女性部門 3位:此糸
女性部門 3位:此糸(得票数12票)
黒船屋の離れから見える景色は季節によって様々に変わります。もう何年もこの部屋で暮らしておりますが、本心から退屈だと思ったことはありません。窓から見える空に、庭師によって丁寧に手入れされた庭に、四季折々の風景が映し出されるのですから。
今宵は白く細い月が天を刺すように浮かんでおりました。
「白い月……」
梅雨時を迎えるこの時期、湿気を帯びた夜の空気は肌を刺します。
気に留めずそとを見やっていますと、金と青の美しい目をした黒の猫が二匹、足元にすり寄ってまいりました。
「おひいさま、お風邪を召されますよ」
「窓をお閉めになってはいかがですか」
「よいのです、このままで」
窓枠に頬を預け、少々緩慢な仕草で見上げた月は、あの頃と寸分違わぬものでした。
お客様の事を詮索してはなりません――それはこの界隈の不文律。ですから、たとえ瞳の色が非常に珍しい色であったとしても、背に痣を負う者であったとしても、同じ『お客様』なのです。
しかし、新造として姐様のお座敷に上がった時、その美しい瞳の色に思わず息を呑んでしまいました。
間近にしたのは初めてですが、その種族の存在は存じ上げておりました。
――夜叉族
ヒトと似た姿をしながら、ヒトではないモノ。ヒト族よりも強靭な肉体を持ち、ヒトと決して交わらぬ、誇り高き戦闘種族。
とはいえ、客として目の前に並ぶ方々は、戦闘種族と呼ぶには相応しくない出で立ちなのでした。
きっちりとした羽織袴、整えられた眉目、鋭い眼光はこちらの考えをすべて読まれてしまうかのようです。
姐様の前に並ぶ夜叉族は三名。その鋭いまなざしに、姐様方も非常に緊張しているようでした。
お一人は高齢のお爺様です。先ほどからずっと元締めとお話をされており、姐様もお爺様には話しかけないようにと言いつけられているようです。敢えてお声がけしていらっしゃいません。こういったお客様は時折いらっしゃいます。私共のような遊び女ではなく、元締めとの情報交換を目的としていらっしゃる方です。
そしてお一人はお若い方でした。口元に笑みをたたえており、目が合うとにこりと微笑んでくださいました。線は細く、黒髪を後ろで一つに束ねて細く流していらっしゃいます。物腰柔らかなその方が、姐様のお客様のようでした。
姐様は楚々とした仕草でその方の元ですり寄りました。
「藤夜様、お久しゅうございます」
黒髪のお若い方は藤夜様とおっしゃるようです。姐様のご様子から初めてではなく、藤夜様のご様子からしても、姐様を好ましく思っている様子が伝わってまいります。
それでは私は、もう御一方をおもてなしすべきなのでしょう。
最後のお一人は、お若い、と言うよりは少年と呼んで相違ない方でした。私とそれほど変わらない年齢に見えます。もちろん、普段お店で見かけるような齢ではありません。
まるで夜明けの空のような青の髪に、赤い瞳。一見、感情を映していないようにも見えますが、少し緊張している事、そして私の方へ意識を向けてくださっている事が分かります。
異なる種族ではありますが、同じ年頃には変わりないはずです。
私も少しだけ、肩の力を抜くことが出来ました。
「お初にお目にかかります。此糸と申します」
茣蓙に両手をつき、深々とご挨拶申し上げますと、お隣の藤夜様がにっこりと笑いかけてくださいました。
「初めまして、此糸さん」
ですが、青い髪の方は私をじぃっと見つめるばかりで口を開いてはくださいません。
すると、藤夜様はくすくすと笑いながらおっしゃいました。
「シロ、ヒト族ばかりだからって緊張しなくて大丈夫だよ。このお店は、僕らの味方だから」
『シロ』と呼ばれた少年はふいと視線をそらしました。
その様子がまるですねた幼い子供の様で、思わず微笑んでしまいました。冷たい月の光のような容貌でありながら、ずいぶんと可愛らしい反応をされるものです。
シロというお名前もとても愛らしく、この方にはとても不釣り合いに感じます。
「シロ様とおっしゃるのですね。どうぞ、よろしゅうお頼み申します」
再び頭を垂れますと、不機嫌そうな声が降ってまいりました。
「シロではない」
ふっと顔を上げますと、シロ様は不機嫌そうな表情で、ため息が出る程に美しい赤の瞳を細めながらこちらを見下ろしていました。
「月白、だ」
血のように赤い色。
普段は冷たい真白の光を放つ月が時折、赤銅色に染まるように。
あの方の瞳はとても深い色を映します。そうして遠くを見ている時、目の前にいるはずの私はまるで此処にいないかのようでした。
私はその瞳にどうしようもなく惹かれてしまったのです。
幾度か店を訪れたあの方をシロさん、と呼ぶようになるのも、私には見えない景色を映すその瞳に、私だけを映して欲しいと願うようになるのも、それほど長い時間はかかりませんでした。
ヒトでないモノに心惹かれる事が、どのような結果を描くのかも想像できないほどに、心を捕えられておりました。
それでも私はあの時、幸せでした。
他の何もかもが見えなくなってしまうほどに――あの方のお傍にいられる事だけを願うようになってしまうほどに。
せめて、あの方と同じ世界が見たい。
猩々緋の衣装だけを身に着けるようになったのは、この時からでした。
「おひいさま、夢を見てらっしゃるの?」
「おひいさま、とても楽しそう」
遥か遠くで対の黒猫の声がします。
でもこの多幸感を抜け出すのは酷く勿体無い気がいたしますから、そのまま目を閉じ続ける事にしましょう。
遠くから子守唄が聞こえてまいります。
これは自分自身の声なのでしょうか、それとも他人の声なのでしょうか。
それすらも判別できないほどの微睡みに落ち、芥子の香りに包まれて、瞼の裏に白き月の面影を追っておりました。