第17章―2
ともかく、そういった背景から1940年7月以降、いわゆるバトルオブブリテン、英本土上空の戦いが起きることになった。
独空軍にしてみれば、これまでの様々な経緯から受けて来た屈辱を晴らして、英空軍等に対して大勝利を収める好機の筈だったが、(史実と違う流れをたどっているこの世界では)色々な意味で、そんな好機は存在しない事態になるのは、止むを得ないことだった。
尚、以下については史実とは様々に違う現状を絡めて描く。
まず、最大に違う現状になっているのが、ベネルクス三国に加えて、仏空軍の面々さえも英本土等に逃れる事態が起きており、それこそ米国を始めとする機材の提供を受けて、独空軍の空襲に対処しようとそれなりどころではない準備を着々と調えていることだった。
尚、細かいことを言えばだが、仏空軍の面々の多くが、自分達の愛機を、そのまま北アフリカの仏植民地なり、英本土なりに自ら操縦して赴かせた上で、抗戦する姿勢を示している。
とはいえ、仏本土の大半が独陸軍の軍靴の下にある以上、仏空軍の面々の愛機は、それこそ共食い整備等を行わざるを得ない事態が引き起こされることになり、徐々に行動不能にならざるを得なかった。
とはいえ、実際に経験豊富な仏空軍の将兵の多くが、史実と異なり、独空軍との抗戦の路を選んだという影響は多大なモノがあり、そうしたことがバトルオブブリテンにおいて、多大な影響を引き起こした。
更に言えば、この世界のバトルオブブリテンで、史実と違っていたのは、ノルウェーの大半、及びノルマンディー、ブルターニュ半島が、英仏日側に抑えられているいう現実だった。
こうしたことが、北仏を中心に展開する独空軍にとって、色々な意味で英本土上空の制空権確保を困難にする事態を引き起こすことになった。
ノルウェーの大半、及びノルマンディー、ブルターニュ半島が英仏日等の連合軍の制圧下にあったことから、それこそ、其処を拠点とする側面からの攻撃を気にしながら、英本土に対する空襲を、独空軍は断行するしかない事態に陥ったのだ。
更に言えば、完全な後知恵だが、独空軍の主力戦闘機のBf109の航続距離が短いのも、致命傷と言って良い事態を後々になる程に引き起こすことになった。
(尚、この点については、Bf109の設計コンセプトによるものが大きく、設計コンセプトが違っていれば、航続距離が短い等の批判も無かった、という’(史実でもあった)批判がある。
この辺りを手短に言えば、Bf109は小型化、正面積を徹底的に絞ることを設計主旨とした上で、開発、量産化されたという事情がある。
実際にそれによって、それこそ1935年に生産開始されたにも関わらず、(史実では)1945年に至るまで、エンジンの換装を始めとする様々な改装によって、米英ソの最新鋭戦闘機と引けを取らずに渡り合い続けることが出来たという現実からすれば、如何にBf109の設計主旨が間違っていなかったのか、という傍証になる。
1935年に生産開始されながら、1945年まで第一線で戦い抜けた軍用機が他にあるだろうか)
そういった後知恵批判がある現実があるが、それはともかくとして、バトルオブブリテンにおいて、Bf109の設計コンセプトは、結果論だが間違っていたとしか、言いようが無かった。
その為に、独空軍が英本土南部の制空権確保に失敗する事態を、後で引き起こすことになった。
更に言えば、独空軍の(主に戦闘機部隊の)この当時の任務は多岐にわたっており、様々な意味で手に余る事態を引き起こしていた。
極論を言えば、独本土に対する防空任務を行いつつ、英本土等への侵攻任務も行うのは困難な状況だった。
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