9 模擬戦②
「見つけた」
美耶妃に追随するように住宅街を駆けていた春之が静かに呟いた。
「ハル。今見つけたって━━━」
「ああ、見つけた。俺達から約ニキロ後方を行軍中だ。狙撃手は未発見。前衛が二、中衛が一だ。向かう先は間違いなく川の対岸。向かっている橋はAだ」
橋Aは春之達が危険だという理由で避けた橋のことだ。敵は偶然にもその橋を渡ろうとしている。そして、自分達は敵の前方にいた。
『こちら彩月であります。敵狙撃手が橋Aの上を疾走中。障害物無く射線は良好。今なら仕留められるであります。ご命令をであります』
彩月の報告が入る。ナイスタイミングだ。唯一頭の中にいた不安要素がとりあえず潰えた。
彩月の頭の中に思い描かれていた戦術が完全に構築された。あとは実行するまで。
「そいつを撃破すれば本隊に警戒される。そいつから目を離さずにしておけ。お前なら出来るだろ?」
『愚問であります』
そう言って彩月が通信を切った。敵の位置が明らかになれば断然有利になる。
そして敵がこちらの位置を把握していないなら尚更だ。もっとも警戒するべきは狙撃手だったが、彩月が見張っている限りは安心だ。彼女はただのチビッ子ではないのだ。
敵は地登勢、松野、中隣、桃川。どれも強力な氏家の者だが、どれも遠視系統の氏個性を持つ氏家ではない。よって、警戒せずに速度を上げることが可能になるのだ。
「美耶妃、サブ。戦術を構築した。狙撃手を探す必要性が無いから速度を上げてまず当初の予定通り橋Bから渡河し、建造物に隠れながら橋Aまで向かい、橋を落とす」
「敵が橋Aに来るのは間違いないのか?」
「ああ、奴らは俺が視ている」
◇◆◇◆◇◆
「兵部様。まもなく橋です。ここからは警戒を」
「貴様らが遅いから大幅に予定が崩れた。どいつもこいつも何故ついてこれない。揃いも揃ってグズばかりか」
丹紫姫達は橋を前にして一旦身を隠していた。そこで彼女は怒りのあまり直哉の胸ぐらを掴み上げ罵声を浴びせた。
直哉は何も抵抗せずただ淡々と謝罪を述べる。
「落ち着き召され━━━━━」
「黙れ黙れ黙れ」
いつものように諌めようとした智大の頬を殴り、丹紫姫はなおも怒りを露にし続ける。
彼女は焦っていた。自分が見下していた男の手のひらの上で踊らされているかのような不快感が拭えなかったからだ。
難なく敵を撃滅し、根原春之という男に頭を垂れされる。その未来は確実な物だと思っていた━━━━だが、現実はそうではなく、開始から時間が過ぎても未だに敵の痕跡すら発見できていなかった。
自分の戦術は完璧な物だった。そしてそれは上手く回るはずだった。
だが、のろまな部下達のせいでペースに乱れが出た。それはまるで自分の指揮能力不足を指摘されているかのようで非常に腹が立つ。
「いいか。その小さい脳みそをフル回転させてよく聞け。この行軍の遅れという失態は自らきちんと取り戻せ。一人一殺は絶対だ。それが出来ないやつは私が殺してやる。いいな」
「「御意」」
「では、これより対岸へと向かうぞ。隊列を乱すなよ。渡った瞬間から気合いを入れ直せ」
大声で激を飛ばし、隠れていた民家から出る。目の前には大きな橋。ここを越え、マンションが立ち並ぶエリアに向かう。おそらく敵も向かってくるだろう。そんな確固たる予感がした。
橋幅はそこまで大きくなかったが、川幅が広いため長さはかなりある。雨が降っているため流れは急で、泥のように濁った濁流が荒れ狂うように河口へ流れている。
やっと戦える。あの根原の首を飛ばせる。これから起きるであろう蹂躙への期待に胸を膨らませながら橋を渡っていた。
それは橋の中腹くらいで起きた。
『死亡報告━━━桃川櫻花』
「兵部様」
「わかっている」
味方の狙撃手である櫻花が撃破されたアナウンスが流れた。彼女は対岸で本隊の到着を援護しつつ待っていたはずだった。
だが、彼女は死んだ。それが意味することはただ一つ。
「敵がいるぞ。全員戦闘用意━━━━」
直後、世界が爆発した。
◇◆◇◆◇◆
粉塵と煙が舞い、辺り一面の視界を悪化させていた。崩れ落ちた橋の残骸が次々に濁流の中へ沈んでいく。
丹紫姫達三人は全員川に落ちていた。丹紫姫はもがきながらなんとか空気を吸い、死亡を回避している。
濁流は体力を容易に奪い、橋の残骸が落ちたことで発生した波により、水面に上がることさえも至難の技だった。
「兵部‥‥様ぁ」
「ご無事‥‥です‥‥‥か」
少し先を直哉と智大が流されている。
そんな中、丹紫姫は怒りで冷静な判断が出来ずにいた。橋を落としたのは間違いなくあの男の策。その策にいとも簡単に嵌まり現在苦しんでいるという事実に腸が煮え繰り返るような激情を覚えた。
なんとかして岸に上がろうとするが、濁流が行く手を阻み、思うように体が進まない。
丹紫姫の氏個性は水の中では大きな威力を発揮しない。それならば━━━━
「智大」
私がこの局面を乗り切ることができる可能性を呼ぶのと、その人物の首が飛んだのはほぼ同時だった。
濁流に呑まれながら、なんとか水面に顔を出したところを狙われたのだ。
首を狩った本人が、藤ヶ崎美耶妃が宙を駆けながら対岸へと戻っていく。
『死亡報告━━━━松野智大」
それからやつらが何かを仕掛けてくることはなかった。
必死に対岸へと渡ろうとしたが、中腹で落とされたことにより広い川幅も行く手を遮る要因となっていた。
必死のもがきも虚しく、川に流され、エリアアウトしたことによる死亡判定のアナウンスが無慈悲に流れた。
『エリアアウトにつき死亡判定━━━━地登勢丹紫姫、中隣直哉』
◇◆◇◆◇◆
敵は弱かった。
あらゆる戦闘において、最も大切なのは情報だ。少なくとも春之はそう確信している。
たとえ相手に対して自分が圧倒的優位であろうとも、情報収集を怠れば下克上の可能性だって十分にあり得る。それが魔術師戦というものだ。
丹紫姫の敗因はそこだろう。まず、雨が降っているため河川の流速の変化を考えるべきだった。そして、当初春之が考えたようになるべく川幅が狭い場所で急いで渡るべきだったのだ。
春之は丹紫姫らが橋の中腹に到達したところで彩月に櫻花を撃破させた。
桃川家の氏個性は【忍ぶ者】。呼吸停止中に自分の姿を消すことのできる隠密タイプの魔術だ。
しかし、当然ながら開始からずっと呼吸を止めることはできない。そして、重要な局面で呼吸を長く止めるため平時は呼吸をしている。
それを突くようにして彼女は彩月に見つかった。彩月に追わせていたことにより、櫻花を見失う可能性は減る。
狙撃地点を決め、櫻花が姿を消したとしても彩月が見張っているならば問題ない。
彩月は視覚よりも聴覚に優れた狙撃手なのだから。神経を張りつめさせれば五百メートル先の蟻の足音さえ聞き分けることのできる彼女の聴力にとって、少し離れた場所にいる櫻花の呼吸音から場所を特定することは全く苦ではない。
櫻花を撃破されたことにより生まれるであろう敵の隙。国軍の正規の部隊であれば間違いなく生まれない隙だが、今までの行軍を視ていればお粗末な部隊であることは明らかだった。
できた隙を見計らうようにして美耶妃に橋を破壊させた。彼女は攻撃に優れた魔術師ではないが、要点さえ押さえれば橋など容易に崩れる。
その予想は外れず、一瞬にして濁流に全員が呑まれた。
そして、すぐに美耶妃に智大を撃破させた。松野家の氏個性は【居合】。刀剣類から斬撃を放ち、全てを斬るという強力な魔術だ。
当然彼は川すらも斬る。彼を放っておけばモーセのように水を割り、一瞬で濁流から脱出してしまうだろう。
彼の撃破が間に合うかは難しいところだったが、なんとかギリギリで撃破に成功した。
智大を殺せばあとは何もする必要はない。
丹紫姫の氏個性は水の中では特に強力ではない。ほぼ無力と言っていい。直哉の氏個性もまた、濁流から逃げ出せるようなものではない。
川に落ち、智大を失った時点で丹紫姫は詰んでいたのだ。
全ては春之の作戦による勝利だった。