ハロウィンの悪夢
「じゃあ、明日の夜18時半、エントランスで落ち合おう」
10月30日の放課後、いつものように私を迎えに来たアルシェは、確認するように言った。
「遅刻しないでよね? 5分以上遅れてきたら、私別の人と入るから」
「マジで? じゃあ、死ぬ気で支度しないとな」
焦ったような顔で、穏やかに呟くアルシェ。
今、本当は何を想っているのだろう……。
「アルシェはどんな衣装で来るの?」
「当日まで、内緒だよ」
手を伸ばせば、届く距離。
恋人を見つめるかのような、優しい眼差し……受け入れるのは怖いくせに、手放すのはもっと嫌だと心が拒絶する。
「最近、元気無いね。何か悩んでるの?」
「悩んでたとしても、アルシェには絶対言わない」
「傷付くなぁ……」
じっと私を見つめる、ラピスラズリのような、紺色の瞳。
本当はもっと見ていたいけれど、つまらない意地が邪魔をして、私は視線をそらしてしまう。
「当日は、ハロウィン仕様でオレンジ色の髪にしてきてよ。きっと、レインは絶世の美女になるだろうな」
「ほんと悪趣味!」
これだけ悪態をついても、アルシェはにこにこ笑って、私の顔にかかっていたチョコレート色の髪を払ってくれた。
「じゃあ、また明日の晩に」
「……」
アルシェの背中を見た瞬間、呼吸が上手く出来なくなった。
――怖い。
「……アルシェ!」
思わず、呼び止めてしまう。
「絶対、遅刻しないでよ?」
「もちろん!」
数メートル先で笑った顔を、私は瞳に焼けつけた。
もしこれが最後になってしまっても、後悔しないように……。
――10月31日。
重々しい鐘が音が鳴り響く中、とうとうハロウィンの夜が訪れた。
赤い月に、闇が煙る夜風。
狼の遠吠えに、重厚なオーケストラのワルツ、パイプオルガンのメロディー。
ランタンが灯る道を、ピンヒールのブーティでカツンカツンと歩み進んでいく。
私の緊張はピークに達し、心臓が痛いくらいに高鳴っていた。
(落ち着いて……)
何度も自分に言い聞かせ、パーティー会場となっている古城に足を踏み入れると、ワルツの音楽が一層盛大に聞こえてくる。
場内は既に多くの生徒で充ち溢れ、異様な雰囲気に包まれていた。
「あっ」
「あら、ごめんなさい」
ぼやぼやしていたら、後ろから絶世の美女にぶつかられてしまった。
真っ白な肌に、妖しいボルドー色の瞳。
隣には、同様に妖艶な顔をした男性も連れている。
普段なら決して擦れ違うことのない、夜間部のヴァンパイア科のカップルだ。
「あなた魔女ね、とても素敵よ。良いハロウィンを」
「ありがとう、あなたもね」
微笑んで応えたけど、いよいよ心細くなってしまった。
周りが華やかであればあるほど、一人でいるのが心細い。
待ち合わせのエントランスには、それこそ数え切れないほどの人たちが、それぞれのパートナーを待ちわびている。
ここに来た瞬間、私は思わず息をのんだ。
全身、冷水を浴びたような衝撃を受ける。
『18時半、エントランスで……』
アルシェは、確かにそう言った。
本当に待ち合わせをする気があるのだったら、この広いエントランスのどの辺りで待ち合わせるのか、もっと細かく指示があっただろう。
(大丈夫、落ち込まないで……)
やっぱり私は、今夜ここで一人立ち尽くすハメになるのだろうか?
隠しきれない恐怖を胸に、震える足でエントランスの隅に立ち、私はうつむいた。
「あれっ、魔女だ! Trick or Treat!」
不意に派手な他学科の生徒に呼び止められ、私は慌てて顔を上げる。
「Happy Halloween!」
私はステッキを一振りして、彼女たちにお菓子を振る舞った。
私の記憶にある、今までで一番美味しかったスイーツがバラバラと頭上から落ちてくる。
「きゃータルト!」
「おいしそう! ありがとう!」
彼女たちを見送りながら、泣きたい気持ちになった。
……お願いアルシェ、現れて。
「レインは考え過ぎなんだよ」って、いつものように言って欲しい。
私の立てた予想が、すべて的外れだったと否定して……。
エントランスの巨大な古い時計が、カチリカチリと進んでいく。
このざわめきと音楽の中で、時計の針なんて、聞こえるはずがないのに……耳障りなほどに、時間の経過が頭に響いてくる。
今まで、アルシェが遅刻をしたことなんて、一度だって無かった。
「――っ」
瞳から、とうとう溢れ出す大粒の涙。
さっきよりは、ひと気の無くなったエントランス。
大広間では、無数のカップルがワルツに合わせてくるくると回っている。
時刻は……もうすぐ20時。
待ち合わせの時刻を、1時間半過ぎてしまった。
――私は、一人。
長い髪を、今宵限りの華やかなオレンジ色に変え、右斜め上に結い上げて、ゴージャスにふわふわと巻いてある。
露出の高い、背中空きのダークパープルのドレス。
アルシェがどこかから勝利を確認するにあたって、完璧なスタイルだったはずだ。
「……嘘つき」
涙を拭う気にすらなれず、私はその場にしゃがみ込んだ。
こうなるって、わかってたじゃない。
わかってて、来たんじゃない。
……どうして、泣く必要があるの?
「ふ……っ……うぅっ」
……答えは簡単だ。
私はアルシェに、恋をしてしまっていたから。
偽りだったとしても、側にいて欲しかった。
これは、魔女が他人に心を移してしまった天罰だろうか……?
「アルシェ……」
これから、淋しい日々が戻ってくる。
私が絶望するには、この失恋は十分すぎる威力を持っていた。
「どうしたの? すっぽかされちゃった?」
通り掛りに声をかけてきた男を睨みつけると、彼は怯んで、悪態をつきながら離れて行った。
アルシェ。ねぇ、アルシェ……。
頭の中に、繰り返される名前。
こんなに傷付くのなら、せめて……一緒にいた時間を、もっと女の子らしく過ごせば良かった。
そうしたら、もしかしたら、アルシェだって私のことを……。
涙がとめどなく流れてくる。
ウォータープルーフのマスカラが、鬱陶しい。
――人生で、最低最悪のハロウィンだ。
途方に暮れながらその場に座り込んでいると、頭上から奇妙な風を切る音が聞こえてきた。
恐らく1年生であろう魔女たちが、ハメを外して、高い天井付近を飛行している。
思わずそれを信じられない気持ちで見つめたのは、天井には「ジャック」と呼ばれる3メートル程の巨大カボチャが並んでいたからだ。
このパーティーで用いられるカボチャの照明は、作り物ではなく、魂が吹き込まれた化けモノ。
普段は教授たちの、強い魔術で大人しく輝いているだけだけど、もしあれにぶつかりでもしたら……
「ちょっと……!」
思わず私は、涙を拭って頭上を仰いだ。
1年のバカ魔女たちは、こともあろうか、ジャックの一つに衝突してしまったのだ。
案の定、絶妙なバランスでかかっていた魔術が解け、巨大カボチャが真下に落下する。
そして――
物凄い轟音と共に太い火柱が上がり、頭上にいた後輩魔女が、ほうきごと吹き飛ばされた。
「危ない――っ!」
咄嗟にほうきを出現させ、私は宙に舞い上がった。
何とかタッチの差で、落下してきた魔女を掴み、自分のほうきに乗せる。
「キャシー!」
仲間らしき魔女がこっちに向かって飛んできたから、私はすかさず叫んだ。
「他のジャックもグラついてる! 私はあっちを何とかするから、この子を連れて行って!」
「はい、わかりました! ごめんなさい!」
悲痛な顔で気絶した魔女を引き受けた女の子は、泣きそうな顔で私を見つめてきた。
(謝るんだったら、最初からやらないでよね!)
私は後ろを振り返ることなく、天井に列をなしている他のジャック同士が接触しないよう、猛スピードで飛んでいく。
……でも、もう間に合わなかった。
「うそ……?!」
目を見開いた瞬間、巨大なカボチャが5、6体ガチャガチャとぶつかり合い、次々に落下してくる。
反射的にそれらをよけることは出来たものの、その場から逃げる時間は無くて。
次の瞬間、地面にぶつかったジャックから、無数の火柱が吹き上げた。
火柱の間に浮かんでいた私は、猛烈な熱風と衝撃で、木の葉のように吹き飛ばされてしまう。
バランスを崩し、ほうきは私の体から離れていき……私はエントランスの壁面に思い切り叩き付けられた後、そのまま地面に向かって頭から落下していった。
飛行していた高さは、20メートル以上はある。
一番運が良かったとしても全身打撲で、沢山の骨が折れてしまうだろう。
そして、最悪の場合は……
(私……死ぬの?)
妙に落ち着き払った考えがよぎった後、私の意識はどこか遠くへと離れていこうとしていく。
薄れていく意識の中で、何か大きな振動が、身体を揺らした気がした。
暗闇に包まれた視界の中で、痛みを感じる。
何かが轟々と燃える気配と匂い、それから――
「レイン!」
私の名前を呼ぶ声。
「レイン?! ……レイン!」
その声をもっと聞きたくて、私の意識は暗闇の出口を探し始める。
「レイン……」
今にも泣き出しそうな声に、何か応えてあげたい。
「う……」
呻き声を発すれば、また激しく名前を呼び掛けられる。
とうとう私は、重いまぶたを持ち上げた。
「レイン……!」