第1章―2
私は改めて自らの家族のことを考えた。
私の両親は健在だが、故郷の岩手を出てから幾星霜というと大袈裟になるが、私が海軍兵学校に入学してからは徐々に疎遠になって、それこそ正月等、何かあれば帰省するだけの関係に今はなっている。
元兄嫁にして今の妻の久子にしても、この関係が好ましいらしい。
実際、私にしても妻の気持ちが分からないでもない。
妻の久子は、私と同郷の出身で4歳年上になる。
尚、私の長兄の正一とは8歳年下(私と正一は12歳違い)で、見合い結婚をしたのだが。
私からすれば甥にして養子の仁を産んだ後で二人目を流産したことや、その後で、兄の正一が病に罹って早世したことについて、全て嫁の久子が悪かったせいだ、と私の両親は故郷で触れ回ったらしい。
私の両親の気持ちを、私も分からないでもない。
二人目の孫を期待していたのに、更に跡取り息子が早世し、と自分達の思うように行かなかった。
誰かを悪者にしないと、私の両親の気持ちが落ち着かなかったのだろう。
だが、実際に言われた妻の久子にしてみれば、いたたまれない話だった。
乳飲み子の藤子を抱える羽目にもなっていた私は、久子に同情したこともあって、元兄嫁の久子と結婚したい、と私の両親に言うことになり、久子も未亡人になった私には本当に勿体ない話だ、と実家の両親を説得して、私と久子は結婚したのだ。
それから5年が経ち、私と妻の久子の間には早苗という娘が産まれていて、それなりに安定した5人家族になっている。
だが、これまでの経緯が経緯だ。
表面上は妻の久子と、私の両親の仲は修復されているが、微妙なしこりが未だに残っている。
尚、私の兄姉5人の内3人は亡くなっていて、今では3人兄弟姉妹になっている。
姉の1人は私が物心つく前に夭折している。
もう1人の姉だが、海辺の漁村の網元の家に嫁いでいたのだが、一昨年の(昭和三陸)地震の際に次男(私から言えば甥)と共に亡くなった。
(厳密に言えば、行方不明で、何れは失踪宣告を受けることになっている。
自分だけならばすぐに逃げられただろうが、乳飲み子だった自分の次男と共に逃げようとして逃げ損ねて、次男と共に津波の引き波にさらわれてしまったのだ。
姉が行方不明になった直後に会いに行った私に対して、姉の夫が助かった長男を抱きつつ、
「バカな嫁です。息子なんか、又、産めばいい、と割り切って、自分と共に逃げていれば」
と吐き捨てるように言いつつ、泣き出して絶句してしまったのを、私は未だに時折、思い起こす)
そして、健在な兄1人と姉1人は皆、岩手県の故郷か、そのすぐ近くに住んでいて、そうした点でも、今の近しい私の家族は妻子だけと言っても過言では無かった。
そして、岩手県の故郷(だけではなく、日本全体かもしれない)は、一昨年の地震から徐々に復興しつつあるとはいえ、その足取りは重いものだ。
1927年の昭和金融恐慌、1929年の世界大恐慌といった国内外の大不況の嵐、1930年には豊作貧乏、1931年、1934年と冷害による凶作と、故郷は苦難に見舞われている。
そうしたことから、故郷では、多くの若い女性が身売りしている、と自分の親や兄姉が言っている。
運が良い若い女性は、それなりの男性と結婚して身売りを免れることもあるらしいが、それこそ結婚に必要なお金は全て男性が出すのが条件のことが多く、身売りも同然、とお互いに自嘲しているとか。
今年はそれなりに豊作になり、故郷で身売りが減れば良いのだが。
そして、私の両親や兄や姉の周囲が落ち着けばよいのだが。
本当にそうなって欲しいものだ、という願望を込めながら、私は家族のことを、更に故郷の岩手のことを考えてしまった。
感想を読んで、一部、改稿しました。
その為に感想が少しおかしくなっていますが、どうかご寛恕下さい。
ご感想等をお待ちしています。