第2章―6
スペイン内戦への思い入れが過ぎる、と言われそうですが。
作者の私個人の思い入れから、ということで緩く見て下さい。
(旧作の「サムライー日本海兵隊史」では、ソ連のトハチェフスキー元帥と、日本の土方歳三の息子の土方勇志大将が、スペイン内戦に参加して戦う話を描いた程の思い入れがある作者です)
さて、少なからず話が行きつ戻りつするが、米内洋六大尉が思い浮かべた欧州の一騒動は、スペイン内戦の勃発だった。
だが、それは本当に想わぬ流れと言うか、極めて皮肉な事態を引き起こしてもいた。
少し話がズレるが、1936年8月、49の国と地域から約4000人の選手が集って、ベルリンオリンピックが開催されているが、このオリンピックの開催には、世界の全ての人から祝意を向けられていたとは、到底言い難い現実があった。
ヒトラー政権が成立して以降、ドイツ国内で公然とユダヤ人迫害が行われていることから、英米等の一部の国から、ベルリンオリンピックへの参加をボイコットしようとする事態が起きていたのだ。
最終的にユダヤ人への迫害政策を今後は緩める、とドイツ政府が英米等に約束したことから、英米等もオリンピックに参加することになったのだが。
(尚、言うまでも無いことかもしれないが、ベルリンオリンピックが終わった直後に、ドイツ政府は、このユダヤ人迫害政策を緩めるという約束を、全面的に反故にしている)
そういった事情を踏まえて、1936年のオリンピック開催地の招致について、ベルリンに敗れた(人民戦線が率いる)スペイン政府は、ベルリンオリンピックは、オリンピックのアマチュア精神を汚すものであり、ヒトラー政権のファシズム(ナチズム)政治宣伝の場に堕している、という批判を行った末に、ベルリンオリンピックへの参加をボイコットした。
更には、(かつてのスペイン政府がベルリンに対抗し、オリンピック開催地として招致活動を行っていた)バルセロナにて7月19日から同月26日まで、人民オリンピックを開催すると発表したのだ。
そして、この人民オリンピックには、スペイン政府の招致活動の結果として、参加人員数からすればベルリンオリンピックを上回る、何と22か国から6000人が参加することになっていた。
7月18日には人民オリンピックのリハーサルまで執り行われており、このまま行けば、ベルリンオリンピックを上回る人員が参加したスポーツの一大イベントが、バルセロナで行われた筈だったが。
7月19日朝、右派支持者のスペイン軍の一部が、スペイン人民政府に対するクーデターを起こしたことから、この人民オリンピックの開催は、必然的に中止ということになった。
更には、様々な悲喜劇が多大に起きることにもなった。
スペイン軍の一部にしても、クーデターは考えていたが、失敗した場合に、内戦を引き起こすのは避けたい、と当然に考えてはいた。
だが、この当時のスペインは左派と右派の対立が激化しており、それこそスペイン軍の一部がクーデターを起こした、と聞いた左派支持者の多くが、容赦なく自らも武装して抵抗する事態になった。
こうなっては、スペイン全土が内戦状態に突入したのは、どうにも避けられない事態としか言いようが無かったのだ。
更には、こういった状況を見聞きした人民オリンピックの参加者の多くが、民主主義を護れと叫んで、スペイン人民政府を支持して、外国人義勇兵として人民戦線側のスペイン軍に、積極的に志願する事態までが起きたのだ。
(メタい話にどうにもなってしまうが)こうしたことが、後に国際旅団をスペイン人民政府が編制することになり、それこそヘミングウェイやマルローといった世界的な著名人が、国際旅団に積極的に関わることになった。
更にこの際に述べるならば、結果的にだが、最終的にはスペイン人民政府と同様に、国際旅団は共産主義者に操られることになって、非共産主義者の国際旅団参加者の殆どが戦死するか、粛清されるか、という悲劇がスペイン内戦が終結するまでに起きることになった。
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