枕が変わると眠れない
王国の花の小話です。
夫:クラウス ノルド公爵で黒騎士団の長。密偵の技にも長ける。
妻:サーレス(サーラ=ルサリス) クラウスの妻。騎士としての技量なら、夫以上の元カセルア王女。
ようやく、ノルドにも短い夏の気配が訪れていた。
全速力で馬を走らせても、刺すような冷気は感じられず、むしろ上気した頬に心地よい風を感じる。
これなら、秋に嫁入りしたあの人も、おおいに趣味の遠乗りを楽しめるだろう。
あまり見た事のない雪に足を取られながら、それでも雪に慣れようと奮闘していた妻の姿を思い出し、クラウスの口元には、自然と笑みが浮かんだ。
日の落ちる前から駆け通しで、ようやく自分の城に帰り着き、夜番の兵達にねぎらいの言葉をかけながら、厩舎から城へ続く道を、小走りで移動する。
足早に目指すのは、城の上階にある、新妻が寝ているはずの寝室である。
ひとまず主寝室の扉に手をかけてみた。
当然のように鍵がかかっており、その鍵は手元にはない。
クラウスは、自分の懐から、鍵開けの道具を二つ取りだし、それを手にそっと撫でるように鍵穴に指を這わせると、その次の瞬間、鍵は軽く音を立てて外れた。
毎回、彼女がその様子を見るたびに、鍵の交換を提案してくるのだが、一応これでも定期的に交換していると主張してそのままになっている。
……彼女には言っていないことなのだが、城の鍵は最新式でも、交換した傍から、クラウスが鍵開けの練習台にしているのである。当然、この城の鍵で、クラウスに開けられないものはない。
扉を、できるだけ音を立てずに開けると、そこにルサリスの刺繍で飾られた夫婦の寝台がある。
だが、そこに人の気配はなかった。
彼女は、夫が帰ってこないとわかっている日には、この主寝室で休む事はないと報告を聞いていたので、これはある意味、予想通りだった。
クラウスは、そのままその扉を閉め、しっかり鍵までかけ直して、今度は確実に彼女がいる場所を目指した。
その部屋の扉も、やはり鍵がかかっていた。
そしてまた、同じように、鍵を開けて部屋に滑り込む。
この部屋の寝台には天蓋がついていない。そのため、横になっている彼女の姿がすぐに目に入り、クラウスは表情をゆるめた。
彼女は、天性の騎士であるが故に、常に有事に備えるように、熟睡する事はない。
当然、人が近づけば、すぐに気が付き目を覚ます。
しかし、そんな彼女も、自分相手には目を覚まさない。それだけ、心を許してくれているのだと思うと、心は喜びで満たされた。
そっと近寄り、彼女の寝顔を堪能しようとのぞき込み、その顔がなにかに埋もれている事に気が付いた。
腕にしっかりと何かを抱え、それに顔を埋めるようにして、彼女は眠っていたのだ。
黒とも灰色ともつかないそれがなんなのかよく分からず、しばらく逡巡したあと、クラウスは自分の上着を脱いだ。
きちんと畳んで、傍のテーブルの上に置くと、ブーツも脱ぎ、できる限り静かに彼女の寝台に膝を立てた。
そっと、その何かを抱えている左腕を持ち上げてみる。
案外あっさりと外れたそこから、黒い物を手に掴んでみると、それはなにやら柔らかい枕かクッションのようなものだった。
クラウスは、抜き取って空いた隙間に、自分の体を滑り込ませ、持ち上げていた彼女の左腕を自分の腹に添え、その場に落ち着いた。
彼女は、抱えていたものが変わった違和感からか、一瞬だけ身動ぎしたのだが、そのまま再び、腕に力を込め、落ち着いた。
その状態で、クラウスは再び、先程抜き取った黒いものをしげしげと眺める。
それは、どうやら、人形のようだった。
彼女と人形という、ある意味、対極に位置しているものを見て、クラウスは驚きで固まった。
武具と酒と馬と、兵法の書だけを持って嫁入りしてきた人の持ち物とは思えないそれを、改めて眺めてみると、それはどうやら、狼のぬいぐるみのようだった。
尻尾は小さいものしかついていないが、尖った耳や、たてがみの具合などが、冬毛の狼そのものだった。瞳の部分は、どうやらボタンでできているらしい。
全体的に可愛らしいそれを、彼女が大事そうに抱えて眠っているのが、どうにもちぐはぐで、おかしかった。
しばらく握って、その感触を確かめていたクラウスは、ふと、指の先に引っかかりを感じ、その部分に目を懲らす。
そこには、小さなポケットが縫い付けられていた。
指を中に入れると、そこになにか、小さな布の塊のようなものの感触がある。首を傾げながら、そっと取り出してみると、それは小さな、匂い袋だった。
出てきたとたんに主張したその香りは、クラウスにとってはなじみの深い、自分の香り。主に、クラウスとして行動しているときにつけている香水だった。
ようやくこのぬいぐるみの意味に気付き、クラウスは息を飲んだ。
しばらくして、どうやら抱えているものが変化した事にようやく気が付いたらしい手が、ペタペタとクラウスの体を確認するように動き回った。
手の動きが止まったとたんに、布団をはね飛ばすような勢いで起き上がった彼女は、自分が抱いていたものを見て、愕然とした。
それを横目で確認し、クラウスはにっこりと微笑んだ。
「おはようございます、というには、少し早いですよ?」
「な、なんで? 今日は、ラグラティの王城に泊まってくるって……」
「日帰りできる距離で、大人しく泊まったりしませんよ」
「そ、そうかもしれないけど、え、あ……ああぁー!!」
その瞬間、彼女の長い腕が、自分の手元に延びてくるのを感じ、とっさにぬいぐるみをかばいながらベッドから転がり降りて受け身を取り、素早く起き上がって体を遠ざける。
「……本人がここにいるのに、身代わりを使わないでください」
「ちょ、返せ!」
見る間に耳まで真っ赤になったサーレスは、慌てたようにクラウスを追いかけてベッドを飛び出した。
だが、寝起きのサーレスと、先程まで動いていたクラウスでは、やはり動きに差が出てしまったらしい。
サーレスの腕をかいくぐり、彼女が大事そうに抱えていた自分の身代わりを椅子の上に投げ置いて、クラウスはあっけなく、サーレスを捕まえて、その勢いのまま、ベッドに飛び込んだ。
派手に軋んだベッドの貧弱さに、思わず舌打ちしそうになりながら、腕の中にいる愛しい妻に、ようやく口付けた。
「ただいま」
「う……あ、お、おかえり」
「夕方からずっと駆け通しだったので、疲れました。このまま寝ます」
「え、あの、ちょ」
「遠慮なく抱きしめて寝てください」
サーレスの、女性らしい線を描いている腰に腕を巻き付け、しっかり自分が抱きついて目を閉じる。
サーレスが、クラウスの匂いで落ち着くというのなら、クラウスはサーレスの匂いに安らぐのだ。
そのまま、すぐに穏やかな寝息を立て始めた夫に、サーレスは諦めて、そのまま、夫の頭に顔を埋めて、眠りに落ちるのだった。
翌朝。
もぬけの殻になったベッドの脇には、一枚の手紙が置かれていた。
自分がいる間は、人形は没収します、と書かれたそれを見て、サーレスは肩をがっくり落としたのだった。