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21 情状酌量

 



 春之はホテルの最上階の内廊下を歩いていた。このホテル・シャロン・クレーナは東京都で最も高級なホテルだ。客室は和を忘れずないラグジュアリーが高評価され、三ツ星レストランを含む幅広い魅力を売りとするこの七十階建ての宿泊施設の最上階に泊まろうと思えば間違いなく五十万は下らない。


 そんなホテルの()()()の一番奥の一室の扉の前で立ち止まった春之は、扉の前で装いを再確認した。今の春之は病院で着ていた普段着ではなく紋付き羽織袴を着ていた。


 その姿には風格が感じられ、ホテルのロビーでも呼び止められて追い出されるといったようなことはなかった。


 大きく深呼吸をして気合いを入れ直し、扉をノックする。すぐに中から渋い男の声が返ってきた。


「根原春之と申します」


「根原‥‥春之‥‥‥‥入れ」


「失礼します」


 男の返答を確認した春之は扉を開けて入室する。広く美しい和洋室を進み、声の主を探す。男は畳の上に座って日本刀に打ち粉を打っていた。


「座れ」


 春之は畳に上がって頭を深く下げて平伏する。しかし、黒地の和服を着たその男は春之に目もくれず、黙々と刀の手入れを続けた。


 美しい三本杉が特徴の刀であった。関孫六三本杉と謳われたその刀身は現代になっても衰えを知らない。

 姿は鎬造。刃長は2尺三寸五分。鎬は高く、鎬幅も広く強靭さを感じられる姿だが、平肉は薄く造り込まれている。鋒は、猪首鋒であっただろうか。


 春之は刀にはあまり詳しくなかったが、その刀についての知識はあった。


 それは現存する孫六兼元のうち、現役で使われている一刀。名を『龍鱗切兼光』。かつてその刀で多くの藤ヶ崎家の者を斬ったことからその名が付けられたという。

 そして、その刀を持つことが許されるのは同時期にたった一人のみ。



 暫くの間、男が刀を手入れする音のみが室内に響いていた。春之も男も声を出すことはない。ただ、無言の時が流れていき、男が手入れを終えるのを待った。


 その時がやってきて、男は初めて春之を視界に捉える。


「久しいな。貴様がこの俺の前に現れることなど戦場を除いて二度とないであろうと思っておったわ」


「突然の拝謁という無礼に対する寛大な処置に感謝いたします。()()()()()()


『龍鱗切兼光』を持てるのは地登勢家の当主のみ。春之の目の前にいる男が今の代で『龍鱗切兼光』を持つことが許されている男であった。


 正二位上弾正尹兼右近衛大将地登勢平朝臣義鬼(よしき)。御三家の一角を統べる大和を代表する英傑のうちの一人であり、丹紫姫の父親である。


「前置きは良い。今世を憂い、戦場(いくさば)から姿を消した災厄たる貴様が、この俺に今さら何の用件があって此度ここに参った。それとも殺しに参ったのか?」


「殺す気であったならば今頃はどちらかが既にこの場にはおりますまい」


「ははは。これはまた剛毅な。この俺を殺せると思っておるなら笑止千万‥‥‥と、まあ良い。顔を上げて用件を申してみよ」


 春之は顔を上げて弾正の顔を見る。野心と力に満ちた顔立ちは以前と変わらない。

 それが何よりも恐ろしく感じられた。


「此度はお願いがあって参った次第」


「ほう。願いときたか。申せ」


「丹紫姫嬢の情状酌量を願い奉る所存にございます」


 春之は弾正の顔を見据えながらその願いを口にした。部外者たる春之が家のことに口を出すというのは明らかに無礼であり、この場で斬りすてられても文句を言えない事案だ。

 現に、その願いを聞いた弾正が『龍鱗切兼光』を握り、気を抜けば気絶するのではというほど濃密な威圧を放ち始める。


「それは如何なる理由があっての申し立てだ?」


「朱雀院にて丹紫姫嬢を知りました。口だけで心の弱く、天下に名を轟かせる地登勢家の次期当主はこの程度であるかと内心で嗤ったのを覚えております。同時に、この女を次期当主に推すとは蟲弾正もついに耄碌したかと心から喜んだのを覚えております」


 弾正は何も言わないがこめかみに青筋を浮かべていた。


「丹紫姫嬢は確かに弱い。ですが、『個』としての力は確かに地登勢の直系だと感じさせられました。人を統べる器ではない丹紫姫嬢が家督を相続するのは不可能でしょう。私としては地登勢家が潰れてくれるのはありがたい話ですが、弾正様はそれをお望みでないはず。であればこの度の失態を理由に切角のうえ嫁に出させると予想しました。

 しかし、それはあまりにも惜しい。丹紫姫嬢は大和の国に必要な存在だと私は確信しました。今はまだ弱い。ですが、改善の余地はございましょう。なにせ、弾正様の御娘であるのですから。

 であればこそ、ここは丹紫姫嬢の家督相続権を剥奪し、満毅(みつき)殿に正式に『鬼』の通字を差し上げて満鬼(みつき)としたうえで新たに次期当主とすることが得策でありましょう。何卒、ご一考を」


 丹紫姫への罰は家督相続権の剥奪にとどめる。これが春之の望みだったのだ。

 故に敢えて丹紫姫の敬称を『殿』ではなく『嬢』にした。

 それに弾正は気づいていただろう。あらかた予想していたからこそ特に何も言うことはなかったのかもしれない。

 


 弾正は春之の言葉を黙って聞いていた。その内容は無礼以外の何物でもなかった。斬られてもおかしくないような内容を、一切恐れることなく言いきる春之の目には決意の炎が見てとれた。

 家のためではなく大和のため、まさしくこの男の考えそうなことだと、戦場から去っても変わることない春之を嗤った。


 刀から手を離した弾正は、目を閉じながら春之に問いかける。


「一つ聞きたい。その願いを聞き入れて俺に、そして地登勢家に何の利益がある。丹紫姫を名家の嫁に出し、新たに婚姻関係を構築することによって家の力を更に増させることよりも利益を望めるというのか?」


 弾正の問いに対し、春之は彼の目を見据えて確固たる決意を持って返答した。


「私に貸しが作れましょう」


 その返答は予想外だったのか、弾正が膝を叩きながら大声で笑った。

 そんな弾正を見ながら、春之は特に不快に思ったようすもなく更に言葉を続ける。


「その貸しがどれほどの価値を持つかを決めるのは弾正様ご自身でありましょう。場合によっては万金にも変えられぬ価値になると私は確信しておりますが」


「良かろう。その言葉努々(ゆめゆめ)忘れるでないぞ」


「心得ております」


 春之がそう言って深く頭を下げた。弾正には未だこの光景が信じられなかった。()()春之が自分に頭を下げているのだ。暴れ出ようとする殺意を必死で圧し殺しているのだろうが、視線は殺したいと語っていた。貴様が憎いと訴えていた。


 だが、春之は自分に頭を下げている。しかも信じられないことに貸しを与えようとまでしたのだ。一瞬夢かとさえ思ってしまった。


 実に不思議だった。一瞬、男女の関係にでもなったかと邪推したが、この男に限っては絶対にありえないだろうとすぐにそんな思い付きを捨てた━━━━わざわざ自分に見せつけるように首飾りを身に付けていることが何よりの証拠だろうから。


「一つだけ追加でお願いが。このことは丹紫姫嬢にはご内密に」


「ほう、何故だ?」


「彼女の借りなど必要ありませんので」


「くくく。あいわかった。それも含めて貴様の願いを聞き届けよう」


「感謝致します」


 春之はそう言い残すと、世間話を持ちかけようとする弾正をうまくかわしてすぐに部屋から出ていった。


「あの狐め、殺意を完全に隠さぬのはわざとであろうな。なんともまあ、変わったようで変わっておらぬ男だな。しかしまあ、面白い時間であった」


 弾正は独り虚空にそう呟くと、置いてあった茶を飲み干したのだった。










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