第二部 現在の私(Ⅰ) 第一章 想起 第二節 競う・争う
第一部では、登場人物がそれぞれ破滅していくが、それは彼らから見た意識体に敗れたと言えるし、自らの貪欲・瞋恚・愚痴の至る必然として破滅したのかもしれない。
第二章に出て来た人間の様な豚は脚本家であり、周囲の同業者や視聴者、見えない意志と競い、争っていた。彼にとっては、餌を与えられ、肥えさせられることが報酬であり、それによって、自らが成功した人物であると確信していたのだった。周囲の豚達よりも、より自らの方が優れ、より多くの愛情と餌を与えられていると、信じて生きているのだ。
そして巨大な蠅も、常に欲を満たせ、生きて行く為の糞の山と死肉を見て、自分の仕事が与えられ続け、自分はこれだけの富を有していると、その周りを飛び回ることで幸福を得ている。彼らは清浄さ、清潔さを憎んでいる。彼らは糞の作品を愛する。
巨大な首は、自らの被害妄想と戦っている。そしてそれは、子供の頃からの自己愛と、無反省によって肥大した意識の歓喜によって創られた妄想である。
何故なら、その歓喜による貪欲の深さが、そのままその人の憎悪と憎しみの感受に変わるからだ。そしてそれは幻覚や妄想を生み出し、破壊や破滅の欲望へと意識を変容させていく。より歓喜を深める為に。
黒い服の双子は、人物像の中で争っている。相手を殺し、自らが生き残る事のみを考えている。相手に気付かれず、覚られずに近づき、親しげな態度と、歌と踊りで相手が気を許したところで、対象を消去する。食べてしまう。
劇場の支配人は、周囲を見下し、何の根拠も無く、自らを天才と信じきっている、意識の破綻した人格を持っている。それ故に彼は、その物語が破綻したものに快楽を感じる。
彼は周囲の人々の評価と戦っている。彼にとってはそれこそが信じるに値するものであるのだ。彼にとっては、人々の全てが、この世界が破綻する様こそ、真に楽しめる物語であると思っている。
黄金の神殿に居る者達は、他の教えと争っている。彼らは宗教に対して過敏である。彼らは常に自らが何者かに見られていると感じている。彼らは自らが舞台に上がった役者の様に振る舞う。ドラマや映画の再現をしている。そしてそれが彼らの信仰なのだ。その様な劇的な真理があると信じている。
彼らの頭の中には、脚本があり、自らの役割が見えている。だが、それを書いた存在が何者であるかを知らない。彼らはそれを見ようとはせず、知ろうとはしない。
彼らは競い争い、勝ち続けるたびにより従属し奴隷になっていく。知性を奪われていく。そして最後に道は一つと成り、それ以外に進む所は無いと知る。
地下牢の者達は、皆自らの意識の内に在る神と争っている。完全知や絶対的な存在、永遠や天則、業や運命など、自らの力では変えることが出来ないものを、変えることが出来るのであると思っている。
彼らは過去の自分を傷つけ、未来の自分を傷つける。彼らはあるがままに物事を見ることが出来ずにいる。
看守はこの時代の象徴的存在である。彼は自ら考えず、自らの見解を表明することはせず、他者に判断を委ね、自分はただ、それらを罰する権利だけがあると思い込んでいる。
自らは何一つ言葉を持てずにいるのに、自らは作家以上に作家であり、そして信仰というものは所謂作品に過ぎず、幾らでも書き換えることが可能な代物であると、見当違いを起こしている。
看守は過去に、現在に、そして未来に対立を生じさせ、争いを生じさせる者である。そして、無知と貪欲と憎悪を拡散する事に歓びと使命感を感じている。




