牛丼を喰う話
牛丼を喰う話
防犯の都合上、余り宜しくは無いだろう一面硝子仕様の自動ドアを抜けると、来店を歓迎するお決まりの台詞が上がった。背後で僅かな音を立てながら、ドアが閉まるのを感じた私は、ざっと店内を見渡す。
暖色系の色合いで店内全てを彩る照明。穏やかなクリーム色の地に、白の線で何処かの港風景と意味深な外国文字を刻んだ壁紙。煉瓦を模した装飾によって飾られる四方の角と支柱。入り口から見て丁度真ん中より左側にはカウンター席が、右側にはテーブル席が置かれており、既にランチタイムとは言い難い時刻だが、流石休日というべきか、そこには何人もの客が座っている。カウンターの向こう、或いは席と席の間では、店員達が忙しそうに駆けずっており、その手には空いた容器か、注文の料理が握られていた。
さて。こう描写した時……タイトルを考慮せず……何人がこの店を、日本全国にフランチャイズチェーン展開している某牛丼屋だと思うだろうか。恐らく、余り多くはなかろう。それを知り、文句を垂れる輩が居るかもしれないが、そんな事を言っても、ここは現実世界に確かに存在する店であり、少なくとも書き手の私にはそう見えたのだから致し方あるまい。あえて言うが、私はこの作品に限り、一切嘘は付いていないのだ(勿論他の作品についても、また何事についても、私は本当の事しか言っていないのだが、疑り深い人間はそれを信じない故、限定的に言うしか無い。因みに、その疑り深い人間の中には私も入っている事を付け加えて置く)。ただ、店の外装、運営形態、店員の格好、奥に見える厨房、運ばれる料理、何より視覚以外の感覚が齎すだろうあらゆる情報についての描写を、意図的に、選択的に外しただけだ。それでも尚、言いたい事があればどうぞご自由に、ただし私で無く、チェーン店を運営している企業の方へ、その感情をぶつけて頂きたい所である。
そんな、一見すると牛丼屋らしくない牛丼屋は、客層を見るに成る程、理由あってこの様な内装をしているのが解る。かつて牛丼屋とは、情報の海を流離う渡世人達をして『テーブル席の向かいに座った奴と何時喧嘩が始まってもおかしくない』とまで言わしめた男達の店、或いは、無銭飲食を生業とするその道の仕業士が己の仕事を行う戦場であった。だが、今ここに居る客達に、その様な殺伐とした雰囲気等皆無である。老若男女、あらゆる職種の者達が独り乃至は家族、友人、恋人を連れて現れ、一心不乱に、または会話を交えて牛丼を食しているという、平穏極まりない姿がそこにあった。硝子面の扉がその理由であり、答えであろう。この牛丼屋は、多くの者達を、より多く受け入れるが為、外見的に着飾る事を求めたのだ。ある意味それは時代が、世界が望んだが故の必要性であり、大衆に働きかけねばならぬチェーン店の宿業であり、旧き良き牛丼屋の姿を省みた者が嘆くやもしれぬ行為ではあるが、しかし客の入りを見るに、店の目論見は成功している。見事な限りだろう。カウンター席、と見せかけて、運良く空いていたテーブル席に独り座った私は、周囲を見つつ、うんうんと頷いた。努力は大事である。殊に、単一であればどれだけ優秀な人材であっても、集まった途端に破綻してしまう企業の努力ならば。噂ではその企業も、アルバイターとの解雇云々で一悶着起こしているらしいが、それとこれとはまた別だろう。
そう考えていると、店員が冷を持ってやって来た。眼鏡を付けた、ひょろりと細長い青年である。在りし日の牛丼屋像とはまた一つ懸け離れた存在だ。仮令眼鏡であっても、独特な声と高いテンション、幅広い演技、止まる所を知らぬ長台詞、そして必ずと言って良い程行うアドリブに定評がある某声優が演じた様なキャラクターなんかが居るが、しかしこの彼に、その様な覇気は感じられない。よくよく見ればそれも当然で、青年が胸元に付けた名札には、修行中の三文字が書かれていた。誰であれ、そして何事であれ、初めてというのはぎこちないもの。自分とてそうだったとしみじみ思いつつ、私は受け取ったコップを口元へ運んだ。秋も終わりに近いとは言え、少し蒸し暑い店で冷たい飲み物は在り難い。
青年の姿が奥に消えた所で、私はメニューを開いた。ただ、心の内では既に何を頼むかは決まっている。この店の定番であり、且つ、来る度、来る度頼んで来た一品だから、迷う事も無い。が、それでも念には念を、と品目を見るのは、やはりここが重点を置く大衆性にある。牛丼、と一口に言っているが、実はその種類は幾つも存在する。迅速にオーダーをこなす為、元となる料理こそ変わらないが、上に乗せるトッピングが違うのである。何も乗せぬ通常のものの他に、刻んだ青ねぎと生卵をコチュジャン風味なピリ辛ソースで合えたねぎ玉、肉類とは抜群の相性を誇るキムチ、わさび醤油を垂らした山かけなどがそれだ。文字として上げれば些細かもしれないけれど、これらを伴った牛丼はまた別種の味を引き出す。より多くの客が好みに応えようとした結果だろう。
ただ、他にもトッピングは存在し、鰹節とオクラに麻婆茄子、果てはチーズを乗せたものまであるのだから驚きだ。最初訪れた時、特に最後のものなんかは、ゲテモノではと疑ったものである。が、意外や意外、これがなかなか旨いのだ。発酵食品として醤油ベースの甘辛い味付けに、そして同系統の蛋白分である牛肉に合致したのだろうが、いやいや、馬鹿にするものでも無い。とは言え、チェーンの規模を考えれば、相応の事前チェックをしているだろうから、酷い外れというのも、早々無いのだろうが。
ついでに言っておくと、この牛丼屋、牛丼以外のメニューを置いている。一昔前に起きた牛肉輸入禁止騒動より競って始められた豚丼、は置いておくとして、看板にも記載された実質的二大メニューの一つ、カレー(こちらも牛丼宜しく各種トッピングを行う事が出来る)、それから五目あんかけ丼、無い所もあるらしいが鶏そぼろ丼、まぐろユッケ丼、タコライスなんてものもこの店では出している。逆に、この店では取り扱っていないけれど、デザート、ドリンク類を出す所もある様だ。
そうした数あるメニューを逐一チェックした後、特に目新しいものを確認出来なかった私は、備え付けの鈴ならぬ呼びボタンを押した。直ぐにあの青年がハンディ片手に現れ、注文は何かと問うのを聞くや私は、勤めて堂々と、そしてはっきりと告げる。この時、言い淀んではいけない。自分は客であり、その料理を食べる為にやって来たのだと大いに示さねばならない。即ち、「ねぎ玉牛丼大盛りで」とだ。
噛む事も無くはっきりと、自分の満足が行く発声で言う事が出来れば、青年は小さく頷き、ハンディにそれを入力すると、暫くお待ちくださいと呟き、奥へと戻っていった。その後姿を眺めつつ、私は、ゆったりと合成皮革張りの椅子に深く腰を沈めた。煙草を吸いたい所ではあったが、ここは全席禁煙である為、ただ何もせずに空想へと頭を向ける。本を読む事も、携帯を弄る事もしないのは、基本的に注文が直ぐ来る事を知っているからだ。万人に合わせた様々な工夫がなされていても、ここは牛丼屋である。丼に飯を敷き詰めた中で、大鍋に入った肉とタレを装い、あるならば更に盛り付けをする。その作業を丁寧に行うには相応の技術がいるけれど、しかしそれでも余り時間は掛かるまい。その時間の短縮にもまた腕が必要であり、またこの客の入りを考慮すれば、多少とも掛かってしまうかもしれないが。私は、壁際に貼り付けられている、某少年向け週間漫画雑誌の黄金期が一角を築いた作品とのコラボレーション企画を宣伝するポスターを眺めつつ、青年の姿より厨房側の未熟さを懸念したが、それは杞憂であった。何処か危なっかしい手付きでお盆を持った青年が、同様の足取りで私の所へとやって来た。お待たせしました、とこれまたお決まりの台詞と共にお盆が置かれると、私はそっと会釈で労ってやった。
それはさておき、食事である。私は視線を、去り行く青年から、待ち構えるお盆の方へと合わせた。
お盆の上には常よりも多くご飯と、それと比べれば少し見劣りする量で肉とタレが盛られた丼が置かれている。更に表面には全体を覆う様に、刻まれた青葱が乗せられていた。よく見ると円形状のそれは、かつてここと同じ店で働いていた友人曰く、吸殻サイズの皿に予め入れた葱を、注文の際に牛丼へ乗せて出しているからだという。そして丼の隣には、割られていないそのままの卵が入った陶器製の小鉢と、ステンレスで出来たセパレーターの添えられた漆もどきの合成樹脂製小鉢があった。世の中には卵の白身が嫌いという者が居るらしく、これはその為のものなのだが、しかし私には必要無い。テーブルの縁で卵に罅を入れた私は、陶器の小鉢に中身を落とした。割り箸入れから一本取り、割っていないそれを持って、卵を拡販し、固体から液状に変化させて行く。セパレーターを使うよりそのまま混ぜて、掛けた方が美味いというのも、先の友人の言葉であり、私はそれを忠実に守る事にしている。
そうして納得が行くまで混ぜ合わせた私は、小鉢を手に取り、その中身を牛丼の上に掛けた。こぼれぬ様そっと、中心から外側へとゆっくり垂らして行く。丼の奥へ、卵が静かに染み込んで行くのを夢想しつつ暫く待つと、私は箸の片側を噛んだ。もう片方を取って引っ張り、ばちりと二つにする。右手に箸を握り、左手に丼を持てば、後はもう食すのみだ。語る相手も居ない今、それは黙々と行使されるのである。
私は丼を抱えると、箸で流れ込む様に牛丼をかっ込んだ。ピリリと舌に来る辛味が、卵の甘味によって緩和され、故に引き立てられたタレ染み込む肉と米を咀嚼し、喉奥へ、そして胃の腑へと流し込んで行く。そこで感ぜられるハーモニーは一つの完全なるものであり、あえてそれを言葉にするのならば、ただ一言、こう言うのみに留めておくべきだろう。そうただ一言、美味い、と。そこに至る工程も思考も論理も最早関係無い。今確かに感じる事が出来る一点だけが、私の中に満ちて行く真理である。
全く、かようなものを大学に入るまで食して来なかったのが腹立たしい。一度か二度、不味いものに当たっただけでずっと敬遠してきたのだ。その時を思うと、涙すら出て来る感である。勿論ここは明朗にして快活なる店の中であるし、私とて良い年をした大人であるならば、実際に涙など流す事は無いのだが。
かような至福の中で、一杯の牛丼をかみ締める私は、半ば程になった所で一度丼をテーブルの上に置くと、冷に唇をつけて、口内を整えてから、机の脇に手を伸ばした。メニューと共に、各種調味料が置かれたコーナーへ、その中の一つ、醤油と七味唐辛子が入った容器へと。
一度至った真理も、所詮は感性ら来たものである以上、悲しいかな、一時が過ぎればやがて無くなってしまうものだ。つまる所、感覚は大量に、長時間取る事で慣れ、それが普通になり、飽きてしまうのである。私も、この葱玉牛丼の味に飽いてしまっていたのだ。その為の調味料だけれど、私は醤油が好きである。この世界に存在するあらゆる調味料の中で、あの畑の肉より作られた黒い液体が一番好きだ。そして七味唐辛子も、辛いのも好きだ。全身からぶわりと汗が噴出す、あの痛々しい爽快感が堪らない。
今その味を求め、私は醤油をつぅと垂らし、そして七味を奮った。琥珀色にも似たタレの色が、より深く、濃い色合いへと変えられ、周囲に赤と緑を主とした七色の粒が縁取られて行く。
それから改めて食べる。新しく生まれ変わったといっても過言ではないこの葱玉牛丼の味は、醤油であり、醤油以上、醤油以下の何物でも無い。成る程、牛肉の味も風味も確かにするが、それは添えられるだけだ。私の別の友人は、これの紅生姜版とも言うべき事をして、回りから紅生姜丼と揶揄される(全く持って、傍迷惑な行為もあったものだ)が、それを言うなら私のこれも醤油丼というべきであろう。
だがそれでいい。私には私の味がある。この店のメニューが多様な品揃えを誇っているのは、個々人が持つ味の好みに合わせようとしているが為だ。その為に工夫して、何が悪いというのだろう。
嗚呼一つあるとすればそれは健康だと半ばに苦笑しつつ、私は醤油色に染まったそれを噛み締め、味わい、塩化し続けた。辺りでは相変わらずの盛況具合で、青年を初めとする多くの店員達も、厨房の内外で忙しく立ち振る舞っている。その渦中に居る私は、孤独と言えば孤独であるけども、決して嫌いな孤独では無い。いやさ、寧ろこの過密気味な現代日本においては素敵な間隔だと言えよう。兎角、この社会には、世界には人で溢れ過ぎているのだから。腰が悪い故に座らなかったカウンターにて、黙々と、牛丼を食す事だけを生きる目的とした求道者の如く丼を抱え続ける者達も想いは同じであるかもしれない。
孤独の共感覚というある種奇妙な言葉を、この様な場で思い浮かべるのは少々おかしいだろうか。だが、そんなものでも知れない。そう、巡らせた思考と一緒に、私は最後の一欠けらを食べ終えた。それでもまだ縁についている米粒を箸で摘み、残さず口へ入れると、私は丼を置いた。空のそれを満腹が齎す満足感の中で見据えながら、冷を口にし、私はそっと席を立った。飛ぶ鳥後を残さず、ただ早々と立ち去るのみ、である。これが友人一同と共に食べている時ならばいざ知らず、独りである時に何時までも愚図愚図と居座る訳にも行かないだろうし、私自身それは苦痛の極みである。
レシートを片手にレジへと行けば、大分年季を感じさせる店員が丁度居たので会計を行う。一杯五百五十円。これを高いと取るか、安いと取るかは人それぞれだろうが、私は妥当だと思い、細かいのが無かった為、千円札で払おうと財布に手を入れた。
その最中に、ふとインスタント珈琲の袋を入れる紙のボックスが目に止まった。何だろうとまじまじ見れば、阿弗利加の某国に対する募金を集めるものであった。赤い羽根や緑の羽根の代わりに、貰えるのが珈琲という訳だ。正確には商売である為、ボランティアとはまた違うが、しかし一袋自体、日本円にしては五十円となかなか安い様に思われる。それがあちらの国でどれ位の価値かは解らない。そして、それを購入する事で、何がどう、どれだけ変わるのかも。
だが私は、会計を済まそうとする店員を制し、その袋を差し出した。理屈では無い。時が過ぎ、胃の中にある牛丼の成れの果てが排泄されるまでの、半日にすら満ちぬ短さとはいえ、この内には心地良い、ふわふわとした何かが溢れているのだ。私は支払いを終えた。五百五十円と五十円、合わせて六百円分が去って行き、こちらにはお釣りの四百円と、そして一杯のインスタント珈琲が残された。
硝子の自動ドアをくぐろうとすると、ありがとうございましたという声が上がる。それに背中を押されつつ、説明も出来ぬ喜びを感じながら、私は外へと一歩を踏み出した。