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序 旅の始まりと終わり

 その存在は我々の目には見えない。

 その存在はその人の辿って来た道のりを知り、裁決を下す。

 その存在は真実を貴ぶ。

 その存在はその人にその人生における真実を問う。

 その時が来たならば、その人はその存在に対して、自らの人生における真実を述べ、その真実を証明しなければならない。

 そして、その真実は、その人の辿って来た道のりにおいて、証明されていなければならない。

 その人の辿って来た道のりと、その人の証明する真実の一致を見た時、その存在の役割は終わり、その人に対する裁決は下され、その人の旅も終わる。

 この作品はその道のり(真実の探求とその結果)を描いたものである。

 そして、その道のりを幻想の世界、抽象の世界として描いた。その理由は三つある。

 一つは、純粋に思考の過程を描くなら、この作品は哲学を幾つか並べるだけのものとなっていただろう。私の思う真実は、その人の業に基づく探求にあると考えている。よって『幻想の世界の旅』という形式が、最も私の思う探求というものの形式に合っていると思われるためだ。

 もう一つは、目には見えない、『意識というものに基づく身体』を有した存在であるので、その存在が在る世界も自ずから幻想的、抽象的にならざるをえないためである。

 最後の一つは、現実の私との対比をより明確にするためである。この存在は、私の業を辿って来たという意味において、私とは不可分な関係にあるが、過去の私の探求という意味において、同一ではない。私の考えでは、『過去の行為は、現在の抽象的な見解に帰する』と考えるためである。そのため、この作家である現在の私が描くならば、その世界は自ずから抽象的な見解を中心とした世界にならざるをえないためである。

 そして、その道のりを三つの段階に分けて書いた。

 第一の段階は、意識体による旅の話である。様々な幻想と出会い、それらの像の思想を明らかにしていく。

 第二の段階は、それらの像が示した、無明、無知を如何に乗り越えるのか、を意識体と私による対話で明らかにしていく。

 第三の段階は、乗り越えていく過程で、障害と成る、五つの思考をどの様に、有益な五つの思考に変化させていくか。智慧は、どの場所で統一されうるのか、を五つの思考を五人の長老という人格で表現し、私と会話することで、それらを明らかにしていく。

 その存在は我々の目には見えない。しかし、私はその存在を幻想の世界の住人として描かなくてはならない。

 その存在(彼)の外見を記す。

 彼の身体の色は白い。絵の具の様な。

 彼の全身には無数の目がある。

 彼の胸部には槍が刺さっている。

 彼の胸からは金色の血液が流れだしている。

 その存在には目的がある。そしてその存在が対象の有する真実を辿る時、その存在とその対象の目的は一致している。

 目的は三つある。

 第一には、自らの生きる意味を探し求めている。

 第二には、この世界における最高原理を探し求めている。

 第三には、この存在より優れた存在を探し求めている。

 物事には始まりと中間と終わりがある。この旅においても例外ではない。旅の始まりには未熟であっても、終わりに近付くにつれて、立派になっていくだろう。

 始まりは、誰でも粗暴であるものだ。この存在とて例外ではない。

 始まりは、誰でもその心は飢え渇いているものだ。ただ、何もない荒れた大地を彷徨っているものだ。

 始まりは、誰でも真実など知らないものだ。自身の肉体、精神に映る感覚、感情を真実と思い込むものだ。

 始まりは、誰でも本当の利益など理解しないものだ。自らの肉体、精神の欲に従って生きるだけだ。

 始まりは、誰でも恐怖し、痛がり、臆病になり、この世界で最も心の弱い者だと、自ら思い込むものだ。それは、この偉大な存在であっても例外ではないのだ。

 中間には、自らの怒りの小ささを学ぶものである。より大きな流れの中に在り、自ら意志によって、この流れを変えることはできないと知る。

 中間には、この私という存在は、肉体や精神によって満たされることはないと学ぶものである。ただ智慧によって、この壊れた意識を治すことができると知る。

 中間には、外部、内部からの感覚、感情は真実ではなく、生じては消え行くものと学ぶものである。ただ全ては移り変わるのみであり、そこには何者も存在することはできないのであると知る。

 中間には、決められた物事などなく、また自らというものも無いと学ぶものである。私個人の利益などは決して存在するものではなく、心の中の悪意や害意を取り除くことができるのみであると知る。

 中間には、肉体や精神の恐怖、痛みは過ぎ去るものに過ぎないと学ぶものである。そして存在は何物にも従う必要などないと知る。

 終わりには、この流れの中に、自らの洲を造ることができる。この地において、自らの始まりと終わりを見ることが可能になる。

 終わりには、この私という器を満たすことができる。この存在において、この世界における最高原理を有することが可能となる。

 終わりには、この私という存在に対して全てが傅くようになる。その状態において完全知という真理を体現することが可能となる。

 終わりには、この真理が自分自身の本当の利益となり、それが真理であるが故に、全ての存在にとっての利益ともなる。そして、この真理を教えとして述べ伝えることが可能となる。

 終わりには、慈しみと憐みにおいて、全世界が満たされる。その世界において、最も優れた存在であると証明され、そして全ての存在にその通りであると認識させることが可能となる。

 かつて私は何も理解していなかった。

 私の知る世界は、私にとっての『世界』であったのだ。私にとっての『世界』について、私は考えていたのだ。世界は私の一部であると思って私は考えていたのだ。世界は、私を基準として知りうるものだ。そして、それは『私の世界』である、という盲信を生んだ。私は、この盲信を喜んだ。そして、私は無知なる亡者として、この人生という荒野を旅することになったのだ。

 この盲信の喜びは、『私の知る世界こそが、本当の世界である』という認識から来るものだ。この世界は常に同じであり、変わることがない。この世界における善や徳は、私の善や徳である。この世界は私であり、私の世界であり、私が望んだ世界であり、最高原理を基に創られた世界であり、最高原理は永遠であり、善であり、私とは世界であり、最高原理であると。私は、この様に喜びを深めていったのだ。しかし、そのことによって、私はこの世界に縛られ、従属し、盲目となった。世界は固く閉ざされ、疑うことは、苦であり、不善であり、不徳となった。私は何も知ってはならない者となり、何も知ることはできなくなった。何も見ることはできず、暗闇の中に取り残された。

 この暗闇の中で、私は様々な幻を見た。様々な象徴、概念、抽象、意志と出会い、それらと対話し、争った。

 そして、それらは、一様に、何かを私に対して求めているのであった。何故なら、それらの一切は、過去の私の断片であり、過去の私の過ちが、形として、現出したものであったからだ。彼らに取り囲まれた私は、己の間違いを認めざるをえなかった。

 私は、暗闇の中で一人考える。私が、ここに在る時、私の内部で、流動する、或る感覚がある。私は、何もしていないのに、勝手に何かを動かそうとする、或る感覚がある。

 それは、外部の業と呼応した、私の我であった。その私の我は、外部の業と呼応し、引かれ合い、衝突し、消滅していった。

 私は、何もしない事を学んだ。須く、この自分の制御できない、内部の我は、私の意志では無いが故に、それに私が従わない時は、彼は、私の内部から出て行ってしまうことになるのだ。

 今、私は、文章を書いている。そして、これは私の内部の我である。もちろん、このまま書かずに、この我を放り出してもよいが、この外部の業と一致する、この私の我とも業とも呼べるものについて、分析することによって、私が、何故、この様な人生であり、何故、この様に生きなければならず、何故、ここに存在するのか、が明らかになれば、そのことによって、この業が、私にとって、最後の業であることを、証明できるのではないか、と考えているのだ。

 最後の業は最後の我である。

 最後の我は最後の存在である。

 最後の存在は最勝にして最高の原理である。


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