賽銭箱
自分で決めたルールがある。
朝食は必ず食べる。
メニューは卵。
焼いても、茹でても、炒めてもいい。
何なら卵かけごはんもアリだ。
それからフルーツ。
リンゴでもバナナでもトマトでもいい。
いや、これは野菜だったか……。
ただ、今日は気分じゃない。
メロンパンと牛乳。
これが今日の朝食。
私はよく、自分のルールを破る。
朝食の後は珈琲を飲みながらニュースをチェックする。
珈琲にこだわりはない。
紅茶でも緑茶でもいい。ただ、カフェインが欲しいだけだ。
今日は終日曇り空で、国道はいつも通り渋滞している。
相変わらずの不景気で、見知らぬ誰かの不倫報道だけが過熱している。
テレビを見なくなってから、芸能人に疎くなった。
目新しいニュースは……Y市の盗難された賽銭箱が見つかったことくらいか。
あの神社はY市の外れの方にある。
車一台すれ違うことも難しいような細い道の先の、年季の入ったいやに長い石段を登り切った奥。こじんまりとした社。
なんでわざわざあんなところに盗みに入ったのか。
ご苦労なことだとしか言いようがない。
あそこは自然豊かといえば聞こえはいいが、高低差があって年を取ってからは住みにくそうな町だ。
まあ、住人のほとんどが年寄りなんだが……。
件の神社への道を一つずれたところに、神おろしをするお婆が住んでいた。
イタコ、イチコ、カミサマ、オナカマ、そんな風に呼ばれるお婆だ。
私の幼い頃にはまだ、大きな町の片隅に一人はいたものだ。
私の実家は迷信深い田舎にあって、何かあると少なくない金を包んでカミサマにお伺いに行く風習が残っていた。
私の母は、まあ、所謂ハマりやすい人だったのだろう。
小学校に上がりたてのころ、風邪をひいて熱を出した私は母と祖母に何故だかその、カミサマのお婆のところに連れていかれた。
「子供がよく熱を出すのです。どうすればいいでしょうか?」
質問をする相手を間違えていないかと思いながらそのお婆を見ると、
「今は、昔と違っていいお薬もできたから、先ずは病院に連れて行きなさい」
至極まともな答えが返ってきた。
だが、残念なことに私の母は少々まともではなかったようだ。
「それで、一体どうしたらいいのでしょうか?」
やたら神妙な顔をして質問を繰り返す。病院に連れて行けと言われたばかりだろうに……。
カミサマのお婆はため息をつくと、徐に祭壇へと向き直り御祈禱を始めた。
「この子供はどこにも悪いところはないが、疳の虫が悪さしてる。家の近くの医者に連れて行くといいだろ」
さっきと言い方を変えただけじゃないだろうか……。
こちらに向き直ったお婆は、母にこう聞いた。
「それで、私は今なんて言った?」
面食らって固まる母の代わりに、祖母がお婆の言葉を繰り返した。
「なるほどなぁ、疳の虫はそんな悪いもんじゃないから安心しろ。ただ、体に入ったり出たりすると熱がでたりするんだ。医者の薬を飲むと良くなるから心配ない」
お婆は一貫して病院に連れて行けとしか言っていないのだが、母は素晴らしい神秘体験をしたといった顔でしきりに礼を言っている。
その後、無事に医者に診てもらった私は薬を飲んで風邪を治したのだが、このことにいたく感動した母は菓子折りを持って再び峠のお婆を訪ねるのだった。
これで終わっていれば、貴重な体験をしたと思い出にできたのだが、残念ながら私の母はハマりやすい人だった。
この後、月に二三度はこの峠のお婆の家に通うことになる。
風邪をひいて小学校を休んだ日でさえ、お婆の家に連れてこられた。
「名前と生まれた日さえ分かれば、本人がいなくてもいい。具合悪いのにここまで歩かせるのは可哀そうだろ?」
というお婆の忠告は、母の耳には聞こえないようだ。
どうも、母にとって都合の悪いことが起きるのは、私によくないものが憑りつくせいだと認識されてしまったらしい。
御祈祷を受けて一時安心しても、根本的に何も解決していないので直ぐに問題が起こる。
問題が起きたので元凶だと信じて疑わない私をお婆の所に連れてくる。
その繰り返しだ。
スピード違反で切符を切られたのは子供に悪霊が憑いたせいだなんて判断する人に、免許なんて与えてはいけない。
苦笑いを浮かべたお婆が、頑張りなさいと私の肩を叩いて励ましてくれた。
しかし、それを見た母は私の努力が足りないせいで不幸が起きると解釈して、怒鳴るようになった。
間違いなくあの頃の母に必要なのはカミサマではなく医者だった。
だが、不幸なことに母を医者に連れていくことのできる人がいなかった。
その医者の代わりをする羽目になったのが、このカミサマのお婆だった。
母や祖母が菓子折りとともに、少なくない金を包んでいたことは知っている。
だが当時の私は思った。どんなに大金を積まれても、こんな客の相手はしたくないと……。
母にこのお婆を紹介した人は、神おろしは酷く疲れる仕事だと言っていた。
その話を聞いた当時は御祈祷が精神力を消耗するのだと考えていたのだが、実際には客の相手で精神的に疲弊するのだろうなと、後に思うようになった。
お婆が年を理由に引退するまで、二年は通ったのだろうか?
あまりに頻繁に通うもので、毎回金を包むな菓子だけで十分だとお婆に叱られる程だった。
基本的に善人なのだ。お婆は。
普段は教訓めいた世間話をするだけだった。私達にはそういう時間が必要だったのだろう、多分。
お婆は竹を割ったようなからりとした性格で、優しく教え諭すこともあればかなりパンチのきいた皮肉を言うこともあった。
「アンタは不幸のどん底に落ちるけど、ちゃんと幸せにもなるよ。五十を過ぎたくらいでな」
突然私の未来予知をすることもあった。
「アンタは何があっても一生幸せでいられる」
五十歳は随分先ねと笑う母には、幸せな一生を宣言していた。
「私は一生幸せなんだ~」
そう言ってはしゃぐ母の隣で、祖母は般若のような顔をしていた。
親の敵と宴会で同席でもしたかのようだ。
母は三十歳で私を生んでいる。
今でいうところの、意味が分かると怖い話だろうか。
私は努めて、窓の外に意識を飛ばしていた。
私の座った場所からは、件の神社がよくみえた。
お婆曰く、あの神社はよく泥棒に入られるらしい。
しかし、盗まれたものは数日で戻ってくるらしい。
社の前に黙って置かれていることもあれば、警察に捕まえてくれと犯人が泣きついてくることもあったらしい。犯人たちはみな一様に、『持っていられなかった』というそうだ。
こんな話をしながら、ふと、お婆は真面目な顔をした。
「いいか、人間は魔がさすときはあるもんだ。けどな、身の丈よりも大きいものは盗んだら駄目だ」
「家の隣の爺はよく土地の境を弄るやつでな、私は見かけるたびに直してたんだ。
境といっても石を置いただけの目印でな、それを毎日少しずつうちの方にずらしてくるの。
そんなの役場に行ったらすぐ分かることだし、そのうち面倒になって直すのやめたのよ。
そしたらな、その爺死んだのよ。境弄ったところに寝そべって。
死んだ爺と弄った土地の幅、ピッタリ同じだったんだ。」
「いいか?こういうことはあるもんなんだ。
絶対に、自分が入れるくらいのものを、盗っては駄目だ。
そこが、アンタの棺桶になってしまうからな」
その時のお婆の顔は思いだせないけれど、この話だけは、何故かずっと覚えている。
そんな曰くつきの神社の、盗難にあった賽銭箱が見つかったらしい。
場所は市内のアパートの一室。
犯人と思わしき人物は、賽銭箱の中にぎっしりと詰まって死んでいたらしい。