第22章―6
そんなふうにカナリス提督は苦悩したが。
そんな苦悩を無視して、ドイツ軍は(表向きは)クロアチアやマケドニア救援の為に動いていくことになった。
更にこのドイツ軍の動きに、ユーゴスラヴィア王国内にいる同胞を救え、としてハンガリー軍やブルガリア軍も加担することになった。
(ブルガリア軍というか、ブルガリア政府の本音としては、マケドニア地域の併合が主目的だったが)
そして、4月20日を期して、ドイツ軍、ハンガリー軍、ブルガリア軍の三国軍は、ユーゴスラヴィア王国への侵攻を開始することになった。
クロアチア、マケドニア両地域は、それこそ独立を阻止しようとするユーゴスラヴィア王国政府軍との内戦状態ではあったが、既に独立派がそれなりに足場固めをしていたため、三国軍が加わることで、2日程で秩序が回復することになった。
その間にもドイツ政府は、ユーゴスラヴィア王国政府に対して、クロアチア、マケドニアの分離独立を認めると共に、セルビア人優遇政策の是正を求める最後通牒を突きつけていた。
そして、当然のことながら、ユーゴスラヴィア王国政府が、それを拒絶すると、それを理由にユーゴスラヴィア王国に対して、ドイツは正式に宣戦を布告して、更なる進撃を行なうことになった。
その結果、4月中に首都ベオグラードを始めとするユーゴスラヴィア王国の主要都市は、ドイツ、ハンガリー、ブルガリアの三国軍の占領下に置かれることになり、その戦果を踏まえて、ドイツ政府が主導して、ユーゴスラヴィア王国の分割を行なった。
(尚、ユーゴスラヴィア王国の国王を始めとする王族や首相を始めとする政府最上層部の要人は、ギリシャを経由して英国へ逃れて、亡命政府をロンドンで作ることになった)
この結果だが、ある程度は当然の結末としか、言いようが無いことだった。
全く以て皮肉としか、言いようが無いことだが。
それこそ(この世界では)1940年2月にドイツ軍の侵攻を受けたノルウェーと同様に、ユーゴスラヴィア王国軍にしても、対ドイツ戦争に突入する準備等は全くしておらず、クロアチア、マケドニアの分離独立を求める武装蜂起を受けて、慌てて部分動員を図っていたのが現状だったのだ。
(というか、ウスタシャ等の反政府武装組織が全面蜂起したとはいえ、事前準備を進めていたユーゴスラヴィア王国軍は総動員を完結した暁には、100万人(!)の総兵力を持つ予定になっていた。
表面上は、30個歩兵師団と3個騎兵師団、1個要塞師団、6個独立歩兵旅団、3個騎兵旅団、1個要塞旅団、23個の独立国境防衛大隊が編制済みであり、総動員が発令されれば、1月もあれば、これらの部隊が完全に充足されて、最前線に投入可能だったのだ。
正直に言って、史実の大正時代の三次に亘る軍縮後の日本陸軍よりも総動員時の兵力は多いとしか、言いようが無かったのが、ユーゴスラヴィア王国陸軍の現実だった。
だが、その一方で、軍事戦略的には誤った配置を、ユーゴスラヴィア王国陸軍は行わざるを得なかったのも現実だった。
国内の反政府武装組織の全面蜂起を警戒する必要があり、国内の治安維持の為に薄く広く陸軍の駐屯地を、ユーゴスラヴィア王国は作らざるを得なかった。
又、第一次世界大戦の結果的に誤った戦訓から、国境防衛大隊等が遅滞戦闘を行なっている間に、総動員を完結した部隊が前線に赴いて、反撃を行なう基本作戦だったのだが、、そんな総動員が完結する時間的余裕が無かったのが、現実だったのだ)
だが、この結果として、皮肉にも事前に軍事訓練が行われていた予備役軍人の多くが、ドイツ軍等の捕虜になることなく、パルチザン活動に参加することになったのだ。
念のために書きますが、ドイツ軍、ハンガリー軍、ブルガリア軍が、ユーゴスラヴィア王国内戦介入を行ったとはいえ、三国が軍事同盟を締結した訳では無く、三国共に表面上はユーゴスラヴィア王国内の自国民族救援の為に内戦介入を行ったことに(少なくとも表向きは)なっています。
だから、この後も三国間でさえ、ギスギスした事態が引き起こされます。
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