第4章―3
実際に、米内洋六少佐は、後になって実際に知ることにはなるが、日本海軍は、渡洋爆撃に失敗した経験に鑑みて、この際に乾坤一擲と言える作戦を計画することになった。
それは、現在の日本海軍で運用可能な空母3隻、「加賀」、「龍驤」、「鳳翔」を全て集中して運用し、それを中心とする艦隊を、第一航空艦隊と呼称した上で編制する。
更に、第一航空艦隊の総力を挙げた上海周辺の中国国民党空軍基地に対する空襲を断行し、その戦果をもって、上海近辺の制空権を日本側で確保し、上海及びその近郊の戦闘を日本有利に進めよう、という大作戦計画を急きょ、立案して断行しようとしたのだ。
尚、この時の連合艦隊司令長官は、米内光政海相の前に海相を務めていた永野修身だった。
永野本人としては、引き続き海相を務めたかったようだが、海軍のこれまでの人事と教育制度の一新を図ったことが結果的に祟ることになり、伏見宮軍令部総長の信認を損ねていたこと、更に既述の事情から、米内海相と交代のような形で、連合艦隊司令長官になっていたのだ。
(メタい話になりますが。
永野連合艦隊司令長官が、海相時代に構想していた人事と教育制度の一新ですが、私としては、色々と考えるところがあるので、この際に少し描きます。
永野連合艦隊司令長官の海相時代の改革、一新構想ですが、昇進等の人事に際して能力主義の採用(これまでは、海軍兵学校のハンモックナンバー、順位で昇進が決まっていた)や、教育の場の精神主義を排して、合理的、科学主義を採用する、その一環として、海軍兵学校と海軍機関学校を統合する等の改革、一新構想でした。
仮に実行されていたとしても、史実の流れならば、余りにも遅れた一新になったでしょうが、それでも、多少は歴史の流れに影響があったのでは、と、私は考えてしまいます)
ともかく、永野連合艦隊司令長官としては、上海方面の戦局打開を図るのに最善の方策として、空母3隻を集中投入して上海方面に投入することを計画し、断行しようとしたのだが。
伏見宮総長以下の軍令部は、それに反対意見を主張した。
空母3隻を投入して、大戦果を挙げられれば良いが、余りにも危険が大きすぎるという意見である。
実際問題として、ドイツから派遣された軍事顧問団によって、強化された中国国民党空軍の戦力は端倪すべからざるものがある。
実際に渡洋爆撃に投入された陸攻部隊の3分の1が、戦闘機の援護が無かったことも相まって、一回の空襲で搭乗員と共に失われる事態が起きている。
もし、集中して運用される空母部隊に対して、中国国民党空軍の空襲が行われた場合、空母が失われる事態が起きるのではないか。
そうなった場合、日米戦争が起きた際に日本の勝算が全く立たない事態となるのではないか。
そこまで言って、軍令部は反対したが。
実際問題として、上海方面において上海海軍特別陸戦隊が苦戦しており、そう言った苦戦の背景の一つには、中国国民党空軍の活動に因って得られた中国側の制空権確保がある、とあっては。
日本の世論、特に新聞報道において、
「何故に海軍は、戦局打開の為に、積極的に空母を上海方面に投入しないのか」
「上海海軍特別陸戦隊は、同じ海軍の仲間、戦友ではないか。戦友愛が海軍には無いのか」
等の感情論が混じった、海軍を非難する声が高まるのは、ある程度は止むを得ないで済ませてはいけないが、どうにもならないことだった。
こうしたことから、海軍軍令部は、最終的には永野連合艦隊司令長官以下が主張する第一航空艦隊の編制と、第一航空艦隊の上海方面への投入を裁可せざるを得ない事態が生じた。
だが、海軍は知らなかったが、この情報はドイツに漏れていた。
永野修身については、昨今、余り良い評判を私は見聞きしませんが。
海相時代に行おうとしたこの改革には、本当に興味をそそられます。
陸軍のように教育総監という職務が、海軍にあれば、永野修身にとって天職になったのでは、そんな考えが、時として私の脳裏に浮かびます。
ご感想等をお待ちしています。




