第19章―6
女性差別だ、と言われそうな描写がありますが。
そう言う時代だ、ということでご寛恕を。
そんな事態が、色々と絡まり合って起きるのだが、その一方で、現場は当たり前と言えば当たり前だが、色々と悪戦苦闘する羽目になっていた。
米内洋六少佐は、(内心で)溜息を吐きながら、補充で日本本国から到着した新兵達を、わざと叱り飛ばしていた。
というか、叱り飛ばすしか無かった。
「自動車の整備が速やかにできるようにならないと、戦場では役立たずだ。全く俺の古女房以下だ」
「「えっ」」
「俺の古女房はな。飛行機のエンジンを、日本製でも、米国製でも、英国製でも、更に言えば、空冷でも、水冷でも整備して飛ばせるのだぞ。しかも、女性補助部隊に志願して、1年も経っていないのにだ。お前ら、俺の古女房以下だ。サッサと自動車の整備が出来るようになれ」
それだけ言い置いて、自分の指揮下にある他の中隊の現況視察に、足早に米内少佐は歩いて移動した。
そして、残された部隊内では。
「分隊長殿、大隊長の話は本当ですか」
「本当だ。大隊長の妻は、女性補助部隊の一員で、フランスにおられる。そして、大隊長の言葉通りのことをされている」
「凄い。女性の身で、其処まで飛行機の整備が出来るなんて」
「だから、大隊長が言われるのも当然だ。お前ら、自動車の整備に速やかに慣れろ。そして、運転が出来るようになれ」
分隊長と新兵達は、そんなやり取りを始めた。
「そうは言われても、私の出身の村では、車は村役場に1台しか無かったですし」
「自分も海軍に入るまで、車に触ったことはありません」
「言い訳無用だ。大隊長の妻、つまり、女に負けるような海軍の兵等は役立たずと言われて当然だ。お前ら、速やかに自動車整備が出来るようになるんだ。さもないと軍人精神を注入するぞ。何だったら、毎朝、使おうか」
「「速やかに自動車整備に熟練します」」
分隊長の更なる言葉に怖気を震って、新兵達は懸命に自動車整備に熟練しようとすることになった。
軍人精神注入棒で殴られては、本当に下手をすると命に関わるのだ。
とはいえ、自動車整備に熟達しろ、といっても、別に現代の自動車整備工並みのことを求められる訳では無い、それこそ時代が時代である、自動車の内部機構は(現代と比べれば)簡素なモノだ。
そして、しばしば小さな故障が起きるのが当然な時代である。
だから、そういった小さな故障が起きた場合に、速やかに対応整備できないと困るし、逆に、そういったことが出来て当然の時代なのだ。
その一方、当たり前と言えば、当たり前のことだが、この時代の日本の自動車の普及率は、新兵達の言い訳が当然のように通るのが現実だった。
更に言えば、道路と言えば舗装されていないのが当たり前なのが、日本の道路である。
だから、自動車が当たり前に走れる道路も数少ないのが現実で、そうしたことも自動車の普及が、日本では進まない現実を生んでいたのだ。
(史実を絡めて述べるならば、日本初の自動車専用道路ができたのは、1960年代に入ってから。
又、1970年でも日本中の道路の約85パーセントは未舗装なのが、史実だった。
そして、全ての民間自動車をかき集めても、自動車普及率は、1台について100人以上というのが、当時の日本の哀しい現実だった。
ちなみに米国では1台当たり4.4人となっており、既に一家に一台と言っても過言では無かった。
それ程に史実の日本では自動車が普及していなかったし、又、道路環境も悪かったのだ)
ともかくこうしたことが、日本海兵隊の新兵に自動車整備や運転を覚えさせる障害になっていて、それこそ時代的に当然な話だが、お前らに軍人精神注入棒を使うぞ、と先輩の兵や下士官が、新兵を脅し上げてでも、自動車整備、運転を覚えさせることになった。
全くの余談ながら、この頃の英仏独の自動車普及率は、1台当たり20人から40人程、伊は1台当たり130人といったところだとか。
史実で伊陸軍の機械化が進まなかったのも、止むを得ない気が私はします。
ご感想等をお待ちしています。