第1章―7
米内洋六大尉は佐藤一等兵曹の言葉を受けて、上海海軍特別陸戦隊司令官の荒木貞亮少将に直談判して、中国国民党政府とドイツ政府の関係について、出来る限りの詳細を調べようとした。
本来ならば、一介の海軍大尉にそこまでの力は無いが、荒木少将にしても、中国国民党政府が、徐々にだが、強気な姿勢を日本に対して示すようになったことに、違和感を覚えていたこともあり、米内大尉の進言を受け入れて動くことになった。
更に言えば、米内大尉は全く与り知らないことではあったが。
この世界では、中独合作にカナリス提督が積極的になっていて、中国国民党政府への支援をドイツ政府が公然と行うように動いていたことから。
荒木少将が少し動くだけで、ドイツ政府が中国国民党政府支援に積極的に動き出したことが、上海の現地において容易に把握される事態が起き、それは日本政府、海軍省等にも波紋を広げることになった。
とはいえ、そういった情報収集や、収集した情報の整理、取捨選択にも、それなりの時間が掛かる。
そうしたことから、1935年10月のある日、荒木少将は上海海軍特別陸戦隊の主な士官(言うまでもなく米内大尉も含む)を集めた場で、現状、自分が把握している情報を開示していた。
「今すぐにドイツ政府の支援を受けた中国国民党政府軍の銃口が自分達に向けられる、ということは流石にないだろうが、本当にドイツ政府の中国国民党政府軍への支援は、どうにもきな臭い」
開口一番に荒木少将は言って、自分の下に集まっている様々な情報(現地の上海で得られたモノから日本から送られてきたモノまでも入り混じっている)について、説明を始めた。
更に合わせて、参加した主な士官も、米内大尉を含めて、自らの知っている情報を話しだした。
以下は、その説明等の要約である。
ドイツと中国の関係だが、遡れば1750年代のプロイセン王国と清帝国との接触にまで遡ることが出来る代物ではあるが、現実的なレベルで言えば、アロー戦争後の1858年(最もこの頃は未だにドイツ帝国は成立しておらず、プロイセン王国)以降のことになる。
そして、英仏露が露骨な帝国主義的態度を執っていたことから、それに対抗する為に清帝国はドイツに協力を求めることになった。
その為に日清戦争の際に、日本海軍の脅威になった戦艦「定遠」、「鎮遠」をドイツが建造するような事態等が起きている。
だが、1888年にヴィルヘルム二世がドイツの皇帝になったことから、清帝国とドイツの関係は軋みを上げることになる。
ヴィルヘルム二世は「黄禍論」を信奉しており、清帝国を蔑視したのだ。
その為に膠州湾をドイツが租借する等の事態が起き、清帝国内ではドイツを危険視する声が高まった。
更に辛亥革命が起き、続けて、第一次世界大戦が勃発したことから、中国とドイツの関係は消滅したと言っても過言ではない事態に陥った。
だが、第一次世界大戦の結果、日本が中国のドイツ利権を獲得、継承したことは、中国とドイツ両国の国民の間に反日感情を引き起こし、更にドイツと中国間での直接的な問題を消滅させることになり、ドイツと中国を接近させることになったのだ。
又、蒋介石が中国の統一に際し、プロイセン王国によるドイツ帝国建国に至る経緯を参考にしようとしたことや、ドイツがソ連と違い非共産主義国であったのも有利だった。
とはいえ、中国の国内情勢が中々安定しない上に、ヴェルサイユ条約の縛りがあっては、ドイツ政府と中国国民党の間で具体的な軍事協力が為されるまでに、様々な困難が生じるのはどうしようもなかった。
しかし、中国国民党政府による北伐が成功裏に終わったことが、更なる転機を引き起こした。
尚、この辺りについては、この世界では1935年初頭以降、カナリス提督が積極的に中国国民党政府支援を策したという事情もあります。
その為に、日本政府上層部(特に海軍)は、ドイツの中国国民党支援について、史実と異なって容易に大量の情報を把握して動く事態が生じることになりました。
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