女性部門 1位:玖音
女性部門 1位:玖音(得票数22票)
あたしは、きさらと並んで歩く男を、少し後ろから追いながらじっと見ていた。
あの男の足取りは、素人じゃない――素人らしすぎるのだ。歩き方にクセがない。自然すぎて、不自然。うまく言葉には出来ないけれど、一言に纏めるなら『ただ者ではない』。
何者だろう。
黒ずくめの衣装に身を包んだその男は、烏ノ介と名乗った。町外れの閑長屋近くに職場がある、と言っていたけれど、それもどこまで本当なのか。きさらに対して害意があるわけではなさそうだけれど、気は抜けなかった。
きさらは、人を疑う事を知らないから、あたしが代わりに警戒しておかないと。
「……何であいつはこんな時にいないのよ……!」
知らず、頼りにしている向日葵色の上着を翻して駆け回る後姿を思い出してしまったけれど、はっと思いなおす。
「べべべ、別に会いたいってわけじゃないし、頼ってるわけでもないしっ」
向日葵色の影を頭の中から払おうと、ぶんぶんと頭を左右に振る。
でも、一度焼き付いた影はそう簡単には消えてくれなかった。
そんなあたしの心配を他所に、烏ノ介という男性は非常に紳士的に、にこにこと笑いながらきさらとあたしをハナちゃんという女の子のお兄さんが住む長屋まで送り届けてくれた。
「ここで大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
きさらがにっこりと笑ってお礼を言い、あたしもぺこりと頭を下げた。
特に何も起こらなかったな――別に、無事ならそれでいいんだけど。
この不安定な最果ての町で、命の危険なんて何処に転がっているか知れないのだ。どれだけ意識しても意識しすぎる事はないのだから。
去っていく烏ノ介の姿を見送りつつ、彼の姿が消えて行った長屋の入口近くの建物を覚えておく。入口の戸板は幅が狭く、看板は出ていないところを見ると、お店ではなさそうだ。問屋か何かだろうか。
――後で確認しよう
「どうしたの、玖音?」
「何でもないよ。それより、その子の家は?」
誤魔化してそう言うと、きさらはハナという子供の前に膝をついて、優しく問いかけた。
あたしの親友だからこその欲目という訳じゃないけれど、きさらは本当に女の子らしくて、優しくて可愛いと思う。優しすぎる事が、時折、彼女を傷つけたりもするのがとても危なっかしいのだけれど。
「ハナちゃん。あなたのおうちを教えて?」
その言葉に、一度首を傾げたハナは、はいっ、と大きく手を挙げた。
「分かるよ! おうち! ハナとお兄ちゃんのおうち!」
そしてハナは、きさらの手を取って駆け出した。
狭い長屋の路地を抜け、ハナは一件の長屋の前で立ち止まった。
何の変哲もない長屋の一角、きちんと張り替えられた障子戸が半分だけ空いていた。その扉の向こうから、不穏な空気が漂ってくる。生暖かいような、生臭いような、鉄錆の微かに混じった……あまりよくない空気だ。
きさらもその不穏さに気づいたんだろう。
唇を引き結んでハナの手を握り、あたしの方を振り返った。
伊達に何年も親友をやっている訳ではない。あたしはそれだけできさらの言いたい事を察して、先に障子戸の向こうを覗き込んだ。
むせ返るような酷い匂いが流れ出した。吐き気を催すその匂いに慣れるのはよくない事だと分かっている。
中を覗き込む前からこの場所で何が起こったか分かってしまっていたが、心を殺して細く開けた障子の隙間から差し込んだ光で目視確認すると、あたしは障子戸を閉めた。
赤く染まった壁がすべてを物語っていた。
「すぐ、町奉行所に連絡するわ」
そう告げると、きさらは唇を噛みしめ、ハナをぎゅっと抱きしめた。
ハナの事はきさらに任せるとして、町娘の衣装から一瞬で忍び装束に着替え、あたしはその場から駆け出した。
賽ノ地ではよくある事だ。
長屋に住まう貧しい兄妹が盗賊に襲われる事なんて。そうやって、他人の物を奪う輩がついでに命も奪っていく事なんて。
身を寄せ合って暮らしていたはずの家族が、いつしか兄妹二人だけになってしまって、さらには……一人になってしまう事なんて。
「……兄様」
思わず、自分の口から零れた言葉にはっとして口を塞いだ。
あのひとの事を思い出すのはやめていたはずなのに。
賽ノ地の外れの荒野で泣いていた、幼い女の子の姿を思い出して胸がぎゅうっとつかまれるような感覚に襲われる――自分と重ねる訳ではない。あたしは、大きくなるまであのひとと一緒だったし、一人でも生きて行けるだけの技術を残してくれたおかげで今も忍の仕事が出来ている。
あんなにも幼い、何も出来ない時に放り出されたわけじゃない。
ハナという女の子の今後を思ってあたしは胸を痛めた。嬉しそうにきさらの手を引いて自分の家に案内していた彼女は、きっとまだ何も理解していないのだろう。
最近では忍として仕事を得ているので、奉行所に出入りする事も多い。裏からでも止められることなく、すぐ中に入れてもらえた。
そして淡々と滞りなく閑長屋での出来事を報告した。
これまでの賽ノ地ならば見過ごされていたかもしれないが、2年前に就任したお奉行様はとても情に厚い方だから、もしかするとハナの事も助けてくれるかもしれない。
あたしは、事態の収拾と調査をお願いすると、きささらと合流するため、再び長屋へと戻る事にした。
長屋へ戻るその途中、ふとあの建物が目に入った。
烏ノ介という男が入って行った建屋だ。よく見ると、玄関先には表札のように薄い木の板が一枚だけ下げられている。
「『烏組』……?」
いったい何の組合だろう。
もう少し、調べてみようか……と思っていたら、ふっと背後から影が差した。
「何か御用ですか?」
ぞっとした。
全く気配がなかった。
即座に距離を取り、苦無を構える。
立っていたのは、やはりと言うべきか、黒装束に身を包んだ烏ノ介だった。
「ああ、警戒しないでください。大丈夫です。怪しい者ではございません」
「……十分、怪しいわよ」
じりり、と逃亡の機会をはかるが、隙が無い。いや、自然体すぎて読めない。隙があるのか隙がないのかも分からない。
烏ノ介はそんなあたしの心さえも見透かしたように、胸元から取り出した扇子を口元に当てて、くすくすと笑った。
「ちょうど外出するところに、うちを気にされている様子のお嬢さんがいらっしゃったので、思わず声をかけてしまっただけですよ。驚かせたのでしたら、すみません」
にこにこと笑う烏ノ介。本心が読めない。
一向に警戒を解こうとしないあたしに、烏ノ介の方が先に背を向けた。隙を見せている気もするけれど、とても手を出せる気もしない。
「すみません、では、また」
やけにあっさりと去っていく。
「何なのよ、もう……」
でも、気になる。
あの男が何者なのか。これからどこへ向かうのか。そして『烏組』というのがいったい何の組織なのか。
「ごめん、きさら」
少し遅くなるかも。
心の中で謝って、あたしは烏ノ介の背中を追った。
烏ノ介は、町の中をのんびりと歩きながらも、しっかりとした目的地を持って歩いているようだった。賽ノ地の町から橋を渡って外町へ、そして迷いなく右手に進路を変える。この方向は……
「賽ノ河原に向かってるの?」
あんな場所、まともな賽ノ地の町人なら絶対に近寄らない。
賽ノ地のすぐそばを流れる賀茂川の河原、通称賽ノ河原は、盗賊や追剥の巣窟だ。向日葵色の上着を纏ったあいつやその相棒ならともかく、普通の町人ではとても無事ではいられないはずだ。
夏らしく青々と茂った背の高い草に身を隠す。先ほど降った雨のせいで残った露が髪を濡らした。
と、その時、不意に烏の声が響き渡った。
かぁ、と甲高く、一つ。
特に驚くことではなかったけれど、突然だったので、一瞬、声の方向に気を取られた。ただ、そのほんの一瞬。
それだけで、烏ノ介の姿はあたしの視界から消え去っていた。
思わず草むらから飛び出し、周囲を見渡す。
けれど、烏の姿も、烏ノ介の姿も、見渡す限り発見できなかった。
「嘘でしょ……」
あたしは、忍としては未熟かもしれない。けど、そんな一瞬で追っていた相手の姿を見失うなんて事、ありえないのだ。
でも、代わりに見つけたものもあった。
保護色の定義を覆すような派手な向日葵色が、青々とした夏草の向こうに翻った気がしたのだ。
「あいつ……何してんのかしら?」
あたしは、烏ノ介の事は後回しにして、向日葵色が見えたあたりに駆け寄った。