。どこで習ったの?って聞いても適当としか言わなくて」
「・・・・・でもその健星君って謎、多いわよね・・・・何歳って言ってたっけ?」
「え・・・・」
秋山にあえて聞かれて返答に困ってしまった。そう言えば私は健星の年齢を知らない。
「・・・・・出身どこって言ってたっけ?」
「あーっと・・・・」
そう言えば私は健星の出身も知らない。思い返すと彼の情報をほとんど持っていないのが現状だった。
「年齢も出身もわからない相手と三ヶ月・・・良く両親が許可したね・・・っていうかその両親がごり押ししたのか・・・」
「ははは・・・」
思い返してみれば、健星についての情報は出会ってすぐの頃とそう変わっていなかった。変わったことと言えば料理が美味いと言う事だけ。それでもこの三ヶ月間、ほとんど何も問題が無かったのだ。脱衣所で偶然出会ってしまった程度のハプニングのみで、私と健星の関係が何か変化するようなイベントごとは起っていない。私自身健星とどうにかなりたいなんて事思ったことはない。だからこそ、健星とムリをせずに一緒に過ごせるのだ。三十歳になって、こんなにも安定した他者との同居生活が送れるなんて思ってもみなかった。仕事仕事で家に帰れば彼氏はまだかなんて言われていた日常が今や懐かしいくらいだ。
家に帰るといい匂いが出迎えてくれる。それがとっても心地よい。
「ただいま~」
「あ、お帰り~今日はハンバーグだよ~」
「やった~」
料理する健星の横でお弁当箱を洗いながら、シンクも一緒に片付ける。一人暮らしや実家だったらこんなの全部後回しだけど、健星といると普段の家事のお礼も含めて片付けをしたくなる。不思議な魔法だな、と思う。
「そう言えばさ、私健星のこと何にも知らないんだよね~」
「・・・何?急に」
「いや、今日職場の、いつも話す秋山に、健星の年齢は?とか出身は?とか聞かれたんだけど応えられなかったからさ~。そう言えば健星の事何にも知らないなぁと思って」
私の言葉に、フライパンを見つめる健星の瞳が揺らいだ気がした。その理由はわからなかったけど、一瞬だったから見間違いかもしれない。
「気になる?」
「・・・うーん・・・いや?別に・・・さーて、お風呂お風呂」
笑顔でそう聞く健星に、これ以上聞かないで欲しいと言う感情を読み取った私は急いで洗い物を済ませて半ば逃げるように風呂に向かった。普段の笑顔と違うような圧の籠った笑顔が少し怖かった。干渉されたくない事には干渉しない。安定した同居生活を送る上での重要事項だ。私にだって探られたくない事はある。
風呂から上がると、丁度ハンバーグがテーブルに置かれた所だった。
「ナイスタイミング」
「いやった~!いただきます!!」
「・・・・明梨さん・・・さっきの話なんだけど・・・」
「さっき?」
アツアツのハンバーグを前に、私は健星の言う“さっき”の検討がつかなかった。
「俺の事知らないって言ってたでしょう?」
「あ、あー、あれね」
聞かれたくないことは明白だったから、私は慌ててハンバーグを頬張って気にしていないフリをした。
「えっとね・・・高尾健星、二十七歳。バイト生活で明梨さんに寄生してるヒモ男。趣味は料理と家事・・・かな」
突然健星の口から出てきた個人情報に唖然としたけど、ほとんどは知ってる、と言った情報しかなかった。そんな事より気になる情報が私の頭を占めていた。
「ヤッパリ年下だったんだ」
「え?明梨さん年上だったの?」
健星の心底驚いた表情が何だかおかしかった。今知っている以上の健星の情報なんて、どうでもいいやなんて思うくらいには、健星に対して気を許していた。
「いくつに見えてたの?」
「同い年かと思ってた・・・」
「やだ、嬉しい事言ってくれる~」
「・・・・・他に聞きたいこと・・・ある?」
笑う私に、少し困ったような表情を見せた健星は、それでも私を真っ直ぐに見つめていた。
「・・・・話したい?」
真っ直ぐ私を見つめていた健星の視線が、ほんの少し揺らいだ。私は口の中で租借していたハンバーグと白米を飲み込んでから、言葉を続けた。
「話したくないならムリに聞かない。だって私たちはそう言う関係だから。私もあなたも一緒に過ごしているけれど、付き合っているわけでも、結婚しているわけでもない。それにそう言う関係になったからと言って相手の全てを知る必要はない。だって、生活できてるもん。もしも健星が私に言いたくなくて隠していることで私に迷惑がかかるようなら、早めに相談して欲しい。私も力になれるかもしれないし、そう言う不安要素は消しておきたいから。でもそうで無いなら、この話はコレでおしまい。年齢と現状が知れただけでも良しとするわ」
そう言って私はまたハンバーグを頬張った。時間が経っても肉汁がジュワッと溢れる健星のハンバーグが食べられるなら、健星の情報なんてなくても良い。そう思った。
「そっか・・・・」
健星はそれだけ言うと、何だか少し嬉しそうな表情を浮かべていた。たいしたことを言ったつもりはなかったけど、なんとなく健星が嬉しい事が、嬉しかった。
お互いがお互いを詮索しないまま、半年が過ぎようとしていた。面白いくらいに、私の健星に関する情報は全く変わらなかった。高尾健星、二十七歳、物腰は柔らかくて、笑顔が人懐っこい犬のような可愛さを持っていて、家事が得意。最近私に対する喋り口調から硬さが取れて、ラフになった気がする。まぁ私も最初は君をつけて呼んでいたけれど、いつの間にか呼び捨てになっていたし。健星は相変わらず明梨さんと呼ぶけれど、最初のよそよそしさが抜けた。呼び方なんてどうでも良いくらい、私たちはなんの気兼ねもなく、二人の生活を楽しんでいた。少なくとも私は、もうこのままで良いと思ってしまう位に、この生活に慣れてしまっていた。
「で、健星君との生活はどう?」
久しぶりに実家に帰って食事を楽しむ私の心を母はすぐに欠き壊す。
「どうって・・・特に何も無いよ」
「・・・・そうなの?」
訝しげに私を見つめる母と珍しく私の反応を期待する眼差しを向けていた父は、相変わらず無言だったけど、つまらなさそうに背もたれにもたれた。両親や友人がそう聞きたくなるのもまぁわからないでもない。私と健星は、同居しているにもかかわらずあまりに何もなさ過ぎる。それこそ面白さのかけらもないほどだ。
「半年も経つのに・・・あんた健星君のこと嫌いなの?」
「いや、むしろ楽だよ」
「楽ってねぇ・・・」
母は諦めた様に、目の前の夕食を頬張った。私だって、彼氏が欲しいと言う願望が無いではない。ただ、健星を越える間柄になれそうな異性が自分の周りにいないこと、そして何より健星との関係は、このままがかなり楽だと言うことに気がついてしまったのが運の尽き。彼氏のいない期間は、確実に記録を更新している。このまま記録を更新し続けてギネスにでも載ってやろうかなんて考えている間に、健星から連絡が届いた。
「んぁ、噂をすれば」
「あら何、健星君?」
「うん・・・・・おばあちゃん見つかったらしい」
「え!!大変じゃない!じゃぁ、今日の煮物持って行ってあげなさい!あと若いんだからお肉も食べたいわよね!!ご飯の残りも詰めてあげる。あとはお浸し。ほうれん草で良いわよねすぐ茹でるから」
「ちょっとちょっと・・・」
「今日食べなければ明日食べれば良いわよ!今食事のほとんど健星君が作ってくれてるんでしょ?毎日献立考えるのだって大変なのよ!いい事があった日は息抜きさせてあげなさいな」
「あー・・・はははわかった~」
実の娘よりも好待遇な気がしてしまうが、それよりも健星の当初の目的が達成されたことが何だか嬉しかった。でもこの時、健星からのメッセージに絵文字が一つもない事に疑問を持つべきだったんだ。
家に帰ると、いい匂いはしなかった。電気も消えていたし、私の方が先に帰ってしまったのかな、と思って、玄関、廊下、と移動に合わせて電気を付けて消してとリビングに入ると、リビングの椅子に、健星がいた。
「わっ・・・・・・び、ビックリした・・・・」
明るく元気な印象の健星は、そこにはいなかった。どんよりとした空気を纏ったそれは、某ボクシング漫画の燃え尽きた瞬間に酷似していた。メッセージには探していた祖母が見つかったと書いてあった。喜ばしい連絡かと思っていたが、この様子ではそうでは無いらしい。
「健星?・・・」
呼びかけると、死んだ目をした健星がゆっくりと視線を這わせて私をみた。数秒して、わたしが誰なのかを記憶から呼び起こしたのか、ほんの少しだけ笑顔を取り戻した健星は、ハッとした顔をして、時計を見た。
「あっ・・・・明梨さん・・・ごめん、ご飯の支度・・・・」
「いや、健星今日遅くなるって言ってたから、実家で食べてきたよ・・・残り物だけどもらってきたから・・・食べる?」
「・・・・・あ・・・うん・・・・ありがとう・・・」
家事が出来る状態じゃなさそうだと判断して、私はとりあえず、持って帰ってきたモノを温め直して、健星の目の前に置いた。
「とりあえず、食べなよ」
「いただきます・・・・」
よく見ると健星の目の周りは少し赤くなっていて、涙のあとが見て取れた。鼻をすすりながら食事をする健星を無言で見つめる。何だか居心地の悪い気がしたけど、途中で席を立つのは違うような気がして、ただ健星の反対側に座って黙っていた。
「美味しいなぁ・・・」
まるで一週間ほど食事をしていなかったかのように、健星は食べ続けた。普段はそんなにがっついて食べるような男ではないのだけれど、明らかに様子がおかしいのは見て取れた。一体何が彼をこのように変えてしまったのか、皆目見当もつかなかった。タッパーの中身を食べきると、健星はふぅと一息ため息をつくだけで、無言でタッパー類をシンクに運ぶと、水をかけてそのままにして席に戻ってきた。視線は相変わらずテーブルに落ちていたけど、背もたれに力なくもたれながら健星は口を開いた。
「おばあちゃん、見つかったんだ」
「・・・あ、そう書いてたね、メッセージに・・・」
「うん・・・・」
健星の次の言葉を待ったけど、言葉に詰まっている様子だった。
「どうやっておばあちゃんの居場所見つけたの?」
「・・・俺宛の手紙が届いたから・・・」
「え、手紙くれたんだ!良かったじゃん」
「うん・・・・俺も最初はすごく嬉しかったんだ・・・・手紙にも会って話がしたいって書いてあったし・・・だから俺今日バイト変わってもらって急いで会いに行ったんだ・・・・」
さっきまで少し明るくなっていた健星の表情は一気に曇っていった。
「おばあちゃん、俺が親父とケンカしたこと知って、俺に手紙くれたんだ。会った時はすごく喜んでくれたのに・・・おばあちゃんを頼りたいって話をしたらそれはダメだって。帰れって言われちゃったんだ・・・」
「え?」
「俺、おばあちゃんなら話聞いてくれると思ってたんだ・・・・なのに・・・」
堪えきれなかったのか、健星は大粒の涙をポロポロとこぼし始めた。私の勝手なイメージでしかなかったが、駄菓子屋で微笑んでいたおばあさんは優しくて、縁側で朗らかにお茶をすすっているイメージだった。それなのに頼ってきた孫を追い返すような事があるだろうか。ましてや自分から手紙を送っておいて、だ。私の中の健星の家族に対するイメージはかなり不信感が強まっていた。
「俺・・・・頼る人がいなくなっちゃった・・・・」
健星が精神的に弱った姿を見たのは初めてで、どうすれば良いのかわからなかった。それに健星が悩んでいる問題は、家族や健星自身の問題であり、私が簡単に口を挟んで良い問題ではない。健星の言う聞いて欲しかった話というモノがなんなのか、それを今聞く事は私には出来ない.それでも健星の言う“頼る人がいない”という言葉には、違うと言いたかった。
「健星・・・バイトはどう?」
「え?バイト・・・・?」
健星はなんとも不思議そうな顔をした。私は微笑み返すだけで健星の言葉を待った。
「バイト・・・楽しいよ・・・・ラーメン屋のおじさんすごく良い人で・・・」
「そう、じゃぁこの生活はどう?」
「え?すごく嬉しいし有りがたいよ・・・でも、こんなに良くしてもらってるのに、これ以上明梨さんに甘えたくないから・・・俺は・・・・」
「良いじゃん、このままで」
「・・・」
驚くほどすんなり言葉が出た。ほんの少しだけど驚いてもいた。でも口から飛び出した言葉に後悔という意識は混ざっていなかった。
「行くところもないんでしょ?じゃぁこのまま私と住めば良いじゃん」
健星の珍しい表情が二つも見られた。鳩が豆鉄砲を食ったようって言う言葉はこのためにあるのかもしれない。瞳をまん丸にして、ほんの少し開いた口がなんとも間抜けに見えた。
「私もさ、健星との生活、最初はすごく違和感だった。だって両親が決めたモノだったし。でも私は家事あんまり得意じゃないけど、健星がほとんどやってくれてて私もすっごく助かってた。それに、この部屋は私と健星で住む為に借りた部屋でしょ?健星が出て行ったら私も出なきゃいけなくなる。こんな短いスパンで私引越ししたくない・・・・健星が良ければ私と一緒に住んで欲しい。コレは私の本心」
「・・・・・・」
まくし立てるように言い放った言葉だけど、そこに嘘偽りは全くない。言いたいことは言い切って、私は健星の返答を待った。
「・・・・・いいの?」
「・・・・・私は良い」
「・・・・・そっか・・・・へへ・・・・」
緊張の糸が緩んだように、へにゃへにゃの笑顔を見せた健星は、また泣き出した。悲しくて泣いているわけじゃないのははっきりしていた。
「俺・・・ここにいても良いんだ」
「当たり前でしょ?・・・っていうか、この家のコトしてるのは健星だから、出て行くべきは私なんだけどねぇ・・・」
そんな自虐にも、健星は笑って返してくれる。彼のこの笑顔を守るためなら、彼と一緒に住むなんて朝飯前だ。
「ありがとう、明梨さん」
「コチラこそ、こんな私と住んでくれてありがとうね」
それから健星はバイトを増やした。ラーメン屋の店主にえらく気に入られ、今回の話をしたらその知り合いの営む居酒屋というバイト先を紹介してくれたそうだ。知り合いからの紹介と言うことで即日バイトが決まった。その分、当たり前だけど夜に健星がいない日も増えた。
「あ、今日健星居酒屋のほうか」
私を気遣ってか、居酒屋のバイトは周二日と少なめにしてもらっているらしい。帰って人がいるのはすごく安心するし、家に帰って健星がいないと寂しいなと思う。居酒屋は夜の営業だから、仕方のない事だけれど。
「何作ろっかな~・・・」
風呂から上がって髪の毛を乾かしながら冷蔵庫の中身を思い浮かべた。普段料理しない私には、目玉焼きを焼く、卵焼きを焼く、冷凍してある肉を炒めて塩胡椒で味付け、程度しか浮かばない。それだって立派な料理だと周囲には吹聴しているけど、正直もう少し料理のレパートリーが欲しい。健星が悪いとは言わないが、健星の料理をほとんど毎日食すことで、舌が肥えてしまって、最近ではコンビニのパンでさえも買う気が起きない。
「はー・・・・毒されてるな~・・・・」
自嘲気味に笑いながら、冷蔵庫を開けると、タッパーが入っていた。蓋の上にはメモが貼ってあった。
「「明梨さんへ、きっと卵料理かお肉料理しか食べないだろうから野菜炒め、今日の俺の昼ご飯の残りを置いておきます。良かったら食べてね」」
「うーん、読まれてるな~・・・」
同居して半年以上経てばお互いの性格などある程度わかってくる物だ。しかしここまで読まれていると、何だか嬉しいようで嬉しくない。しかし、健星の作ってくれる野菜炒めは自分で作るよりも味のバランスが良くて好きなのだ。塩さえ入れれば良いわけじゃ無いんだよ、なんて健星にも言われていた。
「ありがとう健星」
タッパーにお礼を言って、豪華な食事を楽しんだ。
「えぇ!?何も無いの!?」
秋山の豪快な声は空腹のお腹によく響く。
「だから、健星とは同居友達なんだってば・・・・いわゆるルームシェアだよ~」
「わ、わからん・・・え?セフレとかそう言うコトでもないの?」
「ちょっやめてよっ・・・・健星とは本当に一緒に住んでるだけなの」
私と健星との関係が一般的な恋人関係にならないことが納得できない様子の秋山は、眉間にシワを寄せながら手作りとおぼしき弁当を開いた。
「あ、何秋山、手作り?」
「だぁって、誰かさんのお弁当が美味しそうなんだもん。それにお弁当ってなんか楽しいよね~」
「わかる」
「たまには自分で作ってみたら?」
「うーん、私も一回だけ健星に自分で作るよって言ったんだけど、夕飯作るついでだし、自分が作るのが楽しいからって言われちゃったんだよね。おばあちゃんの件があってから健星今まで以上に家事に力入れててさ」
「はぁ~・・・専業主夫ってヤツだね」
「だから夫婦じゃないってば!」
「じゃぁあんた達の関係ってなんなの?」
「・・・・・・・なんだろ」
秋山の質問は大体確信を付いてくる。私もそれが気になってはいた。私と健星の関係は一般的になんと呼ばれるんだろう。
「あ、卵焼き美味しそ~」
秋山の興味は私と健星の関係よりも、健星の綺麗な卵焼きに移ってしまったようだった。秋山に言われるまで考えたこともなかった。この関係に名前を付けるとしたら、一体何になるのだろう。
家に帰って風呂に入りながら考えた。私と健星は一緒に住んでいるけど、恋人同士ではない。ただ一緒に住んでて、役割分担をしてるだけ。家事のほとんどは健星だけど、ゴミ出しは私。気がつけば私もシンクを洗ったりトイレ掃除したり、洗濯物を干したり取り込んだり。自分の足りない部分を補ってくれるような、そんな感覚で健星と一緒に過ごしている。でもだからと言って、健星とキスやセックスが出来るかと問われると、私には出来ない。想像が付かない。だからといってそう言う行為に興味がないわけじゃない。それでも健星以上に親密になれるような恋愛対象として見られる相手に会えるわけでもない。最近では私自身、健星がいれば困らないことに気づき始めてしまっていた。
「・・・・健星はどうなんだろ・・・」
「明梨さんごめんね、タオル取りま~す」
「あ、はーい」
以前脱衣所で鉢合わせしてから、お互いの入浴中にどうしても洗面所を使いたいときは声をかけるようにしている。それからはそう言ういわゆるラッキースケベな状況はほとんど起きていない。そんな状況を待ち望んでいる訳ではないけれど、健星は二十七歳で一般的に言えば彼女がいたり、結婚を視野に入れ初めても良い年齢だ。そんな健星が三歳年上の彼女でもない女と一緒に過ごしているなど、普通じゃない。それに彼女が出来ても自宅に招くことも出来ない。健星に彼女が出来ないのは私のせいなのではないか。そんな考えのせいで私は胃が縮まるような感覚に襲われた。
風呂から上がると相変わらず柔らかな笑顔で健星が食卓に皿を並べていた。ほかほかと湯気を上げる食卓に、縮まっていた胃は元気を取り戻したようにだらしない音をたてた。
「あはは、明梨さんお腹空いてたんだね」
「やだ恥ずかし・・・」
「さ、食べよう」
「うん」
食べながら風呂での考えを思い出していた。
「ねぇ健星・・・聞いてもいい?」
「ん、何?」
「健星って彼女いるの?」
健星の咀嚼が一度止って私を見た。私の顔を見た健星は眉間にシワを寄せて頭を少しかしげて、咀嚼途中の米を飲み込んだ。
「なんで?」
「なんとなく」
「う~ん・・・・」
健星は何か悩んでいるようだった。私はおかしな話をしているのだろうか。私も健星と同じく眉間にシワを寄せていた。
「質問に質問で返して申し訳ないんだけど・・・・明梨さんはさ、この状況どう思ってる?」
「え・・・有りがたいと思ってるけど・・・私家事ほとんど出来ないし」
「えっとそう言う機能的な問題じゃなくてさ、一応俺は生物学上男だし、明梨さんは女性でしょ?それに俺たち年齢的にはもうそろそろ結婚とかの話が周囲から出てくるよね。もとをただせばこの生活って明梨さんのご両親がそう言うコトを前提として提案したモノでしょう?俺は最初家もなくて野宿状態だったから、すごくありがたいなって思ってたんだけど、明梨さんの本心としてはイヤだったんじゃないかなって思って。すごく今更だけどさ。俺がいたら彼氏なんか作れないし、結婚だってしにくいでしょう?」
まるで私がもう一人いるような、そんな感覚に襲われていた。自分が考えていた不安と同じ事を健星も考えていたなんて、私としては驚きだった。
「私も同じような事考えてたんだ~。私はさ・・・よくわかんないんだけど、今、そう言う欲がないんだよね。彼氏が欲しいとか、そう言う感覚が今はあんまりなくてさ、仕事楽しいし、今は健星がいてくれるし。恋人がいなくても、何も困ってないのよね。逆に私は健星の方が心配だよ。こんな状況じゃ彼女もろくに作れないでしょう?」
「あ、それに関しては安心して欲しい」
「え?」
「俺、いわゆるアセクシュアルだから」
「・・・あ、あせ・・あせくしゅある?」
健星の口から当たり前のようにぽろりとこぼれ落ちた言葉は、聞いたことのないもので、眉間のシワは深くなるばかりだった。
「えっとね、他人に対して性的興奮を覚えないんだ、俺。一般的にアセクシュアルって言うらしいんだけど。相手が女性でも男性でも、そう言う感覚が湧かないんだ。俺変な人間なの。だから安心して」
「・・・・・・・」
健星が自虐的に話す姿が妙に引っかかった。
「それって、私とはそう言う関係にはならないよって事だよね」
「あ、と言っても、明梨さんに女性としての魅力がないとかそう言うコトじゃなくて、俺はたとえどんな人がそばにいても、相手を性的な対象に出来ないってだけなんだよね」
私の表情が怒っているように見えたのか、健星は慌てて訂正を入れた。そんな事はわかっている。健星はたとえ魅力を感じなくとも、相手を傷つけるような言葉を吐かない。
「そっか・・・・じゃぁ、気にしなくて良いんだ」
「え、うん・・・・」
「だってそうでしょ?私自身は健星みたいに異性に性的興奮を覚えない訳じゃないよ?でも今はすごく人生充実してるの。そう言う一般的な幸せなんてなくても、こうやって誰かとご飯食べたり出来るだけですごく充実してる。あ、一応言っておくけど、健星に対しては正直弟って感覚以上のモノは持ってないから、そこは安心して。でも私と健星ってホント不思議な関係だよね。秋山にあんた達の関係はなんなの?って聞かれて応えられなかったもん。ま、恋人とか彼氏とか彼女とかって、単なる肩書き、記号みたいなもんだもんね」
「・・・・ふふっ」
私は自分の考えを伝えただけなのに、笑われてしまった。
「あ、ごめんっ・・・ふふふっ・・・・」
馬鹿にしているわけじゃないのは分ったけど、笑われるのは腑に落ちない。そんな不機嫌が伝わったようで、健星は慌てて謝った。それでも笑いを隠せない様子だった。
「本当にごめん、ふふっ・・・でも明梨さん、俺より変な人だ」
「ちょっとそれどういうこと?」
「俺がさ、アセクシュアルだって言ったら、大体の人は挙動不審になったりするんだよ。あとセックス出来ないなんて人生損してるとか言う人もいたかな。そんな人に比べて明梨さん・・・・気にしなくて良いんだって・・・ふふふっ・・・・」
「どうせ私は変な人よ・・・」
健星があまりにも笑うから、いつしか私にも伝染して、二人でクスクス笑いながらの食卓という、なんとも変な時間が、心地よく、幸せだった。
幸せな日々の最中、健星に一通の手紙が届いた。
「健星、手紙きてるよ」
「手紙?」
シンクの片付けを終え、お茶を入れていた健星は湯飲みを二つ持ってテーブルに戻ってきた。手紙を受け取った健星の表情はみるみる暗くなっていった。そう言えば健星の名字は高尾だった。この手紙は、差出人の名前からしておそらく父親からの手紙だろう。暗い顔の健星は一応手紙を開封した。二枚の紙が別々に折りたたまれていて、一つには折りたたまれた正面に同居人様と書かれていた。
「一枚は明梨さん宛だ・・・何考えてるんだろう・・・・」
「じゃぁ私が読んでも良い?」
「・・・・多分気分を害すと思うケド・・・・」
「なにそれ、不幸の手紙じゃあるまいし」
不服そうな健星から半ば強引に手紙を受け取って、開いてみた。
同居人様
お名前がわからずこのような書き方で大変申し訳なく思います。
この度は愚息の健星が大変お世話になりました。我が儘ばかりで困った愚息です。
お世話になった上に不躾かとは存じますが、健星を我が家へ返していただきたく筆をとらせていただいた次第です。もちろん無事に健星が帰ってきた暁には少しばかりのお礼をさせていただきたく考えております。同封した小切手に、同居人様の必要額を記入してください。できる限り同居人様の意に沿う額をお渡しさせていただきます。
どうぞ色よいお返事をお待ちしております。
健星の言う気分を害すると言う意味がわかった気がする。久しぶりにお腹で湯を沸かせそうだった。
「明梨さん・・・」
「ごめん、こんなこと言うのは間違ってると思うんだけど・・・・健星のお父さんって・・・・すっごくバカでしょ!」
「・・・・・いや、間違ってないよ・・・あの人は本当に人の気持ちとか考えられない人なんだ」
「健星の方の手紙は?」
「帰ってこいって内容・・・・」
「そう言えばさ、健星って何でお父さんとケンカしたの?」
「・・・・ここまで来て隠せるような話じゃないか・・・」
そう言って健星は苦しそうに口を開いた。
「俺の父親は会社の社長をしてるんだ」
高尾誠一、俺の父さんは会社の社長。厳しい性格で俺に小さい頃から二代目社長にさせるための勉強を強要してた。お母さんは俺が小学校にあがるくらいまでは庇ってくれていたけど、病気で亡くなってしまった。葬式の日に泣きじゃくる俺を父さんは叱った。そして最後に言い放ったあの一言を、俺は今でも覚えている。
「跡継ぎになる子供を産んだからそもそももう用はない」
この男は心底酷い人間だと思った。母さんは小さい頃俺が父さんに懐かないことを不思議がっていたけど、今ならわかる、あんな人間に懐く方がムリだ。
学生時代は一位っていう順位に縛られてた。勉強でも運動でも、何でも。小学生のころのテストでは百点を取らないと頬にびんたを受けた。
「こんな簡単な問題で躓くな!」
十歳未満の子供にそんな事を言われても、正直俺はそう思ったけど、口答えすると手の平じゃなくて拳がぶつかってきた。運動会では見に来る事なんてほとんどなかったくせに、かけっこで二位だったと伝えると、やっぱり叩かれた。腫れ上がった頬を見て先生が父さんに電話をかけてからは、手が出るのは顔以外の見えにくい部分になった。そして罵倒が増えた。卒業アルバムで色んな項目でクラスメイトの順位を付ける可愛らしいページがあったけど、あんなのでさえも一位じゃない項目があると、父さんは俺を酷く叱った。卒業アルバムは俺だけのものじゃないんだから、一位じゃない項目だってもちろんあるはずなのに、そんな事は関係無いようで。
「この一位じゃない項目はお前が周囲に馬鹿にされているからだ!」
なんて理不尽な罵倒が飛んできた。ここまで来ると狂気すら覚えるよ。
中学生ではテストはもちろん塾でも一位を取るように言われてた。テストの点は九十点以上。下回ると当然叱られたし、百点に近くないとそれでも怒られた。九十八点を取ったとき、
「何であと二点が取れないんだ!この愚図!!」
と言う言葉をもらった。この頃は反抗期もあって、父さんを睨み付けてしまったけれど、それが父さんを逆上させた。
「親に向かってその目はなんだ!!」
何でも難癖を付けて俺を殴ってくる男だった。この頃かな、おじいちゃんと父さんの仲が悪くなったのは。俺が学校帰りにおじいちゃんの家に避難するように遊びに行ってから、帰りが遅くなったから、父さんがおじいちゃんの家に殴り込んできたんだ。おじいちゃんは俺を守ろうと必死に説得してくれたんだけど、父さんは聞く耳を持たなかった。それから俺は学校の行き帰りはほとんど送り迎えがついて、おじいちゃんの家には行けなくなった。
高校の時は大学受験に有利な高校を勝手に決められた。受験には何とか受かったけど、やっぱり高校でも一位を取らないと怒られた。学生の本分は勉強という言葉のせいで俺は部活にも入れなくて、学校帰りはすぐに帰らなくちゃいけなかった。友達なんてほとんど出来たためしがない。俺はそれがすごくイヤで、一度だけおじいちゃんの家に逃げたことがあるんだ。学校を早退しておじいちゃんの家に行ったけど、既にその家には知らない家族が住んでいた。逃げ場を失った俺は絶望したし、父さんに逆らうことも出来なくて、怖くて逃げ出したいって気持ちだけ募っていた。
大学も父さんの言う大学に進学した。もうここまで来ると、逆らっても無駄だなって感情しかなくて、父さんの言う通りの学部でサークルにもゼミの飲み会にも一切参加しない、本当につまらない学生生活だった。だから俺は、父さんにバレないようにこっそり友達に頼んでバイトさせてもらってた。一日のうちのほんの少しの時間だけどバイとしてる間だけは、心が安まっていた。なんとか四年間バレずにバイトをこなして、逃げ出す為の資金を貯めたんだ。
大学卒業間近になって、おじいちゃんが死んだ。癌だったらしい。病気のことも、入院のことも、父さんは俺に一切教えてくれなかったくせに、今後必要になるからって葬式に俺を参列させた。次期社長として会社の人間に紹介するんだって言ってた。父さんは喪主として大きな葬式を開いた。親族や会社の人間を呼んで大々的に。それに俺には見せない爽やかな笑顔と柔らかい物腰でしゃべり、親族が俺を褒めると心底嬉しそうな顔をした。大好きなおじいちゃんの葬式だったけど、俺は一秒でも早く帰りたかった。おばあちゃんも参列していたのに、会って話をする事も許されなかった。でもこの日、親族のおばさん達が、おばあちゃんが駄菓子屋を開いている事を話してて、俺はチャンスだと思った。
大学卒業と共に、俺は父さんに会社は継がない事を伝えた。何も言わずに出て行こうかとも思ったけど、あとで何か言われるのも嫌だったから。案の定父さんは俺を止めたけど、俺は出て行く準備だけ整えていたから、大げんかの末、俺は荷物をひとしきり持って飛び出した。でも俺の手がかりはおばあちゃんがどこかで駄菓子屋を経営しているって事だけ。だから駄菓子屋を探し当てるまでに五年もかかった。
「あの時明梨さんに閉店してるって言われたときは心底もう終わりだと思ったよ」
そう言い切った健星の肩は下がって、空気は重たかった。TVでは時折そう言った暴力を振るう親が問題視されていたけれど、自分とは縁がなくそう言う親もいるんだ、なんてそんな感覚しか芽生えてはいなかった。そんな過去の自分をぶん殴ってやりたいほど、健星の話は壮絶に感じられた。
「そんな事があったんだね・・・」
そこでふと、私は疑問が浮かんだ。何故そんな状況と知っていながら、健星の祖母は健星に自宅に帰るように行ったのだろう。
「ねぇ、健星・・・・おばあさんはさ、健星がお父さんから暴力受けてた事知ってたんだよね?」
「え?うん・・・子供の頃は庇ってくれたんだけど・・・・」
「じゃぁなんでおばあさんは家に帰れって言ったんだろうね・・・」
「うん・・・・確かに、会うのは久しぶりだったけど、以前のおばあちゃんだったら俺にそんな事言わないはず・・・・・」
健星は顎に触れ、考え込む姿勢を見せた。もしかしておばあさんはお父さんに脅されたり、監視されたりしていたのかも知れない。でもそれなら健星を呼び寄せたりはしない。色々な考えが過ぎったけど、どれも現実味がなくて、推測の域を出なかった。二人して悩んでいると、健星のスマホがテーブルの上で震えだした。
「わっ・・・ビックリした・・・・あ、おばあちゃんからだ・・・」
健星は恐る恐る通話のボタンを押した。
「・・・・もしもし」
訝しげな表情を浮かべ電話に出た健星の表情が、急に強ばった。スマホを耳に当てていた手が次第に力を失っていく様子が見て取れた。
「健星?・・・・」
強ばった表情のまま健星は私をゆっくり見て、震えながら口を開いた。
「明梨さん・・・・どうしよう・・・おばあちゃん・・・・・・・」
嗚咽の混じった声と、目から溢れる雫が全てを物語っている気がした。健星は消え入りそうな声で「死んじゃった」とだけ言った。健星の手からスマホが力なく床に落ちた。私は健星を取り巻く運命を、心から呪った。あんなに人懐っこくて朗らかで、心優しい健星に、こんなにも絶望を与えなくても良いじゃない。そんなどこにいるかもわからない神に対して、こんなにも怒りを覚えたのは初めてだった。私は無意識に健星を腕の中に収めていた。そうしないと、健星は涙と一緒に溶けて消えてしまう気がしたから。健星は私の腕の中でわんわん泣いた。きらきらの目から大粒の真珠が溢れて床に落ちてつぶれていく。Tシャツが濡れたって構わない。健星が落ち着くまで私は背中をなで続けた。
この日、私と健星は初めて布団を共にした。と言っても、男女の営みは全くなく、ただ私は健星が消えてしまわないように抱きしめてあげるしか出来なかった。
翌朝目を覚ますと、健星の姿がなくて、まさか寝ている間に涙と一緒に溶けてしまったのかとヒヤヒヤしたけれど、リビングから香る味噌汁の匂いに安心した。
「おはよう健星」
「あ、明梨さん、おはよう・・・・昨日はごめんね」
「気にしないで。私も自分のおじいちゃん達が死んじゃったときはすごく悲しかったもん」
そう言って健星がご飯をよそう間に味噌汁をよそって、食卓に置いた。二人で号令をかけて味噌汁をすすると、健星が口を開いた。
「明梨さん、俺、おばあちゃんの葬式行こうと思うんだ。きっとまた父さんが喪主を務めるだろうから、父さんに会って、こんどこそ縁を切ってくる。きっともう、父さんと正面から戦うにはその日しかないと思う」
視線はテーブルに落ちていたけれど、確固たる信念をはらんだ感情の籠もった言葉だった。
「そっか。・・・・・うん。決めた」
「何を?」
「私もそのお葬式ついて行く」
「え?」
「寝る前に考えてたんだ。もし健星がお葬式に行くって言ったら、私もついて行こうって」
「明梨さん・・・・」
健星はまた泣き出しそうな顔をした。ほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をしたけど、私の考えは変わらない。健星が消えてしまわないように、そして私自身、彼の父親から送られてきた小切手を突き返してやりたかった。
一週間後、健星と私は喪服に身を包んで、健星のおばあさんのお葬式に参列した。健星の言うとおり、彼の父、高尾誠一さんはかなり外面が良いようで、健星の話を聞いていなければ、彼の本性なんて見抜けなかったと思う。それほどまでに、彼の外面は完璧だった。怯える健星の表情を見るまでは、私もその外面の良さにだまされる所だった。私は健星の手を握って微笑んで見せた。私だって人の親に物申すなんて、そんな事初めてですごく不安だったけど、健星がこれから先、また暴力に怯えるような生活が来る、そんな可能性を考えれば、そんな不安は些細なモノだった。
誠一さんと話が出来たのは、葬式の全ての行程が終わってからだった。
「久しぶりだな、健星。遺産相続の件で話がある」
「父さん・・・俺も話がある」
「あぁ、わかった・・・そちらは?」
「あ、初めまして、山室と申します。健星と同居させていただいている者です。この度はご愁傷様でした。私からもお父様にお話がございます、このあとお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
上司や取引先と会話をするように、スルスルと敬語が出てきた事に、健星は少し驚いているようだった。帰ったら文句言ってやろう、なんて思うくらい、私には余裕があった。そこには自分でも驚いていた。誠一さんは私の申し出に、訝しげな表情を浮かべたけど、すぐに外面を取り戻して、完璧な笑顔を見せた。やはり他人の私がいる方が、健星への攻撃は薄まるようだ。
葬儀場近くのカフェに三人で入った。出来るだけ誠一さんが暴力を振るえないように、周囲の目が欲しかった。健星と私、その向かいに誠一さんが座った。とりあえずウェイターさんにコーヒーを三人分用意してもらった。届いて一口ずつすすると、誠一さんが口を開いた。
「さて、山室さん、でしたねお話というのは?」
「あ、そうですね私から言いたいことは有るんですが、まずは健星の話を聞いてください」
私の言葉に、健星は一瞬身じろいだけれど、テーブルの下で私の手を握った。健星の手が冷たくなっていた。頑張れと言う気持ちを込めて、健星の手を握り返した。意を決したように、健星は誠一さんをしっかりと見据えた。
「父さん、俺、会社は継げない。家を出るときに言ったけど、どんなに父さんから言われても、社長なんてなりたくない。もうあなたの操り人形になるのは嫌だ。だから、これっきり、あなたとは縁を切らせてもらう」
言い切った健星は肩で息をしていた。痛みを感じるほど健星に強く手を握られていたけれど、健星の覚悟が伝わってくるようだった。誠一さんを見ると、口元がピクピクと震え、明らかに作り上げた笑顔が剥がれ始めていた。
「私がいつ、お前を操り人形にした?」
穏やかな表情と声色を作ってはいたけど、明らかに怒気が籠もっていた。健星の肩が竦んでいく。私は健星の手を握り返した。
「っ・・・・会社を継ぐために、子供の頃からあなたに従ってきた。でもあなたは俺がどんな結果を出しても褒めてすらくれなかった。それどころか、一位を取れなかったと言うだけで俺を殴った。だから大学まではあなたの言うとおりにした。けど俺は、大学を卒業するまで幸せなんてほとんど感じられなかった。あなたが母に対して言った言葉を、俺は忘れない。俺は貴女のような人の傍にはいられない」
健星の言葉に、誠一さんの怒りは沸点に到達したようだった。テーブルを強く叩いて立ち上がった。周囲の客が驚いて視線を向けてくるほどだ。でも健星も私も、ただ彼を見つめた。鼻息荒く肩で息をする誠一さんは、周囲の視線を感じたのか、慌てて座ったけれど、怒りは収っていないようだった。
「高尾さん、私からのお話もよろしいでしょうか?」
「・・・・・どうぞ?」
こめかみの辺りの血管がはち切れんばかりに膨らんでいた。正直怖いとは思ったけど、ココで惹いたら女が廃る。
「以前いただいたお手紙と、小切手をお返ししに来たんです」
「・・・・・」
テーブルの上に、届いた封筒と一緒に誠一さんの目の前に置いた。誠一さんは中身を確認すると、取り繕った笑顔を私に向けた。
「金額の提示がありませんが・・・」
「はい。私はお金なんていりません。その代わり健星を私にください」
「はぁ!?」
誠一さんは店中に響き渡るような大声を出した。健星も私の言葉に驚いた表情を見せた。
「それは・・・社長夫人の座を、と言う意味でしょうか?あいにくですが健星には許嫁がおり」
「いいえ。私と健星は恋人関係ではありません。同居しているだけです。しかし私には健星が必要です。私と健星はお互いにお互いを必要としています。それは一般的な恋仲とは違う、もっと根幹の感覚なんです。人間は肩書きにとらわれすぎています。親、子供、兄弟、姉妹、叔父や叔母、祖父母、親族だけでもこんなに関係性があります。更に社会に出れば社長や部長、課長、次長、係長などこんなにも肩書きがあって、その肩書きを全うしなくてはいけない。更に言えば、今の世の中は、恋人や夫婦にまでその肩書きを強要しているように感じます。彼氏なんだから、彼女なんだから、恋人なんだからと言った具合に。高尾さんもそのようにして健星を縛ってしまっているんです。子供なんだから親の言うことに従うべきだと。でも考えてみてください。本当にそうでしょうか?親の言うとおりにする事が子供の努めなのだとしたら、あなたは健星のおじいさんから健星に無理強いをしないように言われた時にそれに従うべきだったのではないのでしょうか?その時点で既にあなたの理論には間違いが生じていますよね。今私が言っている事は、私一個人の考えでしかありませんし、一般的ではないかも知れない。それでも、将来どんな仕事がしたいとか、どんな風に生きていきたいとか、そう言う物は誰しもが与えられた平等な権利です。それはどんな関係性の人間であっても、他者に強要して言い物ではありません。しかしあなたはどうしても健星を返して欲しいとおっしゃる。その代わりにお金を渡してくださると、そうお手紙にありましたね。汚い言葉を使いますが、そんなもんはクソ食らえです。私と健星は恋人ではありません。それでも私と健星はお金なんてものでは切り離せないような関係です。私たちの関係に、一般的な肩書きはありません。それでも私と健星はお互いを必要だと感じています。ですから小切手はお返しします。お金は要りません。健星を自由にしていただければそれで十分です」
あまりに流暢に言葉が出て自分でもビックリしたけど、コレが本音だったし、言いながら気づいた、私と健星の関係には肩書きは要らないんだって。ただお互いを必要として、補いあえるそんな関係で、十分なのだ。
誠一さんは私が詰まることなく長い台詞を言い切ったことで、怒りがほとんど薄れているようで、放心したような表情を浮かべていた。健星を見ると、同じような顔をしていた。
「ふふっ・・・」
突然笑い出した私に、二人はまた理解出来ないと言った表情で眉を垂らした。
「あはっ・・・・ごめんなさいっ・・・二人の顔があんまりにも一緒で・・・」
申し訳ないが、二人の顔があまりにも一緒過ぎて、一世一代の大告白だと言うのに、私は周囲の目も気にせず大笑いしてしまった。そんな私をみて、健星も吹き出して、誠一さんを置き去りにして大笑いしてしまった。あんなに怖い顔をしていた誠一さんは、目の前の自分に噛みついてきた二人が大笑いしている状況が理解出来なかったのか、困った顔をしていた。私と健星が少し落ち着いてきた頃に、一人の男性が店に入ってきた。男性は私たちのテーブルに迷い泣く近づいてくると、健星に対して会釈をした。
「お久しぶりです健星様」
「妹尾さん」
燕尾服を着こなした妹尾と呼ばれた初老の男性は、にこやかに微笑むと、懐から手紙を取り出した。
「大奥様から、健星様へのお手紙です」
「え・・・おばあちゃんから・・・・」
健星は慌てて手紙を開くと、筆文字の達筆な文字列が目に飛び込んできた。
]
健星さん
せっかく私を頼ってきてくださったのに、追い返してしまうような事をして申し訳ありません。あの時私は既にお医者様から余命宣告を受けておりました。体の調子もあまり良くなく、貴方を匿うことが出来ないと判断致しました。しかしながら、あなたから覗った同居人の方の元であれば、貴方は幸せになれるように感じました。無事お家に帰り着けていることを願っております。幼い頃貴方を誠一から守ってあげられなくてごめんなさい。頼りにしてくれたのに、貴方を救ってあげられなくてごめんなさい。私には謝ることしか出来ません。
図々しいとは思いますが、私は貴方の幸せを一番に願っています。無責任な言い方かも知れませんが、貴方が社長になることを望んでいないのであれば、なる必要はありません。貴方の人生は貴方のものです。どうかそのことを忘れないで。
寄る年波に勝てない自分が悔しいです。どうかどうか、貴方のこれからが幸せに溢れますよう、祈るばかりです。
あの時、浮かんだ疑問が解消された。健星に家に帰るようにと言った“家”とは、私と健星の住むあのマンションのことだったんだ。健星もそのことに気づいて私を振り返った。
「やっぱり・・・おばあちゃんは・・・・・」
「そうだね・・・」
健星の笑顔が久しぶりに、人懐っこい朗らかなものに変わっていた。
「さて皆様、このあと別室にて遺言に関してのお話がございます」
妹尾さんは礼儀正しい姿勢でお辞儀をすると、私も含めて三人を店の前に停めていた車に案内した。ついて行っても良いのか悩んだけど、妹尾さんと健星から車に乗るように言われ、とりあえず乗車した。誠一さんは妹尾さんに対して部外者を相続に関わらせるなと言い張ったけど、おばあさんの遺言の中に私の名前があるのだと言った。
「え?なんで私の名前が?」
「それは後々お話し致します」
優しい笑顔の妹尾さんは助手席に誠一さんを、後部座席に私と健星を座らせた。なんとも配慮の行き届いた人だ。
車の着いた場所はおばあさんのお家だった。住宅街の中に急に現れた木造の門が由緒の正しさを表しているようだった。まるで華道か茶道の家元の屋敷に来てしまったようで、何だか緊張した。
「では、大奥様から仰せつかっている遺言についてをお話しさせていただきます」
一枚板の豪華なテーブルを挟んで私と健星、誠一さんは腰を下ろした。妹尾さんは、立ったまま、健星のおばあさんの遺言書を取り出した。
「僭越ながら、ご病気の大奥様のご依頼により、本遺言書は私が、大奥様のお言葉を頂戴しながら書かせていただいたものです。万全を期すため、音声と、動画での録画もしております。ご安心ください」
誠一さんが一番噛みつきそうな内容を先んじて封じておく、妹尾さんはすごい。誠一さんも言いたいことがある様な顔をしたけれど、答えがわかってしまったせいか何も言わなかった。
「開封の前に、確認しなければいけないことがございます。まず、誠一様、大奥様のご遺産を受け取る意思はございますか?」
「遺産を受け取る権利はあるんだ。当たり前だろう」
言い切った言葉に、誠一さんらしさを感じた。私が先程言った言葉は、あまり意味が無かったらしい。
「承知致しました。では健星様はいかがでしょう?」
「・・・・・・・」
健星は押し黙っていた。何かを考えるように俯いていたけど、無意識なのか健星の手は私の手を握っていた。カフェの時のような強い力ではなく、包みこむような優しい力だった。ゆっくり妹尾さんに視線を向け、健星は口を開いた。
「俺は要らないです」
健星の手と瞳から、強い意思を感じた。
「なっ・・・」
「・・・・承知致しました」
なんとなく、私は健星がそう言うような気がしていた。だからたいして驚かなかった。
「では、山室様はいかがですか?」
私が驚いたのは妹尾さんの言葉だった。私に健星のおばあさんからの遺産を受け取る意思があるかどうかなんて、そんなもの答えは決まっている。
「え、要りません・・・・っていうかなんで私なんですか?」
私の純粋な疑問に妹尾さんは笑顔を向けるだけだった。
「承知致しました。ではこの遺言書は破棄させていただきます」
そう言うと妹尾さんは、私たちの目の前で手紙をビリビリに破くと丸めて灰皿に入れて、マッチを擦って火を付けてしまった。驚いた私と健星は動けなかったけど、誠一さんは慌てふためいて火を消そうと躍起になっていた。無情にも遺言書は真っ黒な灰になってしまっていた。
「大奥様からの遺言は別にございます。大奥様から仰せつかっていましたのは、お三方の意思を伺い、今回のようなお答えだった場合、もう一通の遺言書を裁判所に提出するようにとのことでございました。今燃やしました遺言書は、大奥様の遺産を全て健星様へお渡ししたいと言う内容のものでございました。しかしながら大奥様は、健星様が遺産を欲しがらないとお考えになり、私にもう一通の遺言書を作るように命じられました。その内容は、健星様が遺産を欲しがらなかった場合、全ての遺産を誠一様にお譲りすると言うものです」
それを聞いて、誠一さんは安心したような顔をした。
「健星様最後の確認でございます。本当に必要ないのですね?」
「うん、要らない。遺産は全部父さんのモノで良いから、その代わりもう俺に関わらないで欲しい。もちろん明梨さんにも」
健星は落ち着いた声色でそう言い切ると、誠一さんを見た。
「俺、父さんの事は嫌いだ。でも会社を経営することは大変な事だってわかってるつもり。だからこそ、俺なんかに継がせないでもっと優秀な人を雇って欲しい。俺は社長なんて出来る器じゃないから・・・・親不孝って言うかも知れないけど、俺は俺の人生を生きていきたいんだ」
「・・・・・」
誠一さんは何も言わなかったけど、もう健星に対してあまり怒っている様子ではなかった。
「では、健星様、山室様、お二人はお帰りいただいても大丈夫です。二通目の遺言書は誠一様に対してのみ開示されます」
「それもおばあちゃんに命じられたの?」
「はい、その通りでございます」
「わかった。行こう明梨さん」
「え、うん・・・」
健星は障子を開けて、妹尾さんと誠一さんに会釈だけして、部屋を出て行った。
「高尾さん、先程は失礼な物言いをして申し訳ありませんでした」
それだけ言って私も妹尾さんに会釈をして健星を追った。誠一さんは何も言わなかった。
健星は玄関で靴を履いて私を待っていた。
「父さんに謝らなくて良かったのに」
「いいの、私が言いたかったんだから」
私と健星は無意識に手を繋いでいた。健星の手はもう冷たくなかった。
「とりあえず一件落着かな・・・・・」
「うん、ありがとう明梨さん」
「いや~緊張した~。人の親に文句言うってすごい大変だね」
「すごく格好良かったよ」
「えぇ~照れる~」
「俺を拾ってくれたのか明梨さんで良かった」
「そんなこと言っても何も出ないわよ~?」
「要らない。俺は明梨さんがいれば良いもん」
「・・・・私も」
二人して笑いながら、ゆっくり歩く。そんな時間が心地よい。
おばあさんの葬儀から一週間ほど経って、私宛に一通の達筆な手紙が届いた。
山室様
この度は我が家の相続という問題に巻き込んでしまい申し訳ありませんでした。この手紙が貴女の手に届いていると言うことは、健星と同じ答えをしたのだと存じます。試すような事をして申し訳蛙選りませんでした。
健星を救ってくださり、感謝しております。幼い頃、父親の暴力とは別に、健星は少し人と違う感覚を持っており、そのことでも悩んでいる様子でした。私たちの世代では想像もつかないような事で今の若い方が悩んでいる事を知りました。私や夫ではそんな健星の悩みを払拭することは出来ませんでした。そんな中、あの子が我が家に来た際に貴女のことを話しており、あの頃の悩みが解消されているように感じました。人との出会いや縁というのはとても不思議なもので、意外なことで形成されるのだと実感致しました。叶うのならば貴女に一目お会いしてお礼をお伝えしたかったのですが、それが叶わず、お手紙という形になってしまい大変恐縮しております。
健星の帰る場所を与えてくださったこと、本当に感謝してもしきれません。
どうか山室様と健星の先行きが幸せに包まれていることを切に願っております。
目がくらむほどの達筆。間違いなく健星のおばあさんからだった。差出人は妹尾さん。遺品整理が済んでこの手紙を送ってくれたらしい。手紙を読んで、妹尾さんが私に遺産が必要かどうかを聞いた理由が、私を試したのだとわかってちょっと不服ではあったけど、健星が誠一さんからの支配を自分からはねのけられたことの方が私にとっては大切だった。
「明梨さん、俺今日買い物行くけど何か買ってくるモノある?」
「あ、私も行く~」
「わかった」
健星は相変わらず人懐っこい笑顔を見せた。今まで以上に優しい笑顔に見えたのは、多分健星の重荷が少し取れたからだと思う。
私たちは相変わらず、肩書きのない関係を続けている。お互いを必要として、その分相手に還して、還されて。デコとボコが噛み合うような関係が、私にも、健星にも心地良いんだ。願わくば、健星のこれからにたくさんの幸せが降り注ぎますように。
お読みいただきありがとうございました。
子供は親に従うべき、恋人だから一緒にいなくてはいけない。そんな刷り込まれてしまっている当たり前を無くしていきたいです。