第2章―7
話が先走り過ぎたので、1936年末に米内洋六大尉が把握している(この世界の)スペイン内戦の状況に話を戻すと。
(ほぼ史実に准じて)1936年7月中は、スペイン国内というかスペイン本土全体においては、政府派(左派、共和国派)と反政府派(右派、国民派)が入り乱れるような内乱状態に、一時的に陥っていたのだが、徐々にスペイン本土内でどちらが優勢なのかが、徐々に判明するようになった。
尚、モロッコを始めとするスペインの植民地の多くが、反政府派によって制されることになった。
(これは植民地に駐留しているスペイン正規軍部の殆どが、反政府派側に付いたというのが大きい。
その一方で、準軍隊といえるスペイン本土に展開している国境警備隊、突撃警備隊、治安警備隊は、政府派と反政府派に、ほぼ二分される事態が起きた。
又、スペイン本土の労働者の多くが、労働組合指導者の呼びかけに積極的に賛同して自発的に武装し、スペイン本土に駐留している正規軍を攻撃する事態が起きたのだ。
これらが相まって、後述する事態が起きた)
そして、1936年8月上旬には、スペイン本土内は、政府派と反政府派がそれぞれ制する地域に二分されることになった。
政府派は首都マドリードを中心に本土の3分の2を制した。
一方、反政府派はスペイン本土の西北部を主な地盤として、本土の3分の1を制していた。
だが、制している領土はともかくとして、スペイン正規軍の多くが最終的には反政府派側に付いたという事態は、スペイン内戦の長期化を余儀なくさせるものとしか言いようが無かった。
これは反政府派側にとっても、本音としては極めて不本意な事態と言えた。
本来的にはクーデターによって、速やかに政府を打倒して、スペイン全土を反政府派が制する予定だったのだが、それに失敗してしまい、内戦に因ってスペイン本土が荒れることが確定したのだ。
とはいえ、最早、引き返す訳には行かない。
こうしたことから、1936年8月以降、スペイン内戦が本格化する事態が起きていた。
そして、厄介なことに国力的には政府派の方が優勢な筈なのだが、政府派内では内輪揉めが絶えないという現実があった。
政府派を構成する人民戦線のメンバーだが、スペイン共産党や左翼共和党、スペイン社会労働党等の寄り合い所帯に他ならず、主導権争いだけならばまだしも、それこそ内ゲバが起こる有様だったのだ。
話が少なからず先走るが、例えば、1937年6月に人民戦線政府に一時は協力していた反スターリン主義を唱える共産主義系の政党、マルクス主義統一労働者党に対する粛清が行われ、当時の党首のアンドレウ・ニン(ソ連から亡命したレフ・トロッキーと共に活動したこともあるという)が謎の死を遂げた上で、マルクス主義統一労働者党が人民戦線政府によって非合法化される、という事態が起きる程だった。
(全くの余談ながら、マルクス主義統一統一労働者党に共感する余り、イギリスの作家ジョージ・オーウェルは、マルクス主義統一統一労働者党が編制した民兵隊に、外国人義勇兵として加わって、伍長として従軍した程である。
そして、人民戦線政府のマルクス主義統一統一労働者党に対する粛清等から、オーウェルは命からがらフランスに亡命することになり、その経験から「カタロニア讃歌」を描き上げている)
ともかく、こうしたことから、1936年末において、政府側をソ連が支援し、反政府派側を伊やポルトガルが支援した上での内戦が、スペインでは続いているが、共に決定打を欠くとしか言いようが無い惨状を呈しており、米内大尉が見る限りだが、速やかにスペイン内戦が終結するとは考えられない状況に陥っていた。
尚、この辺りは史実を踏まえた描写で、マルクス主義統一統一労働者党に対する粛清やオーウェルの亡命は、史実でもあった出来事です。
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