忙しい夏
風鈴が軽やかな音を立て、夏の始まりを告げている。障子の隙間から漏れる陽の光と、い草の匂いが鼻についた。
目が覚めた。
京都の道路のように碁盤の目状になった天井が目に入る。もう十八年見続けたものだ。掛け布団が体から離れた場所にある。体から染み出したであろう塩水が、そのわけを語っていた。
「起きた?」
締め付けられる脳みそを必死に働かせ、目の前に立つ声の主へと意識を向ける。
「昨日相当暑かったよ。この部屋にもいい加減クーラーを入れてほしいものだね」
「どうでもいいこと言ってないで、早くご飯食べなさい」
声の主は俺を適当にあしらい、くるりと踵を返す。俺の母さんだ。いつも通りの着物姿で部屋を出ていく母の後ろ姿に一言言ってやろうかとも思ったが、言ってもめんどくさいだけだ。板と足袋が擦れる音が遠ざかっていった。
「はぁ……暑い……」
俺の母親は厳格だ。俺が五つの時に父親が家を出てからだ。俺は母の手一つで育てられ、子供のころから褒められたことはなく、礼儀、常識を叩き込まれた。母親の実家は裕福な家庭で、それなりに有名な家柄だった。
父親の存在は知らない。生きているのか死んでいるのか。何をしているのか、なんてことは聞いたことがない。というより父親の話題自体、母との間に上がったことはなかった。おかげで小学生の時に授業でやらされた、「おとうさんとおかあさんのことをおしえて」に母のことしか教えることができなかった。
気にならないと言ったら嘘になる。父親、母親ともに暮らしていて、鬱陶しい、うるさいなどという悪態を友だちから聞かされると、そういったものに憧れを抱いてしまう。だけど、俺の周囲を囲っている障子はなにも語ってはくれなかった。
そんな思考を打ち消すかのように、枕元に置かれたままの携帯から最後通告の音楽が流れてきた。
「やっべぇ! また遅刻だ!」
俺の一日は忙しない。