男性部門 3位:月白
男性部門 3位:月白(得票数14票)
紺青の空に浮かぶ糸のような月。
濃い紺青にくっきりとした白い糸が空に突き刺さるように映えている。
思わず目を止め、足も止めた。
自らの名と重ねる訳ではないが、夜空を眺めるのを忌む感情はない。しかし、未だこの町の空の色は目に馴染まなかった。時折吹き来る不穏な風が夜の紺青も濁らせるのか、それともヒトの熱気が像を歪める所為か。
故郷を離れ、ヒト族の拓いた江戸の町。
その町へと下り諜報の活動をせよとの命は元服の齢より数え切れぬほど受けてきた。
大河をいただく平野にヒトが拓き、ヒト非ざるモノが棲み付き、膨れ上がった巨大な都。ヒトが、ヒトだけの住む町と誤想しているこの町は、その実、ヒトならざる者に溢れている。気づいているのかいないのか、ヒトの頭であるヒト非ざる江戸将軍は、ヒトでないモノとの和平に奔走する。
まるで言葉遊びのそうなソレを滑稽だと笑うのは簡単だが、笑い飛ばせるほどの何かが自分にあるわけではなかった。
時代の節目が確実に近づいている事を、自分も肌で理解していた。
月に足を止めたのは刹那、再び歩みを進めた。
向かう先は我々の一族が定宿にしている歓楽街近くの安宿だった。無為に目立つ事を好まない種族柄、どうしても町外れであはるが人に紛れられる程度に人の集まるする場所に佇む場所を選びがちだ。
だからこそ、若い頃、初めて触れたあの華やかな街に羨望を抱いたのかもしれない。
極上の美女が銭と引き換えにあれやこれやと客を持て囃す、誰が呼んだか極楽浄土――その店の一つに、上司の付き合いで入ったのがすべての始まりだ。
煌々たる天満月が見下ろす夜、美しき瞳の奥に、枯れえぬ情熱と冷めた絶望を同居させ、面差しに少女の如き無垢さを残した彼女に出会った。
あの頃は自分も、青臭いと言われて仕方のない年齢だった。種族の異なる少女に目を奪われる事がどのような結末を招くか、思慮に欠けてしまう程度には。
少し視線を遣れば片隅に映してしまう艶やかな街を避けるように路地を行く。
上司は一足先に里へと戻った。今晩、自分一人で夜を過ごしてから里へと戻る事になる。
野暮用だと押し切り、説明しなかったが、どこまであの人を誤魔化せているのやら。
未だ幼少の頃の呼び名を頑なに使い続ける上司の姿を思い浮かべ、軽く息をついた。上司に言わせれば、現在もまだまだ青臭いガキである事には変わりない。
と、その時、不意にカァ、と烏の鳴き声がした。
ふと見上げれば、足に筒を括りつけた烏が一羽、こちらを見下ろしている。
「届いたか……」
これを待って江戸に留まっていたのだ。
故郷の里から西へ下ったヒトの都からさらに西、最果てと呼ばれる地からの書簡だった。
舞い降りた烏の足から筒を外す。中には小さく折りたたまれ、丸められた紙が一枚入っていた。
烏を空に放してやり、書簡のみを手の内に握る。
天より見下ろす月から離れ、再び歩を進めた。
緩く波打つ烏羽色の髪、紅に彩られた藤色の瞳。蜂蜜のように柔らかな色の肌。猩々緋の着物は彼女のために誂えたかのようだった。座敷での一挙手一投足が、一瞬一瞬の表情が、指先まですべての動きが完璧だった。
絶世と呼ぶにふさわしい容姿の年若い遊び女は、此糸と名乗った。
少女のような声音の美しい歌で楽しませ、どこかあどけなさを残した笑顔で朗らかに場を盛り上げた。
自分は上司に連れられて来ただけだったが、年が近い事で気になったのだろう。それはそうだ。本来ならこれほどの店に上がる事が出来るような立場ではない。彼女は時折、深い色をした藤色の瞳でこちらをじぃっと見つめていた。
それでも、若造だった自分は視線を奪われた――相手がヒト族だと分かっていながら。
奪われた事を、顔にも態度にも出したつもりはない。夜叉族として心を殺す訓練は幼い頃からしていたはずだ。
それでも敏い彼女は感づいた。
江戸で指折りの妓楼、それも最上級。客の心を容易に読み取る類まれなる感覚を持ち合わせた彼女が同じ視線を返すようになったことに気付いたのは、ほんの二度目の邂逅だった。
大人たちに埋もれるように並んだ俺の顔を見て、彼女は微かに頬を緩めた。蜂蜜色の肌にほんのりと紅が差し、少女の面差しに笑みが浮かんだ。
冗談かと思った。
何か言葉を交わしたわけではない。
もしかすると思い上がりかもしれない。
でも、何故かあの瞬間に気付いてしまった。
「――欲しい」
まるで、忌むべき紅の種族のような言葉を呟いて。
芥子の花のような少女に、どうしようもない羨望を抱いた。
賽ノ地から届いた文は、簡潔ながらも要点を押さえた事実のみを書き連ねた報告書の体を保っていた。
丁寧な字が書いた者のソツのなさをうかがわせる。
内容は、無事、賽ノ地に到着し羅刹狩りに就任したという近況に始まり、2年前に町奉行に就任した近松景元との邂逅の手筈、町の雰囲気や施政の様子など。当たり障りのない内容が前半に書き連ねてある。万一、他の者に見られても、ただ近況を伝えているようにしか見えないはずだ。
近況を読み終わった後、一度文から視線を上げた。持ち込みの小さな瓦灯だけでは目に堪える。眉間を指で揉み込み、休息を入れる。
じりり、と灯りの燃える音がする。
部屋の静寂に追われるように、続きに目を通した。
ソレの存在は随分前から知っていた。
気を向けたのはほんの最近の事だ。
あれから16年――ソレはあの時の自分と同じ齢になる。
この歴史の節目に忌々しいほどに自分とよく似た容姿のソレがいったい何を選ぶのか。
「――興味などない、はずだ」
心にもない言葉を吐いた。
聞かれれば扇子で口元を隠し、くすくすと失笑されそうな予感がした。
読み終わった文をそのまま瓦灯の火にくべた。
一筋の煙を上げながら茶けた紙の端が黒くなって燃え広がり、みるみる灰になる。燃え終わりは崩れ落ち、畳に落ちた。跡こそ残さなかったものの、焦げた匂いが鼻孔をついた。
過去と未来と、様々なるものが眠る江戸を針のように細い月が見下ろしていた。