第二部 現在の私(Ⅰ) 第二章 思考 第二節 場所
孤独が始まり、反射する光。
内面が形成され、流れ出す水。
景色は消え去り、空に裂け目が生じた。
私が小学生の頃住んでいた街。
私は内向的であり、神経質であった。
そして、自分の性質とは違う思考や言動を会得しようと模索していた。
私には智慧が無い。私の思考は空回りをしていた。
私の部屋には本がある。私の中には抽象化された地獄がある。
記憶は共有されるものである。記憶は奪われる為にある。記憶は壊され改ざんされる為にある。
悪魔の創った男の囮は言った。
「自己は強くなければならない。そうすれば、いかなる願望の実現も容易に出来るようになる。俺を模範とするがいい」
悪魔の創った男の囮は良く出来ていた。
意志はそれが正しいと認識している。過去からの生存の意志は絶対である。
私は言った。
「それならば、その意志以前には何があったのか?」
繰り返して来た生存に他ならない。
そして、ただ生存が続けられたところに、認識された意志があっただけだ。
意志は私によって創られたものに過ぎない。
「身体は強くなければならない。そうすれば、いかなる肉体の欲も容易に実現出来るようになる。俺の真似をするがいい」
沢山の、無数の、男性記号、情報、自らの道を塞ぐような。
全ての願望を、苦しみを、結びつけるもの。
「君の成りたい者に成れるだろう。欲しいものが手に入るだろう。俺にはそれが可能なのだ。この世界を君に与えることも」
世界は、彼らのものでなくてはならない。
自己は、誰かを、過去を模倣しなければならない。
何故なら、過去の模倣を繰り返せば、必ず今と同じ様に、次の生が約束されるから。
知ってはならないことが最優先であり、それは常に楽・喜び・生存の幸福のみを思考し続けることなのである。つまり知らなくてはならないことは、その逆の事柄であり、あるがままの現在の私である。
病が現れ、土地が隆起する。
身体が形成され、外殻のある都市。
存在の為の祝祭、八つの邪な道。
私が中学生の頃入院していた病院。
私は慢性腎炎と診断され、一年二ヵ月の間、そこで暮らした。
自分の身体は自己の所有物ではない。自分の身体は消費される物体である。
私は自らの業を変えられない。次に来るであろう事柄。
この病院には真実が在る。この病院は抽象化された都市の様である。
思考することは敗北である。思考は既に意味を為さない。思考は死んだ未来である。
罠を仕掛けた悪魔は言った。
「君は罠に掛かるであろう。そして、この世界に対し、自身に対し、他者に対し、疑念と憎悪を抱くだろう」
悪魔の仕掛けた罠は良く出来ていた。
意志はそれが正しいと認識している。この憎悪を抱いて生き抜くべきである。
私は言った。
「私は全ての罠に掛かるだろう。しかし、残念だ。それは真理では無いのだから」
私は悪魔のその非力さを知っている。
そして、彼らのそのあまりの小ささに、虚しくなるのだ。
私は欲望や生存以上の法が知りたかった。
「その意志は強くなければならない。その意志の力によって、君の知りたがっている智慧も真理も手に入るであろう」
沢山の、無数の、哲学、思想、法、宗教、渦に巻き込まれる様な。
全ての希望を、苦しみを結びつけるもの。
「君は出口を失うであろう。社会から排除されるであろう。病はより悪化するであろう。流れには逆らうことが出来ないであろう」
世界は、無知でいなければならない。
世界は、間違い続けなければならない。
何故なら、間違い続ければこそ、それを直そうと、正そうと、劇場の幕が開き、人々は集まり、興行が始まるからだ。
人々の楽しめる祭りが最優先であり、神はそれに関与してはならない。きっと人々は真理など無い方が楽しめるのであろう。
既に間違っている者達が、さらにそれを歪め、負債を膨れ上がらせていく。つまり、私が罠から抜け出すには、祭りを中止させなければならない。
声が聞こえ、時間が割れる。
幻が現れ、存在が溶けていく。
夢が現実に成り、肉体が穴だらけになる。
私が退院した後、引っ越して来た街。
私は穿たれた穴であり、引き裂かれた二つの物体であった。
しかし、私は何とかそれらを元に戻す方法を思索していた。
私は愚か者である。私の思考は周囲の者とことごとく違う。
私の時間には幻想の世界が在る。私の精神は他人に操られている。
精神は重たい泥の様だ。私が生きる為の全てを埋没させていく。私は私の意志を用いることを拒否し続ける何者かについて考えなければならなかった。
悪魔の創った女の囮は言った。
「自我は自由なもの。意志も自由なもの。あなたが願えば、何でもその通りになるでしょう。私の言う通りにすればね」
悪魔の創った女の囮は私に纏わりついた。
精神はそれを存在と認めていた。私の認識は肉体とも精神とも異なっていた。
私は言った。
「俺はお前の言うことなど聞かない。お前に従うぐらいなら死んだ方がましだ」
周囲や社会の正しさがある。
そして、その示された行為を、その時に為せば、初めから用意された世界が現れる。
世界は私によって創られたものに過ぎない。
「世界は唯一神が創造したものです。故に、唯一神に従うことが、そしてその存在を認識しその声を聞くことが、人間の取るべき道です」
沢山の、無数の、紙切れ、木屑、土、誰かの仕事場であったに過ぎない。
無知を、生存を、引き延ばすもの。
「あなたの欲しい知識が得られるでしょう。あなたの欲しい財産が得られるでしょう。あなたの欲しい名声が得られるでしょう」
世界は、唯一神のものである。
自己は、神を模倣したものでなければならない。
何故なら、唯一神の行を繰り返せば、必ず現在と同じ様な世界が約束されるから。
神の意志に従うことが最優先であり、それは常に自らが神の立場で考え、発言し、行動することになるのである。つまり自己は無く、誰かの物真似をし続けることになる。しかし、私は肉体や精神、そして神や悪魔にも従わなかった。
心の中に沈む、感覚が失われていく。
大勢の人々がいる、自身の肉を切り取る。
自らを傷つけることで歓び、お前もこっちへ来いと、彼らは言う。
私が実家から出て、就職した街。
私は頑なに拒否する者であり、自らが何も見えず聞こえないことを喜ぶより他なかった。
しかし、まだこの先には何かあるのではないかと……、窪みがある。底がある。蠢いている者達。
縦と横の線。街は紙で出来ている。
降って来る言葉。黄色や黒の人々。
うねり、叫び、急降下する。嘘があり、笑ってばかりいる。薬、幻覚。惨めさ。
貪欲の悪魔は言った。
「君は孤独なだけさ。緑の馬。何でも話せる野蛮な人達。作るべきだ。まだら模様の食物。カウンセリングに行った方がいい」
貪欲の悪魔は、悪魔にも成れなかった。彼は既に死期が迫っていた。彼は焦っていた。私と世界を結び付けようとした。
私は言った。
「俺は俺で、俺は俺では無い。俺は俺の子供で、俺は俺の親では無い。俺は親を殺し、親は俺を殺す。俺は子供を殺し、子供は俺を殺す。俺は俺を殺し、俺も俺を殺す」
私は私の言葉を知る。そしてその様に準備されて来た。私は建設しなければならない。
「君は一人になってはいけない。君は多くの人々と繋がるべきだ。殺してはならない。奪ってはならない。それを為してはならない」
沢山の、無数の、建物、壁、土台、全ての材料が揃っていた。
「君は絶望を抱えたまま、周囲に殺されなければならない。社会に抹殺されなければならない。死体は語ってはならない」
ただ自己の命のみを守って来た者。
自己は捨て去るべきものである。
存在とは捨てられて初めて理解出来る。
何故なら、肉体と精神を捨て去ることによってのみ、その意志や繰り返された行為が捨てられることになるからである。
最も惨めな生き方は自己保存の意志に従う事だ。それは常に見えない何かに従属し、見る力も、考える力も、話す力も奪われるからだ。そして、狂ってしまった貪欲は私の為に何らの機能も果たすことなく死んでいった。