5 危険思想
次の日も春之は朱雀院へ通う。
当然のごとく美耶妃に起こされ、連行されるという形だ。
サブと挨拶してから春之はトイレへと向かう。用を済ませてから、洗面台にて顔を洗う。
眠気を冷ますためではない。患部を冷やすためだ。今朝から同時に打ち出された強烈な平手による攻撃で未だにヒリヒリと痛む両頬。
春之は被疑者へ悪態をつきながら、冷たい水道水を頬へ当てていた━━━━のだが、突然背後に視線を感じ、行動を停止する。
視線だけで洗面台の鏡を確認すると、春之の後ろには一人の少年が立っていた。
制服を着ているから外部からの侵入者の類いである可能性は低い。
そして、他にも空いている洗面台はあるため、順番を待っているわけではないだろう。したがって、春之に何かしらの用があることはほぼ確定であった。
「何のようだ」
低い声で警戒心を乗せながら背中ごしに語りかける。
「根原春之君で間違いないよね?」
怪しい少年の爽やかな声。
「ああ、そうだ。で、お前はどこの誰だ」
「僕は紫音。鳴督紫音だ」
━━━鳴督紫音。こいつが‥‥‥‥。
彼の名前は聞いたことがあった。どこの氏家の出身でもないにも関わらず、総合成績三位で入学した秀才だと。
そして、こと雷魔術においては全学年を含めても断トツで群を抜く術師だということを。
「そうか。第三位さんが二百位の俺に何の用だ?」
「僕のことを知っていてくれたんだね。うれしいよ」
「そんなことはどうでもいい。早く用件を言え」
紫音の一挙一動はどれも芝居がかっていて胡散臭いと春之は感じる。こういう類いの輩は間違いなく本音や本心を体の内側に隠していて信頼が置けない。
こういうやつとはあまり関わらない方がいいと、春之の経験が警告していた。
「せっかちだね。まあ、いいけどさ」
紫音はやれやれとため息をつきながら肩をすくめる。
「君が優秀な指揮官だと聞いてね。もしよかったら僕のチームに迎え入れたいと思ったんだけど、どうかな?」
「どうして俺なんだ。指揮官は他にもいただろう」
「今年は指揮官が少ないんだ。それに僕はね。氏家出身者でない人と組みたいんだ。僕はね、心底氏家が嫌いなんだ。春之君。君も初日から地蟲の家の女と揉めたらしいじゃないか。君も僕の気持ちがわかってくれるんじゃないのかい?」
紫音の声音には興奮が露になっている。
大和の国の性質上、やはり氏家が気にくわない者が現れるのは必然である。彼らの抗争に巻き込まれて死んでしまう者も少なくはない。
家族を殺された藻のらは氏家に恨みを持つようになる。そして、台頭する氏家の抗争を黙認している政府に反感を持つようになる。
いつの日か徒党を組み、氏家を襲うような者も現れる━━━━俗に『非氏家主義者』と呼ばれる者達。
氏家の屋敷を襲撃して首を取って晒したり、女性を捕まえて性的な暴行を加えたりなど、法に反する行いをする過激組織もある危険思想集団だ。
法律上、思想を持つだけでは処罰することができず、政府が表だって思想の弾圧を行うこともできないため、彼らはどこにでもいるのだ。
思想を持つものだけならば、人工の二割にまで達するのではとまで言われている。
「どうだい根原君。僕のチームはみんなこの考えに賛同する者達だ。君ならみんな大歓迎だよ。氏家は平気で僕達を殺す。そして、それをなんとも思わない。だから、僕達は戦わなくちゃいけないんだ。
君が『地蟲』を殺したいんなら応援しよう。勿論犯したいんならそれにも応援するよ。
家に凝り固まったクズが泣き叫びながら許しを請い、そんなやつらを無慈悲に蹂躙し、凌辱する。素晴らしいじゃないか。
僕らはきっと良き理解者になれる。どうだい? 一緒にこの学校を、この国を変えようよ」
彼ら非氏家主義者が恐ろしいのは、自分達の行いが犯罪であるということに気づかない狂人であるから。
自分達が恨む氏家の者であれば何をしても問題ない、むしろ称賛されることであると信じている狂信者であるから。
春之は気づく。紫音が爽やかな笑みの中に、人当たりの良さそうな性格の中に覆隠しているのは氏家への怨嗟であり、氏家の破滅を望む狂気だということを。
紫音は春之に手を差しのべている。その手を取れば春之は彼らの仲間入りだ。
だが一つ、紫音は忘れていることがある。
「すまないが俺は非氏家主義者じゃない。それは俺のチームにお前らが『藤蝮』と呼ぶ家の女がいるのを見ればわかる筈だ」
初日から丹紫姫と言い争ったことから、仲間でないかと考えることはわからなくもない。 だが、もし非氏家主義者であるならば、美耶妃と組む意味がわからないだろう。
かなり過激派寄りの思考を持つわりには洞察力の低い男だ。
「あと一つ訂正しておくと、俺は氏家が嫌いなんじゃない。兵部大輔という個人のことが嫌いなだけだ。人が足りないなら他をあたってくれ」
春之は顔をタオルで吹きながらトイレの出口へと向かう。
「後悔することになるよ」
「後悔する予定は今のところ無いし、後悔したら後悔した時だ」
春之はヒラヒラと手を振りながらトイレを後にした。
それ以上、紫音の声がかけられることはなかった。
この国は腐りきっている。
二十一世紀も中間地点を超えたにも関わらず、未だに内乱の続くこの国。
人々が争い、怨み、憎しみ合い、殺し合う。
そんな、血に汚れ、今も流れる血が止まる気配はない。
変わらなければならないのだと、血にまみれたこの国をずっと見てきた春之は心から思う。
「ハル。トイレ長かったわね。お腹でも痛いの?」
「大丈夫か春之」
「保健室に行くでありますか?」
「サっちんは別のクラスでしょ。早く帰りなさい」
「私だけ仲間はずれでありますか!?」
ワイワイと朝から騒がしい三人。
「腹痛てえんじゃねえよ」
騒がしくも、この空間が心地よい。
心の傷がほんの少しずつだが、癒えていく気がして━━━━
◇◆◇◆◇◆
「━━━今朝のアレはこんなわけだったんだ」
その日の昼休み。
春之は屋上でいつもの三人と昼食を取っていた。春之は基本的に少食であるため、昼食は殆ど食べない。小さな菓子パン一つで満腹になるのだ。
加えて春之は長時間睡眠傾向者である。一日の半分以上を寝て過ごす彼は、食べ終わればすぐに睡眠を取ろうと体が自然と動き出す━━━━のだが、今日はそうはいかなかった。
春之と付き合うこと(男女交際ではない)十年となる美耶妃は彼がいつもと少し様子が違うことに気づいていた。
春之は今朝のことを問いただされるされることとなり、寝ることができなかった。
そして今に至る。
春之は今朝トイレで出会った鳴督紫音という少年のことを三人に語ったのだ。
紫音のことは隠しだてするような話ではない。むしろ変に誤魔化した方が後々問題になる。最悪の場合は春之自信が非氏家主義者だと誤解されかねないのだ。
「鳴督紫音‥‥‥。確か三位の男よね。彼が非氏家主義者‥‥‥」
「連中には我々も迷惑しているでありますよ」
「そんなにすごいのか?」
口を揃えて非氏家主義者の迷惑さを語る二人。氏家出身者でないサブはあまり理解できないらしい。
「まあ、藤蝮の屋敷を襲うんだからよほど自分達の力に自信があるんだろうな。まあ、返り討ちに遭うんだから哀れだが」
「ハル。藤蝮は蔑称なんですけど」
「知ってて言ってる」
「‥‥‥でしょうね」
紫音との会話で出てきた二つの単語、『地蟲』と『藤蝮』。
これらはそれぞれ地登勢家と藤ヶ崎家の蔑称だ。蟲と蝮がそれぞれの家の氏個性などに関係するかと言えば微妙なところだが、この二つの単語はあまり良くない意味であるため基本的に使ってはならない言葉だ。
直接的には関係ないとはいえ、蟲やら蝮やらと言われて良い思いをするはずがないだろう。
ちなみに、『藤蝮』『地蟲』『天蝿』の三つが御三家の蔑称である。
「非氏家主義者は犯罪者ってわけじゃないか犯罪行為を行うまでは逮捕できないんだろ?」
「そうなるな」
「その鳴督紫音という男には注意をしておいた方がいいでありますね。お嬢様は特に御三家のご令嬢であるわけでありますし」
「私が簡単にやられるわけない━━━って言いたいけど、三位の実力があるのよね‥‥‥」
「氏個性使えば瞬殺だろ」
「‥‥‥まあ」
「とりあえず全員意識しておいた方がいいでありますよ」
「ああ」「だな」「そうね」
氏個性は恐るべき力だ。
それも御三家たる藤ヶ崎の氏個性だ。その強力さは計り知れないのだ。
たった一人で兵器と同等の力を出す。
それこそが御三家の氏個性であり、他の氏家と大きく力を離す理由なのだから。
◇◆◇◆◇◆
その後、チームの五人目について話し合っていたところで昼休みの終了を意味するチャイムがなった。
春之は再び始まる座学のことを考え、その憂鬱さにため息をつくのだが━━━━━
「そういえば今日は座学じゃなくて、実技なんだってよ?」