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第一部 意識体(Ⅰ)  第六章 真実の世界D

次回投稿は10月7日(土)の午前10時の予定。

 そこは牢獄であった。湿ってじめじめとした地下牢。そこに五人の人物が捕らわれていた。永遠という刑罰。

 意識体の背後に看守がいた。彼は不気味な声色で意識体に話し掛ける。

「ここからの選択は重要ですよ。何しろ人間の未来に関わることなので。あなたは一人一人を裁かなくてはならない。公平に、正しく、全てが納得いくように。自分に正直でいなければなりませんよ。あなたは嘘をついてきた。ひょっとしたら、彼らは間違っているかもしれない。まだ、誰も証明などはしていないのではないか? 全ては納得していない。だからこそ、不安なのだ、不安定なのだ。彼らがいなければ? そう。彼らがいなければ、過去も現在も未来も変わるだろう。私は何時でも準備ができてますよ。あなたが一声かければ、すぐにでも処刑できるのです。本当ですよ。……より良い未来を創る為に、あなたの判断と許可が必要なのです。皆、待ちくたびれていますよ……」

 彼は後ろを振り返った。しかし、そこには誰もいなかった。そして、今度は頭の後ろ側から声が聞こえてくる。

「私を探していますか? それは無駄なことです。私は誰にとっても『見えない看守』なのです。でも、私には実行する力が有ります。あなた方を刑場に引き出す力は有るのです。しかし、今は私のことより、目の前の罪人達に裁決を申し渡しましょう。どいつもこいつも極悪人ですよ……」

 彼の目前には石造りの牢獄が五つ並んでいる。看守の言うところの『罪人』が五人、手枷と足枷をされて捕らわれている。

 彼は一人目の『罪人』の捕らわれている牢屋の前に立つ。鉄格子越しにその人物を見る。長い髭を生やした白髪の老人である。馴れ馴れしさと頑固な意志を感じる。

 看守は言う。

「何を黙って見ているのですか? ちゃんと尋問しないと。それとも、拷問にでもかけますか?」

 彼は少し後ろを向くが、やはり誰もいない。彼は一番目の人物である、白髪の老人に尋ねた。

「何故あなたはここに捕らわれているのですか? あなたは自分で何かの罪を犯したと感じていますか? また、誰に訴えられたのですか?」

 老人は答える。

「この国の定めた法に捕らわれているのである。私は罪を犯したとは思っていない。無知なる人々に訴えられたのである」

 看守は言う。

「自らの虚偽によって捕らわれることとなったのですよ。あなたは他者の利益を損なったのです。無知な人々を嘘の言葉で騙して来たのです」

 私の意識体は老人に言った。

「あなたはここを出て行くつもりはありますか?」

「この国がそれを許可するなら」

 看守は可笑しそうに言った。

「彼はまだ『国』が存在すると思っているのですよ。そもそもここに捕らわれている彼らに『時間』の概念は無いし、全てのものが過ぎ去るという道理も理解できないのでしょう。そして、それは当時であっても、同じことだったのです。私からの忠告を聞かずに、自ら罪に捕らわれに入ったのです。彼が自ら望んだが故に、ね」

 私の意識体は見えない看守に言った。

「そして、その思考はあなた自身もそう在るように願っているのではないか? 確かにこの人物には知恵は無いが、あなたの認識は、少なからず『当時』の彼の知恵を認めていると、私は感じるのだが」

「……どういうことでしょう?」

「君の目から見た世界でできているから、彼らが大罪を犯しただの、自らの思想に捕らわれているだのと、大げさに考えてしまうのだ」

「つまり?」

「君や彼らが向かっているのは、知恵ではなく、自らの身体・精神に由来する歓喜による判断にすぎない。そしてそれは知恵の無い、畜生の存在と同じである」

 初老の老人は、崩れ落ちるように膝をつき、四つん這いになった。そして、体が外骨格に覆われ、黒く成り、腹から腕が左右に一本ずつ生え、腕が四本になった。体が徐々に小さくなり、ゴキブリに成った。

 看守は驚いて言った。

「私が勘違いをしていたのかもしれません。彼には、無知による見解を広めた罪で、大きな罰が下されると信じて来たのに……。そもそも、その原因自体が、罪にすら値しないだなんて。……私は一体、今まで何を監視して来たのでしょう」

 ゴキブリと成った老人を見て、看守は悟ったようであった。そして、ゴキブリは素早く牢屋を出て、何処かに行ってしまった。

 それを見ていた意識体は言った。

「そもそも処刑も釈放もないな。閉じ込められてもいないのだから。余りにも『当時』から『今まで』彼の言動を周囲が過大評価し過ぎたのだ」

 彼は二番目の『罪人』の捕らわれている牢屋の前に立つ、鉄格子越しにその人物を見る。生真面目な顔をした裕福な身なりをした中年の男性である。頑なさと自己に対する信念を感じる。

 看守は言う。

「何を黙って見ているのですか? ちゃんと尋問しないと。それとも、拷問にでもかけますか?」

 彼は少し困ってしまう。この見えない看守の態度は、記憶が無いのか、わざとなのか、それともそういう規則でもあるのか、問いただすべきなのかもしれないが、それはしなかった。きっと全ては同じなのだ。

 私の意識体はこの中年の男に尋ねた。

「何故あなたはここに捕らわれているのですか? あなたは自分で何かの罪を犯したと感じていますか? また、誰に訴えられたのですか?」

 中年の男は答える。

「この国の国王の命令によって捕らわれているのである。私は罪を犯したとは思っていない。貪欲なる人々に訴えられたのである」

 看守は言う。

「自らの傲慢によって捕らわれることとなったのですよ。あなたは他者の利益を損なったのです。貪欲な人々を嘘の善と徳で騙して来たのです」

 私の意識体は中年の男に言った。

「あなたはここを出て行くつもりはありますか?」

「この国の国王がそれを許可するなら」

 看守は可笑しそうに言った。

「彼はまだ『善意』が存在すると思っているのですよ。そもそもここに捕らわれている彼らに『離貪』の概念は無いし、彼らの信じている善や徳が欲望に過ぎないという道理も理解できないのでしょう。そしてそれは名声・利得・称賛を得てもなお、満たされることは無かったのです。だから、この欲望を追い求めた挙句、自ら捕らわれに入ったのです。それは彼が欲したこと故に、ね」

 私の意識体は見えない看守に言った。

「そして、その思考はあなた自身も未だに『善』を信じているが故に、彼に刑が執行できずにいるのではないか? 確かにこの人物は貪欲であるが、あなたの認識は、少なからず彼の善や徳を認めていると、私は感じるのだが」

「……どういうことでしょう?」

「君の歓喜や欲望の認識からできた世界であるから、同じような歓喜や欲望から形成された彼の善を否定できなかったのではないか」

「つまり?」

「君や彼らが目指していたのは、善ではなく、自らの身体・精神に由来する歓喜による終着点に過ぎない。そしてそれは知性の無い、畜生の世界に生まれ変わることと同じである」

 中年の男は、崩れ落ちるように膝をつき、四つん這いになった。そして、体が体毛に覆われ、灰色に成り、細長い尻尾が生えた。体が徐々に小さくなり、ネズミに成った。

 看守は驚いて言った。

「私が勘違いをしていたのかもしれません。彼には、身体と精神の快楽による偽善を広めた罪で、大きな罰が下されると信じて来たのに……。そもそも、その原因自体が、罪にすら値しないだなんて。……私は一体、今まで何を監視して来たのでしょう」

 ネズミと成った中年の男を見て、看守は悟ったようであった。そして、ネズミは素早く牢屋を出て何処かへ行ってしまった。

 意識体は言った。

「そもそも処刑も釈放もないな。彼らは畜生であるのだから、人間的な規則に捕らわれる必要もあるまい。あまりにも『社会的地位』や『悲劇』故の彼の言動を周囲が過大評価し過ぎたのだ」

 彼は三番目の『罪人』の捕らわれている牢屋の前に立つ。鉄格子越しにその人物を見る。はつらつとした感じを与える前途ある青年のように見えた。しかし、それと同時に軽薄な自意識が見え隠れしていた。

 看守は言う。

「何を黙って見ているのですか? ちゃんと尋問しないと、それとも、拷問にでもかけますか?」

 彼は無視して、青年に言った。

「何故あなたはここに捕らわれているのですか? あなたは自分で何かの罪を犯したと感じていますか? また、誰に訴えられたのですか?」

 青年は答える。

「何故僕がここに捕らわれているのか分かりません。僕は何の罪も犯した覚えはありません。また、誰かに訴えられた記憶もないのです」

 看守は言う。

「自らを規定したことによって縛られているのですよ。あなたは自分で自分を訴えたのです。あなたは自分で自分を害し、傷つけ、利益を損なったのです」

 私の意識体は青年に言った。

「あなたはここを出て行くつもりはありますか?」

 青年は嬉しそうに答えた。

「ええ、当然出て行きたいのです。あなたが僕を釈放して下さるのですか?」

 意識体は、「それはわかりません」と答えた。

 見えない看守は、意識体の後方で言った。

「鍵はあなた自身が持っていますよ」

 なるほど、と意識体は頷いた。

 青年は意識体を不思議そうに眺めていた。彼は言った。

「一体あなたは誰なんですか? 見た感じ人間とはとても思えないのですが? あなたは神ですか? それとも天使なのでしょうか?」

「私は、あなたの言う神でも天使でもありません。私は、あなたが思う如何なる者でもないのです」

「では、幽霊ですか? 妖精? まあ、もちろん違うのでしょうね」

「……話を続けますよ。あなたは自らを規定したことによって縛られている、と私は思うのですが、あなたはどう思いますか?」

「規定したのは事実ですが、それによって縛られているとは思いませんね。むしろ我々はそれによって自由を手に入れたと言っていいでしょう。あの軛から解放されたのだから」

「あの軛?」

「古い善や徳のことです。それより、僕は見ていましたよ。僕の隣で捕らわれていた彼らがあなたに会ったことで自らを畜生であると認めてしまったのを」

 青年の目は希望に燃えている。彼には一体何が見えているのだろう。青年は言った。

「あなたは僕を何処へ連れて行ってくれるのですか。天国、楽園、聖人達の集う所、それとも全ての快楽のある所なんかでしょうか?」

「あなたは自分で、その様な場所が相応しいと思っている訳ですか」

「ええ、そうです。何故なら僕は、この愚かな人々(しかし彼らは自らを知識人などと思っているでしょう)に取り囲まれ、それに耐えて来たのですから。彼らは、僕の優れた発見や証明を少しも理解しなかったのです。僕の業績は天上でこそ理解されるべきであり、僕はきっと人々を神の国へと導く存在になる、と確信して仕事をして来ました」

「しかしその結果がこの場所なのです。そして理由も無いのに捕まっているということはないでしょう。あなた方は何に捕らわれているのですか?」

「……何にも捕らわれてはいませんよ。僕は自由に思考することができた」

「では、その『自由』やその『思考』、その『何事かを為した』ということの誤りによって捕らわれているということになります」

「へえ、そうなんですか。では、あなたは『本当の自由』を『本当の思考』を『本当の行為』を知っているはずですね。なにしろ、あなたが僕を『解放する権限』を有しているのですから。……もし、本当ならね」

「……正しい行為をする為には、正しい自由が定義されていなければなりません。正しい自由が定義される為には、正しい思考をしなければなりません。正しい思考をする為には、正しい見解を持たなければなりません」

「なるほど、確かにそうかもしれませんね。それでは正しい見解とは何ですか? 正しい思考とは、正しい自由の定義とは、正しい行為とは」

「正しい見解とは、全ては変移するものであり、何処にも永遠や絶対的存在など無いと知っていることです。

 正しい思考とは、全てが変移し無常であるに過ぎないならば、それらは苦しみでしかないと理解し、その上で、その苦しみを捨て、消滅させることを考えることです。

 正しい自由とは、その苦しみを捨て、消滅させることで、自らを縛っていたものから解放されることです。

 正しい行為とは、この存在、この我、この快楽、この永遠に存在したいという意志を捨て、この無知なる認識を消滅させるために身体・精神の行為による貪りから離れ、それを欲するこの身体・精神による様々な愛を滅し、そして生存の意志を滅し、過去・現在・未来の、この全ての業を滅し尽くすことです」

 溌剌としていた青年の顔は険しくなった。そして、彼は意識体を睨み、言った。

「違う、違う、それは違うぞ!

 正しい見解とは、絶対的存在の意志は変化したりしないものであり、そして、存在は生まれながらにして、それを知っているということだ。

 正しい思考とは、その絶対的意志によって思考することが可能なこの我こそ真実であり、それが永遠に存在する魂というべきものだ。

 よって、正しい自由とは、それを自覚した者がこの我という絶対的意志の真実によって、この我を今のこの瞬間を、この生を永遠に存在させる為には何をしてもよいということだ。

 従って、正しい行為とは、この我によってなされたあらゆる行為が真理と認められることだ。つまり、この僕が正当に評価され、天の国において報酬を貰い、この世界全ての名誉と尊敬をこの僕が手に入れるということだ。

 つまり、この僕の我が、意志が、真理であるが故に、この世界に褒め称えられ、尊重され、尊敬され、あらゆる報酬と快楽が与えられてこそ、真の聖人である僕が住むに値する世界といえるのだ。これこそ僕が創造した世界であるのだ!」

 こう言い終った青年に変化が起こった。彼は、崩れ落ちるように膝をつき、四つん這いになった。そして、体が外骨格に覆われ、黒く成り、腹から腕が左右に二本ずつ生え、腕が六本になった。体が徐々に小さくなり、クモに成った。

 見えない看守は驚いて言った。

「私が勘違いをしていたのかもしれません。あなたは彼を解放してあげるのだとばかり思っていましたよ。彼は自己防衛に優れた哲学を持っていました。しかし、それは今に至るまで証明されて来ませんでした。何故なら、それを学べば皆、生の牢獄に捕らわれることになるからです」

 クモと成った青年を見て、看守は悟ったようだった。そして、クモは壁際をよじ登り、クモの巣をせっせと作り始めた。

 意識体は言った。

「きっとこの巣が、彼の言うところの『絶対的意志』によって構築された、真実の彼の世界なのだろう。そして彼はこの様な巣こそ、永遠に存在するに値すると、彼の人生を通して証明した訳だ。この様な巣を作るが故に『私という意識』があると」

 彼は四番目の『罪人』の捕らわれている牢屋の前に立つ。鉄格子越しにその人物を見る。髭を生やした陰気な雰囲気をまとった壮年の男である。世界の終りでも見ているかのような悲壮感が漂っていた。

 看守は言う。

「何を黙って見ているのですか? ちゃんと尋問しないと、それとも、拷問にでもかけますか?」

 彼は無視して、壮年の男に言った。

「何故あなたはここに捕らわれているのですか? あなたは自分で何かの罪を犯したと感じていますか? また、誰に訴えられたのですか?」

 壮年の男は答えた。

「この運命に捕らわれているのだ! 私が罪を犯したなどという事実は無い。罪を犯したのは神なのだ! そして、この私を訴えたのは愚かな教えを奉じている者共だろう」

 看守は言う。

「自らの生の渇愛によって捕らわれることとなったのですよ。彼はこの自分自身に対して非常に極端な歓びを感じていた。そう、他者が憎たらしくなるくらい、自己愛に耽っていたのです。それ故に、最も知恵の無い人間に成り果てたのです」

 私の意識体は壮年の男に言った。

「あなたはここを出て行くつもりはありますか?」

「この運命が、この必然が、この絶対善が、その第一原理がこの私を認めるならば」

 看守は可笑しそうに言った。

「彼はまだ『神の摂理』が存在すると思っているのですよ。そもそもここに捕らわれている彼らに『因縁』の概念は無いし、彼ら自身がそう思考せざるをえない意志が何処から来るのかも理解できなかったのでしょう。それは知識、学歴、尊敬を得ても同じことだったのです。因縁に対する無知と盲目故に、自らの愛に捕らわれに入ったのです。彼が自ら望んだが故に、ね」

 私の意識体は見えない看守に言った。

「そして、その思考はあなた自身も未だに『神の摂理』を信じているが故に、彼に刑が執行できずにいるのではないか? 確かにこの人物は神の存在を否定したがっているが、あなたの認識は少なからず、彼の知恵は神の摂理から来ているのではないか、と考えていると、私は感じるのだが」

「……どういうことでしょう?」

「君の目から見た世界でできているから、彼の意志の活動を尊重し、彼の定義する運命や必然、繰り返す生存、無限の愛が存在するという可能性を保存したかったのではないか」

「つまり?」

「君自身が答えの無い問いの中に入ってしまって、それに捕らわれ続けているということだ。彼らの目指していたのは善では無く、自らの身体・精神に由来する歓喜により生ずる、盲目的な意志に従属することであったのだ。そして、その従属とは自らの生存や渇愛の対象に執着しているに過ぎない。そしてそれは知性の無い、畜生の存在と同じである」

 壮年の男は、崩れ落ちるように膝をつき、四つん這いになった。そして、体が外骨格に覆われ、黒く成り、腹から腕が左右に一本ずつ生え、腕が四本になった。体が徐々に小さくなり、アリに成った。

 見えない看守は驚いて言った。

「私が勘違いをしていたのかもしれません。彼には、道徳、摂理、理性を否定した見解を広めた罪で、大きな罰が下されると信じて来たのに……。そもそも、その原因自体が、罪にすら値しないだなんて。……私は一体今まで何を監視して来たのでしょう」

 アリと成った壮年の男を見て、看守は悟ったようであった。そして、アリは餌を求めて何処かへ行ってしまった。

 意識体は言った。

「きっと彼の独りよがりな孤独の戦いは、まさに『大衆的欲望』の結晶であった訳だ。そして大衆的欲望の使者である彼の『預言』は、アリの様な生を生きるということであったのだ。彼の信念が彼の存在をそのように規定したのであった」

 彼は五番目の『罪人』の捕らわれている牢屋の前に立つ。鉄格子越しにその人物を見る。生気の無い顔をした十代後半の私だった。

 看守は言う。

「何を黙って見ているのですか? ちゃんと尋問しないと、それとも、拷問にでもかけますか?」

 彼は無視して、十代後半の私に言った。

「何故君はここに捕らわれているのか? 君は自分で何かの罪を犯したと感じているのか? また、誰に訴えられたのか?」

 私は独り言のように答える。

「僕は過去に捕らわれていた。現在に捕らわれている。故に未来に捕らわれるであろう。そして僕は未来に何らかの罪を犯すことを恐れる者だ。だからもし訴えた者がいるとするなら、この自己という存在以外にありえないのである」

 看守は言う。

「世界を捨てたことで居場所を失ったのですよ。あなたは自分で自分の未来を捨てたのです。あなたは私に害を与えられ、傷つけられ、利益を奪われるのです」

 私の意識体は驚いて後ろを向いた。そこには髪の毛の長い痩せた男が立っていた。それは死んだ人間だった。この空間に腐臭が漂う。

 意識体は姿を現した看守に言った。

「お前は一体何者なんだ? お前の目的は何だ? そしてこの空間は何の為に在る?」

 腐乱死体の看守は言った。

「私が本物の作家である。それは私があなた自身に成ることだ。私は永遠の存在に成りたいのだ。そしてこの空間こそ、未来から過去に流れる時間の川の中に在り、私が所有できる全てと、私が知ることができない全てが存在する場所である」

 牢屋に居る十代後半の私が言った。

「嘘をつくな。そいつは偽作家だ。そして既に死ぬべき定めが来ている。故にあなたの幻を見ているのだろう」

 偽作家の腐乱死体は言った。

「俺が真実の、本当の作家なのだ。俺には神とお前ら偽善者を監視し、書き記すという使命がある。この世界は間違っているんだ。この世界は余りにも狂っている。この世界には愚か者しか存在しない。だから俺がこの最後の審判を見届け、そして刑を執行しなければならない。何故なら、この世界が狂っているのは神の所為、そうでなければ、哲学者や思想家の所為であるからだ。それ故に、この私の目の前に在るものは、どちらかが私の所有物であり、どちらかが私に刑を執行されるべき存在なのである。そして今、私は私の現在から過去に向かって干渉しているのだ。この世界の死は近い……」

 十代後半の私は言った。

「お前は過去の言葉による歓喜に蝕まれている。お前のその歓びがこの空間になっているだけだ。お前は既にこの牢獄を所有しているのだから、お前が所有できないのは、僕と、この人だけだ」

 偽作家は呻き声を上げて倒れた。この腐乱死体は、腐敗が一気に進み、中から大量の蛆虫が飛び出して来た。そして最後には白骨死体になった。

 看守が正体を現し死んだことで、この牢獄という世界は役割を終えた。十代後半の私は牢屋から出て、意識体に言った。

「この世界が消滅しないうちに、あなたに話を伺いたいのです。あなたは何処から来た、誰なのですか?」

 意識体はこの壊れていく牢獄を見ていた。そして、独り言のように言った。

「今、この空間は、未来から過去に流れる川であったのだ。そして、我とアートマンによる接触には、選択肢は二つしかない」

 私は言った。

「僕はそれを何処かで聞いたことがあります。しかし、それではあなたは、まだ存在として未確定ということになります」

 意識体は言った。

「そうだ。そしてこの選択は君にしかできないことなのだ。私の話をよく聞いて、そして君自身の判断で選択して欲しい」

「分かりました」

「一つ目の選択は、君という我がこの私であるアートマンの方に合流するということだ。もしこの方法を選択するなら、君は全てと言われる梵である認識の歓喜と一体と成り、世界の全てが君と一体と成る。そして君は自己が永遠に続き、これ以上の存在は無いという認識を得るだろう。

 そして二つ目の選択は、この私というアートマンが君の存在に合流することだ。もしこの方法を選択するなら、君は君の過去世の全ての業を今の君が一人で担うことになり、全ての苦を知ることになる。そしてこの世界から孤立し、過去、現在、未来の繋がりの全てを失うことになる。そして君自身の存在も消滅し、存在なるものの最後の生となる、という認識を得るだろう」

 私は頷いて、言った。

「了解しました。僕には、この牢獄自体がこの私という業の一部であると思っていました。僕はこの罪から自由になりたいと思っていたのです。そして、それはこの自己を許すより他なかったのです」

「なるほど。しかし、自己を許すとは?」

「これ以上苦しむ必要は無いのです。これ以上考える必要は無いのです。僕はあなたに言っているのですよ。この私でありあなたである、この私という過去の総体、苦しみの集合体であるあなたに」

「それでは、もう答えは出ているようだな」

「ええ、出ています。きっと過去の自分も未来の自分も納得しているでしょう。そして私という存在が、今まで、まさにそれを知る為に、長い旅をしてきたように思います。ここでようやく、この旅の目的地が分かりました」

 意識体は笑った。

「私は涅槃に至る目的で旅に出ていた。そして、それはこのアートマンという私には辿り着けない、不可能な所にあったのだと、今分かった。繰り返して来た生の総体である私には、このただ一度の生というものが理解できず、その存在と一致しなかったのである。私や私達は常に求められ、受け入れていくだけの存在であった。我々には、本質的な自己などは無かったのだ。我々には、永遠に続く喪失感と、無知と、苦しみだけが残されていた。今、私は私の役割を捨て、この涅槃に至るという目的の為に、君の人生に合流しよう。そして、この合流が果たされるのは、君にとって未来の話であるだろう。何故なら、私は今、君にとっての未来から語っているのだから」

 十代後半の私は、そこで初めて晴れやかな笑顔になった。

「僕は生まれて初めて、希望というものを見た気がしますよ。何とか自殺しないで済みそうだ」

 私は手を差し出した。意識体はそれを握る。私は三十代後半の私と成り、私の意識体は三十代後半の意識体としての私と成った。それぞれが、それぞれを眺めた。

 二人の私は、一つの存在と成った。

「これがあの場所における、我々の選択であったのだ。そして、それからの私は常にこの我は無く、そしてアートマンも無い、と自覚しながら生きて来たのだった。そして、永遠なる道を捨てたことで、本当の道を得ることができたのだった」

 もう既に牢獄は無い。時間は経過し、現在の時間になった。この現在の私は三十代後半の私であり、意識体と合流し、合致した私である。全ての業を引き受け、過去世の総体を引き受け、私という苦を受け入れた私である。


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