第1章―1 1935年の日本、そして、上海にて
第1章の最初の4話は、1935年初めの頃の主人公とその家族の話になります。
(仮想戦記で家族の話をするな、と言われそうですが、作者の私の悪癖と言うことでご寛恕を)
そして、5話以降で主人公は上海に赴きます。
後、話の中で上海特別陸戦隊のことを、単に陸戦隊と言っていますが。
この1935年当時、常設の特別陸戦隊は上海のみで、単に陸戦隊勤務と言うと上海という認識があったことから、話中の描写になっています。
「あいつらは、空を飛べていいな。それに対して、自分は陸戦隊への異動という話か。家族に何というべきかな」
私、米内洋六は海兵同期の源田実らのことを勤務の合間に思い起こし、更には自分の家族のことを考えていた。
1935年の正月が終わり、年始の賑やかさが完全に終わった時分だった。
第二艦隊司令長官の米内光政海軍中将は、私の遠縁の一族になる。
(私の記憶が正しければ、確か私の父の再従弟の筈で、ぎりぎり私と親族とは言い難い関係になる)
私が産まれたのは1904年の初めで、それこそ日露間の戦雲が高まりつつあった時だった。
そうした中で6人兄弟姉妹の末っ子として産まれた私の名付けは悩まれた末、海軍兵学校を卒業したばかりの米内中将(当時は少尉)にまで良い名は無いか、と声が掛った末に。
6番目の子どもということもあり、米内中将の海兵同期の首席で人格者としても、同期生等の間で知られていた溝部洋六から名前を私は貰うことになったのだ。
そして、溝部洋六は海軍大学校(甲種)も首席で卒業し、お前も同じように成れ、と父や米内中将から言われたのだが。
何と溝部洋六は1919年に海軍大佐で病没してしまった。
(尚、それは見習うな、と父や米内中将に私は言われた)
そして、私は名前を貰った溝部大佐の後を追うように、海軍兵学校に入って、海軍士官の路を歩んでいるのだ。
更に言えば、この名前は色んな意味で、私にとって重荷になっている。
「米内洋六です」
と私が名乗れば、最初に会った際の相手の方が微妙に気を遣うことが多い。
米内という姓で、米内中将の身内か、と推測されるのだ。
更に洋六という名から、かつての溝部大佐の海軍兵学校や海軍大学校の同期生から、
「お前も溝部洋六のようになれ。最も若死にはするなよ」
と激励されるのだ。
何しろ溝部大佐の同期の海兵29期といえば、高橋三吉中将や藤田尚徳中将が同期になる。
又、溝部大佐の同期の海大甲種13期には、及川古志郎中将や嶋田繁太郎中将、吉田善吾中将、塩沢幸一中将が同期生、と多士済々の有様だ。
こうした面々からの激励等の為に、私は懸命に頑張らざるを得なかった一方、どうにも重荷に感じざるを得ないことになったのだ。
そして、海兵52期として卒業して頑張った結果、今では海軍大尉になり、それなりの家庭を持てたのだが、色々と複雑な家庭になってしまった。
私の長兄は30歳過ぎに流行り病で亡くなったが、既に結婚していて一人息子を儲けていた。
そして、よくあることだが、私は未亡人になった兄嫁を娶り、兄の遺児を養子に迎えたのだ。
その一方、米内中将の縁から、とある芸者に引っ掛かってしまい、娘が出来てしまったのだ。
私の周囲がそれなりに動いてくれて、手切れ金を出す代わりに、私の認知を求めない方向で話を進めてくれたが、芸者としては本気だったようで、手切れ金を貰う位ならと遺書を残して自裁してしまった。
こうなっては、遺された娘を私は引き取らざるを得ない。
これは未亡人になった兄嫁を娶る前に起きた騒動で、そんなこともあって、曰くつきの娘のいる私の結婚相手を探すのは困難で、私は未亡人になった元兄嫁を娶ることになったのだ。
そんなこんなが積み重なり、更に歳月が流れた現在、今年の4月に養子は中学校に入学予定で、娘は小学校に入る予定だ。
そして、今の妻との間には3歳になる娘も産まれている。
元兄嫁の妻は、こういった家庭事情になるのが分かった上で、私と結婚したこともあり、表面上は3人の子を分け隔てなく育ててくれている良妻賢母だが、こういった事情や私より4歳程年上と言うこともあって、私との間には見えない薄い壁があるような夫婦関係になっている。
ご感想等をお待ちしています。