プロローグ
「こんな果ての果てみたいな所にも、大した勇者がいたものだねえ」
大陸の遥か東、そのさらに東の海に浮かぶ島国で人間たちが遠江国と呼ぶ土地。そこに位置する見附天神社という神社の境内で、そんな声がつぶやかれた。
既に夜の帳が下りて久しいその場に、人間と呼べる生き物の姿はない。その場で立って歩いているものは、4本の足を持った影が大小合わせて2つきりであるにもかかわらず、だ。
2つの影のうち、小さいほうが大きい方の影へと歩みよっていく。3尺――約90cm――程の高さがある大きな影の傍には、更に巨大な影が3つ倒れていた。倒れている影を見下ろしながら、冷めた声で失笑を漏らす。
「神様を騙って生贄を要求し、無法にふるまっていた賊ども、浅ましいったらないねえ」
影の正体は、巨大な狒々(ひひ)だった。1丈――約3m――程もある巨大な猿の化け物が3匹、血にまみれて倒れている。その躯は、獣の爪牙の痕にまみれて傷のない部位を見つけることさえ難しい。
そのみじめな亡骸こそ、この神社が属する見附村で神を名乗って人身御供を命じ、村人たちを苦しめ続けていた悪党たちだった。
「だけど、君に見つかったのが運の尽きだったってわけだ!」
化け猿たちを冷たく嘲笑っていた小さな影は、一転した痛快そうな明るい声で言い放つ。大きい方の影を見やり、腹を抱えかねない勢いで呵々大笑した。
「こんなでっかい化け物相手に1対3で見事勝利、大したものだね、本当に」
『そこまでのことでもないと思うのだが』
小さな影からの称賛に、大きな影は苦笑じみた言葉を漏らす。言葉、といっても人間の耳には意味を持つものとして伝わるものではないだろう。耳にしたとしても、ただの鳴き声にしか聞こえまい。2つの影が語らうその場に、雲に遮られていた月から漏れた光が1条、影たちを照らすように差し込む。
小さな影の正体は、奇妙な猫だった。1尺2寸――約36cm――程の大きさをした、深い蒼色の毛並みを持つ年寄りそうな猫。それが、まるで人間さながらに口をきき、愉快そうにはしゃいでいる。
大きい方の影の正体は、白銀の毛並みを持つ犬だった。そうとはといっても、その姿は本来であれば、という但し書きがつくべきだろう。真っ赤な鮮血で全身のいたるところを染めたその姿では、元々の色がほとんどわからないのだから。血まみれの身体に抜き身の刃のような鋭い眼差しという剣呑な様でありながら、深く年輪を重ねた大樹の如き穏やかな空気を纏う、そんな犬が面白がっている猫の様子に苦笑を漏らしている。
「謙遜することはないさ。力なき村人たちを脅かす怪物を、武勇を以って打倒する。まるで、人間族の英雄譚じゃないか! 僕ら獣の身で人間族の伝説に名を遺す連中はそれなりにいるけれど、君程の傑物は何人いるやら」
大きな口を三日月のごとき曲線で笑みの形に曲げながら、奇妙な猫は血塗れの犬を絶賛した。猫の言葉の通り、人間たちが伝説として語り継いでいる動物たちは少なからずおり、その中には怪物打倒の一役を担う者もいる。しかし、そのほとんどが相手をだます、弱点を突くといった作戦に頼ったものであり、この犬のような純然たる己の力を頼みに敢然と悪に立ち向かい、そして勝利した者など数えるほどもいないのではないか。
「とはいえ、確かに代償は安くなかったようだね」
散々笑い続けた猫は、やがて落ち着いた声で言う。口は笑みのままながら、瞳の色は犬の身を案じるように温かなものとなっていた。
犬の身を染める血は、狒々たちのものだけではない。狒々たちとの闘いで負った、犬自身の傷から流れたものも多くあり、そして今なお流れ続けている。
「助からないだろうね、その傷」
『さもあろうな』
猫の言葉を、犬は冷静に肯定する。自分の身だけに悟っているのだ。自分の命が、もう長くないことを。
そして、犬は猫に背を向け、歩き始める。
「帰るのかい?」
『いかにも。それくらいであれば、まだこの寿命ももつであろうし、最期は己の棲処で命を終えたい』
もはや死が間近であるというにも関わらず、犬には何の焦りもない。あくまで自然体のまま、死を受け入れているかのような犬の様子に今度は猫が苦笑してみせた。
「湿っぽいのは嫌いだからね、慰めは言わないよ?」
『構わんさ、拙僧は満足している』
言って、犬は狒々たちの死骸を見下ろす。死の際にありながら、その瞳が放つ光には一点の陰りもない。
「罪なき人々が謂れもなく平穏を脅かされ、苦しまなければならない。それが当たり前であることなど、拙僧はごめんだ。そんな悲しい話を、少なくとも拙僧は1つ無くすことが出来た。例え相打ちに近くとも、そのことだけで十分納得できる。死にたかったわけではないし、残念ではあるが、これも拙僧自身が選んだこと。戦うと決め、そして死ぬのであれば、それが天命というものであろうさ」
犬の言葉に、猫は感嘆の息を吐いた。
「とことん大した雄だよ、君は」
益々笑みの色を濃くする猫に、犬も笑い返した。
『貴殿にそこまで褒められるとは光栄だ、猫族の長老殿』
犬の言葉に、猫は目を瞬かせた。
「知ってたのかい?」
『貴殿のことはこの地にも伝わっている。この世で最も永い時を生きている者の1人だと』
「やれやれ。たかだか死に損なってるだけで、こんな所にまで名が知られるようになるとはねえ」
呆れたように笑う猫に、犬は言葉を続ける。
『なんとも短い出会いであったが、これも何かの縁。生まれ変わった時には、再び会おう』
「それも悪くないね。君ほどの魂が転生するとしたら相当な年月がいるだろうけど、その時でも多分僕は死に損なってそうだし」
『では、さらばだ。長老チシャ殿』
「ああ、次は生まれ変わった時にね。勇者早太郎」
別れの言葉を交わし合い、犬族の勇士、早太郎は去っていった。その後ろ姿を見送りながら、猫族の長老チシャは苦笑を漏らす。
「彼がもし猫族だったら、間違いなく当代の王様は彼だったろうに、残念だねえ。毎回毎回、僕らの王様選びは難航するんだから」
愚痴を漏らすと、チシャは天を仰いで祈るように言った。
「願わくは、彼が次に生まれてくるのなら、僕ら猫族でありますように」
だけど、とチシャは続ける。
「もしそれが叶わないのなら、猫族の王様選びを手伝ってもらいたいねえ。彼の生まれ変わりなら何に生まれても一廉の存在にはなるだろうし、きっとその時の王権問題の解消の手助けになってくれるだろうから」
願望を口にしながら、チシャもまたその場を、そしてこの国を後にした。
その翌朝、人間たちに信濃国と名付けられた土地にある寺院、光前寺。遠江国の見附村から遠く離れた故郷へ、早太郎は瀕死の身を押して辿り着く。そして、寺の和尚に怪物退治の成功を知らせるごとく一声鳴いてみせた。それが、早太郎の最後の声だったという。
それから700年ばかりの時が流れ、遠江国が静岡県、信濃国が長野県と名を変えた頃のこと、早太郎の狒々退治は「霊犬早太郎伝説」として語り継がれていた。
そして、猫族の玉座を巡る新たな霊犬伝説の始まりは、人間族の呼び名で言う東京都新宿区から。その契機は、犬族の勇者の魂を受け継ぐ少年と、伝説の招き黒猫の末裔の少女の出会いから。
この作品は「光前寺の霊犬早太郎伝説」とアイルランド民話の「猫の王様」をベースにしています。伝説の霊犬の生まれ変わりが巻き込まれていく猫族の王座争奪戦の物語を、楽しんでいただければ幸いです。