「君を愛することはない」と言いかけた旦那様に、突如未来で断罪される記憶がよみがえったようです
新婚初夜。
夜半をかなり過ぎたころ、外の廊下を荒々しい足音が近づいてきました。
今日、私の夫となったロドニー・ハモンド伯爵閣下がようやくおいでになったようです。
私はひとつ息をつくと、お腹に力を入れて背筋を伸ばしました。
没落寸前、爵位返上待ったなしの貧乏子爵家の娘とはいえ、私も貴族令嬢の端くれ。政略結婚の意味も、己に課された務めもわかった上で嫁いできました。
さらに言えば、ロドニー様には表沙汰にできない恋人がいらっしゃることも、この結婚はその隠れ蓑であり、私はお飾りの妻に過ぎないことも――先ほど身支度を手伝ってくださった、この家の使用人の方々に聞いて知りました。
まぁ、薄々そんな気はしていたのです。
婚約期間はわずか三ヶ月。その間、ロドニー様と顔を合わせることは一度もありませんでした。
教会での誓いも、披露宴のパーティもなく、すでにロドニー様のサインが入った婚姻届に署名しただけで嫁いできた私ですもの――。
などと考えているうちにも、足音はどんどん近づいてきます。
そうして、遂にドアがバタンと開き、一人の男が入ってきました。
不機嫌そうな顔を隠そうともせず、今しがた外出先から戻ったばかりといういでたちのその人は、ベッドに座る私を見るなり、ふんと鼻を鳴らしました。
「君がコンスタンスか。妙な期待をしないよう、予め言っておく。私が君を愛することはな――」
異変が起きたのは、その時でした。
「いだだだだっ!」
突如、ロドニー様が頭を抱えてその場に蹲ったのです。
「くそっ、何だこれは! 頭が……頭が割れるようだ……!」
「大変!」
私は慌ててロドニー様に駆け寄りました。
数年前に亡くなった祖父が、ちょうどこんなふうだったことを思い出したからです。
まるで何かで殴られたように頭が痛い、と言った直後に意識を失い、それきり死ぬまで目覚めなかったことを。
「ロドニー様、お気を確かに! 今、使用人の方を……いえ、お医者様をお呼びしますから!」
なおも呻き続けるロドニー様の側に膝をつき、耳許でそう言った私の手を、ロドニー様ががしりと握りしめました。
脂汗の浮いた顔がゆっくりと持ち上がり、榛色の瞳が食い入るように私の顔を見つめます。
「……マジか」
ロドニー様はそう呟くと、空いた片手で目許を覆ってしまわれました。
「詰んだわ、これ。完全に詰んだ。ロドニー・ハモンドってアホの当て馬伯爵じゃん。ヒロイン虐待した挙句、派手に自爆して鉱山送りになる奴じゃん……」
これはいけません。ロドニー様のおっしゃることは、私にはさっぱりわかりませんが、どうやら幻覚? 幻聴? に悩まされているご様子。
「ロドニー様。どうか、お手を放してくださいませ。今すぐお医者様を呼んでまいりますから」
私は重ねて言いましたが、ロドニー様は相変わらず私の手を握ったまま、力なく首を横に振りました。
「大丈夫。これは別に病気じゃないから。――ていうか君、そんな薄着でいたら風邪を引――わああああっっ! ごめんなさい、ごめんなさい! 見てないからっ! 暗くてほとんど見えてなかったからっ!」
言うが早いか、ロドニー様はぱっと私の手を放し、床に尻もちをついたまま、ずざざざざっ! と物凄い勢いで後退りされました。
「いや待って。マジ無理。え、あの漫画エロじゃなかったよな? そういうシーンも、手ぇ握ってキスした後は朝チュンだったよな? なのに何で見えちゃってるの? 誰だよあんなネグリジェ着せたやつ! ありがとうございますじゃない、やばいだろこれぇぇぇぇ」
顔を覆った手の隙間から漏れてくる呟きは、相変わらず何のことやらさっぱりわかりません。
わかりませんが、指の隙間から覗くお顔の肌も、お耳も真っ赤になっているところを見ると、私は何かロドニー様のお気に障るようなことを言うかするかしてしまったようです。
「……申し訳ございません」
私は小声で謝りました。
「いや、何で君が謝るの? 頼むからちょっと落ち着こう?」
「私は落ち着いておりますが」
ロドニー様は、はあっと深いため息をつかれました。
「……そうだね。パニクってるのは僕のほうだ。ええと、とりあえずその上に何か着てくれる? でもって、少し話をしよう」
そう言うと、ロドニー様は、私が夜着の上にガウンを羽織る間、後ろを向いていてくださったのでした。
◇◇◇
「……つまり、ロドニー様は、先ほど不意に天啓に打たれ、この先に起きる出来事が見えるようになった、と?」
「うん。まあそんなところかな」
「それで、私はロドニー様ではなく、最終的には宰相補佐のアルブレヒト様と結ばれる運命だと」
「そう」
私たちは夫婦の寝室で、ソファに向き合って座っていました。
「君にはちょっと信じられないかもしれないけれど」と前置きしてから、ロドニー様が話してくださったのは――。
ハモンド伯爵ロドニーは高級娼婦のリリスに入れ上げた挙句、リリスとの仲を邪魔されないよう、わざと貧乏子爵家の娘コンスタンス――つまり私――をお飾りの妻として娶る。
新婚初夜に『君を愛するつもりはない』と言い放ち、コンスタンスを夫婦の寝室に置き去りにしたロドニーは、それきり屋敷を飛び出してリリスの許に入り浸る。
ほとんど屋敷に戻らないロドニーをいいことに、使用人たちはコンスタンスに割り振られた予算を横領した挙句、彼女自身にはろくな食事も出さず、使用人のお古を着せて、物置部屋に追いやってしまう。
それでも実家で貧乏暮らしに慣れていたコンスタンスは、細々と刺繍や繕い物の内職をして自らの食費を稼ぐようになった。やがてその刺繍は貴婦人たちの目にとまり、遂にはパトロンがつくほどになる。
ある晩、さる貴婦人から譲り受けた古着を、自らの刺繍で美しく仕立て直したコンスタンスは、パトロンである宰相補佐にエスコートされて王宮夜会に出席し、偶然同じ夜会にリリスをエスコートして来たロドニーと鉢合わせする。
実はリリスは隣国のスパイであり、まんまとハニートラップに嵌まったロドニーはその場で逮捕。ハモンド伯爵家は取り潰し。ロドニーは鉱山奴隷として短い生涯を終える。
一方、コンスタンスは宰相補佐のアルブレヒトと結ばれ、めでたしめでたしのハッピーエンド。
――というお話でした。
「確かに、にわかには信じがたいお話ですね……」
呟く私に、ロドニー様は「だよね」と頷きます。
「でも、僕にはわかる。おそらくこれらはすべて、実際に起きる未来の出来事だ」
「……そうでしょうか」
私は、こてりと首を傾げました。
「そのお話が本当なら、ロドニー様は、すでにリリス……さん、が、隣国のスパイだと知ってらっしゃるわけですよね。であれば、その方にはこれ以上深入りしなければいいのでは? ……あっ、でもっ!」
「えっ。何なに?」
ロドニー様は、急に上げた私の声に、びくっと肩を跳ねさせました。
「あの、もしかして、リリスさんとはすでにそういう……その、のっぴきならないといいますか、お子様がおできになるようなことを何百回もされていて、今さら離れられないとか……」
「してないしてないしてないしてない」
ロドニー様は、お顔がぶれて見えるほど勢いよく首を振りました。
「ていうか何だよ、何百回もって! リリスとはまだ二回会っただけだから! その時だって二人きりじゃなかったから! あの手の店は客を焦らすだけ焦らして毎回金を搾り取るサブスクみたいな仕組みだから……って一体何を言わせるんだ君はぁ!」
ぜいぜいぜい。
肩で息をするロドニー様を見ながら、私はついくすりと笑ってしまいました。
(この方……なんだかお可愛らしい)
「であれば、そのお店にはもう二度と行かないようになさいませ」
そうすればお金も無駄遣いせずに済みますし。
と、つい余計なことまで言ってしまった私を、ロドニー様は咎めもせずに、「そうだね」とあっさり頷かれました。
「そうしよう。どのみち、ああいう店は苦手なんだ。体質的に酒は受けつけないし、女の子に愛想よくしてもらっても、実は退屈させてるんじゃないかとか、馬鹿にされてるんじゃないかとか、そんなことばっかり考えちゃって」
「そう……なのですね」
「うん」
「…………」
「…………」
それきり会話は途切れ、沈黙が部屋に落ちてきました。
「……あの」
「それで」
言いかけた声が重なってしまい、私たちは慌てて「ごめん」「失礼いたしました」と互いに頭を下げ合います。
「いや、いいよ。何かな」
「いえ、ロドニー様からお先にどうぞ」
ロドニー様はしばらく躊躇う様子を見せてから、ごほんと咳払いをされました。
「その、そういうわけで、決して誤解してほしくないんだけど。転せ……じゃない、天啓によれば、君はいずれアルブレヒトと結ばれる運命だ。だから、そのう……僕とは……しないほうがいい、と思うんだよね」
そう言ってちらりと目をやる先には、夫婦のベッドがどどんと鎮座しています。
そう。今宵は結婚初夜。
本来ならばこの後はそういうことをするはずです。
なのに、そうされないということは……。
「つまり、ロドニー様は『君を愛するつもりはない』とおっしゃりたいわけですね」
「いや、言い方!」
「だって、そういうことでございましょう? 新婚初夜なのにお子様ができるようなことをしないというのは」
「そうだけど! ていうか! 君はいいのか、今日初めて会ったばかりの男と、その、こここ、子どもができるようなことをしてしまっても!」
「そもそも、政略結婚とはそういうものでは?」
私は何も変わったことを言ったつもりはないのですが、ロドニー様はそれを聞くなり「うおおおおお」と呻いて頭を抱えてしまわれました。
「見上げた根性というか、すげえな異世界の貴族令嬢。てかこの子、今いくつだよ」
「十七歳でございます」
「うおお、まさかの未成年!」
「成人ですわ。昨年デビュタントも済ませておりますもの」
「いやでもこいつ、じゃない僕の年齢は……」
「二十七歳と伺っております」
「十歳差! 待って、俺が入社した年にこの子まだ小学校六年生? やっぱ無理。犯罪ダメ絶対!」
「…………」
私は膝の上で、きゅ、と拳を握りしめました。
要するに、ロドニー様は私とはそういうことはしたくない、とおっしゃっているのです。
やはり使用人の皆様が言っていたことは本当でした。
「ロドニー様は、やはりお胸が豊かで艶やかな大人の女性がお好みなのですね」
「違うよ?」
ロドニー様が、いきなり真顔になりました。
「正直に言わせてもらえば、僕は艶やかな女性より、君みたいに愛らしく可憐な女性が大好きだ!」
「ではなぜ『君を愛するつもりはない』などと」
「だからそんなこと言ってないから! ただ、そういうことはお互いよく知り合った上で、納得してからしたほうがいいと」
「……承知しました」
私は、決意を込めて深く頷きました。
「それでは私、本日よりロドニー様をより深く理解できるよう、誠心誠意尽くさせていただきます!」
「……くっ。何なんだ、このけなげで可愛い生き物は! でも駄目だ。この子はいずれ……」
そう呟くと、ロドニー様は、目顔で私をベッドに促しました。
「とりあえず今日はもう遅い。君はベッドで休むといいよ。僕はこっちのソファで寝よう」
同じ部屋に男がいたら眠りにくいかもしれないけれど、初夜の寝室から夫が出て行ったりしたら、君の名誉に関わるからね――。
だなんて。
私はちっとも気にしませんのに。
私はひとつため息をつくと、広大といっていいほど大きなベッドに一人でもぐりこみました。
そうして、実家のそれとは比較にならないくらい柔らかな寝具の寝心地に、気づけばすとんと眠りこんでいたのです。
◇◇◇
こうして、ハモンド伯爵家での暮らしが始まりました。
ロドニー様はあれきりリリスさんの店に行くこともなく、日々真面目にお仕事に励んでいらっしゃいます。
変わったことといえば、初夜の翌日、ロドニー様が使用人の大半を解雇してしまわれたことでしょうか。
未来で伯爵家の財産を横領する執事を始め、私に粗末な食事を出すように指示するコック、私を物置部屋に押し込めるはずの家政婦長などです。
代わりに新しく雇われた使用人の方々は、誰もが私をこのお屋敷の女主人として敬い、きちんと接してくださいます。
おかげで私は実家にいた頃とは比べ物にならないくらい、のびのびと快適な暮らしができるようになりました。
三度三度の温かな食事に加え、お茶の時間には美味しいスイーツや上等なお紅茶までついてきます。
実家から持ってきたつぎはぎだらけのワンピースはいつの間にか姿を消し、代わりにたくさんの素敵なドレスがクローゼットに並びました。
これほど良くしていただいているのだから、これ以上の贅沢は言うべきではないのかもしれません。
けれど――。
「おはよう、コンスタンス。今朝の気分はどうかな」
「おはようございます、ロドニー様。おかげさまで今日も元気ですわ」
ここでの暮らしもすでに三ヶ月。
ロドニー様とは、毎日朝食をご一緒しています。お帰りが早い日は夕食も。
「欲しい物や必要な物があれば、使用人に何でも言うといい」
「――……」
「コンスタンス?」
ふと言い淀んだ私の顔を、ロドニー様は心配そうに覗きこみました。
「どうした? 何か嫌なことでもあったのか?」
「いいえ。そうではありません。ただ……」
「ただ?」
私は思い切ってロドニー様の顔を見上げました。
「欲しいもの、といいますか……。できれば、ロドニー様のお時間を少しいただきたく思います」
翌日。
ロドニー様は約束どおり時間を取ってくださり、私たち二人はハモンド伯爵邸のテラスでお茶を飲んでいました。
「……刺繍?」
「はい。刺繍糸と道具さえいただければ、いくつか刺してみようと思いまして」
自分で言うのも何ですが、私の刺繍の腕はなかなかのものだと思うのです。
というのも、実家にいた頃は、家計の足しに毎日のように細々とした針仕事をしていましたし、継母や義妹が夜会に着ていくドレスの刺繍はすべて私が刺していましたから。
(そういえば、ここに嫁いでけっこう経つのに、実家からは何も言ってきませんね……)
『向こうに着いたら、いただいたお手当はすぐにこっちに送るのよ』
と、しつこいくらい念押ししていたあの継母が、いつまでも大人しくしているはずがないと思うのですが。
「コンスタンス」
ロドニー様に呼びかけられて、私ははっと我に返りました。
「は、はい」
「その刺繍のことだけどね。君は本当に好きで刺繍をしていたの?」
「……はい?」
思ってもみなかった問いかけに、私は首を傾げました。
「君のご実家、ミルズ子爵家について調べさせてもらったよ。君の父上、ミルズ子爵が経営する商会で扱っている刺繍のほとんどの図案は、君が考えたものだそうだね」
「えっ」
「それだけじゃない。君の母上が亡くなってすぐ後妻に入った女性と連れ子の娘は、君を無給のメイドみたいに扱き使っていたそうじゃないか」
「…………」
驚きました。この短期間に、ロドニー様がそんなことまで調べていたなんて。
「幸い、ミルズ子爵は意匠法には疎くてね。僕のほうで、君が考えた図案はすべて君の名義で意匠登録しておいた。今後はミルズ商会で君の図案が使われるたびに、君にライセンス料が入るから」
「ライセンス、料」
「使用料みたいなものだね。それと、ミルズ子爵家の血を引く君に、未成年のうちから無給で下働きのような真似をさせていた件についても、現在、専門の弁護士を通じて話を進めているところだ」
「弁護士……」
「彼らがこれまで君にしてきたことは、法に照らせば立派な犯罪だからね」
驚いたことに、父は継母との離婚手続きを始めているそうです。連れ子の娘は、すでに遠くの修道院に送られたとか。
ロドニー様は、労わるような眼差しで私をじっと見つめました。
「辛かっただろう。ずっと一人で頑張って、偉かったな」
その途端、まるで何かに掴まれたように胸が苦しくなりました。
鼻の奥がつんとして、涙がぽろぽろ零れてきます。
「わたっ、私は別にっ、頑張って、なんかっ」
来る日も来る日も刺繍を刺して。
そうしなければ、あの家に私の居場所はなかったから。
「ここでは、無理に刺繍をしなくていいんだ。無理に図案を考えなくても、一枚も刺繍を刺さなくても、誰も君を叱ったりしない」
そう言うロドニー様は、いつの間にか私の隣に座り、ハンカチで私の顔を優しく拭いてくださっていました。
そのことがむしょうに嬉しくて、けれど、礼儀正しく空けられた二人の間の距離が悲しくて。
私はいつまでもぐすぐすと泣き続けたのでした。
――アルブレヒト補佐官がやってきたのは、その翌日のことです。
◇◇◇
「お初にお目にかかります、ハモンド伯爵夫人。宰相補佐をしておりますアルブレヒト・ディ・カッセルと申します」
ロドニー様が天啓で見たというアルブレヒト様は、この国の宰相を務めるカッセル侯爵のご嫡男でした。
銀髪に冴え冴えとした青い瞳。見るからに怜悧な感じのする方です。
「初めまして。コンスタンス・ハモンドです。生憎、主人は留守にしておりますが……」
「存じております。本日お伺いしましたのは、そのご主人の件でして」
アルブレヒト様は、言いにくそうに口ごもりました。
「奥方様は〈蔓薔薇の館〉という名前を聞いたことがおありですか」
〈蔓薔薇の館〉。それはあのリリスさんがいる高級娼館です。
ロドニー様が天啓の話をされた時に聞きました。
「――ええ。名前だけは」
アルブレヒト様は一瞬、意外そうに目を瞠りましたが、すぐに表情を消して続けました。
「そうですか。実はそこのリリスという女性に、ご主人が近頃……その、たいそう熱心に通われているという噂がありまして」
「まあ」
相槌を打ちながら、私はふと引っかかりを覚えました。
(近頃?)
ロドニー様がリリスさんの許に通われたのは、あの新婚初夜の日が最後です。
しかもあの日が二回目だった、とロドニー様ははっきりおっしゃいました。
あの夜からすでに三ヶ月。その間、ロドニー様は一度も娼館には通われていないはず。なのに「近頃」噂が立つ、というのは不自然です。
俯いて考え込む私をどう思われたのか、アルブレヒト様はそっと手を伸ばすと私の手を取りました。
「お気の毒に。私でお力になれることがあれば、いつでもご相談ください」
アルブレヒト様がお帰りになった後も、私はしばらく客間の椅子で考え事をしていましたが、やがて侍女を呼びました。
「馬車を出していただけますか? 刺繍糸を買いに行きたいのです」
◇◇◇
ハモンド伯爵家の紋章は青い薔薇。
その薔薇を、私は濃淡様々な青い糸を使って一針一針丁寧に刺していきました。
薔薇の下には飾り文字で「R.H」の頭文字。
刺し終えたハンカチとティーセットをワゴンに載せて、私はロドニー様の執務室に向かいました。
ノックに返事があるのを待って扉を開ければ、ロドニー様は今日も堆く積まれた書類の山に埋もれるようにお仕事をされています。
もともと仕事熱心な方ではありましたが、ここ最近は特に仕事の量が増えているようで、榛色の目の下には、うっすらと隈ができていました。
「ロドニー様。ちょっと根を詰めすぎです。一緒に休憩しませんか?」
「ああ、うん……」
書類に目を落としたまま、生返事をするロドニー様。
私は思い切ってロドニー様に近づくと、そのお袖を摘まんでそっと引っ張りました。
「ロドニー様」
「おわっ!?」
途端にロドニー様は飛び上がり、片手で口を覆いました。
そのお顔が見る見る赤く染まっていきます。
「こっ、これはもしや噂の『袖ちょん』!? 嘘だろ。リアルでされる日が来るなんて……」
「ロドニー様」
「はっはいっ!」
「休憩の時間です」
「あっはい……」
ようやくデスクを離れたロドニー様のために、ローテーブルにお茶の支度をした私は、ロドニー様がソファに落ち着くのを待って、おもむろにハンカチを取り出しました。
「ロドニー様。これ、良かったら普段使いにどうぞ」
「えっ。僕に?」
ロドニー様はハンカチを受け取ると、刺繍部分をまじまじと見つめ、青い薔薇の花びらにそっと指先を滑らせました。
「この刺繍、君が?」
「はい」
「うわあ……いいのかな、こんなの貰っちゃって。嬉しいよ。額縁に入れて家宝にしたいくらいだ」
「そんなことしないで、ちゃんと使ってください。使うために差し上げたので!」
「うん。でも……もったいなくて」
「飾る用がご希望でしたら、それ用にもう一枚刺しますので! これは必ず! 普段の時にお使いください。いいですね?」
「……お、おう」
私の剣幕に押されたのか、ロドニー様はやや引き気味に頷かれました。
その後もハンカチをためつすがめつするロドニー様の横で、私は何の気なしにデスクに目を落とします。
一体、この方は何のお仕事で連日忙しくされているのでしょう。
「……っ! ロドニー様、これ……」
それは贈与の手続き書類でした。
ハモンド伯爵家が所有する現金、宝飾品、家具、政府公債など、土地以外のほとんどの財産を私に譲渡するというものです。
その他、私が生涯にわたり受け取れるような年金や信託財産が、弁護士の手で厳重に保護されるような取り決めも。
ロドニー様は困ったように頬を掻きました。
「いや、ほら。万が一、僕が不名誉な形で逮捕された場合、僕の財産はすべて国に没収されるだろうからさ。そうなった時も、君が困らないようにと思っ……おわっ!?」
がちゃん、とカップがひっくり返り、こぼれた紅茶がローテーブルに広がります。
いきなり首に抱きついた私を、ロドニー様は慌てて片手で抱き留めてくださいました。
もう一方の手では、紅茶で染みになる前にテーブルからさらい取ったハンカチを高々と掲げています。
「ココココン、コンスタンス?」
「馬鹿っ!」
慌てふためくロドニー様の耳許で、私は思いっきり叫びました。
「あなたという方は! そんなにお優しい癖に、人の気も知らないで! 何で逮捕されるなんて言うんですか! 何で私の前からいなくなる前提で物事を進めてしまうんですか!」
私の顔の横で、ロドニー様がふっとため息をつきました。
「僕だって逮捕されたいわけじゃない。だけど、用心するに越したことはないと思うんだ。何しろ――」
そう言うと、ロドニー様はゆっくり身を起こし、デスクから一枚の封書を取って私に差し出しました。
真紅の封蝋に王家の紋章が捺されたそれは――。
「王宮夜会の招待状だ。天啓によれば、僕はこの日に逮捕される」
◇◇◇
ロドニー様が逮捕されるという王宮夜会を翌日に控えた日の午後。
私は王宮内にある宰相府に来ていました。
前もってちゃんと先触れも出してあります。
その甲斐あって、応接室に通されてすぐ、目当ての方が急ぎ足で入ってこられました。
「これはこれは、ハモンド伯爵夫人!」
アルブレヒト様は私に近づくと、恭しく私の手を取って唇に近づけました。
「今日は一体どうされました?」
「先日聞かせていただいた夫についての噂ですが……」
私は沈痛な面持ちで切り出しました。
「私には、どうしても信じられないのです。夫は本当にリリスさんの許に通っているのでしょうか」
アルブレヒト様は、同情するようにため息をつかれました。
「信じたくないお気持ちはわかります。けれど、残念ながら事実です。リリスからも〈蔓薔薇の館〉の者たちからも、ハモンド伯爵が何度も訪れているという証言が取れていますから」
そう言うと、アルブレヒト様はぐっと声を低くしました。
「ここだけの話ですが、リリスは隣国から送り込まれた間者だという情報が宰相府に入っています。それで〈蔓薔薇の館〉には監視がついていたのですよ」
「まさか」
私は息を呑んであたりを見回しました。
壁際には私が連れてきた侍女の他、文官らしき男性が立っており、手にした帳面に何やらペンを走らせています。
「ああ、彼のことならお気になさらず。規則で、会見の内容を書き取っているだけですから」
「そうなのですね。……実は、見ていただきたいものがあるのですが」
そう言うと、私はバッグから一枚のハンカチを出しました。
まだ一度も使われていないシルクのハンカチの隅には、青薔薇と「R.H」の頭文字が刺繍されています。
「これは……ずいぶんと見事な刺繍ですね」
「主人のハンカチには、これと同じ刺繍がしてあります。私が考案した刺し方で、おそらく他の誰にも真似することはできません。たとえばですが、もしも主人がリリスさんにハンカチを貸したことがあれば……」
紳士の嗜みとして、ハンカチは二枚持つのが鉄則です。
一枚は自分用、もう一枚は困っている女性に差し出すために、常に新品未使用のものを持ち歩かねばなりません。
そして、ひとたび女性に差し出したハンカチは、決して返却を求めてはならない、というのが社交界のルールでした。
「なるほど。もしもリリスがご主人のハンカチを所持していれば、それが動かぬ証拠となるわけですか」
私は無言で頷きました。
静かな室内に、さらさらというペンの音だけが聞こえています。
「わかりました。すみませんが、こちらのハンカチは見本としてお預かりしても?」
「もちろんです。どうぞお持ちください」
アルブレヒト様が、ハンカチをご自分の懐にしまうのを確認してから、私は宰相府を辞去しました。
建物の外にはハモンド家の馬車が待っており、中にはロドニー様が乗っています。
今夜はこの後、王都でも指折りの高級レストランで一緒にディナーをとるのです。
「楽しみですね」
私は一人つぶやくと、わざわざ外に出てきてくださったロドニー様の手を借りてうきうきと馬車に乗り込みました。
◇◇◇
翌晩、王宮夜会にて。
「ロドニー・ハモンド伯爵。隣国の間者リリスなる者と通じていた疑いにより、貴殿を告発する!」
宴たけなわというところで、不意にアルブレヒト様のお声が広間に響き渡りました。
音楽がぴたりと止むと同時に、ロドニー様と私の周囲から、波が引くように人々が遠ざかっていきます。
ぽっかりと空いた空間の中央で、ロドニー様は真っ青なお顔で立ち尽くしていらっしゃいました。
私はその腕を支えるように寄り添いながら、広間をぐるりと見渡します。
玉座に座る国王陛下と王妃殿下。その傍らにカッセル宰相。アルブレヒト様のお父様です。
コツ、と靴音をさせて、アルブレヒト様が前に進み出ました。背後には、昨日、応接室で見た文官の青年が書類挟みを手に付き従っています。
「これなるロドニー・ハモンド伯爵は〈蔓薔薇の館〉の高級娼婦リリスに入れ上げ、再三にわたり国家の重要機密を手渡したことが宰相府の監査で明らかになった。よって、私はここにハモンド伯爵の逮捕、および伯爵家の全資産の接収を要請する!」
「嘘だ」
ロドニー様が言いました。その顔色は今や紙のように白く、声はひどく掠れています。
「私はそのようなことはしていない。これは冤罪だ!」
「だが証人がいる。証拠も証言も揃っている」
そう言うと、アルブレヒト様は国王陛下に向き直り、恭しく頭を下げました。
「陛下。監査部はすでに間者リリスを拘束しております。彼女をこの場に証人として召喚する許可をいただけますか」
玉座の肘掛けに肘をつき、成り行きを見守っていた国王陛下が、この時初めて口を開かれました。
「よかろう。王宮夜会を中断してまでそなたが始めた告発だ。相応の覚悟があってのことであろう。だが余の宴を止めた以上、半端な幕引きは許さぬぞ」
「もちろんでございます。……証人をこれへ!」
予め手はずを整えてあったのでしょう。ほどなく広間の入口から、両脇を衛兵に固められて、一人の女性が入ってきました。
途端に、人々のあいだから「おお」と声が上がります。
金茶色の艶やかな髪に、猫を思わせる緑の瞳。
最新流行のドレスのデコルテからのぞく肌は象牙のように白く、その腰はため息が出そうに細く。
どこぞの姫君といわれても通りそうな臈たけた美しさに、周囲の誰もが目を奪われていました。
「〈蔓薔薇の館〉のリリスだな」
「さようでございます」
アルブレヒト様の問いかけに、リリスさんは鈴を振るような声で答えました。
「これなるハモンド伯爵と面識はあるか」
「ございます」
リリスさんはちらりとロドニー様を見ると、紅を引いた唇に蠱惑的な笑みを浮かべました。
「半年ほど前から、たいそう贔屓にしていただいて」
「嘘だ」
ロドニー様が呟きます。
私は、ロドニー様の腕にかけた手にそっと力をこめました。
「ええ。存じております」
ロドニー様はリリスさんを贔屓になどしていません。
ならばなぜ、リリスさんはこんな嘘をつくのでしょう。
「その際、伯爵から何か受け取ったことは?」
「封書を何通か。いずれも次に来る客に渡すようにと」
ロドニー様を見る人々の視線が、目に見えて冷たくなりました。
「その客とは?」
「存じません。毎回違う方でしたから。ただ――」
「ただ?」
「どのお客様にも、セーヴェル訛りがありました」
人々からどよめきが上がりました。
隣国セーヴェルとは、かつて何度も国境で小競り合いが起きています。
アルブレヒト様が背後の文官に合図すると、文官は書類挟みから一通の封書を取り出しました。
「昨夜、リリスの逮捕時に押収した封書です。ハモンド領内を通る街道と関所の位置、および警備兵の配置が記されておりました。ハモンド伯爵ご自身の署名も入っています」
「……っ! それは各地の領主が宰相府の要請に従って、毎年提出している定例の報告書だ! 宰相府の人間なら誰でも持ち出せる!」
「ほう? 伯爵は、こともあろうに宰相府の人間が反逆行為を行ったと?」
アルブレヒト様は、じろりとロドニー様を睨みました。
「では、この品についてはどう申し開きをするつもりか」
言いながら、今度はリリスさんに合図すると、リリスさんはドレスの袖口から一枚のハンカチを取り出しました。
「ハモンド伯爵様にいただいた品でございます」
そう言ってリリスさんが広げたハンカチには見覚えがありました。
白いシルクの片隅に刺した青薔薇と「R.H」の刺繍。
ロドニー様が、はっとしたように上着のポケットを押さえたその時――。
「まあ、素敵!」
ふいに割り込んできたおっとりとしたお声は、王妃様のものでした。
「その刺繍、ハモンド伯爵夫人がご自身で刺されましたの?」
王妃様直々のお訊ねです。私は一歩進み出て、深々と宮廷礼をいたしました。
「はい。そのとおりでございます」
「もっと良く見たいわ。その品をこれへ」
王妃様のお言葉に、アルブレヒト様は忌々しげに顔を顰めました。
「畏れながら、王妃殿下。取り調べの最中でございます」
「ええ。わざわざ陛下の夜会を中断してまで卿が始めた取り調べですわね。だというのに……」
王妃様は目を見開き、扇で口許を隠されました。
「立会人たるわたくしたちには、証拠を検める権利すらないと?」
アルブレヒト様が言葉に詰まります。国王陛下が鷹揚に頷かれると、侍従長が進み出て、リリスさんの手からハンカチを受け取ると、恭しく王妃様に差し出しました。
「結構! つまりこの刺繍はハモンド伯爵夫人の手になるものだと、夫人ご自身がお認めになったわけだ」
アルブレヒト様はそう言うと、ロドニー様に向き直ります。
「そして、そのハンカチをリリスが持っていたということは、すなわちハモンド伯爵とリリスが通じていたという証拠に他ならない!」
「いいえ」
私の声に、広間中の視線が私に集まりました。
「そのハンカチは、ロドニー様がリリスさんにお渡ししたものではありません」
「……は?」
アルブレヒト様は、一瞬、呆気に取られたような顔をしましたが、すぐに気を取り直したようです。
「ハモンド伯爵夫人。お疑いになる気持ちはわかりますが……」
「疑っているのではありません。存じているのです。そのハンカチは、昨日、私がアルブレヒト様にお渡ししたものだと」
「まあ」
王妃様が小さく声を上げ、アルブレヒト様は「やれやれ」と肩を竦めました。
「確かに昨日、夫人は宰相府にお越しになり、私に見本のハンカチを預けていかれました。規則に従い、現場には書記も同席しております。ですが夫人、ご自身でおっしゃったではありませんか。ご主人のハンカチにも、これと同じ刺繍がしてあると」
アルブレヒト様の言葉に応ずるように、書類挟みを手にした文官の青年――書記の方が進み出ます。書類挟みから見覚えのある帳面を取り出すと、抑揚のない声で読み上げました。
「『主人のハンカチには、これと同じ刺繍がしてあります』――ハモンド伯爵夫人のご発言です」
アルブレヒト様は、それ見たことか、というお顔で広間を見渡しました。
「つまりこの世には、同じ刺繍のハンカチが少なくとも二枚ある。一枚は、私が夫人からお預かりした見本。そしてもう一枚が――伯爵がリリスに与え、王妃殿下が今お持ちになっているものだ」
王妃様のお膝には、まだシルクのハンカチが広げられています。
それを見ながら、私はゆっくりと口を開きました。
「ハンカチは確かに二枚ございます。一枚は私が昨日アルブレヒト様にお渡しし、今は王妃様がお持ちになっているもの。そしてもう一枚は、ロドニー様が今もお持ちになっているものです」
私が目で促すと、ロドニー様は懐から一枚のハンカチを取り出しました。
それは大判のリネンのハンカチで、片隅に青薔薇と「R.H」のイニシャルが刺繍してあります。
図案とイニシャルこそ同じですが、王妃様の手にあるシルクのハンカチとは生地もサイズもまったく違うものでした。
「普段使い用とご婦人用、二枚に同じ図案を刺したわけね。素敵だわ」
王妃様が感心したようにおっしゃいます。
「私がこの図案とイニシャルを刺繍しましたハンカチは、この二枚だけでございます。つまり――」
そのシルクのハンカチは、アルブレヒト様にお預けした見本に他ならない。
そう言いかけた私を遮るように、アルブレヒト様が片手をあげました。
「――夫人。あなたが刺したハンカチの枚数を、あなた以外のどなたがご存じなのです?」
「それは」
アルブレヒト様は、憐れむように首を振られました。
「お気持ちはお察しいたします。ですが夫を庇う妻の言葉は、残念ながら証言にはなりません」
広間のあちこちから、同意するような呟きが起こります。
「では、証明してご覧に入れましょう」
そう言うと、私は改めて王妃様に向き直りました。
「王妃様。大変お手数ですが、そちらのハンカチを水に濡らしてみていただけますか? 私が昨日、アルブレヒト様にお渡しした見本には、ある仕掛けがしてございます」
「あら、面白そう!」
王妃様ははしゃいだ声を上げられました。
「誰か、水をこれへ!」
すぐに侍従が白磁の皿と水差しを銀盆に載せて現れます。
王妃様はシルクのハンカチを皿に広げると、手ずから水差しをお取りになり、ハンカチに水を注がれました。
国王陛下も隣から身を乗り出して、興味深げにその様子を見守ります。
――と。
「まあ!」
「おお、これは」
お二人の声に、お側に控えていたカッセル宰相も首を伸ばして皿をのぞきこみ――途端にその顔から血の気が引きました。
「アルブレヒト! これは一体どういうことだ!」
「……ち、父上?」
「アルブレヒト様」
わけがわからないという顔で宰相を見上げるアルブレヒト様に向かい、私は静かに口を開きました。
「昨日お預けしたハンカチは、もともと見本としてアルブレヒト様にお渡しするつもりで作ったものです。ですのでアルブレヒト様のお名前を刺繍しておきました」
「馬鹿な! 昨日見た時には、そのような文字はどこにも……」
「ええ。すぐには見えないように刺しましたから」
――『色変わりの青』。
その糸を見つけたのは偶然でした。
まだ実家にいた頃、ある染料で染めた青糸が、水に濡れると赤くなり、乾くと青に戻ることに気づいた私は、それ以来、自分が刺した刺繍には、必ずその糸で自分の名前を入れるようになったのです。
他の青に紛れるように刺したため、ぱっと見ただけではわかりません。
それは、私の刺繍を「自分が刺した」と言い張る継母や義妹に対するささやかな意趣返しのつもりでした。
「とても面白い仕掛けだわ。そう思いませんこと、アルブレヒト卿?」
そう言うと、王妃様は皆にも見えるようにハンカチを掲げてみせました。
青薔薇の刺繍の上に、「アルブレヒト」の文字がくっきりと浮き出したハンカチを。
「みっ、見本は! 受け取ってすぐ宰相府の保管庫に回した! 取り違えがあったなら担当官の過失だ!」
「畏れながら」
唾を飛ばして叫ぶアルブレヒト様の背後から、書記の青年が進み出ました。
「昨日、閣下は見本のハンカチを受け取った直後、ご自分の懐にしまわれました。保管庫に回したという記述はございません」
「仮に保管庫に回したとしても」
書記の言葉を受けて、カッセル宰相が厳かに口を開きます。
「それがなぜ今、リリスの袖口から出てくるのか。納得できる説明ができるものならしてみるがいい」
「……っぐ……」
アルブレヒト様の目がわかりやすく泳いだ――その時。
「それさあ。あたしから説明してもいい?」
ふいに鈴を振るような声が言いました。
「リリス! 貴様ぁっ!」
「だってさあ。あんたもう詰んでるでしょ、宰相の坊ちゃん」
そう言うリリスさんは、臈たけた姫君のような美しさはそのままに、口調だけがはすっぱなものに変わっています。
「言うこと聞いてりゃ逃がしてやるって言うから、今まで黙って見てたけどさあ。父親にも見捨てられたあんたじゃ、あたしを逃がすのはもう無理だよね」
そう言うと、リリスさんは玉座のほうに向き直り、見事なカーテシーを披露しました。
「そのようなわけですので、国王陛下。もしも私がここで洗いざらい白状いたしましたら、命ばかりはお救いいただけますでしょうか?」
「――よかろう。王の名にかけてそなたの命は取らぬ」
「ありがたき幸せに存じます」
陛下のお言葉に、リリスさんは再び優雅に頭を下げると、くるりと広間のほうに向き直りました。
「てなわけでぶっちゃけると、あたしんとこに通い詰めてたのは、ハモンド伯爵じゃなくてこいつの方。伯爵もこいつに連れられて娼館まで来たことはあったけど、封書を預かったことはおろか、二人きりで会ったことは一度もない」
アルブレヒト様はリリスさんに入れ上げるあまり、娼館に莫大な借金をしてしまい、それを肩代わりしてもらうのと引き換えに、隣国セーヴェルに情報を流していました。
ロドニー様に目をつけたのは、裕福なハモンド伯爵家を取り潰しに追い込めば、その資産を丸ごと押収した上で、何割かを自分の懐に入れられると踏んだからだそうです。
リリスさんが話す間、国王陛下は黙ったまま玉座の肘掛けに肘をついていましたが、すべて聞き終えるとゆっくりと身を起こしました。
「衛兵。アルブレヒト・ディ・カッセルを捕縛せよ。隣国への機密漏洩およびハモンド伯爵に対する冤罪の捏造の咎に対する処罰については追って沙汰する」
もはや自力で立つこともおぼつかない様子のアルブレヒト様を衛兵たちが連れ去ると、陛下は私たちのほうに向き直りました。
「ハモンド伯爵。偽りの告発によりそなたにかけられた嫌疑は全て晴れた。王の名において、その潔白をここに宣する」
「は。ありがたき幸せにございます」
深々と頭を下げたロドニー様は、未だに顔中にびっしょりと冷や汗をかいていらっしゃいました。
「さ、余興は終わりだ。夜会を再開する!」
陛下の宣言と共に、控えていた楽士の方々が音楽を奏で始めます。
――こうして、ロドニー様が逮捕されるはずだった夜会は、無事にその幕を閉じたのでした。
◇◇◇
「……はあ。一時はどうなることかと思ったけれど……」
帰りの馬車の中。
ロドニー様はどさりと座席の背もたれにもたれかかりました。そのまま、視線だけを隣に座る私に流してきます。
「ありがとう、コンスタンス。何もかも君のおかげだ」
「どういたしまして。それより、そのハンカチ、ようやく使ってくださいましたね」
「ん? ああ、これか」
ロドニー様の手には、くしゃくしゃになったリネンのハンカチがしっかりと握りしめられています。
「わっ、ごめん! せっかく綺麗に刺繍してくれたのに」
「いいんですよ。それは普段用だと言ったでしょう?」
「いや、でもさ。あああ、こんなに汗で濡れちゃって……っ!?」
両手でハンカチを広げたロドニー様が、次の瞬間、ぴきっと固くなりました。
ぎぎぎ、と音がしそうなくらいぎこちなく、首だけを私のほうに向けてきます。
「コココココ、コン、コンスタンス? こここここれって……」
「どうぞ、コニーとお呼びください。旦那様」
「だんっ、旦那様……って」
ロドニー様、いえ、旦那様のお顔が、みるみる赤くなっていきます。
「旦那様でございましょう? 私たちは、とうに結婚しているのですもの」
「いいいや、そうだけど。そうだけど! 君はまだたったの十七歳で、僕としてはその……」
犯罪が、とか未成年が、とか小声でごちゃごちゃ言う旦那様のお顔を、私は両手でむりやりこちらに向けました。
「昨日で十八になりましたわ」
「えっ!?」
「だから、レストランでご一緒に食事をしましたでしょう?」
「え、ちょっと待って。あれってそういう意味だっ……!?」
えいっ! と私に唇を押しつけられて、旦那様は目を白黒させました。
「いい加減に観念なさいませ? 妻にここまでさせておいて……」
今度は私の方が最後まで言いきることができませんでした。
私を抱きしめる旦那様の手から、はらりとハンカチが舞い落ちます。
青薔薇の刺繍に鮮やかに浮き出した文字はもちろん――。
――愛しています。
〈Fin〉




