第三部 意識体(Ⅱ) 第二章 祭祀①
次回投稿は未定。
アパートの一室。
舞台の後ろの壁には巨大な鼻と口が生えている。
舞台中央、三段の階段があり、その上には玉座がある。
私はその玉座に縛り付けられている。
青い男を先頭にして、黄色い男、赤い男が客席後方から舞台に向かって歩いて行く。
青い男 (黄色い男、赤い男に向かって)私達は真に正しい道を求める者である。私は常に正しい道を模索してきた。私達は間違ったことを正しいとする者に対して、質問をし、その間違いを指摘し、その人物を正しい道に導いてやらなければならない。
黄色い男・赤い男 その通り。
青い男 この私の問いに、彼が怖気づかなければよいが。
赤い男 ははは。そいつが逃げ出さないといいがな。
黄色い男 あなたと対話することになるなんてね、その人もかわいそうだね。
三人、舞台上に上がり階段の下に並ぶ。
青い男 君よ。私はこのように話を聞いた。君が、多くの様々な存在の前で、完全知について、『私の生まれは尽きた。梵行は完成された。為すべきことは為された。もはやこの人生以外の他にはない、と知ることができた』と答えているらしい、と。
私は君に聞きたい、この話は本当であろうか?
私 確かにそれは本当である。青い男よ。
三人、互いに顔を見合わせて笑う。
青い男 しかし、君よ。君は本当に完全知を理解していると言えるのだろうか? 私が思うに、君は、完全知を誤解しているのか、もしくは自らの自惚れから、完全知を知らないままに答えているに過ぎないのではないか?
私 青い男よ、確かに完全知を誤解したまま、もしくは自らの自惚れから、完全知を知らないままに、『私の生まれは尽きた。梵行は完成された。為すべきことは為された。もはやこの人生以外の他にはない、と知ることができた』と答える者もあるだろう。しかし私は違うのである。
青い男 では、是非君に、君がそれらの者達とどう違うのかを説いて頂きたいものです。
黄色い男、赤い男、頷く。
私 それでは、あなた方に、完全知を知ろうとしない者、完全知を誤解している者、自らの自惚れから、完全知を知らないままに、『私の生まれは尽きた。梵行は完成された。為すべきことは為された。もはやこの人生以外の他にはない、と知ることができた』と答える者、これらの者についてそれぞれ説くことにしよう。
青い男 ええ、お願いしますよ。
私 ではまず、完全知を知ろうとしない者について説くことにしよう。
青い男よ、ここにある人がいるとする。その人物は世間の利益に心が進んでいる。世間の利益を追い求めている。故に、その人物は世間の利益について語り、世間の利益について考え、世間の利益について見解を持つようになる。そして、自分と同じ考えの人々と交わり、そのことにより、喜びを得るのである。
そして、ここにもう一人の人がいるとする。その人物は世間の利益に心が進んでいない。世間の利益を追い求めない。故に、その人物は世間の利益について語らず、世間の利益について考えず、世間の利益について見解を持つことがない。故に、世間の利益を求める人々と交わらず、そのことにより、喜びを得ることはないのである。
そして、青い男よ、世間の利益に心が進んでいる人物には、六種類の渇愛が生じているのである。
それは、眼によって物を見ることにより、認識による歓喜が生じ、それ故に渇愛が生じているのである。
耳によって音を聞くことにより、認識による歓喜が生じ、それ故に渇愛が生じているのである。
鼻によって香りを嗅ぐことにより、認識による歓喜が生じ、それ故に渇愛が生じているのである。
舌によって味を味わうことにより、認識による歓喜が生じ、それ故に渇愛が生じているのである。
身によって可触物に触れることにより、認識による歓喜が生じ、それ故に渇愛が生じているのである。
意志によって生存の法が形成されることにより、認識による歓喜が生じ、それ故に渇愛が生じているのである。
故に、世間の利益に心が進んでいる人物は、これらの渇愛を追い求め、これらの渇愛について語り、これらの渇愛について考え、これらの渇愛について見解を持つようになる。そして、これらの渇愛を持つ人々と交わり、そのことにより喜びを得るのである。
そして、青い男よ、世間の利益に心が進んでいない人物には、六種類の渇愛は生じていないのである。
それは、眼によって物を見ても、認識による歓喜が生じず、それ故に渇愛は生じていないのである。
耳によって音を聞いても、認識による歓喜が生じず、それ故に渇愛は生じていないのである。
鼻によって香りを嗅いでも、認識による歓喜が生じず、それ故に渇愛は生じていないのである。
舌によって味を味わっても、認識による歓喜が生じず、それ故に渇愛は生じていないのである。
身によって可触物に触れても、認識による歓喜が生じず、それ故に渇愛は生じていないのである。
意志によって生存の法が形成されても、認識による歓喜が生じず、それ故に渇愛は生じていないのである。
故に、世間の利益に心が進んでいない人物は、これらの渇愛を追い求めず、これらの渇愛について語らず、これらの渇愛について考えず、これらの渇愛について見解を持つことがない。故に、渇愛を持つ人々と交わらず、そのことにより、喜びを得ることはないのである。
青い男 しかし、人間は己の身体や精神の楽を追い求めることにより発展してきました。それ故に、完全知とは人間の身体や精神の延長に存在するものなのではないでしょうか? そうでなければ人間にはそれは会得できないでしょう。
私 それは違うのである、青い男よ。渇愛を追い求めれば、それはただ小さな渇愛がより大きな渇愛に移行するのみであって、決して真実に至ることはないのである。そして、その渇愛とは六種類の対象の集合に過ぎないのである。
その様な、世間の利益に心が進んでいる状態を例えるならば、自分の意志に反して、娯楽の少ない田舎町に長く住んでいる人のようなものである。
その様な人はその田舎町に、大都市から来た人を見かけると、このように尋ねるのである。大都市は魅力的であろうか? 大都市は華やかであるだろうか? 大都市は富で溢れているだろうか? と。
その大都市から来た人は彼に、大都市は魅力的であり、華やかであり、富で溢れていると話すのである。
青い男よ、このことをどう思うか。つまりその話を聞いた彼は、今の状態よりも渇愛を満たせる場所を知った後で、なお完全知の場所というものについて知ろうと欲するだろうか。
青い男 まあ、しないでしょう。彼はその大都市の存在を知ることで満足すると思います。
私 そうなのだ、青い男よ。渇愛の対象を求める彼は、より多くの渇愛が集まる場所へと向かうのである。
青い男よ、それでは世間の利益に心が進んでいない状態を例えてみよ。
青い男 (頷く)いいでしょう。きっとさっきの話の反対ですね。
(咳払い)世間の利益に心が進んでいない状態とは、自分の意志で、娯楽の少ない田舎町に長く住んでいる人のようなものです。
その様な人はその田舎町に、完全知という場所から来た人を見かけると、このように尋ねます。完全知とは何であろうか? 完全知とはどの様に習得するのだろうか? 完全知とはそれを知れば完全な存在になるものであるのだろうか? と。
(苦笑する)ふふふ……。これは確かに私が間違っていました。私は、あなた完全知について尋ねるべきでした。
私にはそもそも、完全知についての知識がなかったのです。その存在を疑っていたのです。故に、『君は本当に完全知を理解していると言えるのであろうか? 私が思うに、君は、完全知を誤解しているのか、もしくは自らの自惚れから、完全知を知らないままに答えているに過ぎないのではないか?』と言ってしまったのです。
私 確かにそうである。あなたは私に完全知について尋ねるべきであった。
赤い男 おい。(青い男を小突く)台本と違うぞ。
青い男 (赤い男に)いや、いいんだ。
(私に)では、続けます。その完全知という場所から来た人は彼に、完全知とはこのようであり、完全知とはこのように習得するのであり、完全知を知ればこのような存在になると答えます。
私 確かにそのようになるであろう。では、青い男よ、このことをどう思うか。つまりその話を聞いた、世間の利益に心が進んでいない彼は、完全知の場所を知った後で、なおそれ以外の場所について知ろうと欲するだろうか。
青い男 いえ、そのようなことはありません。彼はこの世界で利益を求めることはないからです。
私 そうなのだ、青い男よ。世間の利益に心が進んでいない人物には六種類の渇愛は捨て去られているのである。故に、その彼には、この世界のどの様なものを見ても、聞いても、嗅いでも、味わっても、触れても、法を知っても、満足しないのである。それ故に、完全知以外に求めることはできないのである。
それでは、青い男よ、次に完全知を誤解している者について説くことにしよう。
青い男 はい。
私 青い男よ、ここにある人がいるとする。その人物は自己の利益に心が進んでいる。自己の利益を追い求めている。故に、その人物は自己の利益について語り、自己の利益について考え、自己の利益について見解を持つようになる。そして自己に捕らわれ、自己に固執し、自己に執着することにより、喜びを得るのである。
そして、ここにもう一人の人がいるとする。その人物は自己の利益に心が進んでいない。自己の利益を追い求めない。故に、その人物は自己の利益について語らず、自己の利益について考えず、自己の利益について見解を持つことがない。故に自己に捕らわれず、自己に固執することなく、自己に執着することなく、心が動じないのである。
そして、青い男よ、自己の利益に心が進んでいる人物には、五種類の我が生じているのである。
それは、身体こそ自己であると思い、身体を支配し、自己の意志に身体を従属させるが故に生じた、身体の我である。
楽や苦の感受こそ自己であると思い、楽や苦の感受を支配し、自己の意志に楽や苦の感受を従属させるが故に生じた、楽や苦の感受の我である。
心こそ自己であると思い、心を支配し、自己の意志に心を従属させるが故に生じた、心の我である。
意志こそ自己であると思い、意志を支配し、自己の意志に意志を従属させるが故に生じた、意志の我である。
意識こそ自己であると思い、意識を支配し、自己の意志に意識を従属させるが故に生じた、意識の我である。
故に、自己の利益に心が進んでいる人物は、これらの我を追い求め、これらの我について語り、これらの我について考え、これらの我について見解を持つようになる。そして、これらの我に捕らわれ、我に固執し、我に執着することにより、喜びを得るのである。
そして、青い男よ、自己の利益に心が進んでいない人物には、五種類の我は生じていないのである。
それは、身体は自己であるとは思わず、身体を支配せず、自己の意志に身体を従属させないが故に、身体の我は生じないのである。
楽や苦の感受は自己であるとは思わず、楽や苦の感受を支配せず、自己の意志に楽や苦の感受を従属させないが故に、楽や苦の感受の我は生じないのである。
心は自己であるとは思わず、心を支配せず、自己の意志に心を従属させないが故に、心の我は生じないのである。
意志は自己であるとは思わず、意志を支配せず、自己の意志に意志を従属させないが故に、意志の我は生じないのである。
意識は自己であるとは思わず、意識を支配せず、自己の意志に意識を従属させないが故に、意識の我は生じないのである。
故に、自己の利益に心が進んでいない人物は、これらの我を追い求めず、これらの我について語らず、これらの我について考えず、これらの我について見解を持つことがない。そして、これらの我に捕らわれず、我に固執せず、我に執着しないことにより、不動の心を得るのである。
そして、自己の利益に心が進んでいる状態とは、適切な水を与えられ、適切な日差しを浴び、養分のある土に植えられ、適切な気温の中、外敵から守られて成長した植物のようなものである。
その様な植物には、十分に成長し、葉が茂り、花が咲き、果実が豊かに実るであろう。そして、その果実が次のその植物へと成長するのである。
青い男よ、このことをどう思うか。つまりその様な状態の生育環境や生存の要因によって成長した我は、自らが完全な存在である、と思い込んでしまうのではないだろうかということである。
青い男 確かにそうであると思います。この我の生育環境や生存の要因において、それ以外を知ることは不可能でしょう。
私 そうなのだ、青い男よ。様々に手間をかけ、世話をした我が、行為をし、その期待した結果が出たというだけに過ぎないのに、自己の利益が多大であるために、このようにさせるものが完全知である、と誤解してしまうのである。しかしそれは、我による固執、執着の行為により、次の有が生じたに過ぎないのである。
そして、自己の利益に心が進んでいない状態とは、適切な水を与えられず、適切な日差しを浴びず、養分のない土に植えられ、極端な気温の中、外敵から守られることなく、枯れてしまった植物のようなものである。
その様な植物は、成長せず、葉は茂らず、花は咲かず、果実が実ることはないであろう。故に、その果実が次のその植物へと成長することはないのである。
青い男よ、このことをどう思うか。つまりその様な状態の生育環境や生存の要因によって枯れてしまった我は、自らの生存において完全な存在にはなれない、と認識するのではないだろうかということである。
青い男 確かにそうであると思います。この我の生育環境や生存の要因において、それ以外を知ることは不可能でしょう。
私 そうなのだ、青い男よ。五種類の我が滅している彼に、固執、執着の行為は存在せず、その結果が出ることはないのである。そしてそれは、我による固執、執着の行為が滅したため、次の有が生じないことになるのである。
故に彼は、『私の生まれは尽きた。梵行は完成された。為すべきことは為された。もはやこの人生以外の他にはない、と知ることができた』という、完全知を理解する為の心が生じることになるのである。
では青い男よ、最後に、自らの自惚れから、完全知を知らないままに、『私の生まれは尽きた。梵行は完成された。為すべきことは為された。もはやこの人生以外の他にはない、と知ることができた』と答える者についてあなた方に説くことにしよう。
青い男 はい。
私 青い男よ、ここにある人がいるとする。その人物は心の安住に心が進んでいる。心の安住を追い求めている。故に、その人物は心の安住について語り、心の安住について考え、心の安住について見解を持つようになる。そして自らの心の永遠の安楽性に浸り、そのことにより喜びを得るのである。
そしてここにもう一人の人がいるとする。その人物は心の安住に心が進んでいない。心の安住を追い求めない。故に、その人物は心の安住について語らず、心の安住について考えず、心の安住について見解を持つことがない。そして自らの心の永遠の安楽性に浸ることはなく、そのことにより喜びを得ることはないのである。
そして、青い男よ、心の安住に心が進んでいる人物には、九種類の世界の安住が生じるのである。
一つ目の世界は、多様な身体と多様な精神の存在を観察することにより、意識がその身体の相対性と精神の相対性に歓喜することで、この世界に安住するのである。
二つ目の世界は、多様な身体と単一な精神の存在を観察することにより、意識がその身体の相対性と精神の絶対性に歓喜することで、この世界に安住するのである。
三つ目の世界は、単一な身体と多様な精神の存在を観察することにより、意識がその身体の絶対性と精神の相対性に歓喜することで、この世界に安住するのである。
四つ目の世界は、単一な身体と単一な精神の存在を観察することにより、意識がその身体の絶対性と精神の絶対性に歓喜することで、この世界に安住するのである。
五つ目の世界は、単一な身体と不動の精神の存在を観察することにより、意識がその身体の絶対性と精神の捨に歓喜することで、この世界に安住するのである。
六つ目の世界は、不動の身体と不動の精神の存在を観察することにより、意識が意志の相対性と認識の絶対性に歓喜することで、この世界に安住するのである。
七つ目の世界は、単一な意志と多様な認識のある存在を観察することにより、意識が意志の絶対性と認識の相対性に歓喜することで、この世界に安住するのである。
八つ目の世界は、単一な意志と単一な認識のある存在を観察することにより、意識が意志の絶対性と認識の絶対性に歓喜することで、この世界に安住するのである。
九つ目の世界は、単一な意志と不動の認識の存在を観察することにより、意識がその意志の絶対性と認識の捨に歓喜することで、この世界に安住するのである。
故に、心の安住に心が進んでいる人物は、これらの世界の安住を追い求め、これらの世界の安住について語り、これらの世界の安住について考え、これらの世界の安住について見解を持つようになる。そしてこれらの世界の永遠の安楽性に浸り、そのことにより喜びを得るのである。
そして、青い男よ、心の安住に心が進んでいない人物には、九種類の世界の安住は生じないのである。
一つ目の世界に存在する、多様な身体と多様な精神を観察しても、意識がその身体の相対性と精神の相対性に歓喜せず、この世界に安住しないのである。
二つ目の世界に存在する、多様な身体と単一な精神を観察しても、意識がその身体の相対性と精神の絶対性に歓喜せず、この世界に安住しないのである。
三つ目の世界に存在する、単一な身体と多様な精神を観察しても、意識がその身体の絶対性と精神の相対性に歓喜せず、この世界に安住しないのである。
四つ目の世界に存在する、単一な身体と単一な精神を観察しても、意識がその身体の絶対性と精神の絶対性に歓喜せず、この世界に安住するのである。
五つ目の世界に存在する、単一な身体と不動の精神を観察しても、意識がその身体の絶対性と精神の捨に歓喜せず、この世界に安住しないのである。
六つ目の世界に存在する、不動の身体と不動の精神を観察しても、意識が意志の相対性と認識の絶対性に歓喜せず、この世界に安住しないのである。
七つ目の世界に存在する、単一な意志と多様な認識を観察しても、意識が意志の絶対性と認識の相対性に歓喜せず、この世界に安住しないのである。
八つ目の世界に存在する、単一な意志と単一な認識を観察しても、意識が意志の絶対性と認識の絶対性に歓喜せず、この世界に安住しないのである。
九つ目の世界に存在する、単一な意志と不動の認識を観察しても、意識がその意志の絶対性と認識の捨に歓喜せず、この世界に安住しないのである。
故に、心の安住に心が進んでいない人物は、これらの世界の安住を追い求めず、これらの世界の安住について語らず、これらの世界の安住について考えず、これらの世界の安住について見解を持つことがない。そしてこれらの世界の永遠の安楽性に浸ることはなく、そのことにより喜びを得ることはないのである。
そして、心の安住に心が進んでいる状態とは、自らが国民や臣下に称えられ、尊敬される、争いのない平和な国の、国王の如きものである。
その国王は、不善の法を離れ、心が統一され、慈しみと憐れみの心を持ち、善く国を統治している。
青い男よ、このことをどう思うか。つまりこのように自らの世界を統治することの出来た彼は、その世界に満足して安住し、その永遠の存続を願うのではないだろうか。
青い男 確かにそうであると思います。彼は自らが創り得た国の国王として、自らが称えられ、その安楽を享受することを当然と思い、そこに安住するでしょう。そしてそれを維持する以外の人生はないとするでしょう。
私 そうなのだ、青い男よ。その彼の世界に対する慈しみ、憐み、善法の喜び、心の平静、それらを有するが故に、この世界は清浄であるとの見解を持つ。
彼は自らを、この自らが創り上げた世界の中心として自惚れることとなり、完全知を知らないままに、『私の生まれは尽きた。梵行は完成された。為すべきことは為された。もはやこの人生以外の他にはない、と知ることができた』と答えるようになるのである。
そして、心の安住に心が進んでいない状態とは、周囲の人々に、軽蔑され、嫌悪される修行者の如きものである。
その修行者は、不善の法を離れ、心が統一され、慈しみと憐れみの心を持ち、善く自己を統治している。
青い男よ、このことをどう思うか。つまりこのように自らの存在を統治出来たが、周囲の無理解が生じ、その軋轢に苦しむ彼は、それぞれの世界に苦悩し安住できず、それぞれの世界からの解脱を願うのではないだろうか。
青い男 確かにそうであると思います。彼は自らが修行し、自己の存在を統一しましたが、それぞれの世界は彼の為には存在せず、彼の目的を理解しない為に、安住できず、それぞれの世界からの解脱を願うようになるでしょう。そして、この世界からの完全なる解脱である涅槃以外には人生はないとするでしょう。
私 そうなのだ、青い男よ。その彼の世界に対する慈しみ、憐れみ、善法の喜び、心の平静、それらを有するが故に、この世界は清浄であるとの見解を持つが、その世界も彼の為に存在するものではなく、彼の目的は存在せず、全ての知り得た法は変移して行くのみであると知り、涅槃に心が向かうのである。
そして、青い男よ、その様な彼にはまた、このような道理が理解されるのである。
世界は変移するものである。
世界は変移するものであると知っている為、世界が恒常であるとして歓喜してはならない。
世界は無常であると知っている為、世界が安楽であるとして歓喜してはならない。
世界は苦であると知っている為、世界が意志あるものであるとして歓喜してはならない。
世界は無我であると知っている為、世界が『私の為の世界』『世界の為の私』であるとして歓喜してはならない。
そして、全ての世界を知り、全ての世界に歓喜せず、それぞれの世界との束縛を断ち、解脱した者が、完全知を会得したと言えるのである。
それは何故か。彼には知悉されているからである。自分自身の煩悩が滅尽したことにより、煩悩のない心による解脱、智慧による解脱を現実に良く知り、その存在を見て、涅槃がそこに成就したことを知ったからである。
そのことにより、彼は『私の生まれは尽きた。梵行は完成された。為すべきことは為された。もはやこの人生以外の他にはない、と知ることができた』と、多くの様々な存在の前で述べることが出来るのである。
青い男、黄色い男、赤い男、光に包まれる。
青い男、黄色い男、赤い男、それぞれ本来の神の姿に戻る。
三人、私を縛っていた縄をほどき、礼拝をする。
黄色い神・赤い神 (互いに見合って)我々は真の姿を取り戻すことができた。これは不思議なことだ。
青い神 素晴らしいことです。君よ、我々の疑いを良く晴らしてくれました。我々を覆っていた膜が取り除かれ、暗闇の中に燈明が灯されました。我々には完全知へ至る希望が生じました。私達はその法に帰依します。今より以後、あなたは私達を帰依した信者として認めて下さいますように。
三柱の神、感謝の言葉を述べた後、巨大な口の中に入って行く。
暗転。