第4章―13
「我々が先に引き揚げるのか」
「そうだ。陸軍が殿を引き受けるとのことだ。せめて最後の意地を張らせてくれ、とまで多田駿参謀次長がいったらしい」
1937年11月初め、生き残っている上海海軍特別陸戦隊の主要な面々を集めた会議の場で、上海海軍特別陸戦隊司令官である大川内傳七少将は、部下からの問いかけに淡々と述べていた。
米内洋六少佐は、その姿を見ながら想った。
大川内少将の内心は如何ばかりだろう。
懸命に3か月に亘って、我々は中国国民党軍の攻勢を耐え凌いできた。
その間の激闘の結果、最早、上海海軍特別陸戦隊の戦死者は1000人を超えており、2000人に間もなく届こうとしている筈だ。
そして、生き残っている5000人余りの将兵の中で、この死闘を演じた3か月の間に傷付かざる者は幾人ぞ、最早、無傷のままの者は1000人もおりません、というのが現実なのだ。
(第二次上海事変勃発後、随時、増援部隊が駆けつけたこともあって、このような状況だった)
自分も、部下にはかすり傷だ、と強がったが、砲弾の破片を浴びて、少し縫わざるを得ない傷を背中に負った身になってしまった。
背中に傷を負うとは恥を知れ、と事情を知らぬ者には言われそうだが、近くに落ちた砲弾の炸裂から、咄嗟に部下を庇った結果だ。
そして、自分が背中で庇った部下は。
「大隊長、本当に申し訳ありません」
と自分の背中の傷を見て泣いて。
次の敵軍の攻撃の際に、先頭に立って戦い、靖国神社に赴いてしまった。
折角、庇ってやったのに、俺より先に靖国に行くな、大馬鹿野郎、と(流石に表に出す訳には行かず、内心で)号泣したのを、自分は想いだす。
そして、第二次上海事変中、上海市内から日本の民間人は、ほぼ全てが退避していた。
夜間に高速で駆逐艦等を突入させ、増援の兵士や物資を送り届け、帰りに民間人を退避させる、という行動を、第一航空艦隊が大打撃を被ったこともあって、日本海軍は基本的に行わざるを得なかった。
又、中立国の民間船を駆使し、民間の日本人を上海から退避させようともしているが、そちらは歴史も絡んだ色々なしがらみもあり、余り進んでいないのが現実だったのだ。
(それこそ満州事変等の経緯から、米英仏等の国民の間では親中派が強かったのだ。
尚、これに類似した行動を、上海近郊で苦戦している日本陸軍に対しても、海軍は行っている。
本音では、大規模な輸送船団を仕立てて、行いたかったのだが、(現時点では)最初で最後の活動になった第一航空艦隊の航空支援の下、何とか2個師団を緊急輸送したのを最後にして、それ以降は駆逐艦による「東京急行」で物資等を緊急搬送する状況だ。
そういった状況下で起きた、ドイツのスパイ、ゾルゲの摘発から近衛文麿首相の自裁、廣田内閣の緊急成立と言ったことから。
取り敢えずは、現状での完全停戦を、米英仏等を介して、廣田首相は求めたが。
日本の不当な侵略を許すな、と叫んでいる中国国民党軍の攻撃は、完全には停まらない状況だ。
(中国国民党政府は、こういった中国国民党軍の攻撃は自衛に限られており、日本軍の攻撃が止まないのが原因だ、と言い訳を行っている。
更に言えば、これまでの満州事変等の経緯から言って、中国国民党政府の言い訳の方が、国際的に信用されているという現状があった)
そうしたことから、上海から全ての日本の民間人の退避が完了した後、上海海軍特別陸戦隊全員が日本本国へと撤収する。
更には上海近郊に展開している4個師団も、日本本国に撤収するということになったのだ。
そして、北京(北平)や天津等からも日本の民間人のみならず、完全な日本軍の撤退が徐々に始まっているというのが現状だった。
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