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真田の血筋

作者: 中根 勝永

 第一章 波紋


 「そうか、入ったか」

 少し早い冬の声が聞こえ始めた信州上田領に建つ真田屋敷の一室。

 囲炉裏の中で弾ける枝の音にかき消されるほどの小さな声で信之は呟いた。

 慶長十九年(一六一四)十月、徳川家康は豊臣家の居城である大阪城を攻めるべく全国の大名に号令を発した。

 太閤秀吉に多大な恩を受けた大名達も時流に取り残されたくないが為に家康に従う意思を見せた。

 それに対抗すべく豊臣家も各大名に助力を求めたが応じる大名はなく、その触手を浪人に伸ばした。

 再び世に出る機会を得た浪人達は大挙して大阪城に入城した。

 真田伊豆守信之の弟である左衛門佐幸村もまた、配流先である九度山を脱け出し、大阪城に入城したのだった。


 「源次郎様が配流先を抜け出すとは」

 信之の横に座る痩身で背の低い老人は囁いた。

 幸村のことを「源次郎」と通称で呼び、信之の盃に酒を注いでいるこの老人は、信之に長いこと仕えている忍び、甚兵衛である。

 本来、忍びが主と酒を酌み交わすことなど恐れ多きことではあったが、信之はこの老人にそれを許しており、甚兵衛もまた信之の施しに甘んじていた。

 この不思議な主従関係は甚兵衛が真田家に仕えた五十年前から始まっている。

 当時、真田家はまだ武田家の一武将であった。

 信之の父昌幸は真田家の三男として生まれ、主である武田信玄の命により甲斐の名家で後継ぎのいない武藤家の養子となった。

 武藤家は武田家の忍び衆を取り仕切っていたことから、信玄は重要視していたらしい。

 ところが天正三年(一五七五)長篠の戦いにおいて、真田家の祖、幸隆の嫡男であり真田家の当主であった信綱、次兄の信輝が相次いで戦死した。

 当主を失った真田家は昌幸に託され、信玄が残したいと願っていた武藤家は絶家となってしまったのだ。

 心から信頼していた信玄の命により受け継いだ武藤家が絶家となったことは、昌幸にとって身を切るほど辛かったらしく、

 「負け戦がもたらす絶家は武門の誉れ、嫡男の不幸がもたらす絶家は武門の恥」

と一門衆に諭していた。

 武藤家が絶家となったことによって武田の忍び衆は散り散りになってしまったが、昌幸を慕っていた夫婦忍びの甚兵衛と比佐は、三歳になる息子甚助を連れて真田家に仕えた。

 その後、味方の裏切りにより比佐を亡くした上、己も傷を負ってしまった甚兵衛は命からがら昌幸の居る岩櫃城に戻った。

数日の間生死を彷徨った甚兵衛が意識を取り戻した時、既に武田家は滅亡しており、もしもの為にと知人に預けておいた甚助は行方知れずとなっていた。

 妻子を無くし失意の底にあった甚兵衛を不憫に思った昌幸は、その不幸者に嫡男信之の守護という名誉ある重責を命じ、真田家が武門の恥とならぬように努めさせた。

 それから三十年程の時が経ち齢七十の老人となった甚兵衛は、命のやり取りが付けた何十もの傷が皺に変わった今、親子のような信頼感で信之に接しているのであった。


 「間違いないのだな、千鳥」

 甚兵衛は報告する女忍びに問うた。

 「はっ、この目でしかと確認致しました」

 この千鳥と呼ばれる女忍びは真田忍びの中でも特に遠眼が利く忍である。

 三十歳半ばの妖艶な色香と身体を包み込む色白の肌が、女忍びであることを忘れさせてしまうような容姿であった。

 「幸村様は配流先から参られたとは思えぬほどご立派な隊列を組まれ、まるで何処ぞの城から参られた大名の如き堂々とした様相でご入城されました」

 千鳥の報告を聞きその姿を想像した信之は、兄として誇りたい欲求を抑えながら千鳥を下がらせると呟くように言った。

 「源次郎にも困ったものよ。未だ時流が読めぬとは」

 六尺一寸の背丈に五十歳目前の脂肪を重ねた筋肉を身に纏う信之は、その体躯には似合わない程小さな溜め息をつくと盃を口に運んだ。

「源次郎様のご気性なれば仕方無きことで御座いましょう。されど源次郎様の所業、家康様は如何お感じで御座いましょうか」

 少し酔いが回ってきた甚兵衛は盃の酒を飲み干して信之の返答を待った。

 信之は信州上田領と上州沼田領を合わせた九万五千石を治める大名であり、もとは「信幸」と称していた。

 慶長五年(一六00)関ケ原の戦において敗軍の将となった昌幸の嫡男であることが徳川家の信頼を損なうと考えた信幸は、真田家伝承の「幸」の一字を「之」として「信之」と改名したのだった。

 伝承の文字を捨てることで父との決別を表現した信之は、家康が抱えていた不信感を払拭したのだった。

 それが再び帰するのではないかと甚兵衛は思っている。

 信之は如何に応えるか、甚兵衛は固唾を飲んで待ち構えた。

 「源次郎の気性はよく存じておる上、此度の所業は想定しておったわ」

 その一言に甚兵衛は安堵した。

 「ではこれからどうなされますか?」

 甚兵衛の問にしばらく沈黙していた信之は、盃の酒を飲み干すと囁くように命じた。

 「京に『信之は病で床に伏している』との流言を流せ」

 「御意」

 甚兵衛は静かに応えると鈴の音と共に姿を消した。

 本来、忍びは音を立てずに動くものだ。

 だがこの老齢な忍びは、信之の前から立ち去る時にだけ鈴の音を残していく。

 以前、甚兵衛が酔っ払った際に「あの鈴の音は、『吉報をお待ちくだされ』と殿にお伝えしておるのじゃ」と語ったことがある。

 またある時、「酔っ払った忍びは音もなく消えることすら出来なくなってしまうではないか?」と揶揄した者がいたが、甚兵衛は相手にせず黙していたという。

 甚兵衛ほどの忍びならば浴びるほどの酒を飲んでいたとしても、瞬時に醒ますことができる。

 甚兵衛は超一流の忍びである。


 甚兵衛の気配が消えた後、信之は近衆を呼び「信吉と信政を呼べ」と命じた。

 しばらくすると二人の若者が入ってきた。

 信之の嫡男で十九歳となる信吉と、次男で十八歳となる信政である。

 嫡男信吉は父に負けず劣らずの体躯であり、若さ故の引き締まった筋肉を持つ剛の者である。

 また次男信政は背丈五尺六寸と兄よりは低いが、細くしなやかな肉体を持つ美しい男であった。

 正面に座した二人に信之は淡々と告げた。「此度の大阪城攻めには、そち達が儂の名代として参戦せよ」

 真田家を継ぐ者としての才を受け継いでいる信吉は、父が何らか企んでいることを見抜いてはいたが、それが何か分からない。

 信政に至っては父が何を考えているのかさっぱり分かっていない。

 困惑する中、信吉がやっとの思いで口を開いた。

 「父上、如何なるお考えで御座いましょうや?」

 「源次郎が大阪城に入城したのじゃ」

 二人の若者は驚いて顔を見合わせた。

 それは父が己の兄弟と戦場で相まみえることを怖れているのではないかと察したためであった。

 息子たちの疑惑を感じ取った信之は、口の端に笑みを浮かべながら諭すように話を始めた。

 信之の話が進むにつれ、まるで闇の中にひとつひとつ松明が灯るような感覚を二人の若者は感じていた。


 「大御所様、伊豆守殿より書状が参っております」

 大戦を目前に控え、各大名の動向を詳細に聞き終えた家康が満足げに座している二条城の居室に、本多上野介正純は恭しく入ってきた。

 丸顔で小柄な人の良い雰囲気を持っている男だが、細く鋭い瞳が冷ややかさを醸し出している。

 「して、伊豆守は何と申してきよった?」

 七三歳になる家康は正純の余計な気遣いに少し不機嫌そうになりながら尋ねた。

 「伊豆守殿は病により此度の戦に参戦できぬ故、二人の息を名代として参戦させたく候とのことにございます」

 一瞬、家康が顔を緩めた。

 戦に向かう前は血が騒ぐのか、いつも不機嫌で、小さなことにも感情的になる家康が、信之の書状で顔を緩めるなど理解の出来ぬ仕草であった。

 正純は、驚きを隠しながら家康に問うた。

 「いかがいたしましょうか?」

 家康は少し太りぎみの身体をゆっくりと持ち上げ居室の障子を掴むと、庭を見つめながら答えた。

 「『承知した。養生せい』と伝えよ」

 その言葉は、信之の書状に疑念を持っている正純にとって受け入れ難いものであり、その思いが心に隙を作った。

 「よろしいのですか?」

 瞬間、家康の表情が変わった。

 「何を申したいのじゃ?」

 目は確実に笑っていない。

 (弟が大阪城に入城するやいなや病にかかるとは仮病に相違御座いませぬ。伊豆守の書状は信用なりませぬぞ)

 そう意見したかったが家康の表情がそれを許さない。

 正純は咄嗟に表現を変えて問うた。

 「書状には【病】としか記されておりませぬ故、いささか不信に御座いまする」

 家康は呆れ顔に表情を変えると己の額に右手を当て二三度叩いて言った。

 「そなたは此処でしかものが考えられぬようじゃな」

 予想だにしない家康の仕草に驚いた正純は再び心に隙を作った。

 「されば大御所様はどちらでお考えなさりまするか?」

 「此処じゃ」

 家康は正純の言葉をいなすように応えると、左手で己の腹を叩いた。

 「腹に御座いまするか?」

 「左様じゃ」

 当たり前のように応える家康を凝視しながら、正純は思った。

 (呆けたか)

 瞬間、家康が口を開く。

 「呆けてなどおらぬぞ」

 正純の心の声を聞いていたかのように応えた家康に、正純は恐怖を覚えた。

 「何を恐れておる。此処で考えればそなたの心など穴の空いた障子のようじゃ」

 そう言って再び腹を叩いた家康は薄笑いを浮かべている。

 「お見逸れ致しました」

 正純にはその言葉しか言えなかった。

 「されば早う行け」

 「御意」

 正純はそう応えると少しふらつきながら居室を辞した。

 正純の遠くなっていく足音が消えた後も家康はしばらく庭を見つめていた。

 (あの男に将軍の補佐が勤まるかのう。父親とは雲泥の差じゃ)

 父親とは本多佐渡守正信である。

 正信は武闘派ばかりの徳川家臣団において、唯一の頭脳派であり、家康の重臣として徳川家を支えている。

 今は将軍秀忠付きの年寄として江戸城に詰めているが、家康にとっては己の想いを理解する唯一の存在であった。

 家康は此度の戦で豊臣家を滅亡させた後は、戦の無い世になると観ている。

 その時頭脳派の家臣は必要不可欠であり、己の側に正信を置いたが如く、秀忠の側に正信の息、正純を置きたかった。

 だが役不足は否めなかった。

 さらに家康は武闘派の武将は時代遅れの遺物と化すであろうと考えており、此度の戦で一掃することを視野に容れている。

 その後片付けを任せるには偲びなかった。

 (伊豆守が昌幸の息でなければのう)

 心の中でそう呟いた家康は実のところ、信之を秀忠の側に置きたいと願っていた。

 それは徳川家臣団の武闘派随一である忠勝が惚れた男であるが故であった。

 忠勝とは本多中務大輔忠勝のことであり、信之の正室小松殿の父で、信之にとっては舅となる。

 忠勝にとって信之は、舅と娘婿という縁戚関係であることだけではなく、信之の豪快でかつ冷静な性格が忠勝には心地よく、娘小松から聞くの領国の統治状況や家臣の評価なども素晴らしいものであったことから、一大名として信之に惚れていたのだった。

 剛の者が多い徳川家では、少数の吏僚派が権力を持つことに多数の武功派が反発し、しばしば争いを起こすことがあった。

 豊臣家がそうであったように、家臣同士で争うは主家の存続に影響を及ぼしてしまう。

 それを危惧した家康は、信之が将軍を補佐すれば、吏僚派と武功派の争いは収まると考えた。

 だがその為には大きな障害があった。

 それは信之が秀忠を関ヶ原に遅参させた昌幸の息であったことである。

 秀忠には己に恥をかかせた男の嫡男を側に置くほどの度量はない。

 (真田伊豆守信之、惜しい男じゃのう)

 家康は軽く頭を振ると、皺のような目を西の空に向け独り言を言った。

 「さてと、勝ち戦の準備じゃ」


 大阪城の南側では工事の声が響いている。

 今ここに出丸が築かれようとしていた。

 世に言う【真田丸】である。

 幸村はこの工事現場の進み具合を確かめに来ていた。

 微かに潮の香りを運んでくる海風が心地いい。

 (久し振りに清々しい気分だ)

 幸村は心の中で呟くと、十日前のやり取りを思い浮かべていた。


 「左衛門佐殿、いい加減になされ」

 基次は野太い声で怒鳴るが如く言った。

 基次こと後藤隠岐守基次は黒田二十四騎の一人と称された黒田家の重臣であったが、黒田家当主に無断で出奔してしまった。

 武勇が世に知れ渡っていた基次は、幾多の大名から家臣の誘いを受けたが、旧主の妨害により仕官は叶わず、浪人生活を余儀なくされた。

 大阪城に入城した後は【摩利支天の再来】とまで称されたが、六尺近い巨漢で声が大きい上、粗雑で感情的な気性に豊臣方の首脳陣は手を焼いていた。

 「何と申されようと平野口はお譲り願いたい」

 幸村は甲高く心地よい響きを持つ声で応えた。

 この口論の発端は大阪城南側の出丸構築にあった。

 大阪城は東側、西側、北側を淀川と平野川という天然の壕に囲まれていたが、南側は空壕だけの手薄な防備であった。

 特に小槙村に向かう平野口は本丸に近い為、破られれば勝敗が決する程の重要拠点であった。

 基次は軍議の折、その場所に出丸を構築し己が当たる事を希望した。

 だが幸村も基次と同じことを希望し、基次に譲ることを強く拒んだ。

 小柄な幸村が巨漢の基次に食って掛かる様を目の当たりにした豊臣方首脳陣は、まるで童が鬼に挑むが如き印象を残して平行線のまま軍議を終わらせた。

 頭を冷やそうと壕端に立ち、小槙村の辺りを眺めていた基次の後ろから幸村が静かに歩を進めてきた。

 冷めきっていない頭を叩きながら、基次は再び口論を始めたのであった。

 「平野口の重き事、あの者達に知らしめたは祝着に御座ろう。後はこの又兵衛にお任せ頂けぬか?」

 又兵衛とは基次の通称である。

 「隠岐守殿の武勇は聞き及んでおる上、お任せ致したき思いは御座れど、此度は某にお任せ願いたい」

 やはり平行線は続く。

 「左衛門佐殿、貴殿は何故そこまで固執されるか?」

 幸村は苛立ちを顕にする基次に、本意を語る事を決めた。

 「ではその由、ご説明致そう。佐助!」

 突然幸村は佐助を呼んだ。

 「これに」

 音もなく現れた佐助に、忍びを持たない基次は驚いた。

 基次を横目に幸村は佐助に命じた。

 「周囲に目を配り、だれも寄せ付けるな」

 「承知」

 そう応えると佐助は音もなく消えた。

 「左衛門佐殿は面白き者を持っておられる」

 「あの者達の働きが、我が真田の全てで御座る」

 「某にはわかり申さぬ」

 基次は呆れたように言ったが、その目は笑みを浮かべていた。

 (この御仁ならば儂の本意を理解出来よう)

 幸村は話始めた。

 「徳川方は必ず此処を攻めて参ると存ずるが、家康の狙いは平野口にあらず」

 基次は不思議な顔をして聞いている。

 「家康は我らが此の要害を全力で防衛することも承知しておるはず。されば平野口は攻めるに難くなり、大阪城は更に堅城となり申そう。さすれば家康は如何なる攻め方で参るとお思いか?」

 「焦れるわ、早う申せ」

 気の短い基次は苛立った。

 幸村は面白がりながらも続けた。

 「家康が大筒を大量に準備しておる事をご存知か?」

 「大筒?」

 「左様、先の関ヶ原の戦で用いた量とは比にならぬとの事」

 「されど大筒の弾は思う所に落ちぬと聞くが」

 どちらかと言えば旧式の戦を知る基次は、大筒をあまり信用していない。

 「されど破壊力は絶大で敵の士気を下げ申す。短期決戦を望む家康にとっては最良の得物で御座ろう。故に平野口を攻めながら、天守閣を狙うに最良な小槙村近辺に大筒を配備しようと家康は目論んでおるので御座ろう」

 「なれば某が出丸に籠り、近づぬようにすれば良いではないか」

 幸村は静かに首を振った。

 「出丸の規模ではまだまだ長さが足り申さぬ」

 「なれば打って出て大筒を遠ざけるが良かろう」

 幸村は再び首を振った。

 「出丸と大筒の間には数万の敵が待ち受けており申す。何の策もなく打って出るは無駄死で御座る」

 「されば如何んとす?」

 策がなくなった基次は声を荒げた。

 「出丸に某がおれば、大筒を遠ざける事可能に御座る」

 身一つで戦場を駆け抜けてきた基次の頭は、聞き返す余裕もない程に混乱していた。

 「隠岐守殿、某の兄上を存じておられるか?」

 「信州上田城主真田伊豆守信之殿で御座ろう。徳川家の家臣と聞き及んでおるが」

 「左様、兄上は此度の戦に参戦なさるはず。参戦されれば当然、某の陣に当たると存ずる」

 親兄弟を戦で当たらせるのは、士気を落とす常套手段である。

 「されど貴殿と伊豆守殿が相対すると・・・」

 基次は咄嗟に口を噤んだ。

 今の豊臣方には幸村が兄信之と呼応して裏切るのではという疑心暗鬼が一部で囁かれていた。

 否定的な立場をとっていた基次は、それを口にすることが出来なかった。

 基次のもどかしさを感じ取った幸村は、代弁するかの如く言った。

 「裏切りを案ずるで御座ろう」

 基次は黙している。

 「されどそれは徳川方も同じことで御座る。隠岐守殿、この様な状況において家康は、如何なる陣形をとるであろうか?」

 幾多の戦場を知る基次は即答した。

 「先陣に憂いあらば、本陣の前に信頼のおける部隊を配置し、憂いを絶つが上策」

 「左様、されば陣形は縦長となり大筒は本丸より離れ申そう」

 「されどそれは一時の事、戦が始まれば伊豆守殿は出丸に攻め込んで参ろう。さすれば疑いも晴れ、家康は陣形を短くするであろう」

 なおも食い下がる基次に幸村は言った。

 「兄上は攻めて参らぬ」

 「待たれよ左衛門佐殿、そう都合良くは参らぬぞ。伊豆守殿は疑われておる上、疑いを晴らす為にも全力で攻めて参る筈じゃ!」

 基次の怒鳴り声に、梢で羽を休めていたひよどりの群れが驚いて飛び去った。

 その羽音が去った後、幸村は静かに言った。

 「我が真田家は同族で戦うことをせぬ」

 「関ヶ原の折、貴殿は伊豆守殿と一戦交えたでは御座らぬか!」

 怒りに任せて更に大声で怒鳴った基次は、喉に違和感を感じ咳き込んだ。

 幸村はなおも冷静に言った。

 「落ち着かれよ隠岐守殿、あの一戦において我らは一兵卒も失うておらぬ」

 慶長五年(一六00)徳川秀忠が率いる徳川本隊三万八千を、幸村の父昌幸が上田城で迎え撃った。

 その際、徳川方の信之は幸村が籠る戸石城攻めを命じられた。

 だが戸石城に寄せる信之隊を確認すると、幸村は城を明け渡し上田城に帰城してしまった。

 また信之はそのまま戸石城に籠り、その後の上田城の攻防には参戦していなかった。

 「我が真田家は同族で戦わざるを得ぬ折の対処法を心得ておる上、まるで戦っておるが如く兵を動かし時を稼ぎ申す。此度の戦においては徳川方が攻めあぐむが如く見え申そう。されば豊臣恩顧の大名の寝返りも期待できると存ずる」

 基次は驚きと感動が入り交じった複雑な表情をした。

 「されど左衛門佐殿、軍議において左様の由を何故申されぬのか」

 幸村は苦笑いをしながら応えた。

 「大阪城にはかなりの間者が忍んでおる故」

 「貴殿お得意の忍で御座るか」

 「それだけでは御座らん。軍議の席にも家康の息が掛かった者がおり申す」

 「ほう、左様で御座ったか」

 基次は少し驚いたが、今更詮索しても仕方ないと思うたのであろう、幸村と共に苦笑いをした。

 「それでのうても上座の者共は口が軽い故、隠し事は出来ぬからのう」

 二人は顔を見合わせると、大きな声で笑った。

 「左衛門佐殿、貴殿の思いしかと受け止め申した。平野口の出丸は貴殿にお譲り申そう」

 「隠岐守殿、かたじけない」

 幸村は深々と頭を下げた。

 満足して去ってゆく基次の大きな背中を見送ると幸村は思わず呟いた。

 「ふぅ、耳鳴りが止まらぬわ」


 「幸村様」

 誰もいないはずの武者走りの方から声がする。

 我に返り声のする方に目をやると、そこには五尺一寸の痩せた身体を小さく屈めた佐助が控えていた。

 佐助とは幸村に仕える忍びである。

 佐助が幸村に仕えたのは、先の関ケ原での戦いの少し前である。

 家康の命に従い上杉討伐に向かった昌幸と幸村だが、昌幸は幸村に一抹の不安を持っていた。

 幸村は元服する前に上杉家の人質として海津城に留め置かれ、その後、豊臣家の人質となり秀吉が亡くなるまで大阪城に居していた為、戦経験に乏しい。

 それを案じた昌幸は忍びの才に秀でた佐助に幸村の身辺を守るよう命じた。

 歳が近く愛嬌のある佐助を幸村は大層気に入り、己の配下にしたいと父に願出でた。

 幸村の行く末を心配していた昌幸はそれを許した。

 「幸村様の疑心のとおり、信之様の病は偽りにございました。どこぞの忍びが流言を流しておるようですな」

 「左様か」

 「いったい誰が何の目的でこのような流言を流しておるのでありましょうや」

 佐助の言葉を遮るように幸村は答えた。

 「それは兄上の仕業じゃ」

 「なんと!」

 佐助は忍びにはあり得ないほど感情を隠さない。

 幸村は佐助のそういうところを気に入っている。

 「兄上は家康の思いに従ったのじゃ」

 「家康の思いとは?」

 「此度の戦において家康が怖れていることは戦が長引くことじゃ」

 「それは城攻めが故の消耗を危惧してのことでは?」

 幸村は小さく首を振った。

 「家康は己の命の尽きるを怖れておる」

 家康の死は豊臣恩顧の寝返りを産み、豊臣家の再興を意味するのである。

 「それでのうても此度の戦はあの堅城と言われた大阪城に対する攻城戦じゃ。そなたはどれ程の時が掛かると見ておるか?」

 「早くとも二年は掛かるのでは」

 「その通りじゃ。では兄上が儂と呼応したならばどうじゃ?」

 「もう一、二年は時が掛かると存じます」

 「そうじゃ。三年以上豊臣方は持ちこたえるであろう。じゃが家康の命を三年もたすのは至難の技じゃ」

 「では家康は信之様が裏切ると考えておると?」

 「そこまで疑ってはおらぬが心配性の家康のこと、少しでも払拭しておきたいのであろう。不安を持たぬのも長寿の秘策じゃからのう」

 「では信之様は病を理由に出陣せぬと?」

 「たぶん息子たちを名代として出陣させるであろうな。あの者たちならば家康も安心だろうて」

 「なるほど」

 二人の間に少し湿った海風が流れた。

 「信之様の差金とあらばあの男が流言を」

 突然、厳しい表情で呟いた佐助に幸村は答えた。

 「おそらく甚兵衛の仕業であろう」

 幸村と佐助は共に真田家を守ってきた甚兵衛を知っている。

 だが佐助が甚兵衛に向ける気持ちは、幸村のそれとはまったく異なっていた。

 「あの男が間近で流言を流していたとは口惜しい。気付いておれば京に走り、あの皺首を掻き切っていたものを」

 佐助は込み上げる怒りを抑えようと袴を強く握った。

 そんな佐助に気づかぬ振りをして幸村は声を発した。

 「佐助!」

 その一声で我に返った佐助はその場に控えた。

 「兄上の一計により全てが崩れてしもうた。改めて軍議を開く故、皆を集めよ」

 「承知」

 その声と共に、佐助は姿を消した。

 「また兄上にしてやられたか」

 残された幸村は寂しげに視線を落とし、足下に生える雑草の葉が風に揺れるのを見つめながら呟くと、静かにその場を離れた。

 先程まで吹いていた海風が雨雲を呼び、降りだした雨が空堀に水溜まりを作りだした。

 そこに落ちる雨はまるで他人事のように波紋を描き、それは何もなかったように消えてゆく。

 だが波紋が消えた後の水面は、小さな波を描き続けるのだった。

 

 

 

 第二章 想い

 

 「壕埋めの進みはどうじゃ?」

 家康は側に控える正純に問うた。

 「昨日、外濠を埋め終えたそうにございます」

 正純は相変わらずの無表情で答えた。

 「遅いのう」

 家康のその一言に正純は背中に緊張が走るのを抑え込んだ。

 「人足どもにはかなりの銭を掴ませておりますれば、後数日で片付くと存じます。もう少々のご猶予を」

 「んん!」

 家康は返事とも唸りともとれない不思議な声を出してしまった。

 (この男はまだ分かっておらぬようじゃ)

 心の内で呟くと家康は静かに話を始めた。

 「正純よ」

 「はっ」

 「そちは儂が何を求めておるか分かるか?」

 「何を今さら」とでも言いたげに正純は答えた。

 「此度の戦を早々に終わらせることと存じますが」

 「されば何故急いでおるのか存じておるか?」

 この問いには冷静な正純でさえ困惑した。

 「大御所様は老齢故に云々」

 とはとても口に出せない。

 目が游いでいる正純のその表情を家康は見逃さなかった。

 「よいか正純。戦において大将が二人おり、一人が『進め』と命じ、もう一人が『退け』と命じたならば、兵はどう致すであろうか?」

 (大御所様は一体何を言いたいのだ)

 そんな疑惑を引きずりながら正純は応じた。

 「混乱致しまする」

 「混乱とは?」

 「褒美を欲する者は進み、安息を欲する者は退きまする。それ故、進む者と退く者がぶつかり合い、動きが取れなくなりましょう」

 「そのとおりじゃ」

 家康は満足そうに目尻を下げると話を続けた。

 「この日の本は将軍家となった徳川家と、故太閤殿下の威を借る豊臣家の間に翻弄されておる」

 「ごもっともに御座います」

 「今、海の向こうより誰ぞが攻めて参ったならば先のとおり混乱が生じ、進むことも退くことも出来ぬであろう。されば我が兵どもは一網打尽に打ち砕かれ、敗走することとなるのじゃ」

 断言する家康に正純は問うた。

 「大御所様はその【誰ぞ】にお心当たりが御座いまするか?」

 「気になる者どもはおる」

 「何者に御座いますか?」

 家康は勿体振るように一呼吸置くとゆっくりと言った。

 「イエズス会じゃ」

 家康は、普段表情を変えない正純が驚愕の表情となったことに細やかな満足感を感じながら言葉を続けた。

 「彼の者はこの日の本の出来事を本国に知らしておるそうじゃ。」

 「布教の様子を伝えておると聞き及んでおります」

 「されど他人の領地に入り込み、そこで起こった出来事を主人に報告する所業は如何じゃ?」

 「それは正に忍びのごとき所業!」

 「左様じゃ」

 「さればイエズス会は」

 「この日の本を狙うておるやも知れぬ、それ故儂は急いでおるのじゃ」

 「恐れ入りまして御座います」

 家康の想いを知り畏まる正純に、家康は新ためて命じた。

 「壕埋めを急がせよ」

 「御意!」

 正純は、そう告げると直ぐに立ち上がり、居室を出ていった。

 普段慌てない正純の走る足音を聞きながら、家康は呟いた。

 「手の掛かる男じゃのう」

 

 先の戦では、豊臣方が堅固な大阪城に籠る籠城戦を選択したことから、長期化の様相を呈した。

 早めの決着を望む家康は、最新鋭の大筒を大量に準備し砲撃を開始した。

 ところが目標とする天守閣を狙うに最良な南側を幸村が籠る真田丸で固められており、大筒の守りを兼ねた先陣が幸村の挑発により真田丸に突入してしまい大混乱を起こした。

 それ故に大筒による南側からの攻撃は、成果を期待できるものではなかった。

 そこで家康は南側からの砲撃を継続しながらも、北側の備前島に大筒を大量に設置して砲撃を開始した。

 すると一発の砲弾が天守閣に命中し、偶然にも数人の侍女が死傷したことから豊臣方は一気に戦意を失った。

 戦を終わらせたい淀殿は、早急な和議の締結を徳川方に求めた。

 求めに応じた徳川方は和議の条件に堀を埋めることを盛り込んだ。

 過去に締結された講和においてこのような条件を盛り込んだものは、城側がその工事を受け持ち一部分を埋めることで終わらせるという儀礼的なものであった。

 それを嫌った家康は外濠を徳川方が、内濠を豊臣方が受け持つという担当分けまでも条件に盛り込んだ。

 早く和議を結びたい豊臣方は、家康の罠に気付かず締結した。

 すると徳川方はすぐに外濠の壕埋め工事を始め、【ついで】と称して内濠までも埋めてしまった。

 堅城と言われた大阪城は、群れをはぐれた獅子が獲物を威圧しているがごとき虚しい裸城と化してしまったのであった。

 大阪城では今さらながら、内壕の掘り直しに躍起になっている。

 そんな折、真田邸を訪ねてきた一人の老人がいる。

 昌幸の弟であり、信之、幸村にとっては伯父にあたる真田隠岐守信尹である。

 「久しいのう源次郎よ」

 「お久しゅうございますな、息災でございまするか?」

 「この年になると体が思うように動かぬものよ」

 寂しそうな表情を浮かべて話す信尹を幸村は懐かしそうに見ている。

 幸村にとってこの伯父の存在は大きい。

 偉大な父と兄を持つ幸村にとって、この伯父は同じ境遇を生きる唯一の理解者であった。

 だがこの理解者も齢六八となり、人の良さそうな小肥りの老人である。

 「先の戦は派手に暴れたそうじゃのう源次郎」

 信尹は満面の笑顔で言った。

 「まだまだ暴れ足りませぬ」

 信尹の人柄の良さに幸村は笑顔で答えた。

 「そうであろう、これからという時に和議が結ばれてしもうたからのう」

 「されど次がございますれば」

 幸村は目を輝かせた。

 「ところで源次郎よ、儂がここに来た理由はのう・・・」

 本題に入った信尹を幸村は手で制した。

 「申されなくとも分かりまする、儂を調略に来られたのでござろう」

 「さすがは兄上の息じゃ。勘がよい」

 「戦の起こる前に敵方に仕える親族が会いに参ったとなれば、そうであることなど赤子でも分かりまするぞ」

 幸村は薄笑いを浮かべた。

 「されど源次郎、寝返るつもりはなかろう?」

 信尹は探るように訊いた。

 「伯父上は勘が鈍うございまするな」

 幸村のその言葉に二人は声を上げて笑った。

 「そなたと話をすると戯れ言になってしまうのう。真剣な話をするつもりで参ったのじゃが」

 「家康は命ずる相手を間違えましたな。伯父上にはご苦労をお掛けして申し訳ございませぬ」

 幸村は深々と頭を下げた。

 信尹はそれを手で制しながら問うた。

 「しかるに源次郎よ、そなたが豊臣方に付いたは如何なる故か?」

 「さて何と致しましょうか」

 「名を上げるが故か?」

 「それもひとつ」

 「では故太閤殿下の恩顧に報いるが故か?」

 「それもひとつ」

 「ええい、はっきり致せ源次郎!」

 信尹は幸村の悪戯に苛立った。

 「これはご無礼を致しました、されどそれが故であることも実に御座います」

 「されば他にも」

 信尹の求めに幸村は少し言難そうに話始めた。

 「儂は時流を読めぬと皆に思われておりますが、こう見えても日の本の行く末を想うております」

 「ほうっ」

 信尹は無意識に声を上げた。

 思いどおりの反応に満足しながらも、幸村は話を続けた。

 「先の関ヶ原での戦の際、上田城に押し寄せた徳川隊を指揮していた秀忠は、全くの愚将で御座った。我が父上の策にまんまと騙され、大戦に間に合わなかった恥態を晒し、その上、己の判断違いを反省せず、その言い訳に我が父上を利用するは将軍の行いに在らず。そのような者にこの日の本の治世は任せられぬと存じます」

怒りに任せて話をする幸村は、更に言葉を続けた。

 「それに引き換え秀頼様はこの国をお任せするに値する御仁で御座る。今は淀殿に振り回されておいでだが、我等浪人に対してもお心をお配り遊ばされる姿には皆感銘致しており申す。あの方ならば必ずよい治世を生み出すと存じます」

幸村の想いを知った信尹は更に問うた。

 「されど今の豊臣家は風前の灯であろう。そなたの想いに応える前に力尽きてしまうのではないか?」

 幸村は声を上げて笑うと胸を張って答えた。

 「勝てばよいので御座る」

 驚いた信尹は冷静を装いながら声を潜めて言った。

 「この期に及んで勝つ策を持っておるのか」

 幸村は黙したまま笑顔で頷いた。

 信尹はそんな幸村の強い志しに感銘を受けた。

 「そなたの想いに迷いは無いようじゃ。思うがままに闘うがよい」

 その言葉に幸村は安堵し、己の志しを理解してくれた伯父を心から尊敬した。

 「これで心置き無く出陣でき申す。伯父上には感謝致します」

 「そなたと話ができたことまこと祝着じゃ。ここまで来た甲斐があったのう」

 「されば家康に感謝いたしましょうか?」

 幸村の戯れ言に信尹は微妙な笑顔を見せた。

 その表情に気づいた幸村は、さりげなく蝋燭の灯りを己の顔に近付けると姿勢を正して言った。

 「されば暫しの別れに御座います、伯父上」

 幸村の言葉に信尹は別れ惜しい表情で言った。

 「武運を祈っておる・・・ぞ」

 それが伯父と甥の最後の言葉であった。

 

 信州上田の真田屋敷では信之が一人、思案に耽っている。

 再び始まる大阪城攻めに何か不安を掻き立てられている様子である。

 戌の刻を過ぎた頃、信之は静かに口を開いた。

 「甚兵衛は居るか?」

 「こちらに」

 いつの間に現れたのか、部屋の隅の暗がりに甚兵衛が控えている。

 「近う」

 甚兵衛は立ち膝歩きで三歩進むと信之の左横に畏まった。

 「これよりそちに命じること、他言無用と心得よ」

 信之は一瞬、甚兵衛の顔に目をやったが、すぐに視線を逸らした。

 「御意」

 甚兵衛は緊張した空気を感じた。

 「そなたの手下を大阪城に向かわせよ」

 「戦場に御座いますか」

 「左様じゃ」

 「して如何なる勤めをさせまするか?」

 信之は一呼吸置くと言葉を捻り出すように言った。

 「源次郎を亡き者にせよ」

 「・・・!」

 甚兵衛は予想だにしない信之の言葉に声を失った。

 この発言の為に極度の緊張に縛られていた信之は、言ってしまった安堵感と反応の仕方を忘れてしまった甚兵衛の表情に、感情を抑えることが出来なくなった。

 「源次郎を殺して参れと申しておるのじゃ」

 再び信之が放った言葉に限界を感じた甚兵衛は己の立場を見失った・・・ように見せた。

 「此度は豊臣方に不利な戦にて、何もせずとも源次郎様のお命は風前の灯と存じます。さりながら源次郎様を打てとお命じになるは承服致しかねます。この甚兵衛、この命に代えても殿をお諌め致しますぞ」

 言い放つと甚兵衛は、懐に手を入れて飛苦無を取り出し己の腹に突き立てた。

 信之は甚兵衛の姿を凝視すると、なぜか冷静になっていく己を不思議に思った。

 「忍びのそなたが腹を切っても致し方無かろう。まずは儂の話を聞け」

 信之の声色に安堵した甚兵衛は、荒い息を調えながら信之の言葉を待った。

 信之は深呼吸のような溜め息をつくと静かに話始めた。


 幸村は人質としての生活を余儀無くされ、元服は十九歳、初陣は二十四歳と、当時としては遅い顔見せであった。

 それから十年後、関ヶ原の戦で被った敗北によって流罪となると、十五年もの時を九度山での隠悽生活に費やしてしまった。

 そのたった十年の武将人生において、幸村が思いのまま闘った戦は一度もなく、いつも父昌幸の側でしか闘うことが出来なかった。

 それは父昌幸の企みによるものであった。

 幸村は戦における感性や適合能力がずば抜けており、戦場での戦いぶりにおいては信之のそれを遥かに上回るものであった。

 だがその反面、幸村には卓越した能力を屈指して戦を楽しんでしまう傾向があり、時折、その遊び心が敵将を蔑むがごとき行動となってしまうことがあった。

 幸村に鬼神の精神が宿っていると気付いていた昌幸は、戦において幸村を独り立ちさせず、常に手元においてその悪しき精神を封印していた。

 そんな昌幸のいない此度の戦において、鬼神の精神の封印を解かれた幸村は、己の奮戦によって豊臣方に勝利をもたらそうとしている。

 もしも豊臣方が勝利してしまったならば、この国は何処に向かって行くであろうか?

 統治の経験がなく故太閤殿下の繁栄にすがるだけの豊臣秀頼が棟梁となり、大野治長,治房兄弟がそれを補佐する体制下では、とてもこの国を治められない。

 それよりも現征夷大将軍の徳川秀忠が元豊臣恩顧の大名達と手を組んだ新な体制下であれば、この国は正しき道を進めると考えた。

 だがその実現のためには幸村の戦の才が邪魔となる。

 信之は苦渋の決断をしたのだった。


 信之の話を静かに聞いていた甚兵衛は、改めて信之に問うた。

 「されば殿は日の本を憂うが上、このようなご決断をなされたので御座りますな?」

 「左様じゃ」

 信之の想いを確認した甚兵衛は言った。

 「恐れながら殿にお願いの義が二つ御座います」

 「申してみよ」

 「まず一つ、源次郎様に手を掛けるは、戦が徳川方の不利となった時のみと致したく存じます」

 「よかろう」

 信之も無益に幸村を亡き者にするは不本意であると考えていた為、これを承諾した。

 「更に一つ、此度の勤めこの甚兵衛にご命令下され」

 二つ目の願いは信之を悩ませた。

 「されど甚兵衛、そなたその歳で戦働きを勤めようか?」

 「正直申せば辛う御座いまするが、此度のごとき重い勤め、他の者に任せてはおけませぬ」

 甚兵衛の想いが痛いほど感じる信之は暫く考え込んだが、一つの妥協案を思い付いた。

 「されば甚兵衛、千鳥を元とした配下の者を数名連れていくがよい。さすればそなたの望み、受けたまろうぞ」

 千鳥は甚兵衛が不在の折、代わりとして信之の側に仕えていた故、信之に信頼されていた。

 「有り難き幸せ、殿の申された通りに致します」

 信之は満足げに新ためて命じた。

 「甚兵衛、そなたに源次郎の命、預けたぞ」

 「御意」

 甚兵衛は静かに応えるといつものごとく鈴の音を残し、その姿を消した。

 居室には何もなかったかのごとく初夏の風が吹き込んでくる。

 されど心地よい香りすら感じられぬ信之は、己の判断は正しかったのか、自問自答を繰り返しながら朝を迎えたのだった。

 

 

 

 第三章 夕陽

 

 (いい夕陽だ)

 幸村は木津川の畔に座り込んで夕陽を見ている。

 明日の戦を前に気が昂るのか、突然夕陽を見たくなったようだ。

 徳川方は阿倍野村まで進軍しており、明日には総攻撃を仕掛けてくる様子である。

 ここ数日で全てが決するのである。

 (これが最後の夕陽になるかもしれぬな)

 信州上田では見たこともない程の輝きを放ちながら水平線に沈む夕陽に少し弱気になりがちな幸村であった。

 「ここにおったか左衛門佐殿」

 滔々と流れる川の音に負けじと張上げた聞き覚えのある野太い声に、幸村の忘我の時は終わった。

 「隠岐守殿、如何された」

 少し不機嫌表情で幸村は問うた。

 基次は幸村の機嫌を気にせず、幸村の右横に腰を下ろすと、眩しそうに夕陽を眺めながら言った。

 「ここの夕陽は素晴らしいのう。福岡城の我が邸より見ゆるそれとは大違いじゃ」

 福岡城とは黒田家の本城であり、端城である大隈城を預かっていた基次は、登城の際に利用する邸を福岡城内に持っていた。

 基次の言葉に何やら闇が潜んでいるがと感じた幸村は、その闇を知りたくなった。

 「福岡城にて何事か御座ったか?」

 「嬉しき事も悲しき事も御座った」

 基次は少し寂しそうな表情で応えた。

 二人は黙したまま、暫くの間、沈む夕陽を眺めていた。

 そんな重い空気の中、基次はゆっくりと口を開いた。


 基次は幼き頃より黒田官兵衛孝高に預けられ、その嫡男長政と共に育った。

 伯父一族の裏切りにより一時は黒田家を離れたが、天正一四年(一五八六)に帰還を許された。

 猛将でありながら心根の優しい長政は、兄弟の如く育ってきた基次を心から信じており、基次もその信頼に応えた。

 慶長五年(一六00)関ケ原の戦において、石田三成の家臣を一騎討ちで破った武功が認められ、一万六千石の領地と大隈城を拝領し、黒田家の重臣となっていった。

 だがその四年後、孝高は病の床に伏した。

 幼くして父親を亡くした基次にとって孝高は父の如き存在である。

 大急ぎで筑州を発ち、京都伏見藩邸に駆け込むと、孝高の寝所に向かった。

 「又兵衛に御座います」

 基次は己を通称で呼んだ。

 孝高は痩せ細った身体を横たえ、胸にはロザリオを抱いている。

 「又兵衛か。よう参った」

 弱々しい嗄れ声に基次は悲しい顔をした。

 「その様な顔をするでない。これも人の定めじゃ」

 無表情で話す孝高は人払いを命じた。

 力なく細く開いた目で、他の者達が寝所を辞したのを確認した孝高は、苦し気な息をしながら言った。

 「又兵衛よ、如何なる事があろうとも秀頼様をお守りいたせ」

 秀頼とは故太閤豊臣秀吉の嫡男、内大臣豊臣秀頼のことである。

 「秀頼様を」

 「左様じゃ、我が遺言と心得よ」

 「御意に御座います」

 暫くの沈黙の後、孝高は小さく呟いた。

 「秀吉様御自らお迎えにいらしておる。ありがたき事じゃ」

 そのまま孝高は意識を失った。

 基次は持ち前の大声で叫んだ。

 「各々方、早うお越しくだされ!」

 この数刻後、大軍師黒田官兵衛孝高はこの世を去った。

 享年五十九歳。

 

 慶長十年(一六0五)秀頼は右大臣に昇進した。

 徳川家の家格より豊臣家の家格が一段高いことから、家康はこの昇進に危機感を持った。

 その為、家康はこの昇進の七日前に征夷大将軍を息子秀忠に譲り、政権は徳川家の世襲であると世に知らしめた。

 その上で家康は秀頼に会見を求めたが、家康の所業に激高した淀殿はそれを反対し、実現はしなかった。

 このやり取りに不安を感じた基次は、筑州福岡城に赴くと長政の居室に向かった。

 長政とは黒田家当主、黒田筑前守長政である。

 面長で凛々しい色男である長政は、居室で書物を読んでいた。

 「殿、お読み物の最中、申し訳ございませぬ」

 「又兵衛か、入れ」

 基次は厳かに入室し、長政の前に座り姿勢を正すと、改めて畏まった。

 「殿、お話したき議が御座います」

 「申してみよ」

 「如水様お亡くなりの折、ご遺言を承りました」

 (又兵衛め、やっと話す気になったか)

 長政は、孝高が人払いを命じ基次に何か伝えたことを知っていた。

 如何なる話がなされたのか気になってはいたのだが、それを主である己からは問いただすは心の狭き行いと思い、知らぬ振りを貫いていた。

 「どの様なご遺言じゃ?」

 知らず知らずのうちに前のめりになっていた長政だが、表情は冷静を装っている。

 「如水様は『秀頼様をお守りせよ』と仰せになられました」

 「それは真か?」

 「真に御座います」

 「左様か」

 何かに思い悩むが如き表情を見せる長政に、基次は不安を感じた。

 「殿、徳川、豊臣両家の手切れは確実となりましょう。されば我が黒田家は如何に振る舞うおつもりで御座いましょうや?」

 基次の問いに長政は迷いなく応えた。

 「両家が手切れとなった折は家康様に助力し、将軍家をお守りする所存じゃ」

 (やはりそう申されるか)

 基次は落胆の色を見せた。

 黒田家は本来、豊臣恩顧の武将であったが、関ヶ原の戦においては徳川方に与した。

 それは家康への忠義からではなく、単に三成憎しから敵方の徳川方に与しただけのことであった。

 三成を心の底から憎んでいた長政は、数々の戦功を挙げ、家康はそれを讃えると共に大封を与えた。

 戦功に酬いて余りある恩賞に、長政は恩義を感じ忠義を約したのだった。

 基次は孝高の遺言によって長政の信義が変わることを期待したが、その思いは伝わらなかった。

 「されど父上は何故当主である儂ではなく、そなたに遺言を託されたのであろうか」

 「ご無礼なれど」

 そう前置きすると基次は本音を語った。

 「殿の家康様に対するお気持ちを不安に思うての事と存じます」

 関ヶ原の戦から戻った折、己の戦功とその評価を報告する長政に、孝高は不安を感じていた。

 それは家康が与えた過分な恩賞と有り余る賞賛が、豊臣恩顧の武将を懐柔する為であることを長政が気付いていない故であった。

 孝高の思いを知っている基次は、無礼を承知で長政に孝高の本意を告げた。

 だが長政は基次の苦言をいつもの無礼な発言としか受け取らず、全く気にせぬまま基次の方に向き直り静かに言った。

 「されど又兵衛よ、黒田家の行く末を慮かっての事であらば、黒田家の当主である儂に申されるが良いではないか」

 「はぁ」

 基次は間の抜けた声を上げた。

 それから暫くの間、沈黙が続いた。

 風が揺らす木々の枝葉が、呼子の如く鳴り響いている。

 基次は意を決して口を開いた。

 「殿、如水様が秀頼様をお守りせよと申されたは実に御座ります。なればそれに従うは必定と存じまする」

 「今は儂が黒田家の当主じゃ。儂が申しておる以上、我が黒田家は家康様に助力するのじゃ」

 怒りと落胆の入り交じった感情に刺激された基次は家臣とは思えぬ発言をした。

 「殿のお気持ち良う分かり申した。されば殿は徳川家に助力されるがよろしかろうと存じます。されど某は豊臣家に助力致し、如水様のご遺言を全う致したく存じまする」

 「さればそなたはこの儂に弓引くと申すか」

 「如何にも」

 基次の無礼に慣れている長政ではあったが、さすがにこの言に怒りを顕にした。

 「主と槍を交えるなど信義に反する所業じゃ。此度の無礼、許さぬぞ」

 長政は立ち上がると、刀に手を掛けた。

 それに動じる素振りも見せず基次は言った。

 「親兄弟が戦場にて争う事さえ起こりうる世に御座ります。先の戦においては真田家がそうで御座いました。さすれば主従の争いなど」

 「又兵衛!」

 長政は基次の言葉を遮った。

 だがその顔に怒りの色は浮かんでいない。

 「分かったぞ又兵衛、父上のお考えが」

 予想だにしない長政の言葉であったが、基次の頭に昇った血を下げるのは少々時がいる。

 基次は大きく鼻から息を吐き出し、一気に怒りを納めると静かに言った。

 「お聞き致しましょう」

 長政は悩みが晴れた高揚感を抑えながら言った。

 「父上は、儂とそなたを徳川、豊臣の両家に分かつお考えであったのじゃ」

 予想だにしない発言に、基次は慌てて否定をした。

 「お待ちくだされ、如水様がそのようなお考えであられるとは考えられませぬ」

 「儂もそう思うておった。されどそなたが先程申したであろう」

 「如何にも先程某は左様な事を申しました。されどそれは殿にお考え直し頂きたく申したまでの事に御座います」

 長政は少し笑みを浮かべながら言った。

 「儂が申しておるのは真田家の事じゃ。真田家も敵味方に分かれたであろう」

 「仰せの通りに御座います。されどその顛末は、当主昌幸と次男幸村が流罪となり申したでは御座いませぬか。如水様が左様な顛末を我が黒田家にお求めとは思えませぬ」

 「されど死罪にはなっておらぬではないか」

 基次は長政の言葉に絶句した。

 言われてみれば、勝軍の総大将を遅参させた敗軍の将昌幸と次男幸村は死罪に値するが、嫡男信之とその姑である徳川家直臣、本多忠勝の嘆願により流罪とされた。

 その上、信之は加増までされているのである。

 「父上はおそらく、徳川家、豊臣家のどちらが勝利しても黒田家が存続致す様にせよと申されておったのじゃろう」

 基次は震える手を抑えながら言った。

 「されど真田家は親兄弟、殿と某は主従の繋がりに御座います。同じ様にはなり申さぬと存じます」

 「よいか又兵衛、この策は繋がりが要ではない。如何に信を得るかが要じゃ」

 「信を得る?」

 「左様、思うに真田家は信之殿が信を得た事により成し得たのであろう」

 先の戦の上田城攻防の折、真田家は親兄弟で戦い、信之が城を落とすという武功を挙げたことで家康の信を得ていた。

 またそれ以前から信之は側室を持たず、室小松殿との関係を良好に保ち続けた事により、姑本多忠勝の信も得ていた。

 これらの事が助命嘆願の折、役に立ったのであった。

 「されば某は如何様にたち振る舞えばよろしいので御座いましょうか?」

 長政と基次はこの一言を皮切りに、眉間に皺を寄せて黙した。

 戦において天才的な閃きを見せるこの二人は、策を弄する事に関しては全く幼稚であった。

 この沈黙が約半時程続いた後、長政は口を開いた。

 「此度は如水様のお考えが分かっただけで祝着じゃ。明日は用向きがある上、明後日参るがよい」

 基次は長政の言葉に安堵した。

 「承知致しました。しからば後免仕つります」

 そう言うと基次は居室を辞した。

 その足取りは戦場で見たこともない程に重いものであった。

 

 (如何に振る舞えばよいのじゃ)

 邸宅に戻った基次は、長政の居室での続きを考えていた。

 一時程経った折、一人の男が基次の邸を訪れた。

 黒田家筆頭家老、栗山備後守利安である。

 背丈は五尺一寸と小柄だが、丸顔の大きな顔が特徴的であった。

 まだ未の刻であったが、基次は酒肴を用意させた。

 「善助様、如何なされました?」

 裏切者の一族として本家への帰参を許されなかった基次は、利安の与力として黒田家に帰参した。

 十歳上の利安を兄の如く慕う基次は、弟の如く接してくれる利安を通称で呼んでいる。

 「どうしてもそなたに聞きたいことがあって参ったのじゃ」

 「如何なることで御座いますか?」

 「そなたが辞した後、殿が儂をお呼びになられた」

 「儂が辞した後・・・」

 嫌な予感がした。

 だがその予感は利安の次の言葉で落胆に変わった。

 「殿はそなたと話された事、全て儂にお話になられた。その上で儂に秀頼様の庇護を命じられた」

 「・・・」

 声にならなかった。

 策を弄する事が不得意な基次でさえ、この事は身内でも口外できぬと思っていた。

 だが長政はこの秘事を話した上、筆頭家老にその任を命じたのだった。

 首が折れた人形の如く下を向いた基次に、利安は問うた。

 「そなたはそれで良いのか?」

 「・・・悲しゅう御座います」

 基次は下を向いたまま呟くと再び黙した。

 その姿を暫く凝視していた利安は、深く息を吸い込むと意を決して言った。

 「又兵衛よ、今すぐ出奔せい!」

 予想だにしない言葉に耳を疑った基次は、顔を上げると悔し涙を拭いながら問うた。

 「善助様、戯れ言が過ぎますぞ。筆頭家老様ともあろうお方の言葉とは思えませぬ」

 基次は震える手で徳利を持ち上げると、上役に対する無礼も気付かず己の盃に酒を注ぎ、一気にあおった。

 「戯れ言ではないわ」

 「されば善助様は、この儂に殿を裏切れと申されるか?」

 基次は既に三杯目を飲み干し、四杯目を注ごうと徳利を握っている。

 「又兵衛よ、儂も筆頭家老じゃ。黒田家の事を考えて申しておる」

 利安は基次の握り締めた徳利をゆっくりと引き剥がすと、基次の盃に、続けて己の盃に酒を注いだ。

 徳利を強く握っていた右手から力が抜けたことで落ち着いた基次は、冷静に聞く事が出来る表情を見せた。

 「よいか又兵衛、殿は策を弄する事が不得意なお方じゃ。故に殿の申された通りこの儂が秀頼様をお守りしてしまわば家康様は必ずお疑いになられる。また筆頭家老の裏切りとあらば、それ相当の由がなければ実とは取られまい。さすれば策は見破られ、黒田家はお咎めを免れられぬ」

 「仰せの通りに御座います」

 「されど奔放な気性で世に知られておるそなたの裏切りであらば、実と見せるは容易いことじゃ」

 (何やらうつけと言われておる様じゃのう)

 基次は複雑な思いであった。

 「されば善助様、実と見せるは如何なる策を弄するのでしょうか?」

 利安は盃を置くと更に語った。

 「先ずは今すぐに出奔することが肝要じゃ。徳川と豊臣が手切れとなってからでは家康様への裏切りと取られかねぬ」

 基次は頷いた。

 「また、殿には何も告げずに行くのじゃ。さすれば殿はお怒りになろう」

 基次は困った顔をした。

 「殿のご機嫌を損ねるは本意では御座りませぬ」

 利安は申し訳なさそうな表情で応えた。

 「そなたの思いは存じておる。されど先程申した通り、殿は策を弄するのが不得意な方、故に策と思わねば上手くたち振る舞われる」

 「殿を謀るので御座いますか?」

 「左様、これも黒田家の為じゃ」

 「はぁ」

 「次に出奔の後は、まず細川家を訪ねよ」

 「儂は細川家と親交が御座いますが、我が黒田家と不仲では御座いますせぬか?」

 「左様、それ故に訪ねるのじゃ。さすれば殿は更にお怒りになられ、何事か揉め事が起きよう。殿にとってそなたの出奔が本意ではないことを世に広げる事ができよう」

 「されど黒田家にも何やら禍が起こりませぬか?」

 基次は不安な表情で問うた。

 「案ずるな。黒田家の事は儂が何とでもしようぞ」

 心強い利安の言葉に基次は安堵した。

 「後は豊臣恩顧の大名と誼を通じておき、もしもの時に備えるのじゃ」

 「もしもの時とは戦となった折の事で御座いますな」

 「左様じゃ」

 「されば戦の折は如何致しましょうや?」

 「又兵衛よ、それはそなたの方がよく知っておろう」

 基次は照れ笑いをしながら、利安の盃に酒を注いだ。

 「戦においてはそなたの思い通りに振る舞い、少しでも多くの武功を挙げよ」

 「信を得るので御座いますな」

 「左様じゃ、分かってきたのう又兵衛」

 基次は嬉しそうに笑いながら言った。

 「儂にも真田家の如く謀を巡らせられましょうか?」

 「真田家は策を弄することで成した家柄の策士集団じゃ。また忍の者を多用する一族であるが上、我が黒田家とは根本から異なるわ。此度のような謀は難なくこなすであろうのう」

 (真田家の如くとはいかぬか)

 基次は己に甘さを痛感した。

 「されば又兵衛、戦にて徳川が破れし時は如何する?」

 「己の武功で得た恩賞を秀頼様に返上し、その見返りに殿の助命を嘆願致します」

 利安は笑顔で頷くと、最後の問を投げかけた。

 「されば又兵衛、豊臣が破れし時は如何する?」

 基次は真剣な面持ちで応えた。

 「黒田家にご迷惑をお掛け致さぬよう腹を切りまする」

 利安は笑顔のまま首を左右に振ると、優しげな口調で言った。

 「何もしてはならぬ。さすれば儂が何としてもそなたを助けよう」

 基次は利安を静かに凝視していたが、その目には涙が滲んでいる。

 「されど、されど殿は儂をお許しにはなりませぬ」

 「案ずるな。その折は儂が殿と刺し違えてでもそなたを必ず守る」

 優しく決意のこもった利安の言葉に感情を抑えられなくなった基次は、両手を床に置くと童の如く泣き崩れた。

 「善助様・・・何故、何故この儂をそこまで・・・」

 利安は基次の肩を静かに叩きながら言った。

 「不遇な人生を送ってきたそなたに更なる汚名を着せるは、仮令黒田家の為とは申せども儂の罪じゃ。故にそなたを守るは儂の罪滅ぼしと思うておる」

 「善助様、儂は、儂は・・・」

 もう言葉にはならなかった。

 ただ感謝の思いだけが涙となって流れ出るだけの基次であった。

 利安は基次の盃に酒を注いだ。

 「もう良い又兵衛、酒が薄うなるではないか」

 酒を飲み干し、心を落ち着かせた基次は改めて言った。

 「善助様の勿体無きお言葉、心より感謝致します。儂は決め申した。次の世でも、その次の世でも善助様にお仕え致す事をお誓い申し上げます」

 「左様か、それは心強い。楽しみにしておるぞ」

 (基次らしい謝辞じゃ)

 利安は心の中で呟いた。

 だが利安は基次のこの独特な表現が好きであった。

 「さればこれより我が城に戻りて、急ぎ出奔致します」

 「うむ、されば儂も戻ろうかのう。明日から忙しゅうなろうからのう」

 門のところまで見送ると利安は言った。

 「全てが終った後、また酌み交わそうぞ」

 基次は黙したまま頷くと、利安の小さな背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。

 既に申の刻を半時ほど過ぎた時刻である。

 泣き腫らした目で見る夕陽は、全てを炎で包み込むが如く、不気味な火の玉に見えた。

 基次は小さく呟いた。

 「善助様、申し訳ございませぬ」

 

 「そして儂は出奔し、浪人となったので御座る」

 基次は一通り話終えるとため息をついた。

 「たしか旧主より奉公構が発布されたと聞いておるが」

 【奉公構】とは、出奔した者が他家に召し抱えられる事を禁止する為に、旧主が発布する刑罰である。

 幸村は九度山に配流の折、忍の者より報告を受けていた。

 「左様、それ故某は何処の大名家にも仕官でき申さなかったのじゃ」

 幸村は左の口角を上げながら言った。

 「されどそれも計略の内で御座ろう?」

 「お分かりで御座るか」

 基次は冷静を装っていたが、やはり驚きを隠せないのであろう、気付かぬ内に目を見開いていた。

 「如何にも。貴殿の如き名の知れた猛将なれば、あえて仕官を願い出なくとも数多の大名が欲しがるは必定。されど豊臣恩顧と聞こえし大名が豊臣と徳川のどちらに助力するか分からぬ折、一大名の元で長く留まるは本意にあらず。故に栗山殿は長政殿に【奉公構】を発布させ、貴殿が仕官を求めると称して、数多の大名と誼を通じるよう図ったのであろう」

 (さすがは真田の一族じゃ)

 基次は何やら薄ら寒さを感じた。

 「しかるに隠岐守殿、某を探しておる様に見受けられたが、何用に御座るか?」

 幸村は夕陽を浴びて橙色に染まった顔を基次に向けた。

 何の迷いもない精悍な面持ちの幸村に、基次はしばしの間、目を奪われた。

 「隠岐守殿、如何された?」

 幸村の問い掛けに己を取り戻した基次は、気を取り直して言った。

 「申し訳御座らぬ、貴殿に見とれてしもた」

 「今更に御座るか?」

 幸村の戯れ言に安堵し笑顔を見せた基次であったが、すぐに真剣な面持ちに変えると言い辛そうに言った。

 「左衛門佐殿、明日の戦は我らにお任せ願えぬか?」

 此度の戦は大阪城の壕を埋められているが故に、籠城戦を諦めて野戦を選択せざるを得なかった。

 そこで豊臣方は、基次の率いる部隊が所属する前衛部隊六千四百、幸村の率いる部隊が所属する後衛部隊一万二千による出撃を決めた。

 三万四千の徳川方に対し、六千四百の前衛部隊だけでは相手にならない。

 「前衛部隊のみで戦うと申すか?」

 「左様で御座る」

 飄々と応えた基次に少し憮然としながらも、幸村は問うた。

 「隠岐守殿、死ぬるおつもりか?」

 基次は少し間をおいてから口を開いた。

 「どちらが勝利を収めようとも此度の戦が終戦とならば、戦の無い世となるで御座ろう。されば我等の如き命のやり取りを生業とする者は、古の遺物となり申す。故に我等は此度の戦に己の全てを賭けて闘い、華々しく散るも、生き残り生きざまを誉れとするも、各々の思いに任せる事としたく存ずる。これは某のわがままに従ごうてくれた者共に、せめてもの償いと思うておる。知恵無き者の悪あがきとお笑い下され」

 言い終えた基次に迷いが無いことを幸村は感じていた。

 だが幸村は黙したままであった。

 「左衛門佐殿、お許し下され」

 基次は催促したが、幸村は口を開かない。

 「左衛門佐殿!」

 気の短い基次は更に催促した瞬間、幸村は立ち上がると声を発した。

 「佐助!」

 「これに」

 音もなく現れた佐助に、基次は以前にも増して驚いた。

 「忍びには慣れぬのう」

 基次の独り言に苦笑しながらも幸村は佐助に言った。

 「明日の戦、隠岐守殿を道案内せよ」

 幸村の言葉に佐助は落ち着いた声で応えた。

 「明日は深い霧が出ると思われます。儂がおらねば幸村様が道に迷いまする」

 「構わぬ。我等の道案内は他の者に任せる上、案ずるに及ばぬ」

 幸村と佐助のやり取りを聞いていた基次は、慌てて口を挟んだ。

 「左衛門佐殿、お気遣いは無用で御座る。戦場までは目を瞑っておっても到達でき申す」

 基次は幸村の本意に気づいていない様子である。

 基次が気付くよう、幸村は少しだけ説明を加えて言った。

 「隠岐守殿、貴殿の思いを遂げるのであらば、遅参は許されぬ。故に用心の為にもこの忍びを使われるが良かろう。我等は後衛部隊故、遅参する位がちょうど良い」

 「あ、ああ、そうじゃそうじゃ。我等は遅参出来ぬからのう。さればお言葉に甘えてお借り致そう」

 (勘の鈍い男じゃ)

 幸村は表情に笑いを湛えながら佐助に命じた。

 「改めて申し渡す。明日は隠岐守殿を戦場まで案内し、その後は隠岐守殿の戦働きを見届けよ」

 「承知!」

 この場を辞しようとして目を上げた佐助は息を飲んだ。

 (この二人は同じ目をしておる)

 「如何した?」

 幸村の問い掛けに佐助は己を取り戻した。

 「夕陽に見事さに目を奪われておりました」

 幸村は夕陽に目を向け言った。

 「左様じゃのう」

 基次もまた、幸村の言葉に促されるが如く目を向けた。

 「良き夕陽じゃ」

 沈みかけた夕陽は橙色から赤色に変色する。

 その光を浴びる男たちは、まるで火焔の中に立つ鬼神とそれを守護する摩利支天と梵天の如き崇高な姿に映っている。

 だがこの絵画の如き一瞬を見詰めていたのは照らし続ける夕陽だけであった。

 

 

 

 第四章 砂塵

 

 「霧が深いのう」

 道明寺に到着した基次は呟いた。

 「この時期は昼夜の温度が変化致します。故に霧がよう出るので御座ります」

 「ほう、よう存じておるな」

 佐助の明確な説明に基次は素直に誉めた。

 「はぁ」

 佐助は照れ臭さを感じた。

 それは忍びの知識が広く実用的である事を知っている幸村の下では、この程度の事では誉められはしない。

 それ故に素直に誉められると、照れ臭いのであった。

 四半刻程たった頃、物見の報を聞くや、基次は大声を出した。

 「なんと、敵は既に国分村に布陣しておるとな」

 敵は予測以上に早く布陣していた。

 だが基次は何故か焦る素振りも見せず、落ち着いて佐助に問うた。

 「明石隊と薄田隊はどうしておる?」

 同じ前衛部隊である、明石掃部助全登率いる部隊と薄田隼人正兼相率いる部隊がまだ到達していない。

 「未だ半里程手前で迷っておられると思われます」

 佐助は真顔で応えた。

 「それは左衛門佐殿が手の者の仕業か?」

 基次は微かに笑っている。

 「左様に御座います」

 佐助も笑顔を見せている。

 己の部隊単体で戦いを望む基次の為に幸村は、濃霧の中を進む明石隊と薄田隊に忍びを紛れ込ませて、進軍を迷わせたのだった。

 「忍びとは実に便利な者じゃ。左衛門佐殿が『あの者達の働きが、我が真田の全てで御座る』と申した由が少し分かったわ」

 「有り難き幸せに御座います」

 佐助は素直に謝辞を述べた。

 基次は満足げに頷いた後、表情から笑みを消し去ると大声で皆に命じた。

 「皆の者、小松山に進軍いたす。遅れるでないぞ!」

 「応!」

 家臣達は応えると移動を開始した。

 

 小松山に向かって進軍する基次隊の士気は高く、誰一人迷いを見せない。

 その凄まじい程の統率力は目を見張るものがあり、まるで悠々と進む大蛇の如き見事な隊列であった。

 「佐助殿どうじゃ、我が部隊も真田隊に負けず劣らずであろう」

 「見事で御座います」

 「そうであろう、そうであろう」

 基次は満足げであった。

 だが頂上に到達すると、その表情は一変した。

 既に目前まで敵兵が迫っている。

 小競り合いすら始まっている状況である。

 基次は山頂の澄んだ空気を思いっきり吸い込むと、大音声で叫んだ。

 「皆の者、よう聞け。これより我が隊は突撃致す。これは本気の戦である。故に未練ある者は去るがよい。咎めはせぬ。されど残りし者は己の全てを懸けよ」

 後藤隊二千八百の全員が同じ目になった。

 基次は皆の顔を見回し、こみ上げる熱いものに満足すると最後の命を与えた。

 「皆の者、参る!」

 「応!」

 そう応えるやいなや、皆先を急ぐかの如く敵兵に飛び込んでいく。

 基次は槍を持ち直すと佐助に告げた。

 「佐助殿、道案内ご苦労であった。左衛門佐殿に宜しくお伝えくだされ」

 「はっ、ご武運を」

 応える佐助に笑顔を見せると基次は馬腹を蹴り、敵兵に飛び込んでいった。

 佐助はそびえ立つ松の木によじ登り、基次の動きに合わせて木々を渡りながら、その勇姿を見詰め続けた。

 そして基次が腹を切ったのを確認すると戦場より姿を消した。

 

 (懐かしい臭いじゃ)

 砂埃と火薬と血と汗が混ざりあった何とも言えない臭いを、初夏の清々しい風が運んでくる。

 甚兵衛にとっては十五年ぶりの戦場である。

 配下の忍を三名引き連れた甚兵衛は、戦場から少し離れた小高い丘の上にいた。

 時は既に未の刻である。

 昨日の小松山において、基次他主力武将を数名失った豊臣方にはもう為す術はなく、残る戦術は総攻撃しかなかった。

 数刻前より総攻撃をかけた豊臣方と、それを受け止める徳川方との間で今、壮絶な闘いを繰り広げている。

 徳川方十五万に対し豊臣方五万という、野戦では絶望的な兵力差であり、さらに豊臣方の総大将秀頼は裸城に籠り戦場には出てこない。

 兵の士気が上がらず負け戦の様相を呈している豊臣方ではあったが、眼下に広がる光景は何故か少しずつ攻め込んでいる。

 甚兵衛はこの修羅場の中から幸村を探し出さなければならなかった。

 「千鳥、源次郎様はまだ見つからぬか?」

 甚兵衛は左横で片膝をついて戦場を凝視している千鳥に声をかけた。

 「難しいねえ。これだけ幸村様がおられると」

 それは幸村の戦略によるものであった。

 幸村は己と同じ背格好の家臣に己と同じ鹿角脇立兜緋威二枚胴具足を着用させ影武者とし、その者を中心に小部隊を構成した。

 影武者達は「我は真田左衛門佐幸村なり!」と叫び、率いる小部隊と共に徳川方に突入した。

 徳川方の兵士達は現れた幸村に殺到すると、半町ほど先で別の幸村が現れ、右往左往する間にまた別の幸村が突入してくる。

 振り回された挙げ句に突き崩されてしまうとゆう、少ない兵力で大軍を崩すには最善の戦法であった。

 「ほう、千鳥にも見えないものがあるとはのう」

 甚兵衛の後ろに立っていた背の高い忍びが呆れたように声を漏らした。

 「うるさいよ。茂助」

 千鳥を不機嫌にさせた茂助とは速足を得意とする一八歳の忍で、騎馬と同じ速さで走ることが出来る。

 情報伝達を主な働きとしているが、速い動きに対応できる眼を持っており、一対一の勝負には自信を持っている。

 「茂助よ、千鳥の力不足ではないぞ。赤揃えは膨らんで見える故、微細な異なりを隠してしまうのじゃ」

 茂助の戯れ言に耳を貸さず幸村を探している千鳥に代わって甚兵衛が説明した。

 「されど甚兵衛殿、このままでは戦が終わってしまいますぞ」

 甚兵衛の右横でしゃがみこんでいる小男が口を開いた。

 この伝七と呼ばれる忍は身が軽く、一間半に届く跳躍力をもっている。

 その為、潜入や暗殺を主な働きとしている。

 「何ぞよい方策はなかろうか」

 二十歳になる伝七は武士に憧れている為か、武者言葉を話す。

 「千鳥よ、儂がひとっ走り見て参った方が早いのでは?」

 茂助は挑発的な戯れ言を言った。

 「くっ」

 千鳥は悔しそうに唸った。

 「幸村様ならではのものがあれば・・・」

 何気無く呟いた千鳥の言葉から何かに気付いた甚兵衛は己の膝を叩くと千鳥に問うた。

 「千鳥よ、佐助を見知っておるか?」

 「ああ、知っているが」

 (何が言いたいんだ。この忙しいときに)

 千鳥は少し不機嫌になった。

 「されば佐助を探せ」

 「佐助殿を?・・・なるほど」

 千鳥は甚兵衛の意図を瞬時に読み取ると、佐助を探し始めた。

 「佐助殿を探す?」

 「佐助殿は影武者をしておるのでは?」

 茂助と伝七は甚兵衛の思惑を理解できない。

 (佐助を知らぬ故、仕方ないのう)

 甚兵衛はこの若い忍び共に言った。

 「あ奴の背格好では源次郎様の影武者は務まらぬのじゃ。故に源次郎様に付き従い、お守りしておるはずじゃ」

 だが甚兵衛は本音を隠していた。

 この圧倒的不利な状況において、豊臣方の戦いぶりは異様である。

 それはまるで鬼神が暴れまわるが如き様であった。

 昌幸亡き今、封印が解かれた幸村の鬼神が覚醒し、その鬼神の側に佐助という守護神が守護しているであろう。

 それがこの異様な状況を造り出していると甚兵衛は確信していた。

 (それをこの若造たちに言っても分からんだろう)

 案の定、若い忍び達の反応は寂しいものであった。

 「あ奴とはまた、近しい呼び方をなさる」

 「甚兵衛殿は佐助殿をよう見知っておられるのですか?」

 甚兵衛は応えなかった。

 千鳥は言葉なく、佐助を探している。

 

 「見つけたぞ」

 千鳥は驚いたように呟いた。

 「何処におる?」

 少し慌てたように甚兵衛は問うた。

 「あの大阪城側の小高い丘より突入する一団の内、先頭より三番目に下ってくる大将が本当の幸村様じゃ」

 「距離は?」

 茂助が確認する。

 「ここより一里程先じゃ」

 「甚兵衛殿、如何いたそうか?」

 茂助は走りたがっている。

 「千鳥よ、源次郎様と家康様の陣との距離は?」

 「おおよそ半里」

 甚兵衛は皆の顔を見回して言った。

 「皆の者、源次郎様は家康様の陣に向かうはず。それ故我らも家康様の陣に向かい、先回りして源次郎様を待ち受ける」

 「おう!」

 四人の忍びが今、動き始めた。

 

 戦場では鉄砲の撃ち合いが激しさを増し、立ち昇る硝煙が煙幕の如く視界を遮ってしまう。

 それを切り裂くように襲いかかる真田の赤揃えに対し、多勢に無勢と高を括っていた徳川方の兵士達は予想だにしない怒濤の攻撃に恐れを成し、中には逃げ惑う者もいた。

 ただしそれは一時的なものであり、二段目、三段目と連続した攻撃に慣れてきた敵兵達は槍刀、弓、鉄砲を構えて獲物を待っている。

 それに臆することのない真田の兵は敵の得物をものともせず突入しその餌食と化す。

 だが真田兵はただでは終わらない。

 槍に突かれる者は、刺さった槍を掴みながら倒れ、刀で斬られる者は、斬った相手に抱き付いて倒れるのである。

 また矢玉を受けた者は後方に倒れることを拒み、一歩でも前に進み出て徳川方の兵に寄りかかるように倒れる。

 皆示し会わせたように幸村の突入路を確保していくのである。

 この赤揃えに身を固めた猛者達は、幸村を家康の本陣に到達させることしか考えていないのだ。

 それに応えるように幸村は、苦痛に顔を歪めている兵士の横を通り抜ける際、「そなたらは我が誉れなるぞ」と叫ぶ。

 すると兵士達は皆安らかな表情となり、静かに息を引き取るのであった。

 それは徳川方の兵士達にとって狂気に満ちた世界にしか映らず、えもいわれぬ恐怖を覚えるのであった。

 

 戦が始まってから半時程経った時、幸村の目の前が急に開け、前方に見覚えのある旗印が見えた。

 それは徳川方の壁を通り抜け、家康の本陣が見えた瞬間であった。

 「幸村様、家康の本陣まであと四半里ですぞ」

 幸村の横を騎馬で並走する佐助が叫んだ。

 「気を許すでないぞ。これからが正念場じゃ」

 「承知!」

 佐助は手綱を握り直すと改めて馬腹を蹴った。

 足止めしようと左右から突き出す槍を朱槍で払い、正面から向かってくる矢玉をよけながら前へ前へと馬を駆り、幸村は遂に家康の本陣にたどり着いた。

 だがそこには幸村が想像していなかった光景が広がっていた。

 「なんと!」

 幸村は驚愕の声を上げた。

 先程まで勇壮と風になびいていた旗印は無残にも折れ曲がり踏みつけられた痕が残っている。

 家康が座っていたと思われる床机も悲しげに倒れ、やっとの思いで到達した家康本陣はもぬけの殻となっていた。

 「家康め、逃げおったか」

 落胆の色を隠しきれない幸村は呟いた。

 佐助はこの光景を見つめながら吐き出すように言った。

 「旗本が旗印を踏みつけて逃げる徳川と、総大将が戦場に顔を見せぬ豊臣との戦、死んでいった者の何処に大義が御座いましょうや」

 (その通りじゃ)

 幸村はそう応えたかった。

 だがそれは敗北を認めてしまうこととなる。

 幸村は空を見上げて息を吐くと改めて佐助に言った。

 「今は家康の首級を取ることが大義と心得よ」

 佐助は幸村の言葉に冷静さを取り戻した。

 「幸村様、家康は何処へ?」

 「ここより一里程東に秀忠の本陣があるが」

 幸村の言葉に合わせて東を向いた佐助が叫んだ。

 「幸村様、あの林の左奥に砂煙が」

 幸村がその方角に目をやると、数騎の騎馬が舞上げる砂煙が奥に奥にと進んでいくのが見えた。

 「あれこそ家康!」

 「その様じゃ。追うぞ」

 「追いつくこと叶いまするか?」

 「追いつかねばならぬ、死んでいった者のために」

 「承知!」

 幸村と佐助は馬首を返すと、まるで死んでいった者達に背を押されるが如く疾駆していった。

 

 「はぁはぁはぁ」

 苦しそうな吐息と共に家康は馬を止めた。

 「如何なされました?」

 並走していた近習が問うた。

 家康は崩れ落ちるように騎馬から降り、その場にあった大きな岩に寄り掛かるように座り込むと、苦しそうに言った。

 「この歳では体が言うことを聞かぬ。これ以上動けぬわ」

 「お心を強くお持ちくだされ。急がねば敵に追いつかれてしまいますぞ」

 何とか秀忠の本陣まで連れていこうと必死になっている近習を右手で制すると、家康は満足そうに言った。

 「もうよい。此度の戦、我が方の勝ちは確実じゃ。後は秀忠に任せる上、儂はここで腹を切る」

 「何を申されます。大御所様がお腹を召されたとあらば、敗北に等しく存じます」

 「されどこれまでじゃ。そなたにはあの馬走の音が聞こえぬか?」

 近習が耳をすますと近づいてくる騎馬の足音が聞こえる。

 「味方かもしれませぬ」

 「今逃げてきた方角より助けに参る味方などおらぬであろう」

 「本多様や大久保様が助けに参られたかもしれませぬ。お気を強くお持ちくだされ」

 そう言って音するの方を振り向いた近習の表情は、すぐに絶望の色に変わった。

 近づいてくる騎馬武者は赤揃えを身にまとい、槍の矛先をこちらに向け一直線に進んでくる。

 それはまさしく家康を追いかけてきた幸村と佐助であった。

 近習は力なくその場に崩れ落ちた。

 

 「幸村様、追いつきましたぞ。あれに見えるは家康に相違ありませぬ」

 佐助の言葉に返答せず、幸村は槍を振り上げて叫んだ。

 「お命頂戴つかまつる!」

 家康まであと五間程である。

 そこにいた誰もが幸村の勝利を確信した刹那、鈍い光が佐助に襲いかかった。

 生い茂る野草の陰に潜んでいた伝七が放った飛苦無であった。

 咄嗟に騎馬の背を蹴り、佐助は四間程上空に跳ね上がると同時に己の飛苦無を放った。

 「ぐっ」

 低いうなり声と共に伝七の命の灯が消えた。

 その瞬間、騎馬から崩れ落ちる幸村が佐助の目に映った。

 「しまった」

 その後悔が生み出す一瞬の隙を狙われ、佐助は左太股に冷たい痛みを感じた。

 辛うじて着地した佐助は、痛みに堪えながら幸村のもとに這い寄ると、必死に声をかけた。

 「幸村様、幸村様」

 「大事無い、急所は外れておる」

 幸村の右脇腹には、独特の形状をした飛苦無が刺さっている。

 「お立ちになれまするか?」

 不安気に問うた佐助に、幸村は首を左右に振った。

 「落馬した折、腰を打ってしもうた」

 改めて幸村の右脇腹を確認した佐助は呟いた。

 「この飛苦無は・・・」

 口惜しい表情で顔を上げた佐助の目前には、主のいなくなった二頭の騎馬が家康の横を走り去り、その砂煙の奥から三人の忍びが姿を現した。

 佐助はその顔に見覚えがあった。

 それは懐かしさではなく憎悪であった。

 「甚兵衛お前か!」

 佐助は怒りに震えている。

 「このような真似はしとうなかった」

 甚兵衛は寂しそうに呟いた。

 「黙れ腐れ忍びが!真田忍が真田家の血筋を汚すとは言語道断ぞ」

 足の痛みを忘れ、立ち向かおうとする佐助の忍び袴を幸村は掴んだ。

 「佐助よ、甚兵衛は己の欲では動かぬ男じゃ。此度の仕打ちは兄上の命に相違ない」

 苦し気な息をしながら幸村は諭したが佐助の怒りは収まらない。

 「たとえ信之様の命であろうとこの男だけは許せませぬ」

 そう叫ぶ佐助を悲しげな表情で見つめながら、甚兵衛は配下の忍びに命じた。

 「千鳥よ、そなたは家康様を秀忠様の本陣までお連れせよ」

 「承知」

 「後は任せたぞ」

 甚兵衛の思わせ振りな言葉に千鳥は笑顔で応えた。

 「お任せあれ」

 千鳥は家康を馬に乗せると静かにその場を去っていった。

 「茂助、そなたは秀忠様に家康様のご無事をお伝えせよ」

 「ちっ、承知」

 佐助との勝負を望んでいた茂助は舌打ちをしたが、己の役目の遂行を優先した。

 家康を逃した甚兵衛は、ゆっくりと幸村に近づいた。

 

 甚兵衛は幸村の前で膝まずくと静かに言った。

 「源次郎様、申し訳御座いませぬ」

 「詫びて済むものではないわ」

 佐助は甚兵衛を睨みながら叫ぶと幸村に懇願した。

 「この男は儂と儂の母を見殺しにした上、幸村様のお命まで奪おうとしております。幸村様、後生に御座います。この男を仕留めさせてくだされ」

 幸村は佐助を右手で制すると甚兵衛に言った。

 「佐助に真実を伝えても良い頃合いではないか甚兵衛」

 甚兵衛は黙したまま首を左右に振った。

 「言い訳など聞きとうないわ」

 佐助は今にも飛びかかりそうな勢いで叫んだ。

 「されば儂が語ろう。佐助よ、よう聞くがよい」

 佐助は憮然とした面持ちで控えた。

 幸村はゆっくりと語り始めた。

 

 天正十年(一五八二)三月、甚兵衛は女房の比佐と共に武田勝頼に随行していた。

 織田信長に追い詰められ新府城を逃れた勝頼は、昌幸の献策により岩櫃城に向かう予定であった。

 昌幸は勝頼を迎える準備の為、先に岩櫃城に向かった。

 そこで勝頼一行の道案内として甚兵衛夫婦が随行することとなったのであった。

 ところが武田家譜代家老衆であった小山田信茂は勝頼を裏切り織田・徳川連合軍に勝頼を売った。

 信茂の裏切りをいち早く昌幸に伝える為、甚兵衛夫婦は岩櫃城に向かったが、その途中で忍びの一団に襲われ、女房の比佐が殺害された。

 手を下したのは勝頼を見限り信茂に鞍替えした、以蔵と名乗る忍びであった。

 甚兵衛は以蔵と昵懇の間柄であった為、留守の間、息子甚助を以蔵の女房に預けていたのだった。

 岩櫃城に瀕死の状態で戻ってきた甚兵衛は、数日の間生死を彷徨っていた。

 意識を取り戻した甚兵衛は比佐を殺された悲しみを抱えながら甚助を探し回ったが、行方は知れなかった。

 その後、信之に仕えた甚兵衛は、信之を我が子の如く思うことでこの悲しみを忘れようとした。

 七年後の天正十七年(一五八九)信之が本多忠勝の娘、小松姫を正室に迎え徳川家の家臣となった頃、信茂の裏切りが家康の謀であることを甚兵衛は知った。

 封印していた怒りが甚兵衛を包み込んだ。

 だが時既に遅く、信之の主には手を出せない。

 そんな甚兵衛を信之は共に盃を交わすことで慰めた。

 慶長五年(一六00)佐助が幸村に仕えると、それが行方知れずの息子甚助であることを知った甚兵衛は困惑した。

 佐助は父親の甚兵衛が母を見殺しにし、己を見捨てたと信じていた。

 本当のことを話し、止まっていた時を動かそうと思い描いていた甚兵衛であったが、佐助の忍びの才を目の当たりにした時、その思いは絶望に変わった。

 本当のことを話してしまえばこの優れた忍びはその敵を確実に討ち果たすであろう。

 それは己の主にとって厄をなす。

 このまま憎しみの矛先を己に向けておくことが我が主が為と考えた。

 その日から息子に憎まれる辛い日々が始まった。

 

 「儂がそなたに仇討ちをせぬよう命じておったはその為じゃ」

 幸村は痛みに耐えながら語り終えた。

 佐助と甚兵衛は複雑な表情をしている。

 沈黙の中、初夏の風が流れている。

 重い空気ではあったが心地よさを感じ始めた瞬間、甚兵衛が倒れ込んだ。

 「甚兵衛!」

 驚いて叫んだ佐助は、甚兵衛の背の刀傷から血が滲み出ているのを確認した。

 その瞬間、一人の男が幸村の目前まで踏み込んで叫んだ。

 「真田佐衛門佐幸村殿とお見受け致す。その御首頂きとう存じますれば御覚悟召されい」

 その男は甚兵衛の血に染まった太刀を降り下ろした。

 「ぐっ」

 幸村の首元まであと一寸のところで太刀が止まり、低いうなり声を上げてその男は崩れ落ちた。

 佐助が咄嗟に飛苦無を打ったのであった。

 幸村を襲ったこの男は戦場に残された家康の近習で、三人の会話を盗み聞きし、幸村の存在を確認すると褒美に目が眩み強行におよんだ。

 佐助は呆れたように言った。

 「褒美を期待しての仕業であろう。悲しき男ぞ」

 呆然としていた幸村は我に帰った。

 「甚兵衛、大事無いか?」

 「なんのこれしき」

 甚兵衛はゆっくりと立ち上がると、改めて片膝を付いて控えた。

 「源次郎様、お別れに御座います」

 「何処へ参るのじゃ」

 「我が殿の元へ」

 「左様か」

 「されば御免」

 甚兵衛はふらつきながらもゆっくり去っていった。

 その姿を見つめながら幸村は静かに呟いた。

 「信州上田まではもたぬであろうな」

 佐助はその言葉に無言で頷いた。

 遠くから叫び声が響く。

 「真田佐衛門佐幸村、討ち取ったり」

 大阪城の方角から砂塵の如く煙が上がり、初夏の風が焦げた臭いを運んでくると、幸村は佐助に言った。

 「間も無く勝敗が決するようじゃ。儂もそろそろ参ろうかのう」

 脇差しを抜いた幸村の後ろに立った佐助は、黙したまま静かに忍刀を抜いた。

 初夏の風に舞い上がった砂塵は、二人の姿を少しずつ包み込んでいった。

 

 

 

 第五章 真田の血筋

 

 大阪城の戦が終戦となってから一年が経った。信州上田の真田屋敷の居室では信之が、あの時と変わらず盃を傾けている。

 だだ異なるのは、酒肴の相手が甚兵衛でない事だけであった。

 「あれからもう一年になるか。時の経つのは早いものじゃのう」

 「ほんに早う御座いますな」

 酒肴の相手をしている千鳥が応えた。

 大阪城の戦に出ていった真田忍びの内、生きて帰ってきたのは数日前に戻ってきたこの女忍びだけであった。

 殺戮を重ねる毎に増してゆくこの女忍びの妖艶さは、以前よりも増していた。

 「ところで千鳥よ、そなたは源次郎の最期を存じておるか?」

 「存じませぬ」

 「左様か」

 「申し訳ございません」

 「構わぬ。ちと気になることがあってのう」

 「気になることとは?」

 「家康様のご葬儀の際、叔父上に合うての」


 元和二年(一六一六)四月、徳川家康は他界した。

 その死因は同年一月に食した鯛のてんぷらによる食中毒と報じられ、それを疑うものはいなかった。

 家康の葬儀の後、信之は信尹の屋敷を訪れた。

 「ほんに久しいのう、源三郎」

 源三郎とは信之の通称である。

 「前にお会い致したは、まだ父上が九度山にて存命の頃で御座いましたな」

 「左様じゃのう」

 久方ぶりに再会した叔父と甥は、思い出話に花を咲かせた。

 話が幸村のことに移った時、信之は切り出した。

 「叔父上は先の戦の折、源次郎に合うたそうに御座いますな」

 「左様、家康様の命で調略しに参った折に合うたわ」

 「あの頑固者を寝返らせよとは家康様もご無理を申されますな」

 「それだけではない。家康様は『首実検の折、そなたに確認を命じる上、幸村の顔をよく覚えて参れ』と申されたのじゃ」

 信之は驚いた。

 「何故そのようなご発言を?」

 少し興奮ぎみの信之に対し、信尹は静かに言った。

 「家康様は源次郎に義を通されたのじゃ」

 「源次郎に義を?」

 「左様、開戦の折の源次郎は蟄居の身であった故、家康様は城攻めを命じられぬお立場であった」

 「いかにも」

 「それ故、豊臣方からの誘いにより家康様に弓引くこととなったが、実のところ家康様は源次郎を許し味方になされたかったのじゃ」

 信之は信尹の言葉を信じることが出来なかった。

 「されど家康様は『真田親子の責めは大』と仰せで御座いました」

 「家康様は儂に『責めは父親にあり、息は従うただけじゃ。されど世が許さぬ』と申された」

 「ではお許しになられなかったのは秀忠様の手前」

 「左様じゃ、現将軍を翻弄した者を許すは示しがつかぬであろう。それ故、儂を脅してでも寝返りさせたかったのじゃ」

 「叔父上を脅す?」

 「左様、儂とて源次郎の首級は見とうない。故に『調略出来ぬ折は、甥の命はないものと思え』と申されたかったのであろう」

 「家康様が源次郎に義を・・・」

 家康の想いに感じ入った信之は信尹に問うた。

 「されば叔父上は源次郎を説得されたのですか?」

 信尹は笑いながら応えた。

 「あの頑固者を説得するなど、兄上がおなごを絶つより困難じゃ」

 信尹の兄、昌幸のおなご好きは有名であったが、息子である信之としてはあまり笑える話ではなく、苦笑いをするしかなかった。

 信尹は話を続けた。

 「されど源次郎はまるで家康様の言葉を聞いていたかの如く燭台の灯りを己の面前に近づけ、儂に顔を見せつけおったのよ」

 (源次郎め、やりおるな)

 信之は心の奥で呟いた。

 「儂の顔に思いが出ておったかもしれぬのう」

 信尹はすこし悔しそうに言った。

 「いずれにせよ源次郎の首級は叔父上が確認されたので御座いますな」

 弟の死を確認したい信之は、当たり前な返答となるであろう問いをぶつけた。

 「実は一つ気になることがあってのう」

 「気になることとは?」

 予想していない返答に信之は少し驚いた。

 「源次郎が幼き頃にそなたと木登りをしていた折、半間程の高さから落ち、右の眉の上を切ったことがあったであろう。その傷がな」

 信尹は周囲を気にすると小声で言った。

 「消えておったのじゃよ」

 「では源次郎は」

 信尹は右手で制し、それ以上は言わせなかった。

 「不思議なことがあるものじゃのう」

 信尹は満足げな笑みを浮かべていた。

 (叔父上も真田の血筋じゃ)

 信之も笑みを返した。

 

 「では、幸村様は生きておられると?」

 千鳥は驚き、前のめりになって言った。

 それを信之は制した。

 「声が大きい。それに滅多なことを申すでない」

 我に帰った千鳥は姿勢を正して「申し訳ございません」と静かに詫びた。

 信之は盃の酒を一気に飲み干すと千鳥に問うた。

 「そなたが最後に源次郎を見た時はどのような様子であったか?」

 千鳥は信之の空いた盃に酒を注ぎながら応えた。

 「幸村様の右脇腹には甚兵衛殿が打った飛苦無が一本だけ刺さっておられただけで、他には落馬された折に腰を強う打たれた程度で御座いました」

 「甚兵衛の飛苦無であれば、かなりの出血であったろうに」

 「いいえ、甚兵衛殿は手加減をされたのでしょう。急所を外し、出血が少なき場所を狙うて打たれたものと存じます」

 「その様なこと、可能であるか?」

 「忍びの中でもそれだけの技を持つ者は限られております」

 「さすがは甚兵衛じゃ」

 信之は満足げに言った。

 突然千鳥は何かを思い出した。

 「殿、大阪に潜伏する忍から報告が御座いました」

 「どの様な報告じゃ」

 「はい、先の戦が終戦した数日後、大阪の町に左足を引きずった男が現れ店を始めたそうに御座ります。その男は音の鳴らない鈴を『父の形見じゃ』と申して大事にしておるそうで御座います」

 「してその者の名は何と申す?」

 「確か甚助と申しておりました」

 信之は盃を一気に飲み干すと千鳥に盃を渡し、酒を注ぎながら言った。

 「その甚助と申す者、佐助に相違ない」

 「真に御座いますか?」

 驚いた千鳥に頷きながら信之は応えた。

 「真じゃ。佐助は甚兵衛の息で、名を甚助と申す」

 「甚兵衛殿の息が佐助殿」

 口を着けることを忘れ、盃を両手で持ったまま千鳥は暫く考え込んでいたが、何かに気付くと突然口を開いた。

 「されば佐助殿が『父の形見』と申されたとなると」

 信之もまた、酒徳利を膳には置かず、握りしめながら言った。

 「甚兵衛は落命したようじゃな」

 その悲哀に満ちた口振りは信之の忍びに対する強い愛情の現れと感じ、千鳥はこの主に仕えておることを誇りに思うた。

 「されど佐助殿が生きておられるとなれば、幸村様もご存命では?」

 信之を勇気づけようとして、千鳥は明るい声色で言った。

 信之は表情を変えずに酒徳利を膳に戻すと千鳥に問うた。

 「源次郎は落馬した後、如何にしておったか覚えておるか?」

 「幸村様は一歩たりとも動かずその場に座り込んでおられました」

 信之は落胆の色を浮かべながら言った。

 「左様か。なれば源次郎は腹を切っておるわ」

 「なんと!」

 落としそうになった盃を慌てて抑えた千鳥は問うた。

 「何故、お腹を召されたとお考えに御座いますか?」

 信之は落ち着いて応えた。

 「源次郎が生きておれば、残党狩りに会わぬよう人里を離れ、隠れ過ごすであろう」

 「確かに」

 「その際、源次郎の側には佐助が付き従ごうておるはずじゃ」

 「佐助殿なれば必ず」

 「されど佐助が大阪の町におるとなれば、源次郎は大阪におるかこの世におらぬかのどちらかじゃ。そなたは源次郎が大阪におると思うてか?」

 千鳥はすでに盃を落としていた。

 「されば何故お腹を召されたと?」

 「落馬して動けぬは、腰骨を折っておるに相違ない。腰骨を折った者は生きて戦場を出られぬわ」

 「存じております」

 「なれば源次郎の首級は何処にあろうか?」

 「首実検・・・」

 千鳥は気がついた。

 本物の幸村の首級は何処にもない。

 だが生きている様子も見受けられない。

 「されば幸村様の首級は佐助殿が葬られたと」

 「左様、故に源次郎は腹を切り、佐助が介錯したのであろう」

 千鳥は最後の反論をした。

 「されど真田家は腹を召されぬと聞き及んでおります」

 真田家は始祖幸隆の代から切腹をしていない。

 それは領地を自力で切り取ってきた真田家ならではの考え方で、己の手で死を招くことを蔑む風潮があった。

 信之は少し悲しげに応えた。

 「源次郎は己の思いを貫いて多くの命を失うた。故に死んでいった者共に報いようと家風を捨てたのであろう。じゃがこれも真田の血筋であろうかのう」

 そう言うと信之は黙した。

 そんな信之を千鳥は優しげな目で見つめながら、心のなかで呟いた。

 (真田の血筋・・・か)

 

  信之は千鳥の落とした盃を渡し酒を注ぎながら、呟くように言った。

 「皆いなくなってしまったのう」

 千鳥は酒で満たされた盃をゆっくりと口に運び飲み干すと、微笑みながら言った。

 「寂しゅう御座いますれば、お慰み致しまするが」

 酒に酔った千鳥は、惑うほどの色香を感じさせる。

 信之は横目で千鳥を見て言った。

 「家康様の様には成りとうないからのう」

 「まあ、あれは甚兵衛殿に頼まれた故に御座いますよ」

 甚兵衛は女房の比佐を殺害し、息子甚助を不幸に陥れた張本人である家康の殺害を千鳥に依頼していた。

 千鳥は褥上で殺戮を遂行し、見事に達成していた。

 それを幕府は隠蔽せざるを得なかった。

 

 「千鳥よ、伝えたき事がある。近う」

 千鳥は信之に腰半分近づくと耳を向けた。

 信之は千鳥の耳に口を近づけた。

 甘く酸っぱい女の匂いに心を奪われそうになりながら信之は囁いた。

 「家康様暗殺の件、感謝しておるぞ」

 「???」

 予想だにしない感謝の言葉に驚いた千鳥は、咄嗟に信之の方を振り向いた。

 二人は鼻が当たるほどの距離感で見つめ合った。

 (・・・危険じゃ)

 信之は慌てて目を逸らした。

 そんな信之に微笑みながら千鳥は言った。

 「何故その様なことを申されます」

 気を持ち直した信之は冷静に戻ると言った。

 「実は甚兵衛の女房、比佐には真田の血が流れておった」

 千鳥の微笑みが驚きに変わった。

 「比佐殿が?」

 「左様、始祖幸隆様が歩き巫女の一人にお手を付けられてのう。その歩き巫女から産まれたのが比佐じゃ。故に儂の叔母上に当たる。それ故、叔母上の無念をはらしてくれたは有り難きことなのじゃ」

 「されどお手付きの子であらば、産まれて直ぐに亡きものとするが常に御座います。」

 「左様、されど祖母上であられる恭雲院様は『悪しきは夫幸隆に有って、子には無い』と申されたて、その母娘を庇護なされた。母である歩き巫女は恭雲院様のお計らいに感激し、『ご迷惑はお掛けできぬ』と申して忍の里に下ったのじゃ」

 「では佐助殿は」

 「左様、真田の血筋じゃ」

 

 酒肴が始まってから一時半程の時が流れた。

 酔いが回った信之は呟くように言った。

 「これより暫く戦は起こらぬ。そなたらの働き口は少なくなるのう」

 千鳥は微笑みを浮かべ艶かしい声で言った。

 「殿の妾にしていただきましょうか」

 千鳥の戯れ言を真に受けそうになりながらも、信之は受け流した。

 「それは祝着至極、されど儂は側室を持たぬ故のう。それでのうても真田の血筋はおなごに苦労せぬ血筋でな」

 千鳥は不満そうな表情をみせたが、ふと気になっていること思い出した。

 「殿、一つお聞きしてもよろしゅうございますか?」

 「構わぬ」

 「真田の血筋とはどの様なもので御座いましょうか?」

 信之はしばらく考えた後、笑顔で答えた。

 「楽しき事を好むが故、迷惑な血筋じゃよ」

 初夏の風はいつもと変わらぬ香りを運んでくる。

 二人の酒肴はいつまでも続いていった。


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